邪馬台国に纏わる10の疑問
日本古代史の真相を証する中国史書
中国史書が証する邪馬台国の存在
中国の東方、海のはるか彼方にある東の島々に存在した「不死の国」「君子の国」について孔子が言及した時から600~700年という長い年月を経た2~3世紀ごろ、倭の国には邪馬台国と呼ばれる国家が台頭しました。邪馬台国の存在については議論の余地はありません。元伊勢御巡幸の直後に邪馬台国が突如として歴史に姿を現すことになり、その国家の実態について中国史書は証しています。
日本の古代史において重要な位置を占める邪馬台国を理解し、歴史を再構築する鍵は、魏志倭人伝などの正史から情報を得て、それらを歴史の流れに沿って正しく解釈することにあります。魏志倭人伝は「三国志」の魏書にある「東夷伝の倭人の条」の略称であり、三国志魏書倭人伝とも呼ばれています。また、倭国に関する記述は、魏志倭人伝に限らず、後漢書倭伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、梁書倭伝や、隋書倭国伝にも見られます。これらの中国史書から邪馬台国の姿がおぼろげながら浮かびあがってきます。
果てしなく続く邪馬台国論争
ところが、それらの中国史書には邪馬台国が日本列島のどこに存在したのか、という点については明記されていないことから、比定地が特定できていません。日本古代史上最大の難題となった「邪馬台国はどこにあったのか」という論争は止むことなく、今日まで定説のないまま続いています。邪馬台国の候補地については畿内説と九州説が有力視される中、その候補地は実際には百か所以上もあると言われ、真相は謎に包まれたままです。
邪馬台国に纏わる歴史の流れを理解するためには、アジア大陸でも特に東アジアの歴史の流れを把握することが重要なのは言うまでもありません。特に秦始皇帝の時代以降に生じた大規模な民族移動や、中国における人口の激減などの史実に目を向けるだけでなく、弥生時代後期より日本列島の人口が急増したという史実にも注視する必要があります。そのような民族移動の流れの中で、いつしか邪馬台国が台頭することになるからです。
中国史書から浮かび上がる邪馬台国の疑問点
過去の歴史を辿る鍵となる中国史書の解釈は難しく、一筋縄ではいきません。また、日本の歴史に名を残している邪馬台国の実態についても、その詳細は確認のしようがなく、多くが謎に包まれています。
邪馬台国に関連するさまざまな疑問点について、その主だった論点について以下の10項目にまとめてみました。
- 先祖代々にわたり王系を継ぐと言われる民族は元来、日本列島を起源に育まれてきたのか、それともアジア大陸から渡来してきたのか?
- 邪馬台国の王は元々男子であったと言われているが、何故、卑弥呼という女王が「相談の結果」立ち上がるまで、互いに攻撃し合い、戦争が続いたのか。また、卑弥呼の後も、男王を立てると戦争になり、再度女王が立てられると平和になったのは何故か?
- 卑弥呼の娘として知られる女王、壹與が3世紀半ばに中国に対して朝貢したのを最後に、およそ150年もの間、史書から倭国に関する記述が見当たらなくなり、「空白の世紀」が生じた理由は何か?
- 邪馬台国の場所は、その長い歴史の中で常に同一の場所になければならないか、それとも時には場所を移動することもあると考えられるか?
- 邪馬台国は中国や朝鮮半島から遠く離れたはるか彼方という印象が強いが、九州というアジア大陸に直近する島という可能性もあるか、また、そこは山上の国か、平野部に広がる国か?
- 魏志倭人伝に「海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周して戻って来るのに五千里ばかりである」と記載されていることから、邪馬台国は、海に囲まれた大きな島に存在するのではないのか?
- 史書に記載されている距離感覚、地理感において、一里はおよそ何kmを意味するか、また、その当時の距離感や計測値は信頼できるデータと言えるか?
- 邪馬台国に辿り着くためには海を渡り、陸を旅するという、いわゆる水行と陸行を繰り返すことになるが、何故、一度船で渡り、そこから内陸に入り、再び海を渡る必要があるのか、また、そうしなければ目的地に到達することはできないのか?
- 何故、四季を通じて野菜が育ち、温暖であるはずの邪馬台国では、「牛、馬、羊など」の家畜が存在せず、野菜を中心に食しているのか?
- 卑弥呼の高貴なイメージとは打って変わり、邪馬台国の人は「手づかみで飲食し」、「裸足で生活し」、衣服については「ただ結び束ねているだけで、ほとんど縫っていない」、という原始的なライフスタイルを貫いていたのか?
疑問を解く鍵となる中国史書
一見、疑問点が多すぎることから、歴史の流れを理解することが難しく思われます。しまも歩み寄りが難しそうな邪馬台国の比定地に関する論争は、続いたままです。しかしながら、それらの疑問や問題点を解決する鍵となるのが、やはりこれらの中国史書なのです。よって、古代の歴史をできるだけ忠実に記録してきたと考えられる多くの中国史書のメッセージを、ありのままに受け入れて読み取ることにより、歴史の真相の糸口を見出すことができるかもしれません。
古代の学者は博学であり、単に文字文化が進化を遂げていただけなく、現代人が想像もできないような優れた天文学の知識を持っていました。また、古代の人々は大きな船に乗って世界各地を渡航していた記録も残されており、世界各地の地勢などについても、かなりの情報を得ていたと考えられています。それ故、中国史書の信ぴょう性は高く、文面のとおりに内容を読み通しても、そのまま理解できる箇所が少なくありません。
今一度、邪馬台国の歴史を振り返るために、中国史書のメッセージをしっかりと読み取り、そこで語られている内容、つまり古代の識者が感じえた邪馬台国の姿、実態について学び直す必要があります。そこから浮かび上がってくる邪馬台国のイメージとは、果たしてどのようなものだったのでしょうか。また、邪馬台国の原点を見出すためには、少なくとも7世紀以上を遡る古代の日本が、「君子の国」として中国では知られていたことに着眼し、その背景を探ることも重要な鍵となります。これらの情報から、もしかして邪馬台国の場所だけでなく、邪馬台国のルーツ、人々の出自についても理解を深めることができるかもしれません。「邪馬台国の道のり」をとおして、古代史のロマンと真相に近づいて行きます。
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