『200年間で13回』吉原の遊女たちが命がけで放火した理由とは?
NHKの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、物語の重要な舞台となっている「吉原」。
花魁道中などの華やかなイメージが強い場所ですが、遊女は自由を拘束され「年季十年、二十七歳まで」が原則ではあるものの、生活費や行事で新たな借金を背負うことも多く、十年を経ても吉原に残って働く女性も少なくなかったそうです。
そんな吉原は、最初に誕生した日本橋の遊郭が明暦の大火(1657年)で消失、浅草寺北の日本堤付近に移転をし「新吉原」となった後も、明和の大火(1772年)で被災しました。
一説によると、1866(慶応2)年頃までの約200年間で20回前後の火事が起こり、そのうち、およそ13回は遊女による「つけ火(放火)」だったそうです。
当時の江戸ではつけ火は重罪で、極刑に処せられるものでした。
しかし、処罰覚悟でつけ火をした遊女たちには深い事情があり、それを知ったお上の裁きは温情あるものだったのです。
約200年の間でおよそ13回の火事は遊女の放火
当時、木造家屋が立ち並ぶ江戸では、火事がよく起こっていました。
前述したとおり、新吉原でも約200年の間に20回以上(18〜19回、22〜23回との説も)も火事が起こり、そのうちおよそ13回が遊女による「つけ火(放火)」だったといわれています。
楼閣は全焼して営業ができなくなると、期間限定で江戸市中の家屋を借りて仮営業をすることが許可されていました。
けれども、料理屋・茶屋・商家・民家などを借りて改装するので、もとの妓楼のような豪華な造りにはできません。
そんな仮店は、いたる場所に点在していました。
そこで、大河ドラマ「べらぼう」で蔦屋重三郎が作った吉原のガイドブック『吉原細見』ならぬ、仮店のガイドブック『仮宅細見』が登場したそうです。
仮店は江戸市中に存在していたために、不便な場所にあった「新吉原」よりは通いやすく、構造も本物の楼閣に比べると安普請だったために、今まで吉原には縁のなかった客も気軽に足を運べるようになり、繁盛しました。
楼閣主のなかには「安い経費で営業できる仮店のほうが儲かる」とばかりに、火事が発生しても消火活動を怠り、幕府に厳重注意を受ける者も少なくなくありませんでした。
遊女たちが放火した理由
新吉原で、遊女による放火が多かったのには、切羽詰まった訳がありました。
遊女たちは、梅毒などの性病に加え、劣悪な環境や栄養不足による病に苦しむことが多かったのです。また、荒々しい方法での堕胎によって命を落とすことも少なくありませんでした。
さらに、吉原から逃げ出そうものなら残酷な罰を与えられます。
こうした地獄のような状況から逃げ出すため、彼女たちは捕まるのは覚悟で放火をしたのでした。
江戸では放火は「火あぶりの重罪」のはずが…
江戸時代、放火は現代とは比べものにならないほどの甚大な被害を及ぼすために、重罪でした。
「馬で市中引き回しのうえに火あぶりの刑」、依頼放火は「市中引き回しのうえに死罪」だったそうです。
ところが、遊女たちによる放火は火あぶりにはならず、多くは「流罪」などでした。
最年少14歳の姫菊は、親元預かり
遊女の放火事件の中でも、化政期(文化・文政年間を中心とした時代)以降の遊女による放火事件の犯人の中には、10代の少女もいました。
江戸時代末期、江戸を中心とした事件や噂などを詳細に記録した『藤岡屋日記』によると、弘化2年(1845)12月5日、妓楼・川津屋で放火事件が起きています。
楼主の女房・おだいは冷酷な性格で、稼ぎが悪い遊女に折檻を繰り返していました。
ある時、あまりの仕打ちに耐えかねた3人の遊女が、火付けを計画したのです。
彼女らは、玉菊(16歳)・六浦(米浦/16歳)・姫菊(14歳)という年齢でした。
彼女らは火付盗賊改に召し取られますが、弘化3年4月、当時の火付盗賊改・水野采女(重明)により、年上の二人は「中追放」(重追放と軽追放の中間のもの)で、一番幼い姫菊は15歳まで親元預かりという、温情のある刑が下されたのでした。
