司馬太郎「兜卒天の巡礼」(同『豚と薔薇』東方社、一九六〇年)の「紳士」は池田栄
そう、「紳士」の正体は池田栄だ。二人の銭湯での偶然な出会いについては、司馬の語りからすれば時期的に合わない部分があり、話をさらに面白くするための創作の可能性が高い。そして池田とアッシリア東方教会がつながるきっかけを作った、もともとの『大阪時事新報』記事は、ほぼ間違いなく司馬の手によるものだ。司馬自身が伝えるように、教授のことを取り上げた記事が「多くの反響」を呼び、それが「海外の新聞にさえ転載された」という。
確かに、司馬の当時の本業は『大阪時事新報』でなく『産経新聞』だったが、『大阪新聞』も含むその三紙は僚紙で、ともに実業家の前田久吉(一八九三─一九八六)による事業だった。社屋も社是も、取材陣まで同じであり、情報も共有していた(39)。もとより、「経済紙」の『産経新聞』で「宗教関係の記事が出ることは稀(40)」だったため、特に三紙の体制を念頭に置くと司馬の宗教関連記事はそこでなく、僚紙に載せられる場合もあったことは、想像に難くない。
一九四九年三月七日の『大阪時事新報』に、池田の見解を広く伝える記事が掲載された。そのタイトルは長く、「キリスト教渡来に新説 上代にすでに影響 千六百年前にペルシア人が移入 京大池田博士が興味ある発見」だった(7)。
7 『大阪時事新報』一九四九年三月七日、二面。
池田は「聖徳太子の研究」で知られる学者として紹介され、その「新説」は「学界にセンセーションをまきおこしている」と言われる。記事には、次のようにある。 〔池田の〕主張によると応神十四年秦始皇の裔と称する弓月王(ペルシア人)が中国から百二十県の民を率いて日本に移民したときキリスト教ネストル派(東洋史上景教という)を移入引きつづきこれを氏族間で信奉していたというのである。 記事には「新説」や「興味ある発見」といった言葉が見られるが、本書の第一章を読んでわかるように、そうではない。池田は佐伯好郎の名前を明記しないが、実は佐伯と同じく、自説の一番の根拠として、太秦の大酒神社の存在を挙げる。つまり大酒神社はもともと「大辟」と書き、さらに古い文献には「大闢」とあり、これが中国の景教資料で「ダビデ」を指すため、「大酒神社はダビデの礼拝堂ではなかったか」、といった立論だ。佐伯説からさらに広隆寺境内の「イスラエルの井戸」も借りており、オリジナルな語りを提供しているわけではない。
そして池田は、「広隆寺の守護社」とした「木島神社」(木嶋坐天照御魂神社)も自説の根拠として挙げる。この施設の景教影響説自体も斬新なことでなく、池田は恐らく第一章で紹介したエリザベス・ゴルドンの著作にヒントを得て、新たな要素を加えているようだ。すなわち秦氏は、記紀神話登場の天之御中主の「神格」が「キリスト教の天主に似ている」ことから「これを天主になぞらえて」祭り、木嶋は「上代日本人」が「信仰しなかった」この天之御中主を祭神とする唯一の神社となった。このような歴史をもつ木嶋神社なので、やはりもともとは「天主堂であつたと思われる」、と池田が説いた。
中外日報
池田栄(関連)
1949年4月9日(14369号)「キリスト教伝来千五百年」一面
……私はキリスト教が紀元五世紀に我国に伝来した事を主張する……。ネストル派キリスト教(景教)は第五世紀前半に……ペルシア人の間で大に弘まり、従つて秦人即ち中国存在のペルシヤ人の間にも弘まつたが秦人は、信教の自由を求めて朝鮮半島経由で来朝し、先ず上陸したのが佐越(現在兵庫県赤穂郡坂越村)で、そこに落ちつくと先ず、教会堂を建てた。その名残りが現在同地にある大避神社で今日の祭神は秦河勝であるが、この神社名はもと大辟又は大闢と書かれ、漢訳聖書にダビデのことを太闢と書く故に、この神社はもとダビデ礼拝堂であり、この神社に古来存する井戸はヤコブの井戸であつたと考えられる。
……秦人は秦の姓を賜わり、山城盆地に移住する事を許されて絹織業にはげみ、大に富んだところを、心なき土地の豪族の経済的搾取にあつたのを雄略天皇が解放され、更に聖徳太子が彼等の経済的地位を保護せられるとともに十七条憲法に於て篤敬三宝に基づく信教の自由を保証せられた。太子の仏教国家は仏教を国教としつゝ飽く迄宗教信奉の自由を求められたものであり、現在の英国が英国国教会を国教としつゝ、信教の自由を認めるに通うものである……。
中外日報
池田栄(関連)
1949年4月9日(14369号)「キリスト教伝来千五百年」一面
1949年11月8日(14460号)「景教復興後援会 宗教から日米親善に一役」三面
1949年12月15日(14476号)池田栄「景教と日本仏教」一面
池田栄(関連)
1949年4月9日(14369号)一面
1949年11月8日(14460号)三面
1949年12月15日(14476号)一面
10 『中外日報』第一四三六九号、一九四九年四月九日、一面。
11 小谷部全一郎『日本及日本国民之起源』(厚生閣、一九二九年)、三二一─三二二頁。
12 「生きているキリスト 米国に百十九代の教父」(『大阪新聞』第二五七七号、一九四九年六月四日)、四面。
13 "Ancient Assyrian Christian Churches in Japan" (Light from the East, vol. 1, no. 6, June-July 1949), p. 10.
14 「景教復興後援会 宗教から日米親善に一役」(『中外日報』第一四四六〇号、一九四九年十一月八日)、三面、"Japan Opens Arms to Church of East," Light from the East, Vol. 1, No. 8, Oct.-Nov. 1949, p. 2.
