■「日本紀略」では、延暦13年(794)11月8日に「近江國滋賀郡の古津は先帝の旧都なり。今輦(れん)下に接するに昔号を追い大津と改称すべし」(桓武天皇が遷都の年に宮址を訪ねた)と記されています。
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天智天皇の造った短命の都 大津京を巡る
●大和朝廷は、「唐・新羅」連合による攻撃により滅びつつあった「百済」の支援のために、三万人近い兵力を派遣したが、翌632年の「白村江の戦」で「百済・倭」連合軍が「唐・新羅」連合軍に大敗した。その結果、次には「唐・新羅」連合軍による飛鳥の都への侵攻されることを恐れ、天智天皇を支持する渡来系豪族・大友氏・錦部氏他の地盤である近江国西南部に667年に「遷都」した。しかしながら、柿本人麻呂は「近江遷都」を『いかさまに思ほしめせか』(萬葉集・29)と詠い、「日本書紀」は(天智六年三月条)「是時、天下百姓、不願遷都、諷諌者多」と伝える。・約30年をかかってその実在が立証された「大津宮」とその近辺の関連寺院趾を2度に亙って訪ねたが、2回目は考古学研究者のS氏の案内で巡った。
コース:
①JR・大津京駅~新羅善神堂~弘文天皇陵~大津宮・錦織遺蹟~近江神宮~南滋賀町廃寺跡~百穴古墳群~志賀の大佛*~崇福寺金堂址~京阪・滋賀里駅[約7km]
②JR・唐崎駅~穴太廃寺跡~崇福寺跡~南滋賀町廃寺~榿(はん)木原遺跡~JR・大津京駅[約9.5㎞]
【コース図(①赤線・②青緑線)・国土地理院1:25000地形図・「京都東北部」使用】
◆「大津京」造営の歴史的背景
■「日本書紀」では、
・天智五年(666)紀に「是冬に京都(みやこ)の鼠、近江に向きて移る」が最初の記事とされ、
・天智六年(667)三月十九日紀には「都を近江に移す。是時に天下の百姓、都遷すこと願はずして諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し」と記され、
■「扶桑略記」*天智六年(667)正月条で「都を近江國滋賀郡大津宮に遷す。本は大和國岡本宮に在り」と記され、
■「日本書紀」:
・天智七年十月紀では「大唐大将軍英公、高麗を打ち滅ぼす」(=高句麗滅亡)、
・天智八年冬紀に「是冬に高安城を修りて畿内の田税を収む」、
・天智九年二月紀に「長門城一つ、筑紫(基肄)城一つを築く」、
・天智十年十二月三日紀に「天皇、近江宮に崩(かむあが)りましぬ」と記されています。
■「日本紀略」では、延暦13年(794)11月8日に「近江國滋賀郡の古津は先帝の旧都なり。今輦(れん)下に接するに昔号を追い大津と改称すべし」(桓武天皇が遷都の年に宮址を訪ねた)と記されています。
*「扶桑略記」(ふそうりゃくき):平安時代の私撰歴史書で、総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。寛治8年(1094)以降の堀河天皇の代に比叡山功徳院の僧皇円(法然の師)が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。
■この頃の中国・朝鮮・倭の動きを年譜的に顧みますと、
・624年(推古天皇32年)、唐は高句麗・百済・新羅と冊封関係を結びましたが、「倭」は結ばず、
・645年(皇極天皇4年)6月12日、「乙巳(いつし)の変」により、中大兄皇子(後の天智天皇)らは蘇我本宗家の入鹿・蝦夷らを倒し、
・655年(斉明天皇元年)、高句麗・百済が新羅を攻め、新羅も百済に反攻し、高句麗・百済が唐・新羅と軍事対決し、
・660年(斉明天皇6年)、唐・新羅連合軍は百済を先ず攻め、都・泗泚城を落とし、義慈王と太子を連行し、
