近江商人を創った血の秘密〔滋賀〕
若いT氏が、わざわざ大阪まで出むいてくれて、拙宅で落ちあった。こんどはぜひ滋賀県にゆこう、というと、
「近江商人のふるさとですね」
と、たちどころに反応した。滋賀県にはそういう意味で、たとえば「武の国薩摩」といったふうのパターンとおなじ先入主が世間にある。江戸時代の地口には、
近江ドロボウに
伊勢コジキ
というひどいのがある。近江も伊勢も、戦国時代から徳川期を通じて京、大坂、江戸の三都の商業界で活躍する有力商人たちのふるさとである。百姓や生産者たちのひがみ根性からみれば、つねに商人は盗賊同然のアザトサにみえるのであろう。中世の西洋でも、「盗賊の紋章と商人の紋章とはおなじである」といわれた。西洋のばあいも、農民が言いだしたにちがいない。
大阪から名神高速道路にさえ乗れば、一時間もかからずに琵琶湖畔に達する。その車のなかでT氏が、 「近江人というのは、それほど損得利害に敏感なのでしょうか」 と、いった。むろんT氏はごく気軽に、ごく概念でいっている。それだけに、世間の多くのひとも、近江ノ国、江州、滋賀県という地名感覚から、そのような人間風土をばく然と感じているのであろう。
「さあ。……」
と、私は頭のなかを整理しつつ考えた。
こまったことに人間風土の観察というのは、すこし視点をずらせると、まったくべつな風景が展開するのである。たとえば、日本歴史には歴史上の名士として多くの近江人(そういう名士の数の多さでは他県を圧しているであろう)が登場するが、そういう系列をみていると、どうもアキンド的体質もしくは思考法のにおいとはちょっとちがうようなのである。
それらの名前をあげる前に、商人的思考法とはなにかということを簡単に定義しておかねばならない。つまり形而下的思考法というか、右ノ品物ト左ノ品物ハドチラガドレホド大キイ、とか、ドチラガドレホド値ガタカイ、という具体的思考法の世界ということであり、商人的体質とはそういう形而下的な判断によって自分の身動きをきめる割りきった体質といっていい。
さわやかな近江の武将たち ところがいま思いつくままに戦国期以後の近江人の名前をここにならべると、ずいぶんちがう風土をおもわせる。
浅井長政がいる。戦国期、北近江でざっと三十万石程度の領域をもっていた浅井氏の若い当主であり、織田信長の結婚政略の相手にされた。信長は岐阜から出て京都をおさえようとしたが、途中の回廊として近江がある。この浅井氏と通婚することによってその通路の安全を得ようとし、妹の、高名なお市御料人を長政の嫁にしたのだが、その後、信長が越前の老大国である朝倉氏を攻めることによって情勢が一変した。浅井氏は朝倉氏とふるくから友誼関係でむすばれており、この矛盾に悩んだ。新興の織田勢力の姻戚でありつづけることはきわめて安全度が高く、功利性から考えればそのほうがいいのだが、「朝倉氏からうけた旧来の恩をうらぎることはできない」として織田氏と断交し、数年にわたって織田軍と戦い、ついにほろんだ。長政のそういう気節の高さは、江戸時代の歴史家たちからも好意をもたれている。
気節という点からいえば、豊臣大名のなかでは生っ粋の近江人である蒲生氏郷をその代表的人物とすべきであろう。氏郷は、日野の出身である。さらに、石田三成がいる。三成は豊臣期の政治家としてはめずらしいタイプに属する。なにが正義であるかということを考える観念がきわめてつよく(まるで江戸時代の教養人のように)規律好きであり、その規律好きはむしろ病的なほどで、それをひとにも押しつけ、不正があると検断者のような態度で糾弾し、同僚から極端にきらわれた。かれの政敵であった浅野幸長なども、三成の死後、「かれが死んでから、大名たちの殿中での行儀がわるくなった」という意味のことをいっているが、とにかく、利害で離合集散する豊臣期の時代精神のなかにあって、正義とか規律とか遵法とかという、いわば形而上的なものに緊張し昂奮する観念主義者がいたということ自体、きわだったことであるとおもわれる。
ついでながら、関ケ原の前夜、旧豊臣系の、とくに尾張出身者の諸将のほとんどは家康方の勝利を見こし、家康に加担した。三成と同僚であった敦賀の城主大谷刑部少輔吉継(吉隆)はそういう判断力のきわめてするどい人物とされていたが、三成に乞われ、負けを見こして西軍に加担した。友情だけが動機であったことはあきらかであり、かつ、友情という、この明治以後に輸入された西欧くさい道徳が、明治以前の日本史において登場する数少ない実例としてかれの名は記憶されねばならない。
