「白山信仰の謎と古代朝鮮」より:
「私がここでことさらに殺牛祭祀の禁に注目するのは、先に述べた牛頭天王といい、天神の臥牛といい、なぜか渡来の神々には牛のイメージがともなうからである。毎年、十月十日(昔は旧暦の九月十二日)の夜、太秦広隆寺で行われる奇祭もそうだ。牛祭りの名があるように、祭事の中心は黒牛に乗って登場した摩多羅神が、薬師堂の前で怪しげな祭文を読みあげる。喜田貞吉は、この祭りを、秦氏が牛を生贄として韓神を祀った古い習俗にもとづいているのではないかと推量した(「太秦牛祭の変遷」)。」
「殺牛祭祀を主宰した村々の祝部(はふりべ)の祝(はふり)は、屠(はふ)り、葬(はふ)りと同義で、その仕事をする者は聖職者だった。ところが、仏教の禁肉食思想や血穢思想が浸透すると、彼らは被差別者とみなされるようになる。和歌山県白浜町十九(つくも)淵では、旱魃のとき、牛の首を切って滝壺に供える神事が近年まで行われていたが、それを執行するのは被差別部落の人たちだった(渡辺広『未解放部落の史的研究』)。こうした事情は、本家の朝鮮でも変わらない。殺牛を執行したのは、白丁(ペクチョン)、広大(クワンデ)、揚水尺(ヤンスーチョク)と呼ばれた被差別者たちだったのだ。」
http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-4495.html
前田速夫/前田憲二/川上隆志 『渡来の原郷 ― 白山・巫女(ムダン)・秦氏の謎を追って』
「わが国固有のものとみなされてきた神社信仰の基層に、朝鮮半島から渡来した神々が深く関わっているのは、いまや常識であろう。」(前田速夫 「白山信仰の謎と古代朝鮮」 より)
前田速夫/前田憲二/川上隆志
『渡来の原郷
― 白山・巫女(ムダン)・秦氏の謎を追って』
現代書館
2010年6月20日 第1版第1刷発行
230p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価 2,200円+税
装丁:中山銀士
本文中に図版(モノクロ)65点、地図2点。
目次:
白山信仰の謎と古代朝鮮 (前田速夫)
謎の白山信仰
江陵端午祭の旅
渡来する神々
シラヤマ神の淵源
殺牛祭祀の禁
穢族の南下と流入の経路
南島の日月信仰と再生信仰
大年神の系譜と白日神の正体
朝鮮半島の呪術と霊魂観――巫女(ムダン)を貫く祭儀―― (前田憲二)
その一 ソノルムクッ(牛戯の農耕儀礼)――人間文化財 金錦花(キムグムファ)ムダン
その二 「萬寿大宅(マンスウテタック)クッ」と祝祭
その三 別神祭(ピョルシンジェ)(洞祭(タンジェ)の巫女儀式・堂クッ)――人間文化財 申石南巫女(シンソクナムムダン)を追って
その四 韓国最大の祭り、江陵「端午祭」――賓順愛巫女(ピンスネムダン)を追って
その五 珍島(チンド)のタシレギ(弔い祭り)について
渡来文化と謎の民――秦氏・大久保長安の原郷を求めて―― (川上隆志)
秦氏の末裔、大久保長安
近世を創った男
大久保長安と金山・銀山
大久保長安と甲斐黒川金山/大久保長安と石見銀山/大久保長安と佐渡金銀山/大久保長安と伊豆金山/院内銀山の光芒
渡来の民・秦氏の末裔
秦氏と日本文化
秦氏の原郷を訪ねて
『豊基秦氏族譜』を読む
渡来文化と日本列島
あとがき (前田憲二)
◆本書より◆
「白山信仰の謎と古代朝鮮」より:
「私がここでことさらに殺牛祭祀の禁に注目するのは、先に述べた牛頭天王といい、天神の臥牛といい、なぜか渡来の神々には牛のイメージがともなうからである。毎年、十月十日(昔は旧暦の九月十二日)の夜、太秦広隆寺で行われる奇祭もそうだ。牛祭りの名があるように、祭事の中心は黒牛に乗って登場した摩多羅神が、薬師堂の前で怪しげな祭文を読みあげる。喜田貞吉は、この祭りを、秦氏が牛を生贄として韓神を祀った古い習俗にもとづいているのではないかと推量した(「太秦牛祭の変遷」)。」
