銅鐸の王 欠史八代考 その4 葛城の王権
ご訪問ありがとうございます。さて、前回リブログでご紹介した「2人のハツクニシラス天皇」では、
九州から来た「神武天皇」と第10代の「崇神天皇」について
一人の始祖を分化させた疑いがあるということと
崇神天皇は「ミマキヒメ もしくは ミマツヒメ」のところに婿入りをして
ミマキイリヒコになった可能性を考えてみました。
しかし、考古学会には神武東征を否定する見解があります。
例えば、国立歴史民俗博物館名誉教授の白石太一郎さんは、
畿内から九州への土器の流入はあっても、九州から畿内への流入が極めて少ない
(纏向遺跡でもほとんど出ていません。)
ということから、畿内の「邪馬台国」が九州に「西征」した、という御見解を持っておられます。
しかし、北部九州の特に博多湾以北の半島部に到る土器の出土で、
北部九州と山陰系のものが優位であるとすれば、
畿内の勢力が大陸との交渉をリードしていたとはいいがたい
ということになります。
また、初期大和朝廷が、吉備とは極めて密接な連携を行い、
祭祀という点では、
特殊器台>鏡>銅鐸 というような力関係さえ見える・・・
纏向遺跡には吉備の土器は出土しますから、当時の畿内政権に
吉備が仲介をして、邪馬台国との連携を持ちかけた、と考えることは可能です。
邪馬台国としても西に拠点を置くことは、
対出雲戦略の足掛かりとなるので、渡りに船で・・・分派というか
邪馬台国連合体の首長を一人遣わしたような気もします。
「神武東征」では、筑紫と吉備で、神武天皇は軍勢を整えるとなっていますが、まさにそんな事情を反映しているような・・・
ただどうもそんなに大軍勢で押しかけていないし、
先に行った天孫族のニギハヤヒノ行った土地(大和)はいいとこらしいと聞いて、
実際にニギハヤヒの手引きで、最大の抵抗勢力のナガスネヒコを討つというのですから、「邪馬台国東遷」とはいいがたい小さい規模の話になっているのです。
もしかしたら、先に派遣されたニギハヤヒがうまくいかず、
神武天皇は第2回目の試みであったのかもしれません。
ではこの神武だか崇神だかわからない人(失礼)を受け入れた大和の勢力・・・
当時大和における政治勢力は、いわゆる「近畿式銅鐸」の圏内にいる勢力であったと考えられます。
当時、古い銅鐸を擁していた出雲は、すでに鉄剣を何らかのシンボルとして使うようになっていました。
一方、東海地方、特に愛知県では古い銅鐸を継承した「三遠式銅鐸」が祭祀の中心となり、
畿内では「近畿式銅鐸」が新たに生まれていましたが
出雲と結んでいる(交易の跡が土器などで確認できる)近江や丹波の勢力が強く、
おそらく丹波は後の丹後、丹波、但馬に渡る「大丹波国」を形成し、
それからさらに後の時代になると
今度は近江の野洲川デルタ地帯に「伊勢遺跡」にあたる祭祀の都市を建設し
「近畿式」「三遠式」の銅鐸圏を統合するほどの勢力を誇っていくことになります。
ちょうどそのころ、「近畿式銅鐸」の中心のひとつであった「唐古・鍵遺跡」は大洪水に見舞われます。
(明日香村の亀石が方向を変えると奈良盆地は水没するという言い伝えがありますが、奈良盆地は小さい川がたくさんあるのに、出る川が大和川しかなく、そこが土砂崩れで埋まると水没するようですΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン)
それにもめげず、何度も環濠を掘り直し、復活させるのがこの遺跡の特質であるのですが、おそらく国力は衰退していったと思われますから、吉備の仲介もあり、北部九州とのつながりを強めたいと思ったのかもしれません。
さて、この唐古・鍵遺跡はどういう国であったのでしょうか?