T氏と私は琵琶湖南岸で一泊し、あくる日、湖東平野を中山道ぞいに北にむかった。車は、残雪をかぶった旧宿場の村々を通過してゆく。途中、日野川をこえてほどなく入った村の交通標識に、馬淵という村名を見て、つい声をあげた。この村名におぼえがあった。
「とめましょうか」
と、運転手がいってくれたが、よく考えてみると、たいしたことでもなかった。馬淵というのは大坂夏ノ陣の大坂方の七将のひとりである木村重成の縁故の地であり、私の記憶ではかれの戦死ののち、その美しい若妻が近江へのがれ、馬淵に隠れたはずであった。重成自身の故郷はおなじ近江でも蒲生郡西村であり、馬淵には縁故者がいたのだろうか。木村重成というのは戦前、国定教科書にのっていたころは知名度の高い名であったが、ちかごろはあまり知られていない。分類すれば、殉節者である。
瀬田川の上流の山間に「大石」という在所がある。土地の者はオイセという。戦国期には大石党として族党武士団がこのあたりに割拠していたが、織豊の統一期になるとここ出身の者が諸大名につかえた。浅野家に仕えた者の裔が大石良雄である。大石家の菩提寺もこの村の浄土寺にある。
以上、これら思いつくままにひきだした人物たちから共通項をひきだすと、他県の歴史上の名士たちにはない一種のさわやかさと知的緊張感と形而上的思考に習熟した共通体質を見出すであろう。これと、いわゆる江州商人とはどういうつながりがあるのだろうか。 考えてゆくうえで、かれらが歴史に投影している精神よりも、もっと具体的な、その才質について観察してみたい。
財政コンサルタント・三成
一、二の不明例をのぞけば、かれらはいずれも経済観念と計数に長けた経理家的素質をもっていたことを考えねばならない。
蒲生氏郷は、秀吉によってその故郷の近江日野から伊勢十二万石に転封させられ、松阪の城主になった。このとき氏郷は田園のなかに都市区劃をし、さらにこの新城下を商業都市にするために故郷の近江日野郷から、日野商人をほとんど、根こそぎに移住させた。「伊勢商人」の発祥である。
この誘致された商人のなかには、この機に武士から商人になった者もおり、その最大なるものが三井氏であった。「三井家奉公履歴」という書きものにも三井氏の祖は近江蒲生郡の地侍三井越後守高安であるとされており、これは孫引きだがその文中、「三井越後守高安は江州鯰江より伊勢に移り、その子三井則兵衛高俊、元和年間松阪に居り、醸酒の業を営む。人呼んで越後殿の酒屋という。越後屋の屋号、ここに濫觴す」とある。ちなみに右の三井高俊の長男俊次が京都に移って呉服屋になり、さらに江戸店をひらいた。その弟の高利が兄の江戸店を管理し、さらに別店をひらき、現金正札主義をとって空前の繁昌をした。
話が、それた。松阪におけるこれらの基礎をつくった蒲生氏郷はのち会津盆地に転封させられたが、氏郷はここでも漆器その他の物産を開発し、奥州における経済政策の最初の根をおろした。
氏郷がすぐれた経済政策家であるとすれば、同郷の石田三成はすぐれた経済技術者であるといえるであろう。かれはかれ自身の創始的技術かどうかはべつとして豊臣家の財政を運営するのに、近代的な──ちょっと信じられないほどのことだが──簿記のようなものを用いているのである。
というのは、薩摩の島津家が秀吉に降伏したとき、三成はその戦後処理官になり島津家と接触をもったが、そのときそういう帳簿のつくりかたや経理技術を島津義久に伝授しているのである。帳簿は米の売却、送金、物品の購入といった大きなものから日用品についての小払帳にいたるまで多種多様にわたっており、それによって島津家の財政を中世的な出し入れ式のものから一挙に豊臣時代という新流通経済時代に適合できるように仕立てあげた。三成は、算木による計算もたくみであったという。三成が身につけていたそういう経済や商業の実務技術はやはり、かれの出身地である近江というものをのけては考えられぬであろう。近江の商人のあいだにはそういう思想や技術があったはずであり、三成はそれを大名の家政や天下財政の面へもちこんで行ったものにちがいない。もっともそういう技術のもちぬしは三成だけでなく、近江の草津付近の出身である長束正家なども豊富にもっていたにちがいない。正家はその財務能力だけで秀吉から大名に抜擢され、五奉行の一人にまですすんだ人物なのである。
