古代中国資料における「倭」について(6)
今日は「東京事変」の「総合」から「秘密」を聞いている。
中島信文の「東洋史が語る真実の日本古代史と日本国誕生 シリーズ一 古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実(本の研究社」(以下「中島論文」という)は、古代中国資料における「倭」について以下のようにいう。
(1)「山海経」記述の「大人国」と「君子国」の場所とは
「前漢時代の儒教が当時語った「君子国」と「大人国」というのはあくまでも神仙思想と同じようなもので、儒教の単なる宣伝文句であり、当時の儒者が創造した(でっち上げた)もので蓬莱山などと同様に存在していたわけではなかった」
「それ故、儒者たちは「山海経」においては「海外東経」や「大荒東経」では儒教の聖地「君子国」と「大人国」が東方の僻地にあたかも存在しているかのように記述していた」
「そのため、楽浪郡の朝鮮県が儒教の君子国としては齟齬をきたした時に、当時の儒者は朝鮮に近い場所で朝鮮とは異なる君子国に相当する地名を模索したのである」
「実用的な地理書の性格が強い「海内北経」では当時の儒者は、過去に君子国であった朝鮮の傍に新たな君子国の地名を書き加えた(実用的な地理書の性格が強い「海内北経」において「君子国」の場所があまり楽浪郡の朝鮮県と離れていては、今まで儒者が述べてきた儒教の重要な教義、儒教の東方観、東夷観「君子国」=「箕子の逃れた場所」=「朝鮮」とは矛盾してしまい、当時では漢王朝を支えた儒教が疑われ信用を失う恐れがあった)」
「「海外東経」と「大荒東経」に出てくる「大人国」と「君子国」の大略の地理的位置は、「山海経」の地理書としての重要なポイントである基本的な四つの記述方法の特性から容易に割り出せる」
「「海外東経」での「君子国」と「大人国」の場所であるが、「海外自東南陬至東北陬者」と記述されているように、九十度の範囲で地名や国が「海内北経」とは逆に反時計回りに記述され、東南から北に向かって僻地が記述されている」
「すなわち、「東南の蹉丘→嗟丘→大人国→芸撻丘→奢比之尸→君子国→黒歯国→天呉国→(東北の)玄股国」の順に説明されている」
「この順序から、「大人国」の大まかな場所というのは洛陽の東南から東北の間の隅すなわち「東方面」で、「君子国」というのは東北東から東北の間の隅に相当する」
「「大荒東経」では、「海外四経」との重複事項と照らし合わせると、説明順序は「海外東経」に一致しており、反時計回りに東南から北に向かって「少昊之國→「大人国」「大人市」→小人国→「君子国」→黒歯国→天呉国→玄股国」の順に説明されている」
「そうすると、「大荒東経」の記述も、やはり「海外東経」と同様に「大人国」の大まかな場所というのは洛陽から見て東方にあり、そして、「君子国」の場所というのは東北と東北東の間の隅に相当することになる」
「これらの比較から、「山海経」「海外東経」と「大荒東経」記述における儒教の「君子国」というのは、「海内北経」記述の倭と朝鮮の場所とはほとんど重なる」
「すなわち、「海外東経」と「大荒東経」記述における儒教の「君子国」というのは古代朝鮮や倭の場所に相当することになる」
「儒教の語る「君子国」というのは「海内北経」では朝鮮近くで北部の蓋國か倭ということになるが、蓋國というのは朝鮮より北部すぎるし儒教とは関係ない具体的に存在した国で、架空ともいえる「君子国」の地名は「海内北経」ではやや漠然とした不自然な「倭」という文字で示されていると推察できる」
「「海内北経」と同じ分類に収められている「海内西経」には最後部に「東胡在大澤東 夷人在東胡東」という文句がさりげなく記述されている(これも実は儒者が書き加えた)が、この夷人というのは儒教の語る君子の東夷人で「君子国」と同義語であるのは明白で、「海内西経」も儒教の影響を受けて改竄されているのである」
「そして、この夷人のいる場所「東胡東」というのは「洛陽から見て東胡が北の隅に存在しており、その東方にある」のだから、ほぼ東北に近い場所で、「海内北経」の「倭」の場所と重なるのだ」
