2025年1月6日月曜日

聖徳太子の「未来記」とイルミナティ (ムー・スーパーミステリー・ブックス) Kindle版 中山 市朗 (著)

 https://dl.ndl.go.jp/pid/7941913/1/2

太秦の牛祭 喜田貞吉「六大新報」1922年10月


1922


六大新報 (985)

書誌情報:出版者六大新報社出版年月日1922-10


以下後述中山論考より

 喜田は、大正年間に『民族と歴史』という個人雑誌を発行しており、その第6巻第6号で「太秦牛祭の変遷」という記事を書いている。

 「実は之を牛祭だというとが何時の頃からであるかに就いて問題が遺って居るが、もし古くから其の名称があったとすれば、それはもと太秦地方の秦人等が、牛を犠牲として漢神を祭った古い習慣に基づいたのかも知れぬ。後には犠牲として牛を殺すことが禁ぜられたについて、其の犠牲の牛を単に祭儀の行列に加えて引き出す様になり、はては其の本義が忘れられて本来は馬に乗る筈の行者の或る者が、其牛に乗る事になったのであろう。」3頁

 「 摩吒羅神は、天台の方では慈覚大師が唐から伝えたと言われて居るが、実はもと秦人等が牛を殺して漢神を祭るの風が牛祭となり、それが天台の源信僧都によって摩多羅神と習合せられたのかも知れぬ」  5頁


「太秦の牛祭」として転載






喜田貞吉は「それはもともと太秦. 地方の秦人等が牛を犠牲として漢神を祭った古い習慣に基づいていたの. かも知れぬJ (r太秦牛祭 ... り牛祭に殺牛の痕跡が見られない。

2010/1/16 -1908(明治41)年「地理歴史」(主宰 喜田貞吉)100号に掲載された佐伯好郎の論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」からで、その潮流が、三柱鳥居が景教の遺物と書かせ ...

解決

喜田貞吉(1871-1939)①「太秦(ウズマサ)を論ず」②「秦人考(シンジンコウ)ちょうろん」は、出版されているか。また、その書誌事項も知りたい。
回答
①「太秦(禹豆麻佐)を論す」(佐伯好郎『歴史地理 11巻1号』明治41年1月発行 「歴史地理壱百号記念 百名家論集」初出)
*質問時の著者名は、質問者の勘違いだった。
②「秦人(ハタビト)考緒論」は、『歴史地理  30巻2号』(大正6年8月発行)初出。『日本民俗文化大系 5 喜田貞吉』(上田正昭 講談社 1978)『喜田貞吉著作集 8』(喜田貞吉 平凡社 1979)にも収録されている。
以上を回答する。








10

聖徳太子の「未来記」とイルミナティ (ムー・スーパーミステリー・ブックス) Kindle版 

中山 市朗  (著)  ──秦氏の最初の本拠地は河内にあった  

 牛祭の主役は、牛であるはずだ。しかし、牛は摩多羅神を乗せて、境内に入ってくるだけで役目を終え、いつの間にかいなくなっている。

  おそらくこれは、最初の形態では、牛を引いてきて、摩多羅神の前で生贄としたのではないかと思われる。実はこのことを指摘したのは、喜田貞吉(1871~1939)という歴史学者で、民俗学や考古学をも取り入れた研究で知られる人だ。  

 喜田は、大正年間に『民族と歴史』という個人雑誌を発行しており、その第6巻第6号で「太秦牛祭の変遷」という記事を書いている。

 「実は之を牛祭だというとが何時の頃からであるかに就いて問題が遺って居るが、もし古くから其の名称があったとすれば、それはもと太秦地方の秦人等が、牛を犠牲として漢神を祭った古い習慣に基づいたのかも知れぬ。後には犠牲として牛を殺すことが禁ぜられたについて、其の犠牲の牛を単に祭儀の行列に加えて引き出す様になり、はては其の本義が忘れられて本来は馬に乗る筈の行者の或る者が、其牛に乗る事になったのであろう。(略)