こういう連中を輩出した近江というのはよほど特異な地帯であり、商業という点では他の国々とくらべものにならぬほどの先進性をもっているにちがいない。むろん、簿記にかぎっていえば三成や正家がつかっていたのは単式簿記であったであろうが、それから一世紀あまり経ったあと、かれらの故郷の日野で成立した大商家中井家の商法にあっては記帳も複式簿記の水準に達していたそうである。こういう商業的先進性は、いったいどこからうまれたのか。
近江商人の神聖な故郷
それを考えるために、われわれは近江にきている。
われわれの車は、北をめざしている。
「五個荘(ごかしょう)村につれて行ってほしい」 と、私どもは土地の運転手にたのんだ。五個荘村(いまは町だそうだが)というのは江戸時代以来、成功した近江商人のもっとも多く出た村である。私はその外観だけをみたいとおもった。
中山道のあたらしい舗装道路は、老蘇ノ森を両断してしまっている。それをすぎ、安土城址を左に見つつしばらく北にゆき、あてずっぽうの見当で車を降り、小さな部落に入ってみた。どうも家の構えがいぶせくて、それらしいたたずまいではなかった。道をきくために村の店屋でボールペンを買い、たずねてみた。
「この部落も五個荘は五個荘ですがね、あの金持村じゃありませんよ」
と、店番の老婦人は無愛想にいった。
「じゃ、金持村のほうは、どこです」ときくと、
「そんなものは知らない」
と、どうも知っていそうな顔つきなのに教えてくれなかった。五つの聚落があつまって五個荘をなしているのに、一つ聚落から江戸時代いらい成功者が簇出しているというのは、他の聚落にとっては愉快なことではないであろう。
国道へ出て、べつなひとにきくと、「それは金堂という聚落だろう」ということであった。教えられたとおり、観音寺山を正面に見ながら枝道に入り、その聚落に入った。なるほど、村の中央部に入ると、そのあたりに見るどの家も居館というべき豪壮な構えであり、いくつもの蔵をもち、堅牢なねり塀をめぐらせている。塀と塀のあいだをひろいあるくうちに、なにかの写真で見たおぼえのある一角に出くわした。
「その家はね」
と、通りがかりの七十年配のおばあさんがふりかえって教えてくれた。
「シゲルさんのお家ですよ」
先年、亡くなられた作家の外村(とのむら)繁氏の生家であることがわかった。外村家というのは五個荘でも代表的な名家であるということを、うかつにもその家の前にくるまで思いだせなかった。
私は、外村繁氏はその作品を通じてしか知らない。戦前、日本浪漫派に属し、地味な私小説を書き、熱心な親鸞の教徒であり、貨財にはいたって淡泊なあのひとが、私の仄聞するところでは、帳簿をぱらぱらとめくっただけでその誤りが指摘できたというほどの眼力があったという。どこか、蒲生氏郷や大谷吉継、石田三成に通じる人間風景が感じられはしないか。
「五個荘の丁稚学校のあとを見ましたか」
と、この日、大津にもどってから、土地に住む友人の徳永真一氏にきかれた。いや、見なかったです、そんなものがあるのですか、ときくと、「江戸時代にはあったのです」と、徳永氏はいう。このひとは毎日新聞の古い記者で、近江が好きなあまり大津の膳所の旧膳所藩の家老屋敷あとに住み、この県の歴史のほとんど生き字引のような存在である。むかしの商業学校というべきものでしょうな、という。
五個荘の商人は京都、大坂、江戸に店をもっているが、それらの店に送りこむ丁稚はかならずこの五個荘にあつめて寄宿舎訓練をし、ひととおりの商業技術やしつけを身につけさせ、しかるのちに配分したという。明治後にそれが発展したのが、近江商人の訓練所として有名だった県立八幡商業なのであろう。
商才は帰化人の血か
話題をかえよう。
帰化人についてである。帰化人ということばが、この県ほど、その県民の商業能力を語るときに重味をもってくる土地はない。
「やはり、帰化人でしょうなあ」
と、徳永さんもいう。「江州人」という、滋賀県に関するいい書物が、昭和三十七年、毎日新聞社編で出た。筆者は向井義朗というひとで、私の学校のころの友人である。やはり近江的商才の帰化人淵源説をとっている。勝手に引用させてもらうと、「……帰化人が多く、文化程度が高く、そして計数観念の極度に発達していた江州人が」といったふうになっている。近江人の「利口な頭」というものが、どこから出てきたか、やはり朝鮮からの帰化人であるというところにもってゆくのがいちばん安定した落ちつきぐあいなのであろう。