16 「景教復興後援会 宗教から日米親善に一役」、三面。
17 池田栄「景教と日本仏教」(『中外日報』第一四四七六号、一九四九年一二月十五日)、一面。
19 「景教復興後援会 宗教から日米親善に一役」、三面。
第一節 池田栄とキリスト教の日本伝来
今となっては基本的に忘れ去られているが、本章で確認していくように、戦後における〝隠された太子〟の物語に大きく影響したのは、池田栄(一九〇一─一九八九)という人物だ(図2‐1)。 大阪府に生まれ、日本聖公会の聖職者でもあった池田は、一九二五年に京都帝大の法学部政治学科を卒業後、同大学の助手を経て、一九二八年に助教授となる。一九三二年九月から二年間、文部省在外研究員としてイギリス・ドイツ・米国に遊学し、イギリス憲法史を研究する。帰国後、『イギリス近代政治史研究』(弘文堂、一九三六年)や『イギリス自主精神の本質と起原』(同、一九三七年)など、遊学時代の成果を積極的に発表していく。一九三七年から彼は京都法学会発行の『法学論叢』において「明治天皇の聖旨、祭政一致と立憲主義」(三八─四)など、日本関連の業績を発表し始め、一九四〇年からは同雑誌に「宗教弁証法恣意──十七条憲法の御論理とその奉体」(四三─五)など、聖徳太子についての研究を積極的に発表していく。
それら『法学論叢』掲載の諸論考を踏まえ、池田は一九四二年二月に『日本政治学の根柢』を有斐閣から刊行し、その中で聖徳太子の「和」を中心課題として扱っていく。本書の目的について、池田は「現在の新体制と聖戦の下に於て」、確固たる「政治理念」が必要であると述べ(自序、一─二頁)、その基盤となる「歴史」を与えたいという。この立場から、彼は同年八月に『聖徳太子教導国家と大東亜建設』(大日本敬神会本部)、そして翌年十二月に『日出づる国の太子』(山口書店)も発表し、一種の聖徳太子ブームが展開しつつあった当時においても、かなり積極的な姿勢を見せていたと言える。十五年戦争期において、日本が空前の太子ブームを経験したことも確かであろうが、池田はこの中で、東京帝国大学法学部教授の小野清一郎(一八九一─一九八六)と並び、「憲法十七条」の課題に取り組んだ法学専門家として、やや珍しい存在とも考えられる。
だが、一九四五年まで「聖戦」にも貢献できるような太子論を発表していた池田は敗戦後、そのようなものを示さなくなる。これは無論、太子が以後「国体」でなく「民主」のシンボルとして描写されていくことと関係しており、池田がそれまでに展開していた太子像は新時代にそぐわなくなったからだと思われる。とはいえ、彼は太子を全く語らなくなったわけではない。池田は確かに、学術誌などで太子関係の論考を積極的に発表しなくなるが、全く異なる場面で太子を語り続け、後世に無視できないレベルの影響を及ぼすこととなった。その太子の語り方はなんと、ネストリウス派の伝統を継承する東方教会の日本での「復興」によって、方向づけられていったのである。 †池田によるキリスト教渡来の新説 池田の景教研究を考察したジェームズ・H・モリスが先学を踏まえつつ指摘しているように(4)、池田はいわゆる「京大事件」の際に、辞職しなかった法学部の「残留派」教員の一人となった(5)。なお、「滝川事件」とも呼ばれるこのエピソードは、戦前における言論弾圧の代表的な事件で、法学部教授の瀧川幸辰(一八九一─一九六二)の発言が「危険思想」として政府側に問題視されたことに端を発したものである。このため、一九三三年、当時文部大臣の鳩山一郎(一八八三─一九五九)が大学に瀧川の処分を求めた。それに伴って、法学部教員の多くが辞職を表明し、京都帝国大学を去っている。敗戦後、戦前の免職教員の復帰が議論の対象とされ、瀧川は一九四六年二月に、法学部長として復職している。理由は詳らかでないが、池田は瀧川復職の同月に辞職し、一九三三年の「残留派」も同時期、京都帝国大学を離れている(6)。
池田は一九五二年に、関西大学法学部に着任しているものの、その間の約六年は大学に所属していない。そしてちょうど京大を離れた時期から、日本における「景教」の受容について積極的に語るようになり、現代におけるその代表としての「東方教会」の日本での再建に尽力するようになる。このような池田の主張の背景として、当時各地で開かれていたキリスト教の日本伝来に関わる諸行事があったといえる。一九四九年夏は、イエズス会のフランシスコ・ザビエル(一五〇六─一五五二)が来日して、カトリック宣教を開始してからちょうど四百年となる予定だったので、それに向けて各地でイベントが行われ、マスコミも日本でのキリスト教史のことなどをよく取り上げる時期だった。その報道の内容を見て違和感を覚えたであろう池田は、日本のキリスト教受容は人々が思うよりずっと古い、と主張するにいたった。
一九四九年三月七日の『大阪時事新報』に、池田の見解を広く伝える記事が掲載された。そのタイトルは長く、「キリスト教渡来に新説 上代にすでに影響 千六百年前にペルシア人が移入 京大池田博士が興味ある発見」だった(7)。
7 『大阪時事新報』一九四九年三月七日、二面。
池田は「聖徳太子の研究」で知られる学者として紹介され、その「新説」は「学界にセンセーションをまきおこしている」と言われる。記事には、次のようにある。 〔池田の〕主張によると応神十四年秦始皇の裔と称する弓月王(ペルシア人)が中国から百二十県の民を率いて日本に移民したときキリスト教ネストル派(東洋史上景教という)を移入引きつづきこれを氏族間で信奉していたというのである。 記事には「新説」や「興味ある発見」といった言葉が見られるが、本書の第一章を読んでわかるように、そうではない。池田は佐伯好郎の名前を明記しないが、実は佐伯と同じく、自説の一番の根拠として、太秦の大酒神社の存在を挙げる。つまり大酒神社はもともと「大辟」と書き、さらに古い文献には「大闢」とあり、これが中国の景教資料で「ダビデ」を指すため、「大酒神社はダビデの礼拝堂ではなかったか」、といった立論だ。佐伯説からさらに広隆寺境内の「イスラエルの井戸」も借りており、オリジナルな語りを提供しているわけではない。
そして池田は、「広隆寺の守護社」とした「木島神社」(木嶋坐天照御魂神社)も自説の根拠として挙げる。この施設の景教影響説自体も斬新なことでなく、池田は恐らく第一章で紹介したエリザベス・ゴルドンの著作にヒントを得て、新たな要素を加えているようだ。すなわち秦氏は、記紀神話登場の天之御中主の「神格」が「キリスト教の天主に似ている」ことから「これを天主になぞらえて」祭り、木嶋は「上代日本人」が「信仰しなかった」この天之御中主を祭神とする唯一の神社となった。このような歴史をもつ木嶋神社なので、やはりもともとは「天主堂であつたと思われる」、と池田が説いた。
以上のことを紹介する記事だが、池田自身の言葉で締められている。そこで聖徳太子も正面から取り上げられ、太子政権への池田の基本的なスタンスも示されている。 池田博士談 私の解釈では崇峻天皇が国教である仏教以外の宗教弾圧をしたあとで立つた聖徳太子が「和をもつて貴しとなす」として信教の自由を許したから川勝がこれをよろこび太子のために寺や離宮あるいは絹の献上したものだと思う、秦氏が信奉したキリスト教はその後仏教や土俗宗教と混淆していつか消滅したが消滅後何百年かを経て改めて聖ザヴィエル師が神の福音をもたらして来たと見るのが妥当だと思う。 この言葉の考察は後述するが、『大阪時事新報』の以上の内容を踏まえたであろう英語記事は二日後の一九四九年三月九日から、米国の複数紙で見られるようになる。合同通信(United Press)経由で、「大学教授が日本でのキリスト教受容をめぐって、熱い論争を巻き起こした」、と謳うような内容が見られ、それらによれば、池田栄という人物はキリスト教がザビエルでなく、一六〇〇年も前に中国からの移民によって日本にもたらされたことを主張しているという(8)。
8 "A Japanese professor stirred a heated controversy in Tokyo religious circles..." (Oakland Tribune, March 9, 1949), p. 3; "Christianity Origin in Japan Debated" (The Bakersfield Californian, March 9, 1949), p. 24.
