2025年2月15日土曜日

松平定信は「田沼意次を二度も刺そうと思った」…徳川家御三卿から男児が"排除"された末に起こったこと(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

松平定信は「田沼意次を二度も刺そうと思った」…徳川家御三卿から男児が"排除"された末に起こったこと(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
栄花物語
山本周五郎

その四
 山城守意知が不慮に死に、松平定信が溜間詰に入ってから、田沼氏の威勢は衰え始めたようだ。おそらく田沼氏の敗退は避けられないだろうし、代って白河侯が執政に直ることも慥からしい。だがそれは、白河派の力が田沼派のそれに勝ったわけではない。――政治家としての才能や実力の点からすれば、両者の差は比較にならぬほど大きいし、田沼氏にはなお期待すべき多くの新しい政策があるに反して、白河派の復古調と緊縮主義の将来するものは、すでにして底が知れている。にもかかわらず田沼氏はしりぞけられるであろうし、定信はよろこんで迎えられようとしているのである。なぜだろうか。
 「その子と保之助とおふくの関係が、その不運な組み合せだけではなく、他の条件の支配を受けているように、田沼氏と松平氏との不合理な交代も、各自の才能や実力とはべつな、なにかの条件の支配を受けているんだ」信二郎はこう呟いて酒を呷った、「――陳腐なはなしさ、つまらない、わかりきってるじゃないか」 
 彼は横になり、肱枕をして眼をつむった。

松平定信は「田沼意次を二度も刺そうと思った」…徳川家御三卿から男児が"排除"された末に起こったこと

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)では、徳川幕府の老中・田沼意次(渡辺謙)が御三卿田安家の松平定信(寺田心)を強引に養子に出した。系図研究者の菊地浩之さんは「ドラマでは8代将軍吉宗の書が偽造されていたが、実際には改ざんはなかっただろう。御三卿は大名ではなく、後継者がいなければ御家断絶の危機となった」という――。 【図表】徳川御三卿の初代から二代 ■江戸城でめぐらされていた将軍の座をめぐる権謀術数  大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)は、徳川将軍家の暗闘が描かれている。そのキーポイントは御三卿である。将軍輩出を狙う一橋徳川治済(はるさだ)(生田斗真)、定信(賢丸:寺田心)によって家系存続を図る田安徳川家の野望が描かれている。  御三卿は、8代・徳川吉宗(1684〜1751)が、長男の徳川家重(1711〜1761)に将軍を譲った翌年、次男の徳川宗武(1715〜1771)、四男の徳川宗尹(むねただ)(1721〜1764)にそれぞれ江戸城内の田安門・一橋門近くに邸宅と10万石を与えたことにはじまる。そして、9代・徳川家重も父に倣って、次男の徳川重好(1745〜1795)に清水邸と10万石を与えたのだ。  9代・徳川家重は障害により言語が不明瞭で、酒色におぼれ、文武を怠る人物だった。これに対して、次男の田安徳川宗武は文武に優れ、特に国学には造詣が深かった。当然、幕閣の中には宗武を将軍に推す声が大きかったが、吉宗は長男がいながら、次男を擁立すると国の乱れのもととなるとして、家重を将軍とした。宗武はこれを後々まで不服としたので、10万石を与えて別家としたのであろう。 ■徳川御三家と御三卿の違い、御三卿は大名ではない  ちなみに、この「御三卿」は大名ではない。「将軍家の家族」という位置づけだ。  だから、田安徳川治察(はるあき)(入江甚儀)が、弟の松平定信に跡を継がせようと画策しても、将軍家(=幕府)がそれを阻止することができたのだ。  これが「御三家」だったら大問題だ。後日、11代将軍・徳川家斉の子どもが次々と御三家に送り込まれるが、これは御三家の家老が了解したから実現している。時には、藩内の反撥に押されて受け入れを拒んでいる。それは御三家が独立した大名であるからだ。  これに対し、御三卿は将軍家を家長とする一族だから、将軍家が家督相続に介入できるという立て付けなのだろう。  では、なぜ御三卿は大名ではないのか。

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