しかもこの県人のおもしろさは、「われわれには帰化人の血が濃く伝わっている」ということをむしろよろこばしげにいうことである。むかし(いつごろか不明)帰化人が集中的に居住していたとされる蒲生郡の八日市の町に、私の友人がいる。その友人がいまから十年ほど前に私を案内して八日市付近を歩き、やがて、
「どうや、おれの頬」
と、その隆起した頬骨をたたいて誇ったことがある。「韓国人にそっくりやろ」というのである。頬骨だけでなく、両眼がつり気味であり、頭骨がひらべったく、後頭部がそぎ立っている。「おれの頭が、帰化人淵源説の証拠物件だ」というのであったが、かといってかれの頭だけをたよりに近江人の淵源のなぞを解いてしまうのは気がすすまなかった。帰化人説をもちこんでくる心情というものは一種のロマンティシズムであるという気持が私にはぬけきれないのである。 菅野和太郎氏(自民党代議士)は、かつて旧制彦根高商の教授であった。その時期の著作に「近江商人の研究」という標題のものがあり、大意つぎのように書かれている。「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部(蒲生郡、坂田郡、愛知郡、犬上郡、野洲郡)に移住し、本国の制度にならって市を開設したが、後に延暦寺(叡山)と結んで市の専売権を確立し、商権を拡張して一大飛躍をとげた。この訓練をうけた住民は、農民、武士よりの転向組を加え、全国の行商行脚に力をのばした」
滋賀大学教授江頭恒治氏の「江州商人」でもこれに触れ、近江商人が他の土地(江戸、大坂、京都など)に店を出してもその土地の者をやとわず、いかに遠くても故郷の近江から奉公人をよびよせた、このことは華僑の風習に似ている、という旨のことが書かれている。
しかし、どうだろう。朝鮮人の血は、なるほど近江人のからだに、ことに脳髄に濃く流れているかもしれないが、他の土地の日本人にとっても同様である。北九州人は歴史地理的にその血の飛沫をもっとも濃厚にうけたであろうし、山口県人も同様であり、出雲をはじめとする裏日本の地帯もそうである。しかし同じような血をうけつつかれらが近江人のような商才や商業的先進性をもたなかったのはどういうわけだろう。
アイヌ・朝鮮・南方種族
関東なども、そうである。上代日本にあっては帰化人は文化のにない手として大いに優遇された。それをききつたえて、奈良朝時代に入っても朝鮮半島から陸続と移住者が集団でやってきたが、もうこの時期になると日本人の文化能力や体制がかたまりはじめていたためにかれらは不要であった。朝廷ではやむなくかれらを、その当時フロンティアであった関東平野に送り、開拓民にした。というより、あとあとになると技術者ではなく能なしの農民がやってきたのかもしれない。年表にみても、持統天皇の朱鳥四年「二月、新羅帰化人を武蔵に置く」とか、聖武天皇の天平十八年「新羅帰化人を武蔵に置く」といったふうの記載事項がさかんに出てくる。上毛、下毛といった群馬県付近にもさかんに送られた。
これらの子孫が開墾田を私有しつつ、平安期に入ればあの剽悍な、最初の日本人美を形成した坂東武者になってゆくのである。人間とはまことに妙なものである。おなじ朝鮮からの帰化人が近江に住まわせれば近江商人になり、関東に住まわせれば坂東武者になる。
もっとも血の配合がちがうという点は、注目しなければならないかもしれない。奈良朝のころの関東といえばアメリカ開拓期の西部よりもさらにいっそうに荒蕪の地帯であった。インディアンの数よりもさらに多くのアイヌが住んでいたであろう。アイヌ人はインディアンと同様、狩猟民族で、農耕ができなかった。農耕ができないというのは適者として生存するには致命的な欠陥である。モンゴル民族が漢民族に戦いにやぶれることはなかったが、それでも塞外へ塞外へと追いやられたのは、蒙古草原をいつのまにか漢民族の農民どもが耕してしまうからであり、耕地が北へ北へとひろがるにつれてモンゴル人どもの遊牧地はそのぶんだけ北へ移動しなければならない。それと同様、アイヌは朝鮮からの移住農民たちの耕地のためにさらに北へ移動した。その間、当然ながら大規模な混血がおこなわれた。