そして、翌月の一九四九年四月から、より詳しい内容の記事がさらに、多くの新聞に掲載されていった。AP通信(Associated Press)経由で、『時事新報』(正しくは『大阪時事新報』だろう)を出典と示しているこれら一連の記事によれば、キリスト教の日本伝来はもともと二八三年(つまり応神天皇十四年に当たる年)のこと、そしてそれは弓月王という「ペルシア人」が大陸からネストリウス派の「中国人キリスト者」を連れてきたことで伝わったなど、前掲の記事の内容を簡単に紹介している(9)。
†微調整される新説
上記の内容の英語記事は四月下旬にいたるまで、米国各地の新聞に掲載された。つまりこれらで、日本でのキリスト教は仏教よりも古いと示され、なかなかセンセーショナルな内容が米国の読者に伝わったことがわかる。なお、これらの紹介記事が米国で発表されると全く同時期に、池田は日本の新聞などでも同じような論を展開していた。例えば、彼は一九四九年四月九日の『中外日報』に「キリスト教伝来千五百年」を掲載し、次のように述べている(10)。
……私はキリスト教が紀元五世紀に我国に伝来した事を主張する……。ネストル派キリスト教(景教)は第五世紀前半に……ペルシア人の間で大に弘まり、従つて秦人即ち中国存在のペルシヤ人の間にも弘まつたが秦人は、信教の自由を求めて朝鮮半島経由で来朝し、先ず上陸したのが佐越(現在兵庫県赤穂郡坂越村)で、そこに落ちつくと先ず、教会堂を建てた。その名残りが現在同地にある大避神社で今日の祭神は秦河勝であるが、この神社名はもと大辟又は大闢と書かれ、漢訳聖書にダビデのことを太闢と書く故に、この神社はもとダビデ礼拝堂であり、この神社に古来存する井戸はヤコブの井戸であつたと考えられる。
これは『大阪時事新報』のもとの記事と内容がやや異なるのではないか。まず、一か月しか経過していないのに、キリスト教の伝来は「一六〇〇年」前から「一五〇〇年」前になり、三世紀末でなく、五世紀のことであると修正されている。実は、ネストリウス派と呼ばれるようになったものがそもそもアジアに広がっていったのは五世紀末のことで、弓月君が「景教」を掲げて渡来してきたというのは、その事実と合致しない。想像するに、三月の記事の反響でより詳しい景教史の知識を獲得しようとした池田がそれに気づき、自説を調整したのではないか。
調整も見られるが、佐伯論の枠を大きく出ておらず、少しでも独自性を出すためか、太秦の大酒神社でなく、秦氏ゆかりの地たる兵庫県赤穂市坂越の大避神社としている。太秦蜂岡町の大酒神社と同様、聖書に起源をもつだろう名称の不思議な井戸が近くにあるものの、その伝統はより長いと読み取れる。
大避神社境内の井戸が「ヤコブ」のそれと呼ばれるようになったのはいつからなのか、詳らかでない。今日においては「ヤスライ井戸」と呼ばれているそうだが、その名称は昭和期からの可能性が高い。一九二九年の段階で、小谷部全一郎は日本に存在する複数の「イスラエルの井戸」に言及し、東北地方の例も挙げたものの(11)、坂越の大避神社に触れないのは恐らく、当該期においてまだそのように知られていなかったからである。この池田の『中外日報』記事でさらに興味深いのは、聖徳太子の表象である。続きを見てみよう。
……秦人は秦の姓を賜わり、山城盆地に移住する事を許されて絹織業にはげみ、大に富んだところを、心なき土地の豪族の経済的搾取にあつたのを雄略天皇が解放され、更に聖徳太子が彼等の経済的地位を保護せられるとともに十七条憲法に於て篤敬三宝に基づく信教の自由を保証せられた。太子の仏教国家は仏教を国教としつゝ飽く迄宗教信奉の自由を求められたものであり、現在の英国が英国国教会を国教としつゝ、信教の自由を認めるに通うものである……。
これはもともとの『大阪時事新報』記事最後の「池田博士談」の内容を、さらに展開させているものだろう。池田がここで踏まえているのは多分、『日本書紀』(巻十四)の記述である。それによれば、秦氏の伴造だった酒公が四七一年、秦の民が他の一族のもとに置かれていたことを雄略天皇に訴え、それを認めた天皇は酒公を秦人の統率者とした。その後、栄えていった秦氏は租税として高級な絹まで天皇に献上し、「禹豆麻佐」の姓を与えられた。つまり秦氏が「心なき土地の豪族の経済的搾取にあつた」とは、この正史での物語を拡張させたものと思われるが、百年以上も経ったあとの聖徳太子の政治事業が五世紀末にできた秦氏の経済基盤を維持するためのものだったというのは、池田の見解だろう。さらに、秦氏が「信教の自由」を求めて渡来してきたことや、その「信教の自由」は最終的に聖徳太子の「憲法十七条」によって保証されたというのも池田独自の解釈で、史料的な根拠があるわけではない。 「信教の自由」とはそもそも、非常に近代的な概念で、その発想自体は古代の文脈ではまず考えられない。そして池田が自身の聖公会のルーツとなる英国国教会を例に挙げていることも、恐らく偶然の一致ではない。いずれにせよ、秦氏の様々な成功は聖徳太子の宗教への寛容的な姿勢によるものだというイメージが、次第に定着していることがわかる。
†米国教会との関係と日本の「景教復興」事業
日本国内のみならず、米国のあちこちの新聞でも報道された池田のこのようなセンセーショナルな論はやがて、マサチューセッツ州在住の一人のアッシリア系アメリカ人の目にとまった。AP通信経由の記事を読んだF・E・ホイエン・は、池田に手紙を出して、「ネストル派キリスト教が意外にも現に米国シカゴ市に本山を持ち少数ながらも信者を擁している事実」を伝えた(12)。それを受けた池田は、いわば〝現代に生きる景教〟としてのアッシリア東方教会(Assyrian Church of the East)総主教会議の本部に書簡を送り、その交流は最終的に、「景教復興」という事業につながっていった。
池田による「景教復興」の活動は、東方教会のシカゴ本部が刊行していた機関誌Light from the East(東方からの光)からうかがえる。例えば、一九四九年夏発表の号で池田を紹介し、彼が総主教のマル・エシャイ・シムン(一九〇八─一九七五)と交わした書簡も掲載している。池田が日本聖公会の聖職者だったことはこの記事からわかり、これが前章の佐伯好郎と同教派であることはただの偶然ではないだろう。そして記事ではさらに、アッシリア東方教会の礼拝堂が千年以上前に建てられていた場所を池田が複数発見し、そこに「アッシリア教会の礼拝堂が再建される」ことを願っていたという(13)。
その再建の目的を果たすために、池田と有志諸氏が「景教復興後援会」(Association for the Reinstatement of the Church of the East,略称ARICE)を立ち上げ(14)、それを大歓迎した総主教は池田を東方教会の日本での「名誉常駐代表Honorary Resident Commissioner」に任命した(15)。後援会の事務局は大阪市東区(現・中央区)「本町四丁目二十七番地」に置かれ(16)、これは本願寺系の教育機関・相愛高校の「構内」であることから(17)、浄土真宗の関係者も関わっていたことが推測できる。実は、不思議に思われるかもしれないが、このアッシリア東方教会の再建事業に、多くの仏教者も関わっていたようである。
†複数の伝説を混ぜ、わかりやすいストーリーをつくる
池田によると景教復興後援会は、仏教者であり、当時の日本宗教連盟理事長であった安藤正純(一八七六─一九五五)の支持を得たのみならず(18)、広隆寺──つまり秦氏の氏寺!──住職の清滝英弘(一九〇六─?)も理事として加わった(19)。ちなみに、第一回会議は一九四九年十月十六日、まさに広隆寺で開かれ、池田はそのことをシカゴの本部に報告している(20)。そして彼は、その報告の書簡に、興味深い写真も同封している。それは広隆寺の付近にあり、同じく秦氏ゆかりの場所である前述の木嶋坐天照御魂神社境内の有名な三柱鳥居を写したものだ(図2‐2参照)。 池田によれば、このような珍しい鳥居はキリスト教の「三位一体」を象徴するものであり、これが渡来人としての秦氏が開拓した地・太秦にあるのは、この地域でかつて、ネストリウス派が信仰されていたからである。
ただし、木嶋神社の鳥居を「三位一体」の表現と捉えるのは、池田が初めてではない。前章で紹介したエリザベス・ゴルドンも明治末期の著作で、佐伯好郎に言及しつつ似たような説を展開しており(21)、宗教史学者のジェームズ・モリスが教えるように、池田はその影響を受けているようである(22)。そしてモリスはさらに、そのゴルドンからの影響は池田の太子論にもうかがえると指摘する。例えば、一九五一年夏のLight from the Eastに、「初期アッシリア人主教の肖像が東京付近の偉大な仏教寺院で崇敬されている」という記事で、池田による最新の「発見」が次のように報告されている。
……池田栄先生は、東方教会から日本に派遣され、六〇一年に没したアッシリア人宣教師のマル・トマの肖像が現在、京都付近の大きな寺院で崇敬されていることを発見した。/マル・トマが死去した際、彼の看病もしていた日本の摂政で仏教徒の聖徳太子が、最大の敬意を示して彼を葬った。皇室を始めとする国家全体がマル・トマに対して大きな尊敬の念を抱いていたため、太子は自身の手でマル・トマの肖像を彫刻し、聖堂に安置した。/一七八三年以来、このマル・トマの肖像は、インド仏教の聖人・菩提達磨として当該寺院で崇敬されてきた。/……池田先生のこの肖像に関する発見は、五月に当該寺院を訪問した際のことである。今後の研究によってこの発見を裏づけることができたら、それはヨーロッパがいまだに暗黒時代だったころに、東方教会が日本人に深い感銘を与えていたことの強力な証となろう(23)。
23 "Photo Proves Antiquity of Church in Japan," Light from the East, vol. 4, No. 4, June-July 1951, p. 9.