  摩吒羅神は、天台の方では慈覚大師が唐から伝えたと言われて居るが、実はもと秦人等が牛を殺して漢神を祭るの風が牛祭となり、それが天台の源信僧都によって摩多羅神と習合せられたのかも知れぬ」  

 この喜田の説を裏付けるものが、もう一つの太秦にあるのだ。

  秦氏は渡来人であり、海からやってきたのだ。いきなり京都の葛野に入ってきたわけではないはずだ。私がそう思って調べてみると、大阪府寝屋川市に太秦という地名があることを知った。 

 寝屋川の太秦を私は河内太秦と呼んでいるが、古代においては、寝屋川あたりまで河内湾が入り込んでいて、太秦はちょうど丘陵になっている場所に位置している。このあたりから、陸地だったのである。 

 丘陵は生駒山系の一部となっていて、河内湾に入った渡来人たちはまずここに移り住み、集落を造ったのであろう。現にこのあたりからは、4世紀後半から5世紀にかけての丸木舟の一部、埴輪、ガラス玉、古瓦、古鏡、金環類、鉄刀などが大量に出土している。それは『日本書紀』や『古事記』の仁徳天皇の条項にある、屯倉の造営や茨田堤という堤防(京阪・寝屋川駅近くに一部が残る)を築いた、あるいは、難波の堀江を掘って交通通路を開いたなど、秦氏による河内周辺の開発の記事とピタリ一致するのだ。 

 また、この時代から巨大化する前方後円墳などの造営も、秦氏が関わったことが実証される。大和川の治水工事を行い、四天王寺の造営にも関わった秦氏の最初の本拠地は、実はここにあったのである。  

 寝屋川の太秦について書かれた書物もあまりない。寝屋川の古代の姿を知るには、市が編纂した『寝屋川市誌』に当たるしかない。当然、河内太秦の詳細は解説されていたが、そこにこんな一文があった。

 「古来、太秦には数多くの古墳があったが、ほとんど開墾されて畑地となり、それがまた水源地・住宅地となり、いまにその原形を残しているのは、このトノ山古墳のみとなった。(略)南面してその墳前に、一対のとうろうが立てられていて、以前ここで太秦地区の牛祭が行なわれた。所有の牛をここにつれてきて、鼓をならして村人達がおどったものである」

  山城国は、もともと山背という字があてられ、それは大和の裏側という意味を持っていた。平安京ができる前の山背は農耕に適さない原野であり、秦氏はここを開墾し、治水工事をすることで、自分たちの本拠地としたのである。  

 太秦という名は、秦氏の支配階級に与えられた姓で、秦酒公が雄略天皇から授かったものだと『日本書紀』は書いている。酒公はおそらく河内太秦に住んでいて、まずここを太秦としたのだ。そこですでに牛祭は行われていたのである。そして6世紀になって、秦氏の集団は秦酒公とともに、京都の葛野へ移住したのである。考古学的にも、葛野の開発は6世紀を遡らないから間違ってはいない。 『日本書紀』は、雄略天皇は秦氏の率いた民を臣連に分散させて、願いのまま使われた、とも書く。秦氏は全国に住みつき、多くの集落を造ったのである。羽田、畑、畠、波多、羽田、幡多、波多田、秦野、畑中、半田とつく土地は秦氏のいた集落である。  しかし、太秦という名は秦氏の首領、統率者がいる場所であることを示すものだ。太秦と名のついた土地は、河内と山背葛野の2か所しかない。この土地に、秦氏の統率者・秦王が住んだのである。 

 その太秦が河内から葛野に移ったのなら、当然、河内太秦で執り行われていた牛祭も、葛野に移ったと考えられる。となれば、牛祭は慈覚大師が伝える以前からあったことになる。つまり、これは秦氏の祭りであり、牛の犠牲が伴ったことも考えられないことはない。これがのちに慈覚大師により、仏教と習合したのだ。このときには、おそらく牛の犠牲祭は禁じられ、今の形になったのではあるまいか。  

 私は寝屋川に赴き、埋蔵文化財資料館の研究委員に取材し、古墳などを案内してもらったことがある。牛祭に関して聞くと、現在は執り行われておらず、詳細もわからないらしいが、胡面をかぶって踊った、ということは聞いたことがあるという。