・661年、百済は「請兵使」(外交使節兼質)として倭に滞在していた王子・扶余豊を王に迎えにきて、唐軍を攻撃しましたが失敗し、唐は新羅と連合して高句麗・百済を再度討たんとしたため、百済は倭に援軍を求め、
・663年(天智2年)3月、400余隻と27000の兵を援軍として出し、斉明天皇も筑紫朝倉宮まで出陣しましたが病没し、
・同年8月、朝鮮「白村江の戦」で唐・新羅連合軍の挟撃により「倭」・百済連合軍は壊滅(倭は豪族連合軍体制)し、
・664年(天智3年)、対馬・壱岐・筑紫に「防人」(さきもり)、狼煙台を設置し、大宰府北方に水城構築し、
・665~667年(天智4~6年)、百済遺臣の指導で大野城、基肄城、金田城(対馬)、屋島城、高安城、鬼ノ城(岡山)を築造、
・668年(天智7年)、高句麗は唐・新羅によって平壌を包囲され滅亡し、
・670~677(天智9年~天武6年)、新羅は、唐を駆逐しながら、朝鮮半島を統一しました。
$「日本紀略」(にほんきりゃく):平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後ご一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036)まで。編者不詳。漢文、編年体、全34巻。
◆「大津宮」の復原
◇天智称制*6年(667)3月、都は近江・大津宮に遷り、中大兄皇子は翌7年正月に即位しました(諡:天智天皇)。
◇検出遺構・改変地形・基盤の改変土層などから、林博通氏らにより、前期難波宮[孝徳朝・難波長柄豊碕宮]を思い出させる、内裏前面の広い朝堂院を備えた「宮」の復原が試みられました。問題点は、遺跡が既に住宅街に埋没されていて、発掘部分が狭く、多くの前提・推測が基になっていることです。
◇「大津宮」の構造復原の軸は、内裏南門と内裏正殿で、両者とも一部のみしか検出されていなくて、規模は不詳です。ともに正面「七間」に復原され、それらの中心軸は宮殿の中心軸に設定されていますが、宮殿構造は左右対称を前提として全体像が想定復原されています。
◇内裏南門、同正殿とも「五間」の見解も出ています。また、地形の狭さによる朝堂院復原の無理、推定場所で建物遺構が検出されない、などの否定意見もあるようです。復原建物の一部が奈良時代のもの、あるいは南門[宮門]があって、朝堂があっても朝堂院があるとは限らない、などの説が「飛鳥浄御原宮」(40代・天武天皇と41代・持統天皇の宮)跡と対比して出ているようです。また、「大津宮」の構造は「後飛鳥岡本宮」(37代・斉明天皇)との類似性より、南門北側に南北棟の建物が検出されるか否かにも注目が集まっているようです。
◇「日本書紀」には大津宮の殿舎として、内裏・濱臺・濱樓・大蔵・宮門・殿(みあらか)・臥内(おほとの:病に伏した天智天皇が大海人皇子を引き入れて後事を委ねようとしたところ)・大殿・漏剋臺・西小殿・内裏佛殿・内裏西殿・大蔵省第三倉・大炊の記載があるようです。
*称制(しょうせい):君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と鸕野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。日本では、「摂政」と似るが、「摂政」の場合は天皇が同時に存在するが、「称制」の場合は天皇がいない。[「称制」している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在]
◆「大津京」所在地の推定
◇「大津京」の所在地関する研究として、明治43年に当時東京帝大講師(古代史・考古学)の喜田貞吉によって学会に復原推定位置・図が発表されました。
【大津京復原推定:喜田貞吉】
◇その後、諸家により下図のような諸説が出されました。
【大津宮所在地諸説】
◆「大津宮」関連発掘遺構