池田がここで、米国の東方教会信徒に向けて一種の史実として発信している情報は、実はいくつかの伝説・伝承を寄せ集めて成り立っているものだ。
まず、「菩提達磨=マル・トマ」という発想だが、やはりエリザベス・ゴルドンの著作から来ているものである。一九一一年のThe Lotus Gospel(法華の福音)で、ゴルドンは孫引きの形で、間接的にイエズス会士のアタナシウス・キルヒャー(一六〇二─一六八〇)が十七世紀にラテン語で著した『中国図説』の情報を踏まえ、イエスの使徒の一人だった聖トマスはインドのみならず、中国でも福音を広めたと述べている。彼女はさらに、菩提達磨の正体を聖トマスとするような信仰も見られるとする(24)。
このようにゴルドンの影響下で持論を展開した池田は、Light from the Eastの読者層を意識し、使徒トマスのことを「マル・トマ」と、より東方教会らしき名前に変えている──「マル」とはシリア語で敬意を表す称号であり、東方教会の枠組みでは主教および聖人に対して用いられ、「トマ」は無論、「トマス」のことを指す。そうすると、「菩提達磨=マル・トマ」というストーリーの背景は比較的わかりやすいが、聖徳太子がマル・トマを看病し、弔ったこと、そしてマル・トマ像が京都付近の仏教寺院で崇敬されているといった発言の根拠は不明なままだ。
本書の第一章で、片岡山伝説を紹介した。すなわち、『日本書紀』巻二十二によれば、聖徳太子は片岡への道の途中で発見した飢者に食物を与えたが、翌日に飢者が死去したことを知ると、埋葬するよう命じた。実はこの飢者を、菩提達磨とする伝統は八世紀成立の『異本上宮太子伝』にすでに見られ、十四世紀の虎関師錬『元亨釈書』のような文献の影響で中世からいっそう拡大していく。池田はまさに、その達磨伝説を採用し、「片岡山の飢者=菩提達磨=マル・トマ」としつつ持論を展開した。前章で示したように、片岡山伝説は確かに久米邦武の論文以来、太子物語へのキリスト教の影響を主張するために取り上げられてきたものだが、ここまで話を拡張した池田のような人物はなかなか珍しい。彼はつまり、本来ならば無関係であろう複数の伝説をまぜつつ太子が景教の聖人を深く崇敬したという物語を構成し、歴史的事実であるかのように、東方教会の米国人信者に提供した。
また、気になるのは、池田が仏教寺院で「発見」したとしているマル・トマの肖像だ。Light from the Eastの記事タイトルには「東京付近」とあるものの、本文には「京都」とあり、内容からしてもその「大きな寺院」とは京都府八幡市にある臨済宗妙心寺派の円福寺を指していることが推測できる。円福寺は天明三年にあたる一七八三年に開かれ、日本国内最古とされる木造達磨大師坐像が安置されている(図2‐3参照)。そして、その達磨像にまつわる伝承も、池田説の内容と一致するものである。 つまり、太子は飢人としての達磨との遭遇後、その死の報告を受けて葬る。また異なる伝承のバージョンによれば、太子はさらに自身の手で達磨の木像を作り、埋葬場所で建てられた大和達磨寺に安置した。しかし、戦国時代においては紆余曲折の末、木像が石清水八幡宮祠官の田中家に託され、一七八三年の円福寺創建を契機とし、この寺院に置かれた(なお後述するように、円福寺が「八幡」の地域にあるということも、池田にとってまた有意義だったかもしれない)。
第二節 聖徳太子と戦後日本のキリスト教
以上、池田が使徒トマス=達磨というゴルドン説を大前提としつつ、それに飢人説話の聖=菩提達磨という日本の古代から中世にかけて広まるモチーフを加え、さらに仏像自体にまつわる伝承もそれにまぜた。ただし、米国の東方教会信徒に提供されたこのセンセーショナルな物語を、池田が本気で捉えていたかどうか、疑問である。仮に、ゴルドン説に可能性を見出していたとしても、長らく太子研究に携わった彼が、片岡山飢者の正体を達磨とする説話や、太子の達磨木像自作説を本気で捉えていたとは思えない。一九五〇年代初頭の当時、いくら熱狂的な太子信者であれ、それらの伝承を「史実」と捉えていた学者はいなかったはずだ。
インターネットが知識流通の基本ツールとなった二十一世紀の我々からして、ある情報がオンラインになれば、それがどこの国の媒体に掲載されているものであれ、割とすぐ見つかり、閲覧できるものとなる。しかし、池田がこの一連の記事や論文を発表していった時代には、とてもそうではなかった。彼は当時の太子研究の一種の常識に通じていたからこそ、あえて日本の媒体でなく、国内の読者ならまずアクセスできないであろう、極めてニッチな英語媒体に異説を寄稿していたと思われる。例えば、Light from the Eastの達磨記事が発表される前年の一九五〇年に、池田は日本のカトリック中央協議会刊行の機関誌に"Nestorianism in Japan"(日本におけるネストリウス派)という英語論文を寄稿しているが、その国内の媒体にはさすがに、太子が景教の聖人を崇敬したなどのことは述べていない。 とはいえ池田はその国内の媒体でも十分、それなりに刺激的なことを述べている。すなわち、太子摂政の時代に、秦氏は「憲法十七条」の「和」の理念の下で信教の自由を与えられ、太秦でのイスラエルの井戸や三柱鳥居からうかがえるように、秦氏の「ネストリウス派教会」が栄えた。秦氏の宗教文化は、当時の日本で大きな影響をもたらし、例えば太子による四天王寺四箇院制度などの「社会福祉」事業も、実は秦氏の太秦での活動をモデルとしていたことは「否定できない」とすらいう。さらに池田は私見として、「ウズマサ」という言葉自体が「イエス・キリスト」のアラム語にあたる「Ishoo M'shikha」から来ていると述べるものの、以上のような過激な説に、何らかの史料的な根拠が示されているわけではない(25)。
池田は結局、日本文化の代表的存在としての聖徳太子の背景にネストリウス派を見出すことにより、現代日本社会におけるキリスト教の価値を表現しようとしたようである。池田は確かに、限定した読者層に向けて持論を発信していたが、これから確認していくように、それが〝隠された太子〟という一連の言説へ与えた影響も無視できない。ただしその課題に入る前に、一九五〇年代から、いわゆる日ユ同祖論はいかに展開していたのかを、確認しておきたい。
†三村三郎と池田説
前節からわかるように、池田の物語は、秦氏を景教徒でなくユダヤ人とした一九〇八年の佐伯論からやや離れ、小谷部全一郎ら戦前の思想家が提供したような日ユ同祖論とも異なる。池田によれば、秦氏はユダヤ人でなく、中国経由でペルシアから渡来してきたキリスト教ネストリウス派だったという。しかし戦後に、秦氏の正体との関係で語られるような日ユ同祖論が途切れるわけではない。 池田がLight from the Eastに掲載されていった情報をシカゴの本部に積極的に送っていた時期に、三村三郎(三浦一郎、一九〇四─一九七七)という大本信徒が『世界の謎──日本とイスラエル』を刊行した。一九四八年のイスラエル建国を受け、両国の親善を図ろうとした本書は一九五〇年に発表され、戦後における日ユ同祖論の再出発を考える上で重要な位置を占めている(26)。そして三村がそこで〝隠された聖徳太子〟を語っていることも、決して偶然なことではない。 『世界の謎』で、日本とイスラエルの古くから続く関係を指摘する上での主要問題の一つは、やはり秦氏の正体である。