  この河内太秦に関しての文献は、ほとんど何もないらしい。だが、寝屋川付近には太秦地区以外の古墳は残っているものもたくさんあって、実測調査はされているものの、市の予算だけでは発掘調査は思うようにいかず、ほとんどが解明されていないと研究員の方は嘆いていた。発掘調査が行われれば、秦氏の謎に関する何かが解明されるのかもしれない。


   ──ミトラスの密儀と花郎が酷似している謎  では、摩多羅神とは本当に秦氏の神なのだろうか。摩多羅神は、なぜ面をかぶっているのだろうか。  そのヒントは、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像にある。  弥勒、ミロクとは、サンスクリット語でマイトレーヤ(maitreya)の音を漢字化したものであるとされる。そのマイトレーヤの語源はミトラ(mithra)なのである。だが実際には、ミトラはペルシアに入ってミフラク(mifrake)となった。ミフラクが弥勒となったのだというのが正しい。そしてミトラが、マタラ、摩多羅になったのであろう。  ミトラは太陽神であり、救世主でもある。原初においては農耕の神であったが、契約、約束の神であり、闇を打ち砕く軍神ともなった。  ミトラはまた、ペルシアの方言でミシアと言った。メシアの語源である。ミトラ神は古代のイランを起源とするというが、あまりに古い神で、紀元前14世紀のユーフラテス上流の碑文に契約の神としてのミトラの名があるという。ミトラはローマに入って、隆盛した。イランのミトラと区別してミスラ、ミトラスともいう。  ミトラ、ミトラスはローマ時代、当時の暦において、冬至に当たる12月25