「殺牛祭祀を主宰した村々の祝部(はふりべ)の祝(はふり)は、屠(はふ)り、葬(はふ)りと同義で、その仕事をする者は聖職者だった。ところが、仏教の禁肉食思想や血穢思想が浸透すると、彼らは被差別者とみなされるようになる。和歌山県白浜町十九(つくも)淵では、旱魃のとき、牛の首を切って滝壺に供える神事が近年まで行われていたが、それを執行するのは被差別部落の人たちだった(渡辺広『未解放部落の史的研究』)。こうした事情は、本家の朝鮮でも変わらない。殺牛を執行したのは、白丁(ペクチョン)、広大(クワンデ)、揚水尺(ヤンスーチョク)と呼ばれた被差別者たちだったのだ。」
「穢(わい)(濊とも書く)族とは、紀元前二世紀以来、約千年にわたって朝鮮半島の咸鏡道から江原道の沿岸地帯や、中国の松花江流域に実在したことが確認されるツングース系の部族。主に漁撈・狩猟・牧畜を生業とし、養蚕・農耕も行っていた。彼らが天空信仰を有し、殺牛祭祀を行っていたことは、すでに三七ページで紹介した。対して、よく並び称されるのが貊(はく)族で、神社の狛犬(こまいぬ)の狛は、この貊に由来する(中略)。旧満州、つまり中国東北部から、朝鮮半島の北部にかけての広大な領域に蟠踞(ばんきょ)する民は、中国の正史では一括して東夷の名で呼ばれ、穢も貊も、大和朝廷がまつろわぬ異族を熊襲、蝦夷と名指したように、明らかな蔑称である。
よく知られているように、朝鮮民族は、おおまかに言って、大陸から二度にわたって移動してきた人々によって形成された。最初に移動してきた人々は半島の南部に定着し、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)を建てた。二度目に移動してきた人々は北部地域に拡がり、夫餘(ふよ)、沃沮(よくそ)、穢貊(わいはく)を建て、のち高句麗によって統合され、一部が南下して百済に包含された。穢族はみずからは国家を作らず、夫餘や高句麗や三韓、あるいは靺鞨(まっかつ)や渤海(ぼっかい)に支配・吸収されてしまったため、その実体は不明な点が多いけれど、居住区からして白頭山や太白山を聖なる山と仰いでいたのに相違なく、私が本稿の冒頭に引いた中国・朝鮮の白山部の住人が、とりも直さずこの部族であった。」
「わが国の神社に鳥居や狛犬が備わっているのも、基層に朝鮮渡来の信仰・民俗が濃厚に付着していることの証しである。以前、私は中国雲南を旅したとき、白(ペー)族の博物館で、鳥居とそっくりな形をした木組みの上に取りがとまっている建造物が村の入り口に置かれている展示を見て一驚したことがあったが、朝鮮には有名な鳥柱(チャンスン)(天下大将軍・地下女将軍の柱)や鳥竿(ソッテ)があって、やはり村の入り口を護っている。同じく魔除けの役割を担う狛犬は、平安時代末期、それまでは天皇の御座の左右に置かれていた獅子・狛犬が神社の境内に進出したもので、狛が貊族の貊に由来することは、すでに述べた。」
「それにしても、古代においてはこれほど優勢で普遍的だった自然神信仰が、わが国ではある時期から急に見えにくくなるのは、なぜだろうか。私はそれを、皇室の祖先神に祀り上げられたアマテラスがこれら太陽神信仰、穀霊信仰を独り占めにして、シラヤマ神から派生した民間の白山信仰には弾圧を加えて排除し(殺牛祭祀の禁がそれにあたる)、その他の渡来神・外来神は在地の神と習合させて、極力目立たぬように作為した結果であると思量する。(中略)言い換えるなら、それらが謎なのは、本来は明確だった古代の信仰が、意図的に隠されてしまったからなのであった。」
「朝鮮半島の呪術と霊魂観」より:
「十世紀から十四世紀にかけては高麗時代を迎えるが、この時代までは巫俗神事や神占いなどのクッは王宮での神事と深くかかわり、ムダンや男シャーマンであるパクス(博士または卜師)は大変尊敬され、社会的にも高い地位にあった。
それ以後、朝鮮王朝になると、儒教が国教に定められ、クッやシャーマンは蔑視され、差別を受けるようになる。
