約「870名」がつぎつぎと腹を十字に切り裂き… 「腹切りやぐら」で起きた悲劇とは 現在は立ち入り禁止の「鎌倉幕府終焉の地」
「腹切やぐら」というおぞましい名前の洞窟が、鶴岡八幡宮からさほど遠く離れることのないところに、ひっそり佇んでいる。すぐ目の前の草っ原は、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時ら約870名が自害したところ。事実上、鎌倉幕府が滅亡した地と見られているが、その最後の情景が、何とも凄まじいものであった。その経緯とはいったい? ■「霊処浄成」の怪しげなる洞窟 鎌倉の鶴岡八幡宮から南東へ500m余り。瀟洒(しょうしゃ)な住宅街内に設けられた小道を辿っていくと、いきなり樹木が生い茂る林へと分け入ることになる。手前左手の草むらが北条氏の氏寺であった東勝寺跡、その奥にある洞窟が「腹切やぐら」と呼ばれた洞窟である。 ただし、東勝寺跡は柵に囲われて中に入れず、腹切やぐらも落石の危険があるとして、ロープが張られて立ち入りを制限されている。すぐ脇に置かれた石碑に、「霊処浄域」につき参拝者以外の立ち入りを禁じる旨が書き込まれているが、言われるまでもなく、入る気にはならない。怪しげなる風情に、思わずゾクッ! 恥ずかしながら、そのおぞましさにたじろぎ、早々に立ち去ってしまったからだ。 と、「腹切やぐら」なる怪しげなる名前の洞窟のお話しで始まってしまったが、これは鎌倉幕府滅亡にまつわる重要な史跡である。その昔、ここでどんなことが繰り広げられたのか、あらためて振り返ってみることにしよう。 ■御家人の不満が爆発し、幕府崩壊へ 時は、1331年まで遡る。このときの将軍は、わずか8歳で征夷大将軍に就任して以来20数年にわたって将軍職にあった守邦(もりくに)親王であるが、幕府の長として崇められるようなものではなかった。 実権を握っていたのは、執権・北条高時である。源頼朝以来、連綿と続いていた鎌倉幕府も、この頃には北条得宗家が主役で、一人勝ち状態。ほかの御家人たちは次々と没落。生き残った御家人たちも精彩が欠け、恩賞が削られるなどで不満が募るばかりであった。 そこに、時の天皇・後醍醐天皇が朝廷の権力奪還を目指して倒幕の狼煙を上げたから大変。後醍醐天皇が笠置山で挙兵したことを皮切りとして、その息子・護良(もりよし)親王が吉野で、楠木正成が河内で挙兵したのである。 この反乱を征しようと、河内源氏(義国流)足利氏本宗家の足利高氏(のちの尊氏)が派遣されてきたが、この御仁も、戦いの最中に寝返り、あっという間に、京の都を制圧してしまったというから、世の中どう転ぶかわからない。 同じ頃、上州上野国でも、河内源氏(義国流)新田氏本宗家の新田義貞が反旗ののろしを上げたことが決定打となって、幕府が崩壊してしまった。 ただし、その主導者となった新田氏とは、新田荘の御家人だったとはいえ、北条氏などとは比べ物にならないぐらい地位も名声も見劣りするものであった。それにもかかわらず、行軍途上で同調者が続出。鎌倉へとなだれ込んできた頃には、数十万もの規模に膨れ上がっていたというから、御家人たちの不満がいかほどであったか、推し量れそうだ。 ■870名がつぎつぎと腹を十文字に切り裂いた 大軍が流れ込んできては、さすがの高時も抵抗するも抗しきれず、館を追われて葛西ヶ谷へと敗走。前述の東勝寺にまで逃げ延びてきたものの、もはや打つ手もなく、死出の旅へと突っ走ってしまったのである。付き従うのは、軍記物『太平記』によれば380余名。 彼ら全員が、従者・長崎高重を皮切りとし、盃を三度傾けては腹を十文字に切り裂くということを繰り返し、とうとう一人残すこともなく自害して、寺を焼き払ってしまったのである。庭や門前に居並んでいた兵士たちも、これに同調して自害。都合870名もの人々の命が喪われてしまったというから凄まじい。 この東勝寺で亡くなった人々を埋葬したとの伝承が伝えられているのが腹切やぐらだと言われることがあるようだが、実際に埋葬されたのはここではなく、少し離れた釈迦堂谷の方だったとか。この辺りの真相は定かにしきれないが、少なくとも、武人たちの多くが東勝寺で自害したことだけは間違いなさそうだ。 ともあれ、こんな武将たちの死の情景を思い浮かべながら当地に足を踏み入れると、筆者のように、いたたまれなくなって早々に引き上げざるを得なくなってしまうだろう。彼らの霊が未だに彷徨っているかのように錯覚してしまうのは、考えすぎというものだろうか。何はともあれ、「霊魂よ、鎮まりたまえ!」と、つい声をあげてしまいたくなるのだ。合掌!
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