#4

 ──大嘗祭の原型は牛祭(ミトラの神事)か  践祚大嘗祭とは、天皇が即位した後に、五穀豊穣に感謝する一代一度の御大礼である。践祚とは、天皇の位を受け継ぐ、という意味で、これは、即位したばかりの天皇が、真の意味で天皇となるための儀式であるのだ。  大嘗祭は、謎に包まれている。なにもかもが判然としない。古代中国にも、朝鮮半島にも存在しない、わが国独特の最大の祭祀である。その神秘性の中に、天皇は存在するのだ。  肝心なのは、原初の大嘗祭の形であるが、これもわからない。しかし、大嘗祭について調べると、次のような重要な意味から成り立つと言えるのだ。 ○冬至に行われる。 ○東が解放され、強調される。 ○北辰信仰と関係する。 ○神人共食儀礼である。 ○神人共寝儀礼である。  民俗学者・吉野裕子(1916~2008)の『天皇の祭り』(講談社学術文庫)を参考に書き記すと、まず天皇は、大嘗祭に先行する1か月前に河原で祓をされるという。これを「御禊」という。  禊の地は、卜定(亀卜によって)で決められた。このとき、河原に頓宮が造られる。それは四方に大幔幕をはりめぐらせたものであるが、東側だけ幕をはらない。また、河原の頓宮そのものが東方に向かって開かれている。  頓宮の中には百子帳が建てられている。ここに天皇だけが籠られる。これは、東方から神霊を迎え、天皇の身内へ受け入れることを第一義としているかのように見える。  百子帳の中には剣が東南、つまり辰巳に置かれ、蛇を象徴する。百子帳そのものが、疑似母体とすれば、籠られる天皇は、神霊を受胎し、神として生まれ変わる役目を持つ。このときの天皇の本質は、巫女であり、性は女性であろう、と吉野はいう。  御禊神事は冬の酉刻(午後5時から7時)に行われる。  大嘗祭に当たっては、宮が造られる。そのための地鎮祭が、大嘗祭の儀の7日前に行われる。大嘗祭の正宮、大嘗宮は、二つ造られる。  東に悠紀殿、西に主基殿。大嘗祭が終わるとすぐに壊却される、簡素な臨時の仮屋である。  旧11月中卯の日に始まり、冬至を含む、午の日に終わる。つまり、卯、辰、巳、午の4日にわたって執り行われるのである。  天皇は、儀に先立って沐浴される。  践祚大嘗祭のハイライトは「神饌の共進」とされ、この神饌を天皇も共食される。つまり、天皇と神との晩餐である。祭祀者である天皇が神饌を摂るということは、祭祀者が被祭祀者、すなわち神であることを示している。  神との晩餐は、悠紀殿・主基殿の2か所で同じことが行われる。最初は悠紀殿、次に主基殿。北に廻立殿が造られ、回廊で結ばれている。ここから天皇は、悠紀殿、主基殿へ通うのである。  悠紀・主基とは神饌のための米・粟を耕作し、献上する斎田のことで、悠紀は東国、主基は西国から選ばれた。悠紀殿・主基殿ともに、中に御衾と呼ばれる寝室が用意される。布団、御坂枕、畳が8枚重ねられたベッドが置かれ、天皇は横に臥して、朝になって起き上がる。ここにも秘事が隠される。 『宮主秘事口伝』(1362年に成立した吉田[卜部]兼豊著による、神道祭祀論)によると、「大嘗会は神膳の共進第一の大事なり。秘事なり」とする。一切は筆にしても語ってもいけないのだ。  だが、こういうことは考えられる。  天皇が天皇となるには、自身に天皇の神聖を取り込まねばならない。だからその神聖を招いて、ともに食事をする。いわば神と神になろうとする者とが晩餐をするのである。それが、「神饌の共進」なのである。  この神聖を民俗学者、折口信夫は「天皇霊」と称した。天皇の祖霊である。その正体は、太陽神たる天照大神にほかならない。  また、天皇は御衾の中に、神聖を招き入れ、ともに寝るのである。寝る、横たわるということは、遺体となることを意味し、起き上がることで再生を演じることになるのだ。再生する太陽である。そして、天照大神が女神であるなら、それは聖婚を意味しよう。  ここで一貫しているのは、祭祀者である天皇が、同時に被祭祀者でもあるということである。そして、大嘗祭を終えると、天皇は真の天皇となるのだ。 「牛を屠るミトラ」は、屠った牛を神に捧げ、聖餐のテーブルに置いた。神饌の共食である。大嘗祭もまた、神と神になろうとする者が神饌の共食をする。さらに、大嘗祭の御禊に登場する剣や蛇の象徴、神霊を受胎し、生まれ変わる象徴も、ミトラ特有のものであるが、それはアラハバキの神をも思わせる。そして、7つの仮面を伴うミトラの劇は、聖婚劇であったのだ。  次に、牛祭を振り返ってみよう。  祭りは、秋に行われる。