三村は池田と同様、応神天皇在位中に弓月王は「秦民族」を大陸から連れて帰化したというが、池田と異なり、彼らの正体を「イスラエル種族」であったとしている(27)。三村はむしろ、「日本の太秦は景教徒の集団地で」あり、「広隆寺が景教すなわち耶蘇を宗とする寺である」という「元京大教授の池田栄氏等」の「最近」の説をはっきりと否定している(六頁)。 古代中国の文献に見られる「大秦国」という言葉は通常、ローマ帝国(あるいはそのシリア属州)を指している。しかし、三村によればそうでなく、実は「ユダヤ国を指称していたもの」であるという(三頁)。つまり、中国で書かれたネストリウス派の資料『大秦景教宣元本経』にイエスが生まれたナザレの町は「大秦国」にあるとされているため、これは「今日のパレスチナ、むかしのユダヤまたイスラエル王国のあつたカナンの地を指していることはいうまでもない」と(七四頁)。 もちろん、時期にもよるが、ナザレを含む現代イスラエルの北部は基本的にローマ帝国シリア属州の領土だったことは、確かである。しかし三村は、景教文献の「大秦」とはローマ帝国を指すという広義の用語でなく、「イエスの生国」というより限定的な意味の言葉と捉えている(七五頁)。三村の解釈からすれば、「景教」はキリスト教の一派である以上、もともとは「大秦国」としてのイスラエルから出発していることは間違いないが、それは帰化人の太秦とは区別しなければならないという。 つまり、三村は「シリア人、ペルシア人等の景教僧が多数中国に来つて布教し」、彼らが空海や最澄など、日本から大陸へ渡ったような有名な高僧にまで影響したことも事実として認めるものの(三─四頁)、〝大秦景教〟は〝太秦ユダヤ教〟と基本的に異なる。太秦は「太秦国に発生した民族の集団地の名称」であると述べた上、その区別をさらに、次のように説明している。 景教徒と太秦族とは初めから目的が違つている。前者は大秦国に発生した耶蘇の教を拡めるのが目的であつて、別に滅んだ大秦国の復活を求めているのではない。然るに後者は太秦国固有の信仰に基づいて、失われた太秦国を復活し、日本の一角にこれを建設しようと努力した民族団体である。否日本の一角どころではない、日本国そのものをすでに掌中に握つていた観があるのである(七─八頁)。 なんとも分かりにくいが三村はこのように、宗教を旨とする景教徒が生じた「大秦」と、民族のアイデンティティを掲げて古代日本に渡来してきた「太秦」を文字の上で区別し、その後はさらに、秦氏の日本文化への影響を語っていく。そこから、太秦の地で広隆寺を建立した秦氏の活動をそもそも、可能としたのは聖徳太子だったと述べていくのである。
三村いわく、「幼少の時」から「密接な関係」を持つ蘇我氏の太子と秦氏の河勝はともに帰化人の血を受けていたが、共通点はそれに止まらない。太子と河勝との間に「一種特殊な関係が存在」しており、「信仰的にも文化的にも従来の日本民族と異なつたある飛躍的なものを彼らが有していた」としている(八六頁)。例えば、二人は共同作業として『先代旧事本紀大成経』──「偽書」とされるこの資料については本書の第四章でも取り上げる──を作成しており、広隆寺も二人の「合作」であるとされる。あの有名なイスラエルの井戸のみならず、ダビデ王を祭る大酒神社も存在した太秦の広隆寺境内に太子が「自分の離宮とも称すべき」「桂宮院」を「自建」し、その二人の間には「何か神秘のナゾが秘められ」ていたという(八八頁)。 三村が池田説を採用しないものの、完全否定もしないというところは、なかなか興味深い。つまり、かつてのゴルドンに加え、池田も主張したように、中国景教徒は日本の知識人に影響を及ぼしたことは間違いないが、彼らはユダヤ国であるイスラエルからの秦氏とは別物である。大陸からの景教徒はキリスト教の布教を目指したが、渡来人としての秦氏はユダヤ教の拡大を目的とせず、日本で自国の理想を再建しようとしたという。そしてこの理想国の建設という事業の実現を可能としたのは、聖徳太子に他ならなかった。太子は政治面で働く一方、秦河勝は実質面で動き、二人の不思議な縁は「千年後の未来のため」のものをもたらしたと述べる(八八─八九頁)。 †佐伯好郎の戦後 ちなみに、三村はこのように秦氏をキリスト者でなくユダヤ人として描き、池田による最新の議論を踏まえつつも明治末期における佐伯好郎のもともとの見解に議論を戻そうとしたようである。しかし皮肉なことに、最晩年の佐伯は自身による当初の説を否定していた。 佐伯は「秦氏=ユダヤ人」を主張した一九〇八年論文では、「禹都麻佐」をヘブライ語由来の言葉だとした。「禹都」はヘブライ語の「光」「東」「文化」「開化」という意味で、「麻佐」は「貢物」や「賜物」の意味だと述べた(28)。 しかし佐伯は、一九五〇年代のこの新展開を受けてのことか、もう九十歳であった一九六一年に、もともとの自説を調整している。「うづまさ」の語源について、ヘブライ語でなく、イエス・キリストが話したとされているアラム語由来の言葉であると指摘し、その意味を「イズ・メシア」(Yushu-Mech'tha)──つまり、「救世主イエス」──だとした(29)。そして秦氏の正体をめぐっても、佐伯は自説を語り直した。すなわち、秦氏の「禹都麻佐」という言葉に「メシア教」の「信仰個条」が示されていたことから、彼らがキリスト者であったことは「明白」であるものの、秦の民は「ネストリアンすなわち景教徒」ではなかった、と。 佐伯は、九世紀に編まれた氏族名鑑『新撰姓氏録』を踏まえつつ、秦氏が渡来したのは二世紀末から三世紀後半にかけてのことだと述べる。しかしそれはネストリウス派がキリスト教の公会議でいわゆる「異端」と決定され、東アジアへと積極的に移っていく五世紀以前のことであるため、渡来民族としての秦氏がネストリウス派の信徒だったことはあり得ないという。それらのことから、佐伯は「彼ら弓月の移民が使徒時代、ユダヤ人種のキリスト教徒であったに相違ないと」結論づけるのである(30)。 ただし、明治末期の見解とは異なり、この佐伯新説には、聖徳太子が登場する。ほぼ一生の成果を振り返る論考の結論部分に、次のようにある。 秦の川勝に命じて広隆寺の造営を命じた聖徳太子が、戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれるのはふしぎであります。日本書紀には、用明天皇の母后が(うまや)の前を通過せんとした時、突然産気づき聖徳太子を生んだと記されていますが、聖徳太子を呼ぶのに、戸で生れた皇子などをもってするのが疑問であります……。しかし、真の「うまやどの皇子」"The Prince of horse-stable"は、ベツレムに生まれたことは万人の知るところであります。誰がこのような観念をもたらしたのでありましょうか。聖徳太子を崇拝するのに最もふさわしい「戸皇子」という観念は、禹都麻佐、すなわちイエス・メシアの語句と共に日本に伝来したのであります。これらの語句はとにかく六世紀以前に、キリスト教徒によってもたらされたのであります。当時の知識階級を支配した秦族の影響力の大なることが推察されるのであります。これは、イエス降誕の話しが存在しない以上「うまやど」をもって尊敬の意味に使用することは考えられません(31)。 最晩年の佐伯は、秦氏の系譜をイエスの死後に始まる使徒時代におけるユダヤ教からの初期改宗者にあるとし、かつ約六十年前の久米論を支持する形で太子物語のキリスト教影響説も積極的に採用するようになっていた。
†秦氏は本当にユダヤ人だったか?