「すなわち、「海内北経」の倭の場所というのは「海内西経」の「君子の(東)夷人」の場所であり、「君子国」の場所と「海内西経」は傍証している」
「「海外東経」には儒教の「君子国」の説明として「衣冠帶劍、獸を食う。二の文虎(文様のある虎)を使う」とあるように虎が出てくるのだが、虎というのは当時では朝鮮半島北部の交易品として長安や洛陽のある中原では知られており、「君子国」というのは虎の生息していた「倭」や朝鮮の場所であると「海外東経」は暗に語っている」
「このような事実から、「山海経」「海内北経」に忽然と現れた「倭」という文字は儒教の東方観、東夷観「君子国」と同義語であり、「君子国」を表現する地名や場所だったのである」
「であるから、「山海経」記述の「倭」の意味というのは、君子という言葉の本義や意味から、倭とは「仁があり道や礼儀に従う優れた人物や民のいる場所」や「天性が道理や礼に従順な民がいる場所」、「礼儀や徳義の厚い国の場所」となる」
(2)何故、「海内東経」に朝鮮と倭が出てこないのか
「「海内東経」には朝鮮と倭が記述されておらず、「海内北経」に記述されていることの主な背景や理由は、戦国時代末期から前漢初期の「山海経」では、儒教の重要な「君子国」の場所とされた架空の朝鮮というのは中国北部に存在しており、古い「海内東経」には古朝鮮はなく、「海内北経」に儒者によって古朝鮮が記述されていたからである」
「儒教の聖地の呼称となった朝鮮というのは「准南子」などから、戦国時代から前漢初期にはまだ現在の朝鮮半島北部ではなく、当時では燕国(現在の北京がある地域)の北方地域、また、現在の遼寧省あたりであると、当時の儒教の世界では語られていた」
「前漢初期に成立の「准南子」では「喝石山を過ぎて朝鮮から南に大人国を貫いて」とあるのだが、記述の「喝石山」というのは現在の河北省黎北とされ、儒教の語った朝鮮は河北地域の燕国北部にあったことは確かである」
「この地域には孔子が語った殷の三仁の一人である箕子の痕跡(地名や逸話)も多いという」
「ところが、武帝時代には朝鮮半島において儒教の語る朝鮮という名称を使った漢人が現れ(それが「史記」に出てくる燕人の衛視満など)、儒者は朝鮮の場所を華北ではなく朝鮮半島にするのだが「海内東経」は変えず「海内北経」だけを改変したのである」
「というのは、従来の「海内東経」に朝鮮が記述されておらず「海内北経」に記述されており、当時の儒者は「海内北経」の朝鮮を「海内東経」に新たに移動させて、儒教の東夷観である君子国とするのは大変な改変になるからである」
「また、このような「山海経」の改変をすると、当時としては「海内四経」は地理書として特に信頼され多くの大に読まれてもいたもので、儒教そのものが疑われる危険もあったからである」
「つまり、従来の古い「海内北経」には儒教の語る朝鮮が既に記述されており、その朝鮮記述を踏襲したが、後代の儒者はあたかも武帝が設置した漢四郡の楽浪郡にあった朝鮮県近くに書き直し、「山海経」の「海内北経」で儒教の東夷観を宣伝したのである」
(3)「山海経」に忽然と現れた倭の真実とは
「「山海経」の成立は通説では春秋戦国時代くらいで、古い時代の地理書であったとされているのだが、前漢時代になると儒教が隆盛になり、現存する「山海経」というのは多くの儒者が関与しており、そのため、儒教の世界観、特に儒教の東方観、東夷観を宣伝する教本として儒者により加筆、改変されている」
「戦国時代末期から前漢初めには北方や南西部の僻地もよく知られてきて、当時の民は未知なる東方への関心が強くなり、前漢時代中頃には儒教にしても道教などの神仙思想を取り入れたが、孔子の語ったとされる東方観、東夷観(すなわち、儒教の聖地「君子国」と「大人国」)であり、このような教義は前漢半ば以降には儒教にとっては最も重要な内容、教義になっており、これらを地理書と言われる「山海経」で宣伝する必要があったし、宣伝をして儒教の普及を図ったからである」