このため、アイヌ風の剽悍さをもった「東夷」が出来あがり、それが武士になってゆく。このわれわれの先祖の一派はその生活が計数を必要としなかったため、そういう文化遺伝が坂東人を支配し、武勇や権力への指向性につよくても商売に弱いという歴史的性格をつくりだしたのかもしれない。
上代や中世の近江人は、その地域性からみてもアイヌ人という強烈な個性的血液をほとんど受けていないか、微量にしか受けていなかったであろう。それに九州人のような南方種族との血液的混合ということもよりすくなく、要するに琵琶湖畔にあっては朝鮮半島からもちこまれた血が、比較的純度高く残りうる可能性があったということはいえるかもしれない。私のおぼろげな記憶では、どこかの大学が測定した日本人の頭型の分布のなかで、滋賀県をふくめた近畿がもっとも朝鮮人的な短頭的特徴を示していたような、そういう記憶がある。
日本歴史のなかで、最初に記録される帰化人の大集団は、新羅の王子といわれる天日槍(あめのひぼこ)のひきいるそれである。
かれらは裏日本づたいにきて若狭湾に上陸し、途中、さまざまの痕跡を後世にのこしつつ南下した。古代日本における最大の事件のひとつであろう。
地方史の名著とされる「滋賀県史」全六巻の冒頭にもこのことがやや感動的に触れられている。ただし近江には一部が定住しただけで、総帥の天日槍そのものは、残念ながら但馬に行ってしまう。
(但馬などにゆかず、天日槍が一族総ぐるみで近江に定住していてくれれば、この推論も落ちつくのだが) と、私は近江路を歩きながらおもった。おもいながら、石塔寺のながい石段をのぼった。石塔寺は、八日市から南へ四キロ、蒲生郡の丘陵地帯にある古刹である。が、大きな寺ではない。
〝異国の丘〟に石塔は立つ
「石塔寺にゆけば、近江がわかる」
というのが、「上代以来、近江に住んでいる」という草津在の友人我孫子元治氏の説であった。どうわかるのか、このながい石段をのぼりつめてみねばならない。途中で、なんどか息がきれた。たまたま石段のふもとに矢竹の杖がおいてあったのでそれを借用して一段ずつついてのぼっているのだが、つらかった。のぼりつめれば頂上に伽藍かなにかあるのですか、と同行のひとにきくと、
「いいえ、建物はいっさいありません」
ただ不可思議な石造の巨塔が一基、天にむかって立っているだけだという。
最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、私は生涯わすれることができないだろう。
頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである。
「なんのためにこんな山の上にこんな塔があるのだろう」
と、同行のたれかが気味わるそうにつぶやいたが、これはこの方面のどういう専門家にも答えられぬことであった。巨石の積みあげによる構造上の技法は、あきらかに古代朝鮮のものだそうである。
──この近所の帰化人がやったことです。
と、たまたま頂上にのぼってきたこの寺のお坊さんがいった。この丘の付近は、八日市にしろ日野にしろ、上代帰化人の大聚落のあったところである。かれらが、故郷をなつかしむあまり、この山の上にこのような巨石をひきあげ(どういう工夫でひきあげたか、謎である)、それをどういう技法かで積みあげ、いかにも擬人的な石塔を組みあげて半島をしのぶよすがにしたのであろう。
「石材も、百済か新羅のものですか」
と、お坊さんにきいてみた。そうだとすれば、はるばると半島からこれだけの巨石を運んでくるというのは、秀吉の大坂城の巨石運搬のなぞよりもさらに大きい。お坊さんによると、たしかに外来のものだと信じられていたそうである。しかし最近になって石だけは近江のこのあたりの地場のものだということがわかったらしい。ただし工法や構造、造形的な嗜好は、むろん朝鮮のものである。よほど古いころに出来あがったらしいが、いつごろ、たれがこれを作ったか、むろんわからない。(なるほど、近江はいわれるように帰化人のものだったのだ)ということを、理屈をこえてこの塔は訴えてくるし、理屈以上の迫力をもってこの塔は証明しているようである。