佐伯は一九四四年三月に、それまでに教えていた明治大学を辞し、故郷の広島県佐伯郡廿日市町(現・広島県廿日市市)に疎開した。一九四五年八月六日の原爆投下を故郷で経験し、終戦を迎えるものの、敗戦後はもう七十代の彼は東京に戻ることなく廿日市町に残り、一九四七年にその町長に就任した。七六歳という年齢でこの道を歩み始めた佐伯は政治家として、聖徳太子をかなり仰いでいたようである。その町長室には聖徳太子の立像が人々の記憶に残るような形で置かれていたと言われ(32)、二期目を務めていた一九五四年二月に、彼が廿日市町の聖徳太子会の代表者として、江戸期の偽書『聖徳太子五憲法』を刊行している。その佐伯が自説のレベルでも太子に傾倒していたということは、驚くことでもないだろう。
ちなみに、井上章一もすでに指摘しているところだが(33)、このように自説を調整する数年前の佐伯は、まさに廿日市町の町長を務めていたころ、歴史学者の服部之総(一九〇一─一九五六年)に、一九〇八年の論文で示した「秦氏=ユダヤ人」発想の背景を語っているという。『図書新聞』の「旧刊案内」コラムで、服部が一九五三年二月四日に廿日市町潮音寺関係の文化会で講演し、その後、夕方からの宴会で佐伯と同席したことを記録している。当時の佐伯はもう八二歳であったが、若者に負けることなくよく吞み、初対面で三十歳も下の服部を驚かした。 「銘酒」を何本開けたのかも分からなくなるほどの夜に、佐伯は一九〇八年の論文の背景を服部に語った。すなわち、日露戦争が終了した一九〇五年頃、佐伯は「北海道開発を思ひ立つた」が、「在来の日本的に矮小な開発計画では駄目」だと考え、「ユダヤ人の大資本を導入」できるよう、企んだ。「そのため打つた第一着手が、太秦氏猶太人の着想で」、その論を『地理歴史』に発表したのだと、服部が我々に伝える(34)。 いわゆる〝酒の場〟での話なので、これこそ佐伯の本音だったかもしれない。とはいえ、佐伯が「ユダヤ人説」を全く信じていなかったとも言えないだろう。服部も示すように、木村鷹太郎や小谷部全一郎など後世への刺激も大きく、佐伯が以降、日本におけるネストリウス派の影響を語る方向に変わったことも重要なポイントである。そして最晩年、秦氏をキリスト教の初期改宗者へと自説を調整したのは、佐伯が戦後という新時代の文脈でのこの語り方の可能性を信じ続けたからであろうことも考えられる。ただしこれはもはや、企業レベルの「開発」の心情からなるものでなく、本書の第一章でも取り上げたように、自国日本でキリスト教のさらなる可能性を発揮させたい、という気持ちから芽生えたものであろう。
†池田もまた自説調整
なお、佐伯調整説提示の一九六一年論考からの影響も受けてのことか、池田栄も数年後の一九六五年に、「ウズマサ」についてヘブライ語でなく、アラム語由来説を示している。そしてさらに、太子の本名とされる「戸」についても、独自の説を展開していく。太子は馬小屋の前で生まれたから「戸」と命名されたわけでなく、誕生の際に父の用明天皇が大きく喜び、息子の住居として「上宮」と称した「美しい宮殿」──すなわち「美宿」──を造営させたからである。つまり、「ウマヤドとはこの上宮にちなんだみ名であろう(35)」が、太子の没後の多くの「習合伝説」──間人皇后と聖母マリアの不思議な受胎、太子とイエスの馬小屋降誕、太子を救世観音として礼拝した後に暗殺された日羅とイエスを救世主と仰いだ後に殺害されたバプテスマのヨハネの物語など──が生じたのは、当時キリスト教が日本に伝わっており、かつ日本の仏教者がそれに寛大な立場を示したからである。
上述の三村もそうだが、佐伯や池田からもうかがえるように、秦氏の正体──ユダヤ人であれ、クリスチャンであれ──を語ろうとする一連の論述は、その物語の不可欠な部分として、聖徳太子の「政治」も語っていた。そして次節から確認していくように、その一種の描写が再び文学の世界に入り、より広範な読者の目にとどまるに至った。つまり、今まで見てきたような戦後の秦氏の叙述は、学問とそうでないものの境界線上でなされていくが、池田らのような学者が史実のつもりでキリスト者としての秦氏を語っていたことに対して、一九三〇年代の中里介山が試みたと同様、このモチーフを完全に創作の世界で生かそうとした者もいた。それは、司馬太郎(一九二三─一九九六)である。
第三節 司馬太郎と景教
司馬太郎は今日、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』などの歴史小説で知られているが、それらの作品で有名になる前、キャリアの早い段階で、創作として秦氏を取り上げていることは、あまり知られていない。まず、若いときの彼の略歴から始めよう。
本名「福田定一」の彼は戦中、大阪外国語大学の前身・大阪外国語学校に在籍していたものの、学徒出陣で徴兵され、兵庫県で訓練を受けた上で、満洲に渡る。一九四五年に、いわゆる「本土決戦」のため関東に戻って終戦を迎える。敗戦後は記者となり、新世界新聞社、そして新日本新聞社で勤務し、一九四八年には産経新聞社の京都支局に移る。同年に京都宗教記者会が発足され、東西本願寺のみならず、その研究施設である龍谷大学図書館などにも通い始める。この時期から京都大学の記者クラブにも出入りし、産経新聞社の社員としては宗教のみならず、大学というテーマも担当した(36)。
そして一九五〇年代半ばには、小説を発表し始める。この頃から「司馬太郎」というペンネームを使用していく彼は一九五六年に「ペルシャの幻術師」で第八回講談俱楽部賞を受賞する。このように評価された福田は、翌一九五七年十二月に、「ペルシャの幻術師」に続き、司馬名義での二作目を発表する。その作品はまさに、現代にいたるネストリウス派の日本への影響を題材とした短編の幻想小説である。仏教的コスモロジーにおける天界の一つに因み、「兜卒天の巡礼」と題されたこの作品は同人誌『近代説話』の第二号に掲載された後、一九六〇年発表の推理小説『豚と薔薇』の単行本に併録され、後には「兜率天の巡礼」という修正題目でさらに『司馬太郎短篇総集』(講談社、一九七一年)などにも収録された。より最近の文庫版『ペルシャの幻術師』(文藝春秋、二〇〇一年)に収められ、電子版なども存在し、今となっては簡単に入手できるものとなった。
†「兜率天の巡礼」の概要
この小説の内容を簡単にまとめると、次のようである。時代は敗戦後の一九四七年の夏。主人公の閼伽道竜は肥後の真宗寺院の五男であり、苦学して大学を出た者。努力の結果、法学博士となり、京都の「H大学」でドイツ政治史を担当する。しかし、戦中に行った複数の講演内容がGHQに問題視され、大学を追放された。その問題講演の主旨は、Rという「皇道法哲学」専門家の同僚に提案された、十四世紀の公卿・北畠顕家をめぐる新説だった。Rに地方での講演を頼まれ、話す内容がないと返すと、道竜が自坊の歴史関連で軽く調べていた北畠のことを取り上げるよう、Rに勧められる。
Rは、二十一歳で戦死した南朝の北畠を、秀でた思想家として語るのは「時局むき(37)」であると主張し、道竜はそれに従って、勧められる通りに話すことにした。講演が人気を博し、以降も何度も頼まれ、その内容が出版されるまでにいたった。しかし、道竜はこのような国家主義の感情を呼び起こす知的活動を戦中に行ったため、ポツダム政令によって教職不適格者と判断され、大学を離れる結果となった。
敗戦後、このように職を失うことになった道竜は、実はちょうど終戦の日に、妻の波那を心臓麻痺で亡くしていた。愛しい妻も亡くし、仕事も失くした彼は、ある理由で妻のルーツが気になり、彼女の実家を訪ねた。するとその本家は、兵庫県赤穂郡比奈大避神社神官の波多家だったことがわかる。そこで道竜は、大避神社禰宜の波多春満に、妻の波多家は帰化人の秦氏に系譜し、そのため彼女は「ユダヤの移民団の子孫」だという衝撃的なことも知らされる(一五二頁)。ただし、これらの移民が信じていたのはユダヤ教でなく、実は「古代キリスト教の一派景教」だったという私説を道竜に伝える(一六〇頁)。
以上のようなセンセーショナルな情報を伝えられた道竜は京都に帰り、秦氏の歴史について文献調査を進めようとする。このあたりから、小説の最も幻想的なところが始まる。道竜は時空を超えて、ローマ帝国から古代中国へと移動し、さらに大和までたどり着き、妻の祖先たる秦河勝と聖徳太子の会話を目の当たりにする。ただし、司馬が描く太子と河勝との関係は、今まで見てきたような語り方とやや異なるものである。その関係を描く小説の次の箇所を、まず見てみよう。
……大和には、……強大な豪族蘇我氏がいた。今上もまた、その蘇我一族より出している。太子は、叔母の女帝を輔けるために摂政に選ばれた。蘇我氏との調整は、太子の生涯の中での最大の心痛事であつた。調整には、金が要ろう。太子の政治資金のために、財宝の無償供給をし続けたのが山城の秦氏であつた。姓が織と同訓になつたほど、当時の秦氏の織物の生産量はぼう大をきわめていた。その財宝をおしむことなく太子のために割いたのである。道竜は思うに、あるいは無償の供給ではなかつたかもしれない。仏陀の徒であつた摂政の太子は、秦氏が異教の神をいだいていることを暗に知りつつも陽に口を緘していたようであつた。秦氏の感謝は、かくて政治資金に現われるのである。それにもまして、秦の長者川勝は、この魅力ある怜悧な青年と語れる快感をできるだけ多く持ちたかつたのも本心であろう(一九二─一九三頁)。
