「神社のそばにお寺」に潜む"神と仏"の深い因縁 「天照大神」は「大日如来」の化身とされていた
しかし、廃仏に力点を置いた水戸藩の強引な宗教統制は、藩内寺院の本寺にあたる寛永寺 ・増上寺など幕府に近い江戸の大寺院からの非難を招き、天保15年5月、斉昭は幕府から謹慎を命じられた。そのため、水戸藩の宗教政策は未完に終わる。 とはいえ、明治の神仏分離は、水戸藩の神仏分離を大掛かりにするようなかたちで行われている。水戸藩の神仏分離は、明治の神仏分離の前哨戦となったのだ。 このほかに、津和野藩でも維新直前に社寺改正・葬祭改革が実行されている。これを推進した藩主亀井茲監(これみ)や国学者福羽美静(ふくばびせい)は、維新政府が成立すると神祇事務局に入り、中央の神仏分離政策や神祇行政などに深く関与している。
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