2025年2月15日土曜日

梧窓漫筆拾遺 太田錦城(1765~1825)




梧窓漫筆拾遺



佐伯好郎は、この太秦に、キリスト教の一派である景教と、秦氏のユダヤ人説を人生をかけて補強し続けたが、この弥勒像に、最初にそれをかぎ取ったのは江戸時代中期の儒学者・太田錦城(1765~1825)であった。太田は随筆集『梧窓漫筆拾遺』にて、太秦についてこう記している。 「廣隆寺と云える寺は太子川勝よりの事にもあるべし。何とて川勝の事なればとて地を太秦と云うべきや。又太秦を何とてウズマサと唱ふべきや。ウズマサとは胡語蛮語の云はりたるのこと明白なり(略)。本尊は薬師などにて常の仏像なり。左右の脇立に細く長き笠を蒙りて棹の先に銀の月、金の日を差し上げたる像なり。仏像のものとは努々思はれず。波斯太秦の天教を報ずる家の像設たること明白なり……」  つまり太田錦城は、広隆寺の仏像等を見て、当時禁じられていたキリスト教の寺ではないかと、江戸時代の中期に、すでに指摘していたのである。








大田錦城

大田 錦城(おおた きんじょう、明和2年(1765年) - 文政8年4月23日1825年6月9日))は、江戸時代中・後期の儒学者。名は元貞、字は公幹、通称は才佐。他の号に老人・春草翁・柳橋釣叟・矢倉潜夫がある。姓は「太田」とも表記される[1]。姓の「大田」と号の「多稼」は『詩経』の「大田章」に典拠があるという[2]

生涯

父は加賀大聖寺の医師・本草学者である大田玄覚、母は樫田氏。

幼いころは家兄・後の加賀藩儒・樫田北岸と父の素読を受け、10代の後半までには古方医を修めた。さらに学問を進めるために最初に京都で皆川淇園に師事するが意に満たず、天明4年(1784年)に山本北山の奚疑塾に入る。しかし北山の人柄と合わず絶交し、江戸私塾を開き教授を始めた。幕府の医官である多紀桂山が錦城の才学を愛し援助したために、その評判は江戸に広まる。文化8年(1811年)ごろに三河吉田藩儒に仕官。文政5年(1822年)に故郷の金沢藩に招かれ、そこで没する。

その学風は清の考証学に従い、朱彝尊『経義考』・顧炎武『日知録』などに根拠をおき、精密である。しかし信夫恕軒によって、『九経談』は談話の体をなさず群注の抄録にすぎず、未刊に終わった『論語大疏』では上論半部を20巻もかけて注してまだ説を終えられずという有様、これでは帳簿を作っているのと同じで著述と称するに値しない、と酷評された[3]

著作

  • 『九経談』(4冊、1804年)
  • 『梧窓漫筆』(全6冊、前編1813年)
  • 『学庸原解』
  • 『仁説三書』
  • 『疑問録』
  • 『錦城百律』
  • 『錦城詩稿』
  • 『論語大疏』

参考文献

  • 太田才次郎『旧聞小録』
  • 井上善雄著『大田錦城伝考』上

脚注

  1. 小学館 デジタル大辞泉『太田錦城』 - コトバンク
  2. 三村竹清『本之話』岡書院、1930年、250p頁。normal
  3. ^ 信夫粲『恕軒漫筆』吉川半七、1892年、21-24p頁。
中山イルミナティ