おだいは「急度(きっと)叱り」という「叱り」よりきつい刑罰を受け、悪評が立った川津屋は衰退しました。
この事件を知った江戸では「火付をも 助けるものは水野さま 深き御慈悲が ありて吉原」という落首ができ、水野采女を讃える声が広まったのでした。
奉行・遠山の金さんの、情けあるお裁き
また、嘉永2年(1849年)、粗末な食事や過酷な経済的負担、虐待などを日常的に強いる非道な妓楼「梅本屋」の主人・佐吉に耐えかねた16人の遊女たちが、放火を決意しました。
彼女たちは妓楼の二階の天井に火を放ち、その後、自ら出頭しています。
調べによると、玉芝という遊女が足抜けをした際、佐吉は「最年長の遊女・豊平がそそのかした」と濡れ衣を着せ、激しく折檻したことが判明しました。玉芝は佐吉に大きな鉄槌(てっつい)で頭を殴られ、耐え難い苦痛の中で「豊平にそそのかされた」と嘘の証言をしてしまったのです。
当時の豊平の日記によると、「首や手に跡が残るほどきつく縛りつけられ、腹這いにされたまま弓の棒で40回以上殴られたうえ、夕暮れまで湯も茶も許されなかった」と記されています。
非道な仕打ちを受けながらも、豊平は「くやしい一心でなんとか耐え、意識を保っていた」とのことです。
最終的に佐吉は、無理やり豊平の年季を2年延長させたうえで、ようやく縄をほどきました。
これは実は、人気遊女だった豊平の年期明けが近づいてきたのを阻止するための佐吉の企みだったのです。
ただでさえ日頃の佐吉の極悪非道な扱いに耐えかねていた16人の遊女たちは、この事件を知り怒り心頭、抗議のために放火をしたのでした。
当時、この事件の裁きを行ったのは名奉行の誉が高かった、遠山の金さんこと、遠山景元(金四郎)でした。
金さんは遊女たちの過酷な状況を知り、「火あぶりの刑」ではなく、主犯の遊女4人は島流し、残りの12人は押し込め(屋敷内での幽閉)という温情のある刑を下したのです。
さらに、楼主の佐吉は家財没収のうえ島流しとしました。
衰退していく吉原
吉原で最後の大火となったのは、慶応2年(1866)11月4日の火事でした。
この火事を起こしたのは14歳の遊女・重菊で、動機や処分については記録が残っていません。
当時、禿(かむろ)は15歳前後になると花魁見習いとなり、接客の作法や振る舞いを学ぶようになっていました。重菊もまた、悪待遇に耐えかねたのか、客をとることに抵抗があったのか、それとも自由の身になりたかったのか…その真意は不明です。
新吉原では、最下級の「切見世(きりみせ)」の遊女から最上級の「花魁」まで、店の待遇や食事、衣装には大きな差がありました。
しかしどの身分であれ、遊女である以上、身体を売り、時には嫌な客を相手にしなければならない現実に変わりはありませんでした。
その新吉原も、享保期(1716~1735年)頃には、揚代の安い岡場所や宿場の台頭、さらに武家の財政難などの影響を受け、次第に衰えの兆しを見せ始めました。江戸末期の嘉永年間に入ると、妓楼同士が客を呼び込むために揚代の値引き競争を繰り広げるようになります。
さらに、諸外国から「遊女は奴隷と同じである」との批判が高まり、新政府は1872年(明治5年)10月に「芸娼妓解放令」を発布しました。これにより、遊女は自由に廃業できるようになります。
しかし、その一方で、貧困や家庭の事情から身売りを余儀なくされる女性が完全にいなくなることはありませんでした。
吉原は存続し遊女の世界は形を変えながらも続いていきます。その後の歴史については、また別の機会にご紹介したいと思います。
参考:『図説 吉原事典(朝日文庫) 』永井義男
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
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