欠史八代の宮跡を見てみると
その多くは大和国葛城郡もしくは高市郡にあることがわかります。
今でいう御所(ごせ)市や橿原市です。3代目の安寧天皇は表では不明になっていますが、大和高田市に伝承地があり、古代の葛城郡です。
鳥越憲三郎さんはこの分布を見て欠史八代を「葛城王朝」と称されましたが、わたしは高市郡は飛鳥のイメージがあり、ここを葛城に入れるのはちょっと抵抗があるのですが、まあ、だいたい似たようなところにあるので、荒唐無稽に宮のありかを決めたというわけでもなさそうです。
さてこの地図で「唐古・鍵遺跡」を見ると、古代の磯城郡にあることがわかります。
次の表を見ると、天皇の后なのですが、大変に異動が多く、n「日本書紀」においては、異伝である「一書」の方が「古事記」に近いことがわかります。
そこで、「一書」を中心に見ると、「磯城県主」が多くの后妃を出しているということに気がつかれると思うのですが・・・
「唐古・鍵遺跡」はその場所から言って「磯城県主」のクニであったといえるのかもしれません。
「唐古・鍵遺跡」には銅鐸工房もありますから、欠史八代の王たちも銅鐸の王であったことはほぼ間違いないのですが、磯城県主自体が後裔氏族がはっきりせず、崇神天皇のころに途絶えたという説もあるようなので
やはり、「纏向遺跡」の成立と引き換えに消えた「唐古・鍵遺跡」と運命を共にしたのかもしれません。


そうすれば欠史八代の王たちは何者かというと、そこはよくわかりません。
第7代孝霊天皇だけは同じ田原本市に都していますので、このあたりは磯城県主の勢いが勝っていたのかもしれません。
さて、注目すべきは崇神天皇夫妻と似た名を持つ「ミマツヒコ」(孝昭天皇)なのですが、この人は后については「日本書紀」本文と「古事記」が一致しており、葛城高尾張にいた尾張氏との婚姻が見えます。
都も御陵の葛城ですから「ミマ」は葛城の地名であったのかもしれません。
葛城というと、当時いたのは鴨氏と尾張氏であったと思われますが
尾張氏はいつの頃かはっきりしないのですが、愛知県に移ります。
ここは、「三遠式銅鐸」の中心で古い画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が入っていかないと指摘されている地です。「倭姫巡幸」も入っていきません。
古墳時代の始めには、まだ独立性を保っていた地域でした。
カモ氏は大きく2つに分けられます。
ひとつは鴨君、のちの賀茂朝臣で、かの有名な「役行者=鴨の役の君小角」を輩出した氏族です。
始祖大鴨積命は三輪山の神の子である大田田根子の孫、三輪山の神大物主は大国主命と同体とされていますが
現在も鴨の地にある高鴨神社の祭神は迦毛之大御神(大御神と称されるのは天照大御神とこの神様だけです。)といわれるアジスキタカヒコネ、
鴨都波神社は事代主神で、どちらも出雲の神さまです。
大国主の子供で、アジスキタカヒコネは「出雲国風土記」にも登場しますし、美保神社の祭神は事代主です。
荒神谷や加茂岩倉遺跡が出る前は、大和の古い神様を出雲に移して語られているのが出雲神話だといわれたりしたのですが、それも無理からぬことで、葛城の古い神様は出雲系なのです。(鴨氏が出雲出身説もあります。)
大国主の亡命先が紀伊であったのは以前述べましたが、鴨のある御所市の南側は五条市で、その隣はもう和歌山県(紀伊)です。
出雲の勢力は「聞く銅鐸」の時代には、畿内まで及んでいたのかも知れません。
もう一つのカモ氏は、
賀茂県主といわれる氏族で、京都の上賀茂神社、下鴨神社の祭祀を行っている氏族です。鴨長明とか賀茂真淵が有名です。
この人たちは、祖先が鴨建角身命といいますが、別名八咫烏(やたがらす)といえばおわかりでしょうか?
サッカーの日本代表のエンブレムにいる三本足のカラスです。
神武天皇の東征の案内をしました。金鵄にも変身しています。
「山城国風土記」には賀茂氏が葛城から岡田鴨神社を経て、京都の賀茂に到ったことが書かれており、
京都の下鴨神社に娘の玉依姫と共に祀られているのですが
玉依姫は賀茂川を流れてきた丹塗り矢を枕辺において眠ったところ、
その丹塗り矢が火雷神(ホノイカヅチノ神)の化身であったので、
賀茂別雷神(カモノワケイカヅチノ神=上賀茂神社祭神)を懐妊、出産したと伝えられています。
ところがアジスキタカヒコネも大人になっても泣いていた、とか2つの谷に渡るといった描写があり、雷神であるとも言われており、
しかも建角身命は神魂命(カミムスビ命)の末裔なのですが、この神様は
高天原系とされながらも出雲神話における「みおや(御祖)」とされる神様なのです。
違うという主張はしているのですが、本貫地や系譜を考えると、鴨氏の一部が移住して京都に移ったということになるかなあと思います。
もしかすると葛城の政権は、邪馬台国からの申し出に協力的であったのかもしれません。
ところが、磯城県主は抵抗勢力であったのが、弟の方が神武天皇に恭順したと書かれていますから、結局、新しい三輪政権に磯城郡を奪われてしまったように思います。
磯城郡は、三輪山を囲んでいる土地ですから、おそらくその祭祀は三輪山を中心としていたでしょう。
神武か崇神かよくわからないw初代の三輪王権はそこに都を作り、新しい鏡の祭祀(これは邪馬台国のものです。)を始めました。
しかし、崇神天皇の時代は、三輪山の神さまの意志で、疫病などで国が亡びるというところまで来ました。
そこで、ようやく、三輪君による三輪山の祭祀が許されたということになります。
まあ、この辺は史料も全くない時代ですので、妄想といえばそれまでなのですが、遺跡と銅鐸(御所市名柄からも銅鐸は出土)と伝承を何とかつなげると、こんなところだったのかなぁ・・・と考えてみました。
これからどんどん発掘が進んで、またいろいろなことがわかると面白いのになと思います。
今回もご訪問ありがとうございました(*_ _)
0 件のコメント:
コメントを投稿