◇「大津宮」跡を錦織遺跡とする根拠は「御所ノ内」の地名、更に昭和49年のそこの発掘調査で門遺構が検出され、更に飛鳥時代の遺構が逐次検出されたことに依りますが、「大津宮」関連の遺構は錦織地区を中心に発掘され、その結果として纏められたものが次図のような内裏正殿と内裏南門が同じ南北の中軸線をもち、左右(東西)対称の「近江宮」復原図ですが、発掘対象地域は、既に住宅街として埋没している地域が広く、発掘された場所はごく一部のために「想定」部分がかなり含まれています。
【内裏正殿・錦織遺跡第六地区:林原図(図上の左クリックにより縮小)】
【内裏南門・錦織遺跡第一地区:林原図(図上の左クリックにより縮小)】
【内裏正殿復原平面図・立面図:林原図】
【内裏南門復原平面図・立面図:林原図】
【大津宮復元図(難波宮を意識して作製された?):林原図】
◇錦織地区の発掘地点は上図に示されていますが、大津市の三つの地域における地面の東西傾斜は下図のように北方になるほど傾斜が急角度、即ち平地が狭小となっていることと、現在よりも凡そ1350年程昔の飛鳥時代の大津付近の琵琶湖西岸地区における土地の傾斜度は現在よりも更に強く、広大な「京」(みやこ)の建物を造営することはやや困難になっていくものと考えられています。
【湖岸線の変化:林原図】
【錦織地区発掘地点●:林原図】
【錦織・南滋賀・滋賀里三地区・傾斜比較:藤岡原図(図上の左クリックにより縮小)】
◆近江遷都
◇「遷都」は唐・新羅の侵攻を恐れて、反対を押し切って実施されたものと考えられて軍事的観点からの説明が多いですが、日唐国交再開に依る遣唐使の再派遣は天智8年(669)で、それは実質的には「降伏表明」であり、唐への『降伏表明』後の国内は緊迫状況は解消していたと考えられています。また、新羅との国交回復は天智7年といわれており、それ故に、翌天智9年2月には蒲生郡匱迮野(ひつさの:蒲生郡内の旧地域名)に行幸し、本格的な宮地を探索しています。
◆「大津京」の実存性
◇今から5年余り前のJR湖西線「西大津駅」が「大津京駅」に改称される折に、古代史学者を含めた論争にもなりましたが、現在、「大津京」と言われる地域に、「京」と言えるほどの京域・坊条制などが、後の「平城京」・「平安京」などのように整っていたのかが問題視されています。文献的には、「大津京」としての表現はなく、「日本書紀」では「近江宮」・「近江大津宮」、「万葉集」では「近江大津宮」・「大津宮」・「近江宮」の表現でした。「大津京」の呼称は、明治以降の研究史の中で、「平城京」・「平安京」のように条坊制を備えていたと想定してしまったために、そのように呼ばれるようになったようです。
◇「近江京」としての表記は、「日本書紀」天武紀元年五月是月条のみに倭京と対比するように記されているだけのようです。
◆弘文天皇陵 [大友皇子墓:長等山前陵(ながらやまさきりょう)]
◇JR大津京駅から500m余りの山手にあります。天智天皇の第一子・大友皇子(648-672年)の墓で、母は伊賀宅子郎ですが、天智天皇が「大津京」で没すると、皇位継承をめぐり、実の叔父・大海人皇子(?-686)と皇位継承を争い[内乱「壬申の乱」[天武元年(672)6月29日~7月23日]、ついに力及ばず自害(7月23日)して最期を遂げました。享年25歳。
◇大友皇子は長らく皇統に認められず、「日本書紀」*にもその名がありませんでしたが(*神代~持統天皇時代[=天武天皇皇后]までを編纂⇒当然、大友皇子は無視された)、明治3年に漸く認知されて、『第39代・弘文天皇』が追贈され、明治10年に園城寺境内の亀岡古墳が陵墓に認定され、死地である「山前(やまさき)」の名をとって命名されました。総面積約3300坪。
【長等山前陵】
◆園城寺 新羅善神堂