芸人は賤民の階層に追いやられ、徹底した差別を受けるようになる。彼らはそんななかで生活形態も変化し、村里を廻ってもっぱら口寄せ、神占い、諸芸を売り、辛うじて芸能を伝承してきた。村落によっては、ムダンらの一団が村入りすると村人たちが唾をかけ、石を投げつけたと伝えられている。時代は少し下がるが、放浪芸人集団である男寺党(ナムサダン)は、巫俗集団とはその性格が異なり、彼らは男色でもあり、女は春を売って生活していたためか、徹底した差別を受けてきたという。」
「巫女たちの役割は大変幅広く、死霊を追放し、不浄なるものを清め、呪術によって超自然的な存在や神秘的な世界感を会得し、それを人びとに理解させ、芸能を演じることで村落の人びとと交歓する。仏教が入り込まない時代から、朝鮮半島にはソッテ(鳥竿)やチャンスンがあり、村の守護神としての城隍堂(ソナンダン)があり、古代から巫歌が連綿と伝えられてきた。」
「近年まで東南アジア全体でみられたソッテは、いまも韓国で見ることができる。このソッテは村の入り口や、小高い山の麓などに立っていて、四~五メートルの木の上には固い木で造形した鳥が二羽、または四羽が止まっている。鳥は遠い土地から幸福を運んでくるという俗信がある。このソッテが、近年日本列島各地で発掘されている。」
こちらもご参照ください:
安宇植 編訳 『[増補] アリラン峠の旅人たち』 (平凡社ライブラリー)
鳥越憲三郎 『古代朝鮮と倭族』 (中公新書)
川村二郎 『伊勢の闇から』
宮田登 『原初的思考 ― 白のフォークロア』
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- 植田重雄 『聖母マリヤ』 (岩波新書)
- 安宇植 編訳 『[増補] アリラン峠の旅人たち』 (平凡社ライブラリー)
- 比嘉康雄 『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』 (集英社新書)
- 高取正男 『神道の成立』 (平凡社ライブラリー)
- 戸川安章 『修験道と民俗』 (民俗民芸双書)
- 宮田登 『原初的思考 ― 白のフォークロア』
- 吉野裕子 『日本人の死生観 ― 蛇信仰の視座から』 (講談社現代新書)
- 宮本常一 『絵巻物に見る日本庶民生活誌』 (中公新書)
- 村山修一 『日本陰陽道史話』 (朝日カルチャーブックス)
- 『コリャード 懺悔録』 大塚光信 校注 (岩波文庫)
- レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (下)』 山田吉彦 訳 (岩波文庫)
- レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (上)』 山田吉彦 訳 (岩波文庫)
「第八阿達羅王(あだつらおう)の即位四年丁酉、東海の浜に延烏郎(えんうろう)と細烏女(さいうめ)の夫婦有りて居(お)れり。一日、延烏、海に帰(つ)きて藻を採(と)れり。忽ち一巌有りて〈一に云く。一魚〉、負いて日本に帰(おく)る。国人、之を見て曰く。此れ非常の人なりと。乃ち立てて王と為す。」
(「『三国遺事』日本伝」 より)
『三国史記倭人伝
他六篇
― 朝鮮正史日本伝1』
佐伯有清 編訳
岩波文庫 青/33-447-1
岩波書店
1988年3月16日 第1刷発行
247p
文庫判 並装 カバー
定価450円
本書「凡例」より:
「本書は、『三国史記』『三国遺事』にみえる倭・日本関係の記事を抜き出し、あわせて七支刀・広開土王(好太王)碑・高仙寺誓幢和上塔碑に記されている倭・日本関係の銘文を取りあげて、これに訳注をほどこしたものである。」
「訳文は、『三国史記』については朝鮮史学会本(今西龍校訂・末松保和補訂)を、『三国遺事』については同じく朝鮮史学会本(今西龍校訂・末松保和「王暦第一」校訂)を底本とし、附録として掲げた両版本の原文を参照しながら書きくだした。」
「七支刀・広開土王碑銘の訳文は、佐伯有清『七支刀と広開土王碑』にもとづき、高仙寺誓幢和上塔碑銘の訳文は、稲葉岩吉『朝鮮金石攷』所載の釈文によって書きくだした。」
