「君子の国」なる日本
道義を重んじる国が邪馬台国のルーツか!
弥生時代に誕生した「君子の国」
邪馬台国の背景とルーツを紐解くにあたり、魏志倭人伝など日本の民族や風土、地理などについての記述だけでなく、中国史書に記載されている「君子国」「君子の国」についても理解を深めることが重要な鍵となります。礼儀と道義を重んじた文化を誇る理想郷のような国、すなわち「君子の国」の末裔が、邪馬台国の創生に関わっていると考えられるからです。
中国史書の記述から察するに、アジア大陸の東方にある「君子の国」とは、中国の戦国時代、そして孔子の時代以前から存在し、それが日本を指していたことは間違いないようです。「君子の国」が誕生したのは弥生時代前期と推測されます。日本は大陸から離れた離島であることから、その時代は基本的に原始的な文明しか存在しなかったと想定されてきました。一見して「君子の国」のイメージとは、なかなか相入れないものがあります。しかしながら昨今のDNA研究による成果により、例えば大陸の稲作文化も紀元前8世紀頃には日本列島に流入していたことがわかってきました。それ故、孔子が活躍した紀元前5~6世紀、日本列島では既に大陸の文化に匹敵する文明が一部の地域で栄えていたと想定できるようになりました。
すなわち「君子の国」が、古代より日本列島にて栄えていたと想定しても、何ら矛盾はなく、むしろその前提で歴史を見直すことにより、「君子の国」によって築かれた国家の礎から邪馬台国が発展するという時代の流れが見えてきます。そこで今一度、邪馬台国の前哨となる「君子の国」の人々の在り方を振り返ってみます。
「君子の国」の文化を証する中国史書
元来、「君子国」(くんしこく)とも呼ばれる「君子の国」は、古代、中国において語り継がれてきた伝説上の国であり、礼儀や道義を重んじる東方の国を指します。「君子」という言葉自体は、優れた才能と品位、人格を兼ね備えた偉人を意味します。そのような知恵と尊厳に満ち溢れた人の国が存在する、という風評が流布されていた時代があったことからしても、中国において「君子の国」とは、ある意味理想郷のように思われていたようです。
中国の伝説によると、その国に住む人々は「君子人」とも呼ばれる人種であり、アジア大陸の東方に位置する国に居住していたと信じられていました。「君子人」については中国の地理書として知られる「山海経」(せんがいきょう)の記述が有名です。最古の地理書としても有名な「山海経」の年代は定かではありませんが、おそらく戦国時代から秦朝の時代にかけて加筆されながら編纂されたものと考えられます。
「山海経」によれば、「君子国」は大人国(たいじんこく)の北に存在し、「君子人」は人と争わず、譲り合いの心を持ち、衣冠で身をまとうと記載されています。また、剣を持つ習慣があり、獣の肉を食することも記されています。この「君子の国」こそ、古代日本の姿を象徴していると考えられます。
「君子の国」が古代日本である理由
前6世紀、中国では既に孔子が、東夷に纏わる儒教的楽土が、遠い東の彼方に存在することを認識しており、それを「君子の国」「不死の国」と呼称しました。また「山海経」には、「君子国も不死国もともに東方にある」と記載されています。古代の中国では、おぼろげながらも国家らしき「君子の国」がアジア大陸の東方、海を越えた彼方に存在することが信じられていたようです。それ故、「君子の国」とはアジア大陸の東方に浮かぶ島々である日本と同一視されることもあり、日本列島の存在が広く知れ渡るようになるにつれて、さまざまな憶測を呼ぶようになります。
また、「山海経」の「外国図」には、「君子の国」は琅邪(山東省臨沂市付近)から3万里離れた所にあるという記述もあります。短里を70mと仮定するならば、中国から約2100km離れていた所に存在していたことになります。古代中国の史書に記録されている数値は、驚くほど正確であるものが多いことで知られています。中国の大陸沿岸から2100㎞離れた所には日本列島しか存在しないことから、その距離感を記載された数字どおりに受け入れるならば、「君子の国」とは日本を指していたことになります。つまり中国山東省から2100㎞前後離れている日本のどこかに「君子の国」に該当する場所があったことになります。
「山海経」が執筆された拠点と考えられる山東省臨沂市から2100㎞の位置を地図上で検証すると、青森県の十和田湖周辺までが約2100km、茨城県鹿島までが2000km、長野県諏訪湖までは約1800km、徳島県の剣山まではおよそ1500kmとなります。そしてこれらの数値から察するに、「君子国」の中心は古代、青森県にあった可能性も見えてきます。いずれにしても、「君子の国」は、日本列島以外にあり得ないことがわかります。
古代アジアに由来する青森県の遺跡
青森では今日までユダヤに纏わる伝説が数多く語り継がれてきています。そして十和田湖周辺の新郷村にはキリストの墓やモーゼの墓など、西アジアにルーツを持つと考えられる遺跡が残されています。それらの根拠には疑問が残るものの、遠い昔から周辺地域の民謡で歌われてきた囃子詞の多くがヘブライ語で解釈できることからしても、イスラエル移民の影響を多分に受けた地域であることは否めません。
また、十和田湖の東方、太平洋の沿岸にある港町は今日、八戸「はちのへ」と呼ばれています。その漢字の綴りは「ヤヘ」とも読めることから、ヘブライ語で「神」を意味する「ヤーヘー」という言葉に「八戸」が当てられ、それが「はちのへ」と読まれるようになったと考えられます。アジア大陸から渡来した人々の影響下になければ、「八戸」、「ヤへ」を「はちのへ」と呼ぶこともなかったはずです。よって青森の十和田湖界隈は、古代からイスラエル文化の影響を受けていたと推測されます。
いずれにしても、青森の地域は古代より何かしら大陸との関わりがあり、渡来者が拠点としていた場所であることに違いはなく、「君子の国」に関わる存在であった可能性も否定できません。
「君子の国」の本拠地は守屋山?