◇JR大津京駅から南西方600m余り、弘文陵から500mほどのところにあります。園城寺北院の森の中に南面して建っており、園城寺の中興開山智証大師円珍が唐より帰朝の途次、船中で護法を誓った「新羅明神」を祀っていますが、明治の神仏分離によって現在の名称となりました。
◇三間社流造の神社本殿の建築で、桁行三間・梁間二間の内陣は、正面中央を板扉とする以外はすべて漆喰壁とし、その前に一間の外陣がつき、外陣の正面・側面の欄間には、牡丹唐草と鳳凰の透彫が施されています。寺伝では貞和3年(1347)に足利尊氏が再建したそうです。
【新羅善神堂】
◆近江神宮
◇JR大津京駅から北北西方向に1.5㎞ほどのところ、「錦織遺跡趾」からでは500m余りのところにあります。祭神は天智天皇([別名]天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)ですが、近江朝より1300年後の、昭和13年(1938)、昭和天皇の聴許により創建され、社格を「官幣大社」とされました。「紀元2600年」の慶節・昭和15年1月7日に近江大津宮旧跡に鎮座しましたが、昭和20年12月15日、「勅祭社」に冶定され、翌昭和21年より例祭(4月20日)には勅使の「差遣」(さけん:公の使者として派遣) を受けています。本殿以下社殿は「近江造・昭和造」と称され、平成10年に近代神社建築の代表として「国登録文化財」指定ました。
【近江神宮本殿】
◆「大津宮」付近石佛・古墳・廃寺遺構
◇穴太廃寺趾
・JR唐崎駅から北方へ歩いて10分ほどのところですが、「大津京」関連遺跡の一つとされ、昭和59年(1984)の発掘調査で二つの時期の伽藍配置をもつことが判明しています。「大津宮」の北北東約3㎞にありましたが、その寺域の北側で東に振れる造営方位が、7世紀後半に正方位に変更されて再建されていることが判明しています。これは「大津宮」造営に起因する都市計画に依るとの説が強く、この「地割」は「穴太廃寺」の北側から北方は斜行し、南側で正方位を向いています。そのうち創建当初の伽藍配置は明確ではありませんが、再建時のものは、西に金堂、東に塔、北に講堂という「法起寺」式伽藍配置となっていました。講堂跡付近からは磚佛・銀製押出佛等が出土したようです。金堂は創建時・再建時とも瓦積基壇で、創建軒丸瓦は外縁に輻線紋のある単弁蓮華文で渡来系氏族人の要素が強く出ているようですが、現在は完全に埋め戻されてバイパスの下などになっています。
【穴太廃寺・検出遺構:林原図】
◇南滋賀町廃寺址
【南滋賀町廃寺寺域復原(検出遺構・西端に榿木原遺跡):林原図】
・「大津宮」北約500mにありましたが、周辺の条里と異なる310~315m四方の特殊条里が遺存し、これが当廃寺寺域を示すと推定されており、現在は民家に囲まれた公園となっています。
・発掘調査により、搭・金堂・僧坊跡が発見され、寺院の存在したことが確認され、伽蘭配置は搭と西金堂が東西に対置し、それを回廊が取巻く「川原寺式伽蘭配置」で、搭・西金堂・金堂の基壇は瓦積み仕上げと判明しました。出土瓦・土器の中に、蓮華を横から見た方形軒瓦も存在し、遺物より白鳳~平安末期に存立していたことが推定されています。昭和32年、「國史跡」に指定されています。
・なお、「南滋賀町廃寺」は川原寺式伽藍配置で、その中軸線は特殊条里を5分割した西から二つ目の軸に一致し、「大津宮」の中軸線は寺域の中軸線に一致しているようです(当廃寺伽藍の中軸線ではない)。
【南滋賀廃寺遺構:林原図】
【木々の間から琵琶湖が望める:南滋賀廃寺趾】
◇百穴古墳群
・滋賀里から200mほど西方山中の「山中越」沿いを上った、右手北側山中に遺存していますが、削平・流失等により明確ではありません。石室の屋根石を上に向かうにつれて迫り出し、天井が「ドーム状」の「横穴式石室」をもち、玄室と羨道のある「円墳」と推定されています。中の一基には花崗岩製の「くり抜き式石棺」が安置され、一基内に2~3名を埋葬し、金製耳輪、銅製首輪、土師器、須惠器、祭祀用ミニチュア炊飯器等も埋納されていたそうです。建造は石室構造から6世紀後半頃(古墳時代後期)と推定され、国指定史跡です。