この奇妙な塔があるためにこのあたりの地名は「石塔」というし、またこの塔があるというのでいつのほどか、それを護持するための小さな寺がその山麓にできた。寺はつけたしである。塔が主人である。塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言であるような気もする。
華僑に似た風習がある
あと、湖西のほうをすこしまわった。堅田の湖港を見たり、浮御堂に詣ったり、琵琶湖大橋をわたったりしたが、車のなかでもあの石塔が網膜からはなれず、そのことばかり考えていた。
唐突にいうが、日本人がその居住地を離れて遠くへ移動することがさほどの苦痛でなくなったのは、豊臣政権の成立からであり、それ以前はうまれて生えたその地帯に日本人どもは動くことがなかった。そういう上代、中世にあって、国から国へと行商してあるいたのは近江人であり、そういうことが近江人だけの習慣になっていたというのは、やはり菅野氏のいうように、「商人的素質をもつ高麗の帰化人」であるがためかもしれない。
「運転手さんは、滋賀県ですか」
と、同行のT氏がきいた。はい、左様でございます、と中年以上のどの滋賀県人もたいていそうであるようによく躾られた上品な敬語でこたえた、「高島郡でございます」、という。高島郡というのは湖西のほうの山岳地帯である。デパートの高島屋の名称はこの高島郡からとられている。
大正期、大阪で成功した近江商人の富商たちは、阪神間の芦屋をひらいてそこをあたらしい居住地にした。その芦屋の近江人というのは上女中はかならず近江の高島郡からよんだ。高島郡の女性は聡いし、上品だし、律義だという。嫁に行ってからも縁は切れず、主家はよく面倒をみてくれる。
「わたくしの姉も、若いころ芦屋に奉公にあがっておりました」
と、運転手さんはいった。芦屋の近江人たちは上女中はかならず近江からよぶが、ところが水仕事をする下女中は播州(兵庫県)の田舎からよぶ。播州こそいい面の皮だが、これが近江人の近江至上主義であり、近江共栄主義であり、江頭教授のいうところの「華僑の風習に似ている」ところであろう。
戦前、大阪や東京の近江系の繊維会社は、かならず故郷の県立八幡商業の卒業生を採った。「八商は他の商業学校の卒業生とははじめから商人として出来がちがう」といわれた。しかしちかごろは日本平均化の共通現象の例外ではなく、在校生にそれほどの特色はみられないという。ただ、旧制彦根高商はいまは滋賀大学経済学部になっているが、「どうしてもあの学校の卒業生を」といって採用したがる会社が依然として多いという。
後退した商業主義の精神
しかしながら、上代以来、日本の商業界でその特異性を誇った近江と江州商人も、全般として過去のものになっている。繊維業界や商社の一般的後退ということもあるであろう。それよりも大きいのは、近江商人の機敏さや倹約哲学や世界観では、十九世紀までの商業主義には生きられても、二十世紀の産業主義には不向きであるということであろう。
商業資本がえらいか、産業資本がえらいか、というこどものような議論をすこしここで考えてみなければならない。両者は本質的に異質なものだといったのは、ウェーバーだそうである。たしかに異質である。産業主義というのは、たとえば一つの機械を発明したり、機械組織を変えて生産量を変動させたりする能力は、最終的には利潤追求でありながら、モトの発想はきわめて非商人的である。
一つの機械を発明するのに数十年かかるかもしれず、この間の金利計算や仕込みの計算をしているような精神や能力ではそういう根気仕事──ときには無意味にみえるような努力──はできないのである。世界中にちらばっている華僑が、ついには金利計算者である域を脱せず、産業資本家になりえていないのはその好例であろう。
江州商人的精神も、華僑に似た運命をたどっている。明治以後の日本の産業資本をになったひとびとは近江から出ず、他の封建分国から出たし、戦後の産業界の覇者たちも近江からは出なかった。しかしながら、近江人が、歴史あってこのかた、日本の経済と政治と精神史のなかにはたしてきたかがやかしい足跡は、いかにその精神がいま休止期に入ったとはいえ、その評価をいささかでも過小にすべきではない。もしそうすれば、蒲生郡の山上に古寂びて立つ、かれらの呪術がこめられているようなあの大石塔が、神怒りにいかるような気がするのである。
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