摩多羅神となる役目を負う人物は、1週間前から肉と酒を断ち、広隆寺の東に位置する木嶋神社の神池で禊をする。  牛祭当日は、朝から寺の東の門は開け放たれ、夜になって祭典が行われる。摩多羅神は東門から入場する。祭りは夜に行われる。朝に始まり、夜に終わるのだ。  摩多羅神は、燃え盛る炎の前で、摩多羅神を勧請する祭文を読む。摩多羅神は祭祀者でありながら、被祭祀者であるのだ。大嘗祭においても、天皇は祭祀者でありながら、被祭祀者であることが示される。  牛祭は五穀豊穣を祈る祭事である。元初においては、牛を屠って祭壇に上げたと考えられる。大嘗祭は、天皇と天皇の祖神たる神と神膳をともにし、秋にとれた穀物を食す。  牛祭は元初において、何日何時に行われたのであろう。摩多羅神は、阿弥陀如来の守護神であり、太陽神と関連する。いや、摩多羅神がミトラなら、摩多羅神もまた太陽神そのものである。  夜の闇の中に、東の門から松明を携えた摩多羅神が入場する、というのは、太陽の復活、闇に打ち勝つ太陽ということを意味している。すると、この祭祀は冬至に行うべきものとなる。  大嘗祭の原型は牛祭であり、牛祭の原型は牛を屠る神ミトラの再現ではあるまいか。私はそう思えてならない。  そしてこの仮説を、四天王寺が証明してくれるのである。   ──天照大神はなぜ「太一」と習合したのか  四天王寺は物部の祖山の神を拝する寺である、と私は考察した。それは生駒山から昇る太陽を拝す鳥居の存在と、創建時、それを守護する四天王が、生駒山を守護した配置であったことから導き出したものだ。  天皇の祖神は太陽神である、ということを示す象徴である。それが、日の本、つまり、天皇を戴く日本国という国の由縁である。  四天王寺は、北に向かって一直線に並ぶ北辰信仰を意識した伽藍配置が、天皇大帝を意味しており、それが天王寺の本質である、とも述べた。  しかしそうなると、大きな疑問が残る。  天皇という号名は、北辰信仰から来る天皇大帝から来ているはずである。天皇大帝の啓示を受けるから、天下を治める天子として、天皇は君臨するのである。  すると、大嘗祭にその北辰信仰の奥義が取り込まれていないのはなぜか、ということである。  太陽神たる神の血統を持つ倭の大王は、特別な存在として君臨していたのであろうが、聖徳太子は、この血統に北辰信仰の奥義を取り込むことで、大王から天皇へと昇格させ、国家神としたのである。四天王寺の伽藍配置がそれを示しているわけだ。  だとしたら、践祚大嘗祭に、その北辰の奥義が取り込まれなければならない。  実は大嘗祭において、天照大神は、「太一」と習合しているのである。太一とは、古代中国の天文思想から生み出された最高神である。もちろんそれは北極星にほかならない。同時に太一は、動かない北極星という静と、北極星を中心に動く北斗という動の、「太極」つまりは「陰陽」を示すものでもある。  大嘗祭で造られる大嘗宮は、北に廻立殿、東西に悠紀殿、主基殿の二つの祭屋が配置されることはすでに書いたが、吉野裕子『天皇の祭り』には、「廻立殿を中心とする東西両祭屋の角度は六十七度。この状況は天極を中心とする北斗・南斗の角度と、先述の大嘗祭共饌時(旧11月中卯日亥刻、大嘗祭開始推定時刻)における北斗・南斗の位置に一致する。すなわち、その際の北斗は東寄り、南斗は不可視ながら西寄りで、この両斗の位置および角度は、大嘗祭の祭屋構成にそのまま造型されているとみられるのである」とする。  この北斗とは北斗七星(貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍)、南斗とは古代中国の道教思想によって神格化された南斗星君で、それは、いて座のひしゃく形を形成する6つの星(天府、天梁、天機、天同、天相、七殺)をいう。北斗と南斗もまた陰陽において対を成していて、北斗は死を、南斗は生を司った。大嘗祭では、その思想を意識した、祭屋構成が成されているというのだ。  四天王寺が建立されるときに意識された、天皇大帝の帝とは太一であり、また、天皇大帝そのものもまた、太一と同一のものなのである。  古代中国では、太一の祭祀は八角形の壇の上でなされていた。八角は、道教思想でいう陰陽を表す中間の形、あるいは両方を合わせた形である。陰は四角、陽は円形を指し、易経の中で定義される八卦では、八方位といい、坎(北)・艮(北東)・震(東)・巽(東南)・離(南)・坤(西南)・兌(西)・乾(北西)で吉凶を表す。また八は森羅万象のすべてを表す数字でもあり、つまりは宇宙全体を象徴するわけである。  