池田、三村、そして佐伯などの今まで見てきた語りでは、河勝を中心とする秦氏はいわば、聖徳太子政権の精神的なバックボーンの一つであるかのように描かれる。司馬の場合も確かに、太子の政権を成り立たせる秦氏のイメージを提供しているが、それは「資金」という下部構造レベルの話で、思想や宗教の次元のことではない。むしろ、この小説では、太子は少なくとも思想という側面においては、秦氏と一線を画している。例えば河勝は、何度も山城に太子を誘うものの、太子は「秦の都に行けば、いやでも見ねばならぬものがある」という。仏法に帰依し、後に「和国の教主」とまで崇められた太子にとって、太秦は「外道の都」であり、「大闢ノ社」という「異教の廟所」があった地である(一九一─一九二頁)。司馬が描く太子は、河勝に支えられていたことも確かだが、秦氏の宗教そのものは避けており、先の引用からうかがえるように、金銭の力で、その実践を黙認していたのである。
†謎の紳士の正体
文学作品としての「兜率天の巡礼」については轟原麻美の業績を参照されたいが(38)、日本仏教史の問題に寄せても十分、考えるに値するものがある。例えば、主人公の名前たる「閼伽道竜」と、その問題の研究対象たる「北畠顕家」とは、恐らく維新期の仏教活動家、北畠道竜(一八二〇─一九〇七)の存在を踏まえているのではないか、と考えられる。北畠は真宗僧でドイツに遊学し、明治初期に日本の仏教に「改革」をもたらそうとした人物である。さらに、自身の戦争協力を十分な形で自覚し得ていない同時代の知識人への批判としても、この小説を読むことができる。様々な側面からの考察は可能だが、我々として最も気になるのは、司馬がなぜ、このようなモチーフを踏まえた小説を書くにいたったのか、というところである。実は、司馬自身が一九六〇年刊行の『豚と薔薇』の「あとがき」で、「兜率天の巡礼」の成立背景について、次のように語ったのだ(二〇二─二〇三頁)。
先ほど述べたように、司馬は敗戦後まもなく、新聞記者となる。文化部配属で、京都を中心に大学や宗教のテーマ担当だった司馬は、一九四九年から催されていったザビエル渡来四百年祭関連の行事を取材することになった。司馬はある日の午後、「つとめを怠つて、銭湯にいた」という。その銭湯で、司馬はある人物と遭遇した。その「色白で血色のいい……紳士は」、いきなり司馬に対して、「キリスト教をはじめてもたらしたのは聖フランシス・ザビエルではない」と話しかけてきた。
その「紳士」によれば、「ザビエルよりもさらに千年前」、「仏教の渡来よりも」古く、キリスト教が古代日本に伝わっていたという。さらに、「第二番」に過ぎないザビエルが「なにをもつてこれほどの祝福をうけねばならないか」と不満を漏らしつつ、会話を続けた。そして司馬に古代キリスト教の遺跡が「京都の太秦にある」とも伝え、司馬自身も後ほど、それを調査し、記事を書くことになった。 「兜率天の巡礼」のもともとの着想となったこの「紳士」の正体はどうも気になる。「紳士」は「かつて有名な国立大学の教授」だったそうで、その点は小説の主人公・閼伽道竜と重なる。そうなると、一部の側面であるかもしれないが、銭湯の「紳士」は道竜のモデルとなっていることがわかる。道竜は、戦中まで有名大学の法学部でヨーロッパの政治史を教え、敗戦後はGHQによる方針の結果でそのポストを離れ、古代日本におけるネストリウス派についての研究に没頭した。これは、本章で考察した別の人物の生涯と驚くほどの類似点があるのではないか。
そう、「紳士」の正体は池田栄だ。二人の銭湯での偶然な出会いについては、司馬の語りからすれば時期的に合わない部分があり、話をさらに面白くするための創作の可能性が高い。そして池田とアッシリア東方教会がつながるきっかけを作った、もともとの『大阪時事新報』記事は、ほぼ間違いなく司馬の手によるものだ。司馬自身が伝えるように、教授のことを取り上げた記事が「多くの反響」を呼び、それが「海外の新聞にさえ転載された」という。
確かに、司馬の当時の本業は『大阪時事新報』でなく『産経新聞』だったが、『大阪新聞』も含むその三紙は僚紙で、ともに実業家の前田久吉(一八九三─一九八六)による事業だった。社屋も社是も、取材陣まで同じであり、情報も共有していた(39)。もとより、「経済紙」の『産経新聞』で「宗教関係の記事が出ることは稀(40)」だったため、特に三紙の体制を念頭に置くと司馬の宗教関連記事はそこでなく、僚紙に載せられる場合もあったことは、想像に難くない。
†史実と創作のライン
実に不思議なことではないか。司馬は「新聞の読者」がそもそも、「十分に議論された学説より奇説を好むから」池田のことを記事にしたそうだが、それは最終的に「景教復興後援会」を含む池田らの真剣な活動を生み、「兜率天の巡礼」の執筆にもつながった。そして、それは司馬が直木賞を受賞したまさに一九六〇年に単行本化され、より入手しやすいものとなった。
もちろん、「兜率天の巡礼」は司馬の他の作品に比べて、有名なものではない。しかし、司馬は以降の作品でも、太秦と景教との関係を語り続けた。それは例えば、一九六八年六月の『文藝春秋』掲載の「〝好いても惚れぬ〟権力の貸座敷〈京都〉」に見られ、この随筆は翌年刊行の代表作『歴史を紀行する』に収録され、さらに広い読者層に伝わった。 文藝春秋読者賞の対象ともなったこの作品では、彼がかつての「兜率天の巡礼」の内容を繰り返す形で、「聖徳太子の政治的成功」は秦河勝の「経済力なしに」考えられないとし、さらに河勝が広隆寺を「太子の別荘として」建立し、献上したという。そして「大避神社」やイスラエルの井戸、「太秦広隆寺の境内」の「小さな森」にある「奇妙な」三柱鳥居も取り上げるが(41)、それはもはや幻想小説という創作の世界でなく、歴史随筆の中でのことである。 ただ、歴史小説で有名な司馬は、この曖昧なラインをよく理解していた。彼は最後に、秦氏について「景教徒であるというのだが、真偽はむろんわからない」ため、「空想としておくほうが無難(42)」だと、読者に判断を任せているように、史実と創作との間のラインを上手く歩いていたことがわかる。このように、幻想小説の形であれ紀行文学のジャンルであれ、司馬という非常に有名な作家を通して、「謎」に包まれた秦氏のイメージがさらに展開し、聖徳太子もその物語の不可分な要素として、戦後の大衆文化の枠組みで定着していった。
†おわりに──人間太子を超えて
聖徳太子は敗戦後、亀井勝一郎などの著作に見られるように、一度「人間」になった。つまり、人々は中里介山や津田左右吉のように、検閲や弾圧を恐れず、太子のことを比較的自由に描けるようになった。とはいえ、聖徳太子が「偉人」の地位から下ろされたわけではなく、依然として日本国の英雄として描かれていった。自由となったこの偉人の語り方は、様々な異なる方面に発展し、〝隠された太子〟のイメージも、「謎の秦氏」の物語とともに、多様化していく。
本章で確認してきたように、敗戦の時期から一九六〇年代にかけて、秦氏の正体をめぐる複数の奇説が展開したことがわかる。つまり、①池田のように、秦氏をネストリウス派のキリスト教徒とする説、②三村のごとく、彼らを中国のネストリウス派「大秦景教」とは全く異なるようなユダヤ人の集団とする説、③この一連の説の父ともいうべき佐伯好郎のように、秦氏をユダヤ教からキリスト教への初期改宗者と捉える説、などである。
秦氏の正体をめぐって、この三名の姿勢はやや異なるものの、それぞれが展開したストーリーにおいて聖徳太子が必ず登場し、かつ秦氏の宗教的・民族的なアイデンティティは太子の政治的・文化的な事業に何らかの形で影響した──あるいは逆に、太子によって支えられた──という点は、基本的に一致している。 言い換えれば、戦前における秦氏一神教論の文脈で必ずしも登場しなかった聖徳太子は、特に一九五〇年代になると、その語りの不可欠な構成物の一つとなる。そして戦前からすでに変わりつつあったものの、久米邦武の論考などに見られるごとく、秦氏が登場しなくとも述べられていた太子伝へのキリスト教影響説も、この時期から秦氏一神教論とほぼ、不可分なものになっていく。 本章では特に、比較的限られた文脈での池田栄の語りが後に、司馬太郎の作品を通していかに展開したのか、明らかにした。池田は本来、イギリス政治史の専門家だったが、昭和初期の太子ブームに乗っかり、一九四〇年頃から積極的に、聖徳太子関連の業績を発表していく。戦中に書かれた池田の太子論は、発表当時の段階で影響力が全くなかったとも言えないが、その内容からして敗戦後に読まれることは基本的になかったと思われる。 しかしながら、池田は戦後、自身の専門を「聖徳太子研究」と主張し続けたようだ。これは恐らく、秦氏を語る上で、「イギリス政治史」より有利だと考えたためだと思われる。いずれにしても、池田の太子像は史実としてではなく、司馬の創作の世界で、新たな生を受けた。特に一九六九年に刊行され、ロングセラーとなった司馬『歴史を紀行する』を通して、謎めいた秦氏と太子のイメージに初めて接した読者も多くいたことは、想像に難くない。一九七〇年代以降の〝隠された聖徳太子〟の独特な展開は、また次章で見てみよう。
1 石井公成「人間聖徳太子の誕生──戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷」(『近代仏教』一九、二〇一二年)。