 ──四天王は毘沙門天=ミトラ=弥勒である  太秦の牛祭は、摩多羅神を守護するように、鬼の面をかぶった四天王が寄り添っていた。あれがなぜ、四天王というのかは、摩多羅神や四天王を演じる人たちはもちろん、広隆寺の貫主も、木嶋神社の宮司も、わからない、という返答であった。しかし、四天王寺と広隆寺の密接な関係から、こういうことが考えられよう。  四天王は、城郭や寺院を四方から守護する護法神である。特に北を守護する多聞天は、毘沙門天として独立したという。四天王の一像としては多聞天と称するが、一像のみ、単体で配置されると毘沙門天と名を変えた。  毘沙門天は素戔嗚に対応することは、「牛王尊の祠」について述べたときに提示したが、実は、毘沙門天と名を変えると、四天王ではなく、天王(てんおう、てんのう)と呼ばれた。とすれば、天王寺と表記すれば、それは毘沙門寺ということになる。  信貴山朝護孫子寺に残る「聖徳太子が守屋を討伐せんと河内へ向かう途中、この信貴山に至った。太子がここで先勝祈願すると、天高く毘沙門天が出現し、必勝の秘法を授かった」という伝承は、聖徳太子が毘沙門天の信仰を持っていたことを示すものである。  では、毘沙門信仰とは何か。  戦後日本を代表する東洋史学者・宮崎市定(1901~1995)は、『毘沙門天信仰の東漸に就て』という論文で、毘沙門天はインドより西域に発生した神であるとし、このように書いている。 「毘沙門信仰が日本に残した足跡と思われるものに祇園の牛頭天王があって、京都祇園寺の本尊は嘗て毘沙門天だと思われた時代があるらしい。毘沙門天信仰の盛な時代には天王と云えば毘沙門天王を意味した(略)。毘沙門と牛とは非常に密接な関係がある。之は恐らく毘沙門がミトラ神である本性を暴露する一つの証拠となるもので、欧州に伝わりたるミトラは、殆ど凡ての場合と言い得る程、若者の形のミトラが牛に跨って之を殺している姿に彫られている」  つまり、毘沙門天は天王であり、牛頭天王である。その源神はミトラであるというのだ。  牛頭天王はまた、素戔嗚と習合した。天王と付くのは、さらにそこに毘沙門天が習合して、そう呼称されたのだと思われる。牛頭はゴズ、ではなく、ゴゥズ、と発音した。  四天王寺には、牛王尊の祠や、七宮の祭神としても牛頭天王が祭祀されていた。いや、牛王尊は、「四天王寺で最も重要な神である」というT教授の証言もある。  四天王寺は、もともと牛頭天王社であった、とは推測できないか?  ならば、元四天王寺が、寺でなく、神社であったことに納得がいく。  そして、牛頭天王とは、ミトラが源神である。  いや、実は、ミトラそのものが四天王に対応する、という指摘がある。  ベルギーの宗教史家であるフランツ・ヴァレリ・マリ・キュモン(1868~1947)は、『ミトラの密儀』(平凡社)に、このように書いていることに注目したい。 「ミトラは天の光の精霊である。彼は日の出の前、岩山の頂上に現われ、日中は、四頭の白い馬に引かれた戦車に乗って広大な天空を踏破し、夜が来てもなお、ほのかな輝きをもって地上を照らす。彼は『常に目醒め、常に見守る』。彼は太陽でも、月でも、星でもないが、その『千の耳と一万の眼』の力で世界を監視する。ミトラはすべてを聞き、すべてを見つける。彼は全知であり、何者も彼を欺くことはできない。当然の成り行きによって、彼は倫理上、真実と忠誠の神、誓約の際に祈願され、契約を保証し、誓いに背いた者を罰する神となった。光は暗闇を払って地上に喜びと生命力とをもたらす。光にともなわれる熱は自然界を豊饒にする。ミトラは『広い牧場の主』であり、そこを肥沃にする」  そして、宮崎定市の『毘沙門天信仰の東漸に就て』には、こういう指摘をした部分があるのだ。 「毘沙門は漢語に意訳される時は、多聞となり、何故に多聞であるかに就て、色々な苦しい解説が附せられるが、若し毘沙門がMithraに外ならずとすれば、容易に説明がつく。即ちアヴェスタ経ミヒル・ヤシト(著者注――ミトラ祭儀書)によればMithraは千の耳を有する神なのである。更に四天王の毘沙門以外の三天王も、それがMithraの分身であるとすれば、(略)即ちMithraは万の眼を有する神であり、国家を護持する神であり、生長を司る神である。広目、持国、増長はその各々の徳を謂うに外ならない。四天王像が多く光背に火焔を有し、殊に毘沙門が光塔を有するのも拝火教の遺物ではなかろうか……」  キュモンが提示したミトラの神性と対比してみよう。 ○戦車に乗って天空を踏破する=軍神=国家を護持する神=持国天 ○千の耳を持ち=多聞天 ○一万の眼で世界を監視する=広目天 ○光にともなわれる熱は自然界を豊穣にする=生長を司る神=増長天  もう間違いないだろう。四天王とは毘沙門天であり、ミトラである。ミトラは新羅で弥勒となり、それは花郎と関係する。ミトラは救世主であり、メシアであり、キリストでもある……。  ミトラ神が東アジアに伝播していく系譜である。