現代の天皇の皇位継承儀式において、天皇は八角形の「高御座」、皇后は八角形の「御帳台」に入られ、その中で儀式を行う。聖徳太子が、中で夢を見て、神の啓示を受けたという、法隆寺の夢殿がこの型であることは、だから重要なのである。  また、大嘗祭において天皇が着用する礼服の背の中央には、北斗七星が描かれる。このことは、天皇自身が、動かぬ北極星の化身であり、北斗たる宰相を臣下として、天下の人民を支配し、豊穣を祈る天子であることを表しているわけである。そして、摩多羅神の冠の紙にも、この北斗七星があったことも思い出す。  しかし、太陽神たる天照大神が、いつ、どのような経緯があって、太一と習合したのかはわからない。そこが秘儀である。ただ、そういった天皇の神についての根本思想は、四天王寺を建立した聖徳太子から出たものであろうと推測する。  それが、天皇を即位させる儀式の中に象徴的に配置され、方位や形でそれを示したのである。その秘密の奥義を口伝で受け継いだのが、歴代の祭祀者たちであったのだ。   ──聖徳太子と秦河勝は伎楽の始祖  四天王寺と広隆寺は、聖徳太子七寺の中の一つという共通点があるが、この2寺は、秦氏との関係がことさら深い寺なのである。  広隆寺が秦氏の本拠地に建てられた氏寺であり、また聖徳太子が薨去した折、新羅王から仏像と舎利、金塔が贈られ、仏像は広隆寺に、他のものは四天王寺に納められたという記述が『日本書紀』にあることも述べた。聖徳太子七寺に関して、このように具体的な表記があるのは、実はこの2寺のみである。  聖徳太子が推古9年に斑鳩宮の造営に着手し、推古13年に移り住んだということは書かれてあるが、斑鳩寺(法隆寺)については何も書かれていない。ただ、天智9年(670)に、法隆寺は一屋も残さず焼けた、と書くのが初出である。ということは、実際に聖徳太子が関係したとされる寺は、記録上ではこの四天王寺と広隆寺なのである。そして四天王寺が天皇号の発祥した寺であるなら、広隆寺では聖徳太子がその天皇に即位しているのだ。  広隆寺太子殿に、衣冠束帯姿の聖徳太子像が置かれている。その衣は、実際に天皇が即位式で用いたものを下賜されたものなのである。現在の聖徳太子像が身にまとっている衣は、今上天皇から贈られたものである。つまりここでは、聖徳太子は歴代天皇の御衣をまとうことで、天皇になっているのである。  天皇に関わるこの2寺。そこに秦氏、特に秦河勝が関わるのだ。  秦河勝とは、何者であろうか?  秦河勝は、猿楽の始祖であると、『寝屋川市史』にある。 「謡すなわち謡曲とは申楽の能に用うる歌曲のことである。一三六〇年余前、聖徳太子が神楽をくずして卑近な曲六六番を作り、秦川勝に命じて紫宸殿の前で演ぜしめられたのが始めで、その時、こんな卑近な曲を神楽と呼ぶのは遠慮すべきだというので、神の字を分けて申楽と名付けたものと伝えられている」  申楽(猿楽)は、その後、滑稽な物まねや曲芸のようなものに発展し、やがてセリフを中心にして滑稽な芝居を演じる狂言と、歌舞に重点を置いた能となる。その始祖が、聖徳太子と秦河勝だというのだ。だが、申楽と呼ばれたのは平安時代からで、これを能の形にしたのは、南北朝時代の役者の観阿弥とその長男の世阿弥である。観阿弥、世阿弥は、秦河勝の子孫と称した秦氏であった。  四天王寺によると、四天王寺建立に際して、経済的に支えたのは秦氏であったという。建立のために必要とされた木材や石材は、河内にいた秦氏が山背国の山々から運んだといい、携わった技術者、職人、大工も多くは秦氏であったという。このことは、広隆寺同様、秦氏の信仰が四天王寺に反映されていたということではないのか?  秦氏はこの後、仏教というよりは、稲荷や八幡といった神社の造営に関わることになる。  その門前に、鳥居が建てられることになるのだ。神道である。  ただ、当時の神道は、牛や馬の犠牲が伴っていた。物部神道の最奥義を司る石上神宮にも、雨乞いの祈祷には、牛馬が生贄の祭壇に上げられたという。犠牲の牛は最上級の黄牛で、その首を切り、胴体は川へ投げ込まれたのだ。 『続日本紀』には皇極天皇の時代になっても、村々の祝部の教えのままに牛馬を殺して諸々の社の神を祀ったとある。延暦10年(791)に朝廷は、村々に牛を殺して漢神を祀ることを禁止し、その後何度も禁止令を出したが、なかなか止まらなかったとも書いている。  おそらくこれは、全国に農民として住みつき、山々を開墾する秦氏が行った祭祀ではないかと思われる。そして、秦氏の首領たる太秦公は、ことさらミトラ神の祭祀を執り行っていたのである。 

