2025年2月25日火曜日

司馬遼太郎と池田栄


  


歴史を紀行する (文春文庫) Kindle版

司馬遼太郎 (著) 形式: Kindle版★

増補版 最高文芸としての正統政治学 単行本(ソフトカバー) – 古書, 1966/4/20
池田 栄 (著)

隠された聖徳太子 ――近現代日本の偽史とオカルト文化 (ちくま新書 1794) 新書 – 2024/5/10
オリオン・クラウタウ (著)

〝好いても惚れぬ〟権力の貸座敷〔京都〕  
  
 東京は日本の国家機構の中心であるかもしれないが、われわれのことばでいうみやこという語感では、やはり京都がそれにあたるであろう。京は、山城の国に所在する。むかし、新井白石が徳川幕府の最盛期に、 「徳川将軍は日本の主権者である。天皇は山城国に限定された存在であり、本来山城天皇とよばるべきものだ」  と、じつに徳川家にとって都合のいい御用学説を発表した。その山城の国へTさんと私は出かけた。  

 現代日本に残る秦の言葉  
 京は、郊外がいい。嵯峨野から太秦のあたりをあるいた。 「太秦の秦とは、どういう意味でしょう」と、Tさんはいう。 「あの秦ですよ」と、私はいった。これは古代史としてはわりあいはっきりしているから確言していいが、秦の始皇帝のあの「秦」というところから出ている。山城国をおもうには、想いを古代中国に馳せねばならない。  
 いうまでもなく紀元前三世紀のころの古代中国を統一したのが、秦である。ところがその秦は始皇帝いらいわずか三代十六年にして漢の高祖にほろぼされた。話が飛ぶが、この秦というのは当時の中国の中原の連中からは夷狄(異民族)をもって目されていた。  

──ほんとうです。色は白く、目が青くて鼻がこう、ぐっと高かったのです。  

 と、戦前、秦史を余技で調べておられたある政治史(それも英国政治史だが)専攻のIという学者が、内緒ばなしでもするような小さな声で教えてくれたが、しかしどうだろう。紅毛碧眼であったというのはちょっと想像がすぎるかもしれない。  

 秦の人種論はさておく。その言語はやはりシナ語の一派だったのであろう。秦の言語では国という語は邦だったそうである。弓は弧という。賊は寇。衆のことを徒。これらの秦語は漢語に溶けこみ、その漢語が日本に輸入されてわれわれ現代日本人も、国家というのをしゃれて邦家といったり、在外日本人を邦人、万国無比を万邦無比などといったりしている。二千数百年前にほろんだ大陸の王朝の語彙を、二十世紀の日本人がなお使っているというところに文明というものの不可思議さがある。  
 その滅亡した秦王朝の貴族の一部が朝鮮半島に逃げた。「魏志東夷伝」にそのころの朝鮮の記述がある。朝鮮は馬韓、秦(辰)韓、弁韓にわかれている。このうち秦韓については「古ノ亡人、秦ノ役ヲ避ケテ来ッテ韓国ニ適ル」とある。「他の韓国とは、言語や風俗がすこしちがっている」とも書かれている。  
 その秦韓民族が、何世紀かをへて日本にきたのである。このことは日本側の正史である「古事記」にも「応神紀」にも記載されている。応神天皇の十四年(西暦二八三年)、弓月君という朝鮮貴族が百二十県の民をひきいて日本に帰化した──と。   
 
