2025年2月22日土曜日

桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日) : ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日) : ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)
又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。
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桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日)

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 今日は、平安時代前期の794年(延暦13)に、桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布した日ですが、新暦では12月4日となります。

 平安京(へいあんきょう)は、桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところでした。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられています。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画していました。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移ります。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失しました。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しています。


〇平安遷都(へいあんせんと)とは?


 奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものです。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められました。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km)、東西32町(4.57km)に及びます。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされてきました。遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されています。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されてきました。


〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋


<原文>


(延暦十二年の条)

正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。


(延暦十三年の条)

冬十月辛酉。車駕遷于新京。

壬戌。天皇自南京、遷北京。

丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。

十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。


 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。


<読み下し文>


(延暦十二年の条)

正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。


(延暦十三年の条)

冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。

壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。

丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」

十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」


【注釈】


[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。

[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。

[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。

[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。

[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。

[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。

[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。

[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。

[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。

[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。

[11]新号:しんごう=新しい名称。

[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。

[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。

[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。

[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。

[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。

[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。


<現代語訳>


(延暦12年の条)

1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。


(延暦13年の条)

冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。

10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。

10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」

11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、"山背国"を改めて"山城国"と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、"平安京"と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」


〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋


<原文>


(延暦二十四年の条)

十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。


<読み下し文>


(延暦二十四年の条)

十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。


【注釈】


[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。

[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。

[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。

[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 

[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 

[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。

[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。

[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。


<現代語訳>


(延暦24年の条)

12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。


〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
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