2024年12月11日水曜日

豚と薔薇 - 国立国会図書館デジタルコレクション


竜は戦時中に行った講演が原因となり、戦後敷かれたGHQの. 政策によって大学を罷免された。それと合わせ、道竜は終戦日. に妻の波那を亡くす。妻の死によって、彼女の ...

未指定:曼陀羅

https://search.yahoo.co.jp/search?p=兜率天の曼陀羅%20司馬遼太郎&ei=UTF-8

 バスクうまれの伝道師聖フランシス・ザビエルが、日本にはじめてキリスト教を伝えた日から四百五十年(注5)たつたその年、京都の夏はことさらにむし暑く、私はその日の午後のつとめを怠つて、銭湯にいた。
 私は、当時、新聞社の京都支局にいて、宗教をうけもつていた。その月は、ザビエルの日本上陸四百五十年を記念して、日本の各地ではさまざまな催しがおこなわれ、ヴァチカンの法王庁からも、特使が派遣されてきていて、私のそのころの当分の仕事は、その取材がおもだつた。(注6)

 このような書き始めで、司馬は本作の執筆経緯を述懐していく。この述懐のうちに、本作が生まれる契機となったエピソードが記されているため、長くなるが引用をしておきたい。

 その日、銭湯で、ひとりの人物に会つた。色白で血色のいいその紳士は、なに者とも知れぬ私に、「キリスト教をはじめてもたらしたのは聖フランシス・ザビエルではない」と話しかけてきた。午後の浴槽には、かれと私のほかはたれもおらず、その紳士の声は、肉声よりもこだましてくる音のほうが大きかつた。
「ザビエルよりもさらに千年前、すでに古代キリスト教が日本に入つていた。むろん、仏教の渡来よりもふるかつた。第二番に渡来したザビエルが、なにをもつてこれほどの祝福をうけねばならないか」
 話しているうちに、この紳士が、見かけよりもはるかに老人であり、一見、奇嬌にみえて、決して狂人のたぐいではないことがわかつてきた。
「その遺跡も、京都の太秦にある」といつた。紳士は、自分はかつて有名な国立大学の教授であつた、ともいつた。私は、のちに小説を書きはじめたとき、この教授をうごかしている執念に興味をもつたが、新聞記者であつたこのころの私は、むろん、教授の精神像よりも、その説のほうに興味をもち、教授の指示に従つて、「日本古代キリスト教」の遺跡をつぶさに踏査した。
 私は、それを記事にかき、「すでに十三世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡をとどめていること自体が奇跡である」と締めくくつた。説の当否はともかく、記事は多くの反響をよび、海外の新聞にさえ転載された。新聞の記事というものは、十分に論議された学説よりも奇説を好むからだろう。
 そののち、私は小説を書くことをはじめ、最初の二作を書きあげたあと、この奇説を小説にしようと思いたつた。(注7)

『豚と薔薇』あとがき
東方社
1960

海外の国際学会で活躍する日本語日本文学専攻の大学院生|東城敏毅|日文エッセイ180|日文エッセイ|ノートルダム清心女子大学

2018.10.01


轟原さんは、従来あまり研究されていなかった司馬遼太郎の初期作品「兜率天の巡礼」を、景教と古代日本との関係性や、作品に織り込まれた執筆当時の社会背景をもとに考察した。そこから司馬初期独自の幻想小説と見られてきた本作は、十分に社会性を備えたものであり、後に歴史小説家として評価されることになる司馬の特質が見出せることを解き明かした。会場からも多くの本質的な質問が出され、それに堂々と端的に答えており、海外の研究者にも興味のある有意義な発表となった。本学会には木下華子准教授が引率し、轟原さんの学会発表を支援した。
















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slowslow2772さんによるXでのポスト 白馬寺

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