 帰化人がおいた京の礎  
 百二十県の民といえば大量帰化というよりもはや民族移動にひとしい。かれらがやってきたことについては、朝鮮半島における政情の変化と直接のつながりがある。すなわち半島においては新羅という強国が勃興し、右の秦韓を圧迫した。やむなくかれらは第二の故郷をすて、東海の列島を慕ってやってきた。その当時の日本では、おそらく群雄が地方に割拠していたのであろうが、むろん大和王朝が最大の勢力であった。弓月君はそこへゆき、 「予は秦の始皇帝の子孫である」  といった。単に朝鮮人というよりも、そのほうがこの蛮国(とかれらは思っていたにちがいない)で、居住権を得るには都合がよかったに相違ない。もっとも当時の大和王朝にあっては、秦帝国などというものについての歴史知識がどの程度にあったか、うたがわしい。  
 百二十県の民といえば、いったい何人いたのであろう。この応神天皇十四年から百八十年ばかり経った雄略天皇の時代、雄略帝はその家来の小子部という男に「あの帰化人の人数をしらべよ」と命じ、その結果、九十二部族、一万八千六百七十人という数字があきらかになった(「雄略紀」)。応神朝はかれらにたいし、 「山城のあたりでも拓けばどうか」  とでもいったらしい。なにしろ大和・河内は大和朝廷の直轄地であり、そこにはかれらの割りこむすきがなかったにちがいない。当時、山城は草獣の走る一望の曠野であったのかどうか。とにかく、秦氏はここに国土をさだめた。その国都がいまの京の郊外、嵐山電車の沿線にある太秦であった。    
 秦氏は、たちまち強大な勢力になった。なぜならばかれらは産業をもっていた。その特殊技能はハタオリであり、織物をふんだんに生産することによって大和王朝の用をつとめた。当時の日本人たちが秦を秦とよんだことだけでも、秦氏の日本の未開社会における位置がわかるであろう。応神朝のつぎは仁徳朝だが、この仁徳天皇の代にこの秦氏の技術者を山城だけに住まわせず、諸郡に分置させていることをもってしてもかれらがいかに珍重されたかがわかる。  
 秦氏の首長からは、政治家も出た。秦河勝がそうである。推古朝の人。聖徳太子につかえ、その政治をたすけただけでなく、太子のための資金源になった。当時日本で富者と言えば秦氏のことであったから、聖徳太子の政治的成功はこの秦河勝の経済力なしに考えることはできない。  
 河勝は、太子に尽した。仏教好きのいわば当時の進歩的知識人であった太子のために、このパトロンは山城ノ国に広隆寺をたて、太子の別荘として献上した。「山城にあそびに来られたときはこの別荘でお昼寝をなされよ」というのが河勝の口上であったであろう。  

秦人はイスラエルびとか?

「この夢殿がそうですか」  と、Tさんが広隆寺の境内を歩きながら、八角の円堂を指さした。太子建立の大和法隆寺の夢殿と同型のもので、この寺では桂宮院本堂という呼称になっているが、聖徳太子以後の建造物だから、太子が昼寝をしたわけではなかろう。 「秦氏は、イスラエル人だったと思います」  と、前記I氏が私にその壮大な空想を語ってくれたことがある。なぜならばこの広隆寺の境内わきに、太秦の土地のひとびとがいまでも神聖視している「やすらい井戸」という井戸がある。I氏によれば、やすらいはイスラエルのなまりであり、砂漠の民であるイスラエル人は当然ながら湧水池のまわりに住み、それを神聖視する。やすらい井戸はその生きた遺跡だというのである。  
 太秦には、奇祭がある。毎年十月十二日におこなわれる牛祭がそれで、夜八時すぎ、怪奇な赤鬼青鬼の面をつけた白装束の鬼四ひきがタイマツに照らされて境内にあらわれ、やがて牛面をつけた摩陀羅神というものの供をする。やがて祭壇の前で鬼が摩陀羅神に対し、祭文を読みあげるのだが、その祭文のことばはまったくちんぷんかんぷんで、何語であるのかわからない。マダラ神というのはいったい何の神か。その祭文のモトの言葉は秦語か、古代朝鮮語か、それともイスラエル語なのか、まったくわからず、土地の古老にきいても、 「さあ、神の言葉どっしゃろか」  と、とりとめもない。この祭りは起源もわからぬほどに古いのだが、たれかこれを大まじめに研究する学者がいないものだろうか。アジアの他の国の古俗と対比すればなにか出てきそうに思われるのだが、どうであろう。  
 この太秦広隆寺の境内に小さな森があり、泉が湧き、泉に三脚の柱をひたした奇妙な石鳥居がある。三本あしの鳥居など日本のどこにもないが、前記I氏は「あれはイスラエル人が好む紋章です」という。  
 空想というものは楽しい。この広隆寺には寺の守護神というかたちで大酒神社という古社がある。古くは大避と書かれていたそうである。さらに古い時代には「大闢」という文字があてられていた。大闢とはなんぞ──ここで空想家は昂奮しなければならない──大闢とは漢訳聖書ではダビデをさすのである。となれば大酒神社の祖形はダビデの礼拝堂であるということになり、秦氏はイスラエル人であるばかりか、古代キリスト教徒であった、ということへ飛躍してゆくのである。 「魏志倭人伝」における耶馬台国とは九州か大和か、という考古学的想像もおもしろいかもしれないが、「魏志東夷伝」から発想してゆくこの古代山城の秦氏研究も十分に学問的ロマネスクの世界ではないか。  
 フルネームはわすれたが、大正末期に英国人でゴルドンという女性が、秦氏キリスト教徒説をたてたことがある。私は手もとにその資料をもっていないから、その説を正確にここに紹介することはできないが、要するにキリスト教といっても、ローマンカトリックではなく、ネストリウスの教派らしい。いまのローマのカトリックは、遠くパウロがひらいた。他の教派は異端とされた。  
 異端の最大のものはネストリウスの教派であり、これはコンスタンチノープルを根拠地とする東方教会から追われ、東へ逃げ、絹の道を経てさらに東へゆき、ついに中国大陸に入った。古代中国ではこの宗教を景教と称し、この時点よりちょっと時代のくだる大唐の世に一時大いに隆盛を示したことがあるが、やがて弾圧され、泡のように消えた。秦氏はつまりこの景教徒であるというのだが、真偽はむろんわからない。あくまでも青と朱にいろどられたあえかな空想としておくほうが無難であろう。要するに、京──山城平野──の最初のぬしである秦氏は謎の民族なのである。  