「そして、当初は儒教の語る「君子国」の場所は架空の朝鮮であったのだが、楽浪郡設置後、朝鮮県が知られてきて朝鮮という文句が君子国としては齟齬をきたし、地理書の性格が強い「海内北経」では「君子国」の場所をあたかも存在するような地名「倭」という文字で置き換えて、当時の儒者というのは「山海経」などで常に「儒教の祖、孔子は東方の倭に理想郷の君子国があると述べていた」と説法していたのである」
「それでは、当時の儒者は何故、倭という文字を「君子国」の地名に選んだかである」
「儒教の「礼記」「王制篇」の「東方日夷、夷者柢也、言仁而好生、萬物柢地而出故天性柔順 易以道御 至有君子不死之國焉」でよくわかるように「君子国」の住民は東夷人であるが「天性従順である」と述べられている」
「そして、倭という文字は委(従順の意味)という文字に人偏を付けた文字で「君子国の住民は天性従順」という教義からすれば最適で、それを地名や場所として当時の儒者は考え「海内北経」に採用した可能性が高い」
「許慎の漢字字典「説文解字」というのは主に儒教関連の書物に使われている漢字についての意味や用法などが網羅されているが、許慎が「説文解字」を書き上げる契機となったのは、一つには孔子旧宅の壁中や民家から先秦時代の古い書体で書かれていた儒教の経典が発見され、原点に近い正しい儒教の世界、儒教で使われた文字の正しい意味(これを古文学と呼んだ)を世に広めるためだった」
「そのため、「説文解字」の倭の説明は単に「順なるさま。従順なさま」と簡単になっているが「(儒教の孔子が常に語った天性が道理や礼)に従順である、従う」という意味が内在しているとみるべきである」
「「山海経」の倭という文字は儒教の東方観、東夷観「君子国」と同義語であり、「君子国」を表現する地名や場所だった」
「また、「山海経」記述の「倭」の意味というのは、君子という言葉というのは本義や意味から、倭とは「仁があり道や礼儀に従う優れた人物や民のいる場所」や「天性が道理や礼に従順な民がいる場所」、「礼儀や徳義の厚い国の場所」で「説文解字」の説明にある「従順な」という意味とも近く「古代日本の呼称」などの意味はまったくないのである」
(4)朝鮮という名前は儒者の古代漢人が創った
「朝鮮という文句でよく知られているのは、司馬遷の「史記」からの推察で「史記」の「卷三十八宋微子世家」には「於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也。其後箕子朝周」という記述があるが、この文で記述の朝鮮を司馬遷が具体的な固有名詞として国や場所を意識して書いたかは、実はまったくわからない」
「「朝鮮」の「朝」という文字であるが、周から春秋時代では「臣下が君主(天子)に向き合う」ことに用いられ、そして、「臣下の関係となる」「臣下の関係」を意味するもので、このような「朝」の意味は次の文章「而不臣也。其後箕子朝周」でも用いられている」
「「鮮」という文字の概念、意味であるが、当時では「わずかである。ほとんどない。めったにない」という意味である」
「鮮という文字は魚と羊からできており、古代の内陸、中原では魚と羊の二つは冷凍でもしない限りなかなかありつけない、かなりのご馳走であるところから、当時の意味は「少ない。滅多にない」である」
「このよい例であるが、孔子のよく知られた説話「子日 巧言令色、鮮矣仁。(孔子云う、口達者でやたらに愛想のいい者は、いたって実は(ほとんど)ないものだ」である)
「春秋時代の「朝」と「鮮」の文字の意味と用法を考慮すると、記述の「朝鮮」は、具体的な国や地域の名前ではなく「朝(臣下)の鮮(及ばない)場所」の意味程度であることが推察される」
「それ故、「於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也」とは意訳すると「武王は箕子を周王朝の管轄地でない僻地の場所に封じて臣とはしなかった」となる」
「「史記」や「漢書」によれば「箕子」は商王朝最後の紂王の叔父で殷の太師(後世の宰相)で、その封国が箕(山西省大原市太谷県)とされ、箕子が去ったのは、周当時ではせいぜい現在の河北省くらいまでであるとみるべきである」