【日本とイスラエル】佐伯好郎の研究(続き) | 日本人の信仰と聖書について考える会ブログ
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【日本とイスラエル】佐伯好郎の研究(続き)

広隆寺

日本とイスラエルに関連した事柄について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。

広隆寺

この神社(大酒神社)のすぐ近くにはまた、「広隆寺」という寺がある。これも秦氏の寺である。江戸後期の儒学者・太田錦城(おおたきんじょう)(1765~1825年)はこの寺について、「寺という名はついているが、仏教の寺ではない。景教の寺である」との言葉を残している。太田も、景教は非常に早い時代から日本に入っていたと考えていた。

牛祭

この広隆寺で古来、一風変わった「牛祭」というものが行なわれてきた。それはひとりの人が面をかぶって仮装し、牛に乗って出る祭であるが、このときの面が日本人にはないような顔をしている。そして牛に乗って仮装した人は、厄祓いの祝詞(のりと)を読み上げ、その後お堂へ走り去る。ある研究者は、この儀式はユダヤ的儀式に若干の異教的要素が加わったものかもしれないと述べている。

日系ユダヤ人

佐伯教授はまた、1908年、中国・上海で発行されているユダヤ人のための週刊誌『イスラエルの使者』に、「日系ユダヤ人」(Japanese Jews)という題の記事を載せている。それによると日本には、差別されて「エタ」(穢多)と呼ばれた人々がいる。彼らは、近世、江戸幕府の人民支配の一環として、城下はずれなどの一角におしこめられ、特定の職業に従事させられて、不当にも一種の賤民とされた人々である。

「エタ」

「エタ」はそのような人々を卑しんで言う呼称であり、士農工商よりも下におかれ、厳しい差別を受けた。明治時代以降は平民に編入されたものの、その後も「部落民」とも呼ばれて、不当差別は現在も解消されていない。

ユダヤ人に似た人々

しかし佐伯教授は、彼らの中にはユダヤ人に似た人々が多くいた、と書いている。彼らはあらゆる工業、とくに靴製造に従事し、よく働く人々であったと。また西洋のユダヤ人がそうであったように、彼らはゲットー(スラム街)に住んだが、それは、「日本人が彼らにそう強いたというよりも、他の人々から隔離されることを好んだからのように見える」

セム族(ユダヤ人)タイプ

その記事は、彼らを有能な労働者として描き、「彼らの何人かは商業にも従事し、成功した実業家である」としている。佐伯教授によれば、彼らは見かけは日本人に似ておらず、婦人は「モンゴリアン・タイプというよりむしろセム族(ユダヤ人)タイプ」であった。

安息日を守っていた

また興味深いことに、彼らはユダヤの習慣を守っていたと教授は書いている。「たとえば長崎のゲットーにおいては、彼らは安息日を信心深く守っている。敬虔なユダヤ人のように、安息日には仕事をせず、喫煙や、火をたくこともしない」

真偽を確かめるのは容易ではない

もっとも私の知る限りでは、エタと呼ばれた人々についてこのように述べたのは佐伯教授のほかにはいない。私も個人的に彼らについて調べてみたが、ユダヤ人との関連を見いだすことはできなかった。彼らは今日の日本には(公式には)もはやいないから、真偽を確かめるのは容易ではない。しかしこれら佐伯教授の研究と、先に述べたアサヘル・グラントの「景教徒はイスラエルの失われた部族であった」という主張を、合わせて考えると興味深い。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、日本人の文化、伝統にも深い関係があると考えられます。キリスト教の教典という考えはひとまず脇に置いて、神様を中心にして生きる日本人として聖書を読んでみてください。

新約聖書 ルカによる福音書 6章46~49節

わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。

それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。

しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

その言葉を聞いて行う

イエスを主と呼べば良いということではなく、その言葉を聞いて行うことが大切だと教えられています。自己中心を退け、神様を中心にして正しく生きる幸いとは、単に知っているというだけでなく、実際そのように生きているかどうかということが問われているということだと思います。

問題が起った時に明らかになる

何もない時には、自己中心でも問題なく生きて行けるように思うかもしれません。しかし、人生には洪水が起って、激流が押し寄せて来るようなこともあると思います。その時、人間中心、自己中心であれば、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいという事だと思います。しかし、神様を中心にして生きているなら、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからであると教えられています。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。




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1918. Ludwig van Beethoven's Ninth Symphony is performed in Asia for the first time in full length in the Bando POW camp (today: Naruto City, Tokushima) by German POWs.

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