ゼッペキ頭を貴しとなす  

「秦氏の遺跡は、この太秦の広隆寺や大酒神社だけなのでしょうか」  と、Tさんはこの空想旅行を楽しみはじめたらしい。  
 孔子は、怪力乱神を語らず、といった。私もそれにならい、物事を考えるときに奇譚奇説という麻薬をできるだけ服用せぬように心掛けているが、文献資料のない古代を考えるということは、もうそのこと自体が麻薬的酩酊をともなう。 「あります」  私は、酩酊をおさえつついった。「京の古社がたいていそうです」    
 このあたりに大堰川が流れている。その中流に松尾橋がかかっており、橋を西へ渡ると、松尾大社という古社が鎮まっている。ついでながらその南の谷に苔寺がある。この古社は秦氏の長者秦都理という人物がはじめて祀ったとされているが、祭神の松尾大神というのは秦氏にとってどういう神だったのかわからない。いまはとにかく酒の神社であり、全国の醸造家から崇敬されている。  

 朱の鳥居と狐憑きで知られる伏見の稲荷大社も、当時の大和人の神ではなく、秦氏の神であった。「秦氏の三神」といえば、賀茂社(上賀茂、下賀茂神社)も入る。京都最古の神社であり、秦氏が大いに崇敬したというが、しかしこの神社だけは秦氏の創立ではないかもしれない。社伝から想像するに、秦氏が山城国にやってくる以前からこの神はこの野に鎮まっていたようにおもわれる。秦氏よりもふるい先住民──カモ族──の神であったか。加茂族、鴨族と書いてもいい。カモという地名は、諸国あわせて七十九カ所もあるそうだが、要するに天孫族に追われた出雲族の古称を「カモ」というのであろう。秦氏は山城の出雲族と調和すべくこの神を氏神のひとつとして祀ったのかもしれない。  
 これで、古代山城についての私の話柄が尽きた。時代ははるかにくだって延暦十二年(七九三年)、桓武天皇は山城の地に唐風の帝都を建設しようとし、この年の二月、新都造営の旨を賀茂大神に告げた。  
 おそらくは山城の先住民であるカモ族の協力を得ようとしたのであろう。新都は山城国葛野郡宇太村(京都市の原地名)に造営されることになるが、その宇太村にはまだカモ族が住んで炊煙をあげていたにちがいなく、それの協力を得るにはそのカモ族の神のゆるしを得ようとしたのである。むろん山城にはカモ族などよりはるかに強大な秦氏がいる。朝廷ではこの秦氏をも協力せしめるために「秦王」といわれたその長者の娘を、「平安京造営長官の妻として嫁せし」めたりした。平安京の最初の内裏は、秦王の邸館をこわしたあとにたてられたという。  
 秦氏もこのころになると、廷臣の位置を得ている者も多く、まったくといっていいほどに日本化していた。もっともかれらの風俗が、王朝の廷臣に影響をあたえもしていた。平安朝の公卿というのは、男子の後頭部の絶壁のようなるさまを尊ぶという妙な習俗をもっていた。ゼッペキ頭のことを「褊頭」という。  
 褊の意は狭きさま、その形状。頭を褊頭にするために子がうまれると、固い扁平な枕で寝かせたという。この習慣は秦氏にもあり、この民族がまだ朝鮮で秦韓(辰韓)という一国家をなしていたころ、中国側の地理書ではその風俗につき、「児生ルル時ハ、便、石ヲモッテソノ頭ヲ圧シ、ソノ褊ナランコトヲ欲ス」と書かれている。この秦氏の風が平安朝の貴族に感染し、そのゼッペキ好みになったのかどうか。ついでながらゼッペキのほうが冠をかぶったときに立派にみえるという。源氏物語の主人公も、美男であるかぎりはおそらく褊頭であったであろう。

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