「周当時は儒教の「春秋」や「六経」などでもよくわかるのだが河北省でも東夷だったのだ(中国での考古学の成果からは箕子の痕跡は河北省に多いとされている)」
「司馬遷は別に「史記」「朝鮮列伝」を残しているのだが、この中では司馬遷は儒教が語る箕子と朝鮮半島の古朝鮮との関係については一切、触れてはいないので、おそらく彼は、箕子と当時の朝鮮半島にあった古朝鮮は無関係とみていたのだろう」
「戦国時代末期に編纂された「管子」や「戦国策」では朝鮮というのは北方の異民族居住地(現在の河北省方面)の総称であり、この点を司馬遷は当然ながら知っていたはずであるので、司馬遷は孔子を崇めてはいたが当時の儒教の説く世界は必ずしも史実を語っているとは見ていなかったようで、「史記」から推察すると、周時代や春秋時代に朝鮮半島に朝鮮などという固有の地名はなかったと考えた方がよい」
「ただし、「史記」が生まれる(紀元前九一年頃成立)よりも前の紀元前二一〇年頃に成立した「淮南子」の巻五「時則訓」には、「五方位。東方の極は、喝石山を過ぎ(北部の)朝鮮を経て大人の国を貫いて、東方の日の出の場所、榑木の地、青丘の樹木の野に至る。そこは黄帝の大嶂が納め、句芒が補佐した土地で、一万二千里ある。」という記述があるように、紀元前二一〇年頃には「半島の朝鮮と大人国というのは儒教関連の場所」として記述されている」
「「淮南子」や「山海経」からよく理解できるように、半島の古朝鮮というのは「史記」以前に儒教関連の場所としてよく知られていたのである」
「朝鮮半島の朝鮮という呼称は戦国時代末期の時期に朝鮮半島北部に流入した少数の漢人達によって、儒教の歴史書である「春秋」や「論語」などから創られたのである」
「朝鮮も倭も儒教の東夷観が発端となって生まれた珍しい地名であり、朝鮮という名称はせいぜい儒教が盛んになってきた戦国時代末期の紀元前三、四世紀頃に成立した意外と新しい地名であるのである」
(5)検討
中島信文は、朝鮮や倭は中国本土からみて東側にあるのに、地理書の「山海経」で東方の国々を記載する「海内東経」には朝鮮と倭が記述されておらず、北方の国々を記載する「海内北経」に記述されているのは、「山海経」が書かれたときには、「架空の国」の朝鮮は北方にあるとされていたからであり、地理書として普及していた「山海経」の大幅な変更を回避するために、既存の「架空の国」の「朝鮮」に追加した新たな東方の「架空の国」の「倭」も「海内北経」に記載したのだ、という。
つまり「倭」も「朝鮮」と同じように、儒教の宣伝のために、儒者が机上で創作した国名であったと考えられる。
中島信文は、「儒教の「礼記」「王制篇」の「東方日夷、夷者柢也、言仁而好生、萬物柢地而出故天性柔順 易以道御 至有君子不死之國焉」でよくわかるように「君子国」の住民は東夷人であるが「天性従順である」と」されていたので、「委(従順の意味)という文字に人偏を付けた」「倭という文字は」、「君子国の住民は天性従順」という教義からすれば最適で、それを地名や場所として当時の儒者は考え「海内北経」に採用した」のだという。
そして、その「倭」には、「(儒教の孔子が常に語った天性が道理や礼)に従順である、従う」という意味が内在してい」たのだという。
つまり、「「山海経」の倭という文字は儒教の東方観、東夷観「君子国」と同義語であり、「君子国」を表現する地名や場所だった」のであり、「「山海経」記述の「倭」の意味というのは、君子という言葉というのは本義や意味から、倭とは「仁があり道や礼儀に従う優れた人物や民のいる場所」や「天性が道理や礼に従順な民がいる場所」、「礼儀や徳義の厚い国の場所」で「説文解字」の説明にある「従順な」という意味とも近」いもので、創作当時の「倭」には「「古代日本の呼称」などの意味はまったくないのである」
こうした中島論文の指摘から、中国古代文献における「朝鮮」や「倭」の架空性を正確に認識することが、中国古代文献から「朝鮮」や「倭」を考える上では、非常に重要であると考えられる。
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