  民間の犠牲祭は平安時代には姿を消すが、太秦の犠牲祭は牛祭として残ったのである。とすれば、四天王寺でも太秦同様、牛の犠牲祭が行われたのではないかと思われる。となれば、天王寺の牛市における伝承に、聖徳太子と秦河勝が出てくることに納得がいく。牛市は全国から牛が集められる。犠牲に最も適した聖なる牛が、そこに現れるのである。

  聖徳太子と秦河勝の共通点に、伎楽の始祖である、ということがある。

  実は、四天王寺建立とともに、聖徳太子は雅楽・伎楽を奨励し、四天王寺に楽人を置いたとされているのだ。雅楽演奏家の東儀秀樹(1959~)氏は、正式には楽人という。

  東儀家は天王寺方の楽人から出たのである。東儀秀樹氏の父である東儀兼彦氏の発言によれば、「東儀という名は途中からもらった姓であって、昔は太秦だったんです。豪族の一部ですよね。その中でお酒を造る人あり、音楽をやる人あり、機織りする人あり、ということで。私が五十二代ですね」(早稲田大学発行『新鐘』NO.63)ということで、はっきりと秦氏なのである。

  それは四天王寺直属となった楽人は、天王寺流の舞楽を「秦姓の舞」と称したということからも証明されよう。そして、天王寺方の楽人が太秦を名乗っていたということは、秦河勝の直系であり、四天王寺で秦河勝の家人が伎楽を演奏し、舞ったということを意味する。  


20160422 四天王寺雅楽 Gagaku 
https://youtube.com/watch?v=SUacFmTrRMI&feature=shared

https://youtu.be/SUacFmTrRMI?feature=shared



 当然、その舞は、秦河勝の本拠地、葛野の太秦でも行われていたであろう。楽人は、太秦にも置かれ、橘寺にも置かれたという。太秦と四天王寺は、この伎楽でつながるのである。

  伎楽そのものは、平安時代以降に衰退していき、現代では演じられない。ただ、四天王寺の天王寺方の楽人たちは、「聖霊会」や「篝の舞楽」などで、天王寺舞楽を今に伝えているのだ。 「聖霊会」は、聖徳太子の命日である4月22日(旧暦2月22日)に執り行われ、午後1時より、5時間にわたって十数曲が演奏され、舞が披露される。この中で「行道楽」「獅子」の楽曲が演奏されるが、これが伎楽の名残を伝えているといわれている。 

 そして、8月4日には、四天王寺の講堂前で、「篝の舞楽」が催されている。これは、「昭和28年に創立された天王寺舞楽協会主催により、同年から始められた舞楽演奏会です」と、天王寺楽所のホームページにある。夜7時より始まる夜の篝火に照らされ演じられる舞楽である。 

 四天王寺創設時に舞われた伎楽とはどのようなものであったのかはわからない。しかし聖徳太子の時代に、秦氏による太秦式の仮面劇が、神事として行われたことは確実であろう。  そしてその舞楽に使われた仮面がミトラの7つの位階に対応していたというのなら、それは、ミトラ神事であったということにほかならない。   ──四天王は毘沙門天=ミトラ=弥勒である  太秦の牛祭は、摩多羅神を守護するように、鬼の面をかぶった四天王が寄り添っていた。あれがなぜ、四天王というのかは、摩多羅神や四天王を演じる人たちはもちろん、広隆寺の貫主も、木嶋神社の宮司も、わからない、という返答であった。しかし、四天王寺と広隆寺の密接な関係から、こういうことが考えられよう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

「スサノオの命」の正体に迫る! – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「スサノオの命」の正体に迫る! – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究 イザヤ書においても、イスラエルの民に対して神が「妨げの岩」となり(8章14節)、御顔を隠してしまうことが書かれています(8章17節)。そして民衆が暗闇におののく最中(8章21節)、「海沿いの道」、「海に至...