【百穴古墳中の一基の石室とその構造模式図】
◇志賀の石佛(石造阿弥陀如来座像:「見世の大佛」)
・京から崇福寺や梵釈寺などへの参詣道でもありました「山中越」を、逆に西方に向って登って行きますと、高さ3.5m、幅2.7m[白毫高8尺・丈六立像]の厚肉彫の高さ3.1mの花崗岩像が右手に御堂からはみ出して坐しています。面相等より13世紀頃の彫造と考えられています。
【志賀の石仏】
◇崇福寺(弥勒堂・小金堂・塔・金堂・講堂)址
・京より山中峠を越えて崇福寺[天智天皇勅願]・梵釈寺[桓武天皇建立]等への参詣道として、平安時代より知られた峠道である「山中越」を逆方向に西に向かって高低差100m程ある坂道を登っていき、山中の寺域後に辿り着きました。
・当寺は668年に天智天皇の命により建立され、昭和3年の発掘調査で滋賀里山中の3つの尾根から建物跡が検出されています。北尾根の土地には弥勒堂と推定されている大きな礎石列が遺存し、中尾根の土地には小金堂趾と塔趾とみなされている礎石が遺存し、南尾根に金堂・講堂趾と考えられている盛土や礎石がやや不整に遺存し、当時の壮大な伽藍(がらん)配置が推定されており、平安末期まで存立していたようです(扶桑略記)。塔の心礎から舎利容器(国宝)が出土していますが、最近では南尾根の建物跡を「梵釈寺」(ぼんじゃくじ)とする説もあるようです。国指定史跡です。
・天智7年正月、天智天皇は崇福寺を建立し、塔心礎に舎利容器と鐡鏡を納めたことが判明しています。
【崇福寺金堂(手前)・講堂趾】
【崇福寺弥勒堂趾礎石列(図上の左クリックにより縮小)】
【崇福寺伽藍趾(弥勒堂・小金堂・塔・金堂・講堂):林原図(右が北)】
◇山中越(志賀越・白川越・今道越)
・京より山中峠を越える崇福寺[天智天皇勅願]・梵釈寺[桓武天皇建立]等への参詣道として平安時代より知られた峠道で、京都・白川と坂本・滋賀里を繋ぐ重要な道でありました。弘仁6年(815)4月、嵯峨天皇が崇福寺を経て唐崎に御幸した記録があり(「日本後紀」)、応永元年(1394)、足利義満の日吉社参詣のため延暦寺が道の造作・清掃を馬借に命じています。長享元年(1487)、足利義尚の遠征で数千人が通過して坂本に入り、天正3年(1575)、織田信長が「山中越」の修復・両側松植を白川郷・吉田郷・山中郷に命じています。
【「大津京」域内寺院址:林原図】
●「大津宮」造営を契機に「大津宮」を基準とする計画地割が行われ官衙が存在した可能性はありますが、当時「京」は「京職」が國・郡・里とは区別された組織として機能し、「平城京」は「大和国」から独立した存在であったこととは異なり、「近江宮」・「近江大津宮」と呼ばれ、近江國にあったことが明記されていますが、「藤原宮」・「平城宮」には大和國を付記されておらず、「大津宮」は近江國に含まれるもので、独立した「京」になっていなかった、との説が有力となりつつあります。
【参考文献】
1.重見 泰:「大津宮を歩く」、友史會報(557)、2013.
2.黒崎 直:「近江大津宮とその京域の検討」『飛鳥の都市計画を解く』、同成社、2011.
3.林 博通:「幻の都・大津京を掘る」、学生社、2005.
4.林 博通:「大津京跡の研究」、同朋社、2001.
5.林部 均:「古代宮都形成過程の研究」、青木書店、2001.
6.藤岡謙二郎編著:「講座考古地理学」(2)、学生社、1982.
7.大津市歴史博物館ホームページ。
【①2010年6月27日、②2013年11月17日実施】
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