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「君子の国」の比定地として、もう一つの可能性として考えられるのが、長野県諏訪湖周辺と、その南側にある守屋山です。「君子の国」と言われる場所は、どこか一か所を想定するのではなく、長野県諏訪湖から青森県十和田湖までの広い地域を指していたのかもしれません。また、山東省臨沂市から十和田湖までの距離はおよそ1800㎞であり、2100㎞には満たないですが、短里の距離には幅があることからして、解釈が可能な範疇の距離です。
その諏訪湖に隣接して建立された諏訪大社に注目です。そこでは縄文文化の遺跡が多く発掘され、古代から神社背後に聳え立つ守屋山を御神体とする祭祀が執り行われているだけでなく、動物犠牲の伝承までもが引き継がれてきています。動物を捧げる燔祭の儀式は、西アジアルーツにある可能性が極めて高いと言われています。さらに御神体となる守屋山の「モリヤ」という名称が、旧約聖書の中に記されている古代イスラエルの族長時代、アブラハムが子供イサクを神の命に従い、犠牲として捧げようとした山の名前、「モリヤ」とまったく一緒です。果たしてこれは偶然の一致でしょうか。今日、イスラエルからの駐日大使やユダヤ系ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)らが多数、諏訪大社を訪れて参拝していることからしても、諏訪大社及び守屋山の背景にイスラエルが絡んでいることは、疑う余地がないと言えます。
さらに注目すべきは、諏訪湖のそば、守屋山(モリヤ)の緯度であり、太平洋岸からの玄関である鹿島神宮とまったく同じ35度58分です。しかも日本の国生み神話である「おのころ島」との関わりが指摘されている淡路島の伊弉諾神宮から東北に向けて、夏至の日の出の方向である30度の一直線上に諏訪大社があることは、伊弉諾神宮でも石碑に記されている公認の事実です。その夏至の線と鹿島神宮から真西に向けた同緯度の線が交差する場所に諏訪大社、および守屋山が存在し、古代より重要な聖地となるべく、多くの地の利を兼ね備えた場所だったと言えます。
よって「山海経」が編纂された当時、中国で考えられていた「君子の国」の民とは、諏訪湖周辺に集落を形成していた古代イスラエル人のことを指していた可能性があります。また、その「国」とは、諏訪湖から十和田湖界隈まで広い地域を指していたかもしれません。いずれにしても、「君主の国」は古代の日本に存在し、その背景には大陸から渡来した人々の貢献があったと考えられます。
東方へ向かうアジアの民
「君子の国」としての理想郷が太陽が昇る東方にあると信じられたからこそ、アジア大陸において迫害や民族同士の衝突、地域戦争など、さまざまな困難に直面していた民の多くは、国難から逃れるために東の方へと向かったことでしょう。その結果、シルクロードも発展し続け、その終点は日本列島の奈良となったのです。こうして日本列島の人口は弥生時代後期から突如として急増し始め、渡来者が日本列島になだれ込むようになります。
その背景には、日本が古代より「君子の国」として知られ、その東方にある理想郷に行けば、運命が切り開かれていくという思いが秘められていたと考えられます。こうして古代社会では、いつしか日本列島はアジア大陸に住む人々にとって東方へ旅する目的地となり、時には楽土のシンボルとまで思われるようになりました。そして何世紀にも渡り、多くの移民がアジア大陸より渡来することとなります。
「君子の国」で培われた古代文明の行く末
「君子の国」が東方に存在すると伝承された孔子の時代から700年ほど経った2世紀後半、日本では邪馬台国が台頭します。倭国で大乱が起きた後、卑弥呼によって地域の混乱が収まり、邪馬台国が成立したのです。その名声は中国大陸にまで伝えわたり、魏志倭人伝を含む数々の中国史書に、邪馬台国の有様が記録されることになります。
「君子の国」で培われた古代文明の背景には、アジア大陸から渡来してきた文明人の姿があったと推測されます。それら先人の存在があったからこそ、邪馬台国が成立する以前より大陸では、日本は東方の「理想郷」「長寿の国」として羨ましがられたのです。そして長い年月を経て、その末裔が邪馬台国の創始に関わり、邪馬台国の礎を築き上げていったのではないでしょうか。邪馬台国という大規模な国家となる原点が、「君子の国」のベールに包まれながら出来上がってくるのです。
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