2 渡部治「亀井勝一郎の思想形成──文明批評家への道」(『国際経営・文化研究』二〇‐一、二〇一五年)、六頁。 3 石井「人間聖徳太子の誕生」、七五─八二頁。 4 James Harry Morris, "The Presence of Jǐngjiào in Japan as explored by Ikeda Sakae" (Japan Mission Journal, vol. 69, no. 4, Winter 2015), p. 264. なお、本章を執筆する際、雑誌Light from the Eastの存在という史料的な側面も含め、モリスの研究に大きく啓蒙された。前掲論文の他、同 "The Legacy of Peter Yoshirō Saeki: Evidence of Christianity in Japan before the Arrival of Europeans" (The Journal of Academic Perspectives, no. 2, 2016), "Rereading the evidence of the earliest Christian communities in East Asia during and prior to the Táng Period" (Missiology: An International Review, vol. 45, no. 3, June 2017)も参照されたい。
5 松尾尊兊『滝川事件』(岩波書店、二〇〇五年)によれば、池田が辞表を提出していないのは、ヨーロッパ留学中だったからだともいえる(一八七頁)。しかし松尾がさらに指摘するように、それは同じく京大で起きた大正初期の「沢柳事件」の際に、ヨーロッパから辞表を送っている教員が複数いたことと対照的なケースである(一八七頁、三五七頁)。
6 松尾『滝川事件』、二五九─二六二頁。
7 『大阪時事新報』一九四九年三月七日、二面。
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000058606?select=5324668#archive
8 "A Japanese professor stirred a heated controversy in Tokyo religious circles..." (Oakland Tribune, March 9, 1949), p. 3; "Christianity Origin in Japan Debated" (The Bakersfield Californian, March 9, 1949), p. 24.
9 例えば "Claim Christians in Japan in 283 A.D.", (The News, Paterson, New Jersey, April 12, 1949), p. 5; "Japan Had Christians in the Year 283 A.D." (The Monitor, McAllen, Texas, April 13, 1949), p. 3; "Japan Had Christians in the Year 283 A.D., says Professor" (Athol Daily News, Athol, Massachusetts, April 22, 1949), p. 8; "Christianity came to Japan in 283" (The Boston Globe, Boston, Massachusetts, April 22, 1949), p. 6 等々。
10 『中外日報』第一四三六九号、一九四九年四月九日、一面。
11 小谷部全一郎『日本及日本国民之起源』(厚生閣、一九二九年)、三二一─三二二頁。
12 「生きているキリスト 米国に百十九代の教父」(『大阪新聞』第二五七七号、一九四九年六月四日)、四面。 13 "Ancient Assyrian Christian Churches in Japan" (Light from the East, vol. 1, no. 6, June-July 1949), p. 10.
14 「景教復興後援会 宗教から日米親善に一役」(『中外日報』第一四四六〇号、一九四九年十一月八日)、三面、"Japan Opens Arms to Church of East," Light from the East, Vol. 1, No. 8, Oct.-Nov. 1949, p. 2.
15 "Prof. Sakae Ikeda Named Resident Commisioner [sic] For Japan," Light from the East, Vol. 2, No. 2, Feb.-Mar. 1950, p. 11.
16 「景教復興後援会 宗教から日米親善に一役」、三面。
17 池田栄「景教と日本仏教」(『中外日報』第一四四七六号、一九四九年一二月十五日)、一面。
18 "History of Church in Japan Published by Resident Commissoner [sic] Sakae Ikeda," Light from the East, Vol. 3, No. 4, June-July 1950, p. 5.
19 「景教復興後援会 宗教から日米親善に一役」、三面。
20 "Photo Proves Antiquity of Church in Japan," Light from the East, vol. 4, No. 4, June-July 1951, p. 7.
21 Elizabeth A. Gordon, The Lotus Gospel; or Mahayana Buddhism and its Symbolic Teachings (Tokyo: Waseda University Library, 1911), p. 128.
22 Morris, "The Legacy of Peter Yoshirō Saeki," pp. 15-16.
23 "Photo Proves Antiquity of Church in Japan," Light from the East, vol. 4, No. 4, June-July 1951, p. 9.
24 Gordon, The Lotus Gospel, p. 128; Morris, "The Legacy of Peter Yoshirō Saeki," p. 15.
25 Ikeda Sakae, "Nestorianism in Japan" (The Missionary Bulletin, National Catholic Committee of Japan Information and Education Department, vol. 4, no.3), 1950, pp. 19-20.
26 宮沢正典『ユダヤ人論考──日本における論議の追跡』(新泉社、一九七三年)、一五九頁、そして杉田六一『東アジアへ来たユダヤ人』(音羽書房、一九六七年)、一一三─一二一頁も参照のこと。
27 三村三郎『世界の謎──日本とイスラエル』(日猶関係研究会、一九五〇年)、二頁。以下、本節での頁番号のみの引用はこの著作からである。
28 佐伯「太秦(禹都麻佐)を論す」、一八四頁。
29 佐伯好郎「日本及び三韓経由の原始キリスト教について 上」(『道』五八七─五八九合併号、一九六一年)、九頁、一〇頁。 30 佐伯「日本及び三韓経由の原始キリスト教について 上」、一一─一二頁。
31 佐伯好郎「日本及び三韓経由の原始キリスト教について 下」(『道』五九〇─五九二合併号、一九六一年)、一五─一六頁。
32 高本鎮郎「〝学者町長〟佐伯好郎先生の思い出」(法本義弘『佐伯好郎遺稿並伝 下』佐伯好郎伝記刊行会、一九七九年)、一三七四頁。
33 井上章一『キリスト教と日本人』(講談社、二〇〇一年)、三三─三四頁。
34 服部之総「旧刊案内 太秦=ユダヤ人の構想」(『図書新聞』第二七七号、一九五四年十二月十八日)、六面。同『原敬百歳』(朝日新聞社、一九五五年、一三─一六頁)にも収録。
35 池田栄『最高文芸としての正統政治学』(ミネルヴァ書房、一九六五年)、四三頁。
36 この時期の司馬の活動については、産経新聞社『新聞記者 司馬太郎』(扶桑社、二〇〇〇年)を参照。
37 司馬太郎「兜卒天の巡礼」(同『豚と薔薇』東方社、一九六〇年)、一六八頁。以下、本文での頁番号のみの情報は、この著作からのものを指す。
38 轟原麻美「司馬太郎兜率天の巡礼論──幻想小説に織り込まれる戦中・戦後への眼差し」(『清心語文』二一、二〇一九年)。
39 松尾理也『大阪時事新報の研究──「関西ジャーナリズム」と福澤精神』(創元社、二〇二一年)、三〇一─三〇五頁。
40 福間良明『司馬太郎の時代──歴史と大衆教養主義』(中央公論新社、二〇二二年)、七五頁。
41 司馬太郎『歴史を紀行する』(文藝春秋、一九六九年)、一一六頁。
42 司馬『歴史を紀行する』、一一八頁。
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