「現代語訳は、原文に即して訳し、意訳するのを出来るだけ避けた。」
「附録に収めた『三国史記』の原文は、学習院東洋文化研究所刊の影印本(李朝中宗七年〈一五一二〉慶州重刊本)、『三国遺事』の原文は、同研究所刊の影印本(中宗七年の刊行とされる今西本〈天理図書館所蔵〉)によった。」
「附録に掲げた七支刀の図版は、榧本杜人(かやもともりと)(一九〇一~七〇)の作図したものを利用し、広開土王碑文の拓本は、内藤虎次郎旧蔵拓本(京都大学人文科学研究所所蔵)から抜粋し、高仙寺誓幢和上塔碑文は、稲葉岩吉『朝鮮金石攷』所載の釈文にもとづいた。」
「巻末に朝鮮三国・倭・日本関係年表と参考文献一覧とを掲げ、本書の利用の便を図った。」
カバー文:
「古代朝鮮の二大史書である『三国史記』『三国遺事』にみえる倭・日本関係の記事をはじめ、七支刀・広開土王(好太王)碑・高仙寺誓幢和上塔碑に記されている倭・日本関係の銘文等を一書に集めた基本史料集。丁寧な訳注を付した読み下し文、現代語訳に加えて、巻末に原文(影印)・年表・参考文献を付した。」
目次:
まえがき
凡例
解説
訳注
一 『三国史記』倭人伝
新羅本紀
高句麗本紀
百済本紀
雑志
列伝
二 『三国遺事』倭人伝
三 七支刀銘文
四 広開土王碑文抄
五 『三国史記』日本伝
新羅本紀
雑志
列伝
六 『三国遺事』日本伝
七 高仙寺誓幢和上塔碑文抄
現代語訳
附録
原文(影印)
朝鮮三国・倭・日本関係年表
参考文献一覧
◆本書より◆
「訳注『三国遺事』日本伝」より:
「〔一六七〕 海東安弘記に云く。九韓とは、一に日本、二に中華、三に呉越……。(紀異第一、馬韓条)」
「〔一六八〕 第八阿達羅王(あだつらおう)の即位四年丁酉、東海の浜に延烏郎(えんうろう)と細烏女(さいうめ)の夫婦有りて居(お)れり。一日、延烏、海に帰(つ)きて藻を採(と)れり。忽ち一巌有りて〈一に云く。一魚〉、負いて日本に帰(おく)る。国人、之を見て曰く。此れ非常の人なりと。乃ち立てて王と為す。(紀異第一、延烏郎、細烏女条)」
「〔一六九〕 日本帝紀を按ずるに、前後に新羅人にして、王と為る者無し。此れ乃ち辺邑の小王にして、真(まこと)の王に非ざる也。(同右条注)」
「〔一七〇〕 是の時、新羅、日月(じつげつ)、光(ひかり)無し。日者(にっしゃ)、奏して云く。日月の精、降りて我が国に在りしも、今、日本に去る。故に斯の怪を致せりと。(紀異第一、延烏郎、細烏女条)」
「〔一七一〕 開元十年壬戌十月、始めて関門を毛火郡に築く。今の毛火村にして、慶州の東南の境に属す。乃ち日本を防ぐの塞垣(さいえん)なり。(紀異第二、孝成王条)」
「〔一七二〕 貞元二年丙寅十月十一日、日本王文慶、兵を挙げて新羅を伐(う)たんと欲す。新羅に万波息笛有(あ)りと聞きて、兵を退(しりぞ)かせ、金五十両を以て、使を遣わして、其の笛を請(こ)えり。(紀異第二、元聖大王条)」
「〔一七三〕 日本帝紀を按ずるに、第五十五主は文徳王なり。疑うらくは是れか。余(ほか)に文慶なし。或る本に云く。是の王の太子なりと。(同右条注)」
「〔一七四〕 海東の名賢安弘が撰せる東都成立記に云く。新羅の第二十七代は、女王が主と為る。道有りと雖(いえど)も威なし。九韓、侵労す。若し竜宮の南の皇竜寺に九層の塔を建てれば、則ち隣国の災を鎮む可からん。第一の層は、日本、第二の層は、中華、第三の層は、呉越。……(塔像第四、皇竜寺九層塔条)」
「〔一七五〕 第五の居烈郎、第六の実処郎〈一に突処郎に作る〉、第七の宝同郎等、三花の徒、楓岳に遊ばんと欲す。彗星(すいせい)有りて心大星(しんだいせい)を犯さんとす。郎徒、之(これ)を疑いて、其の行を罷めんと欲す。時に天師、歌を作りて歌うに、星の恠(かい)、即ち滅し、日本の兵、国に還り、反(かえ)りて福慶を成(な)せり。大王、歓喜して、郎を遣わして岳に遊ばしむ。(感通第七、融天師彗星歌、真平王代条)」
「三花の徒」注:
「居烈郎・実処郎・宝同郎ら三人の花郎。花郎については、『三国史記』新羅本紀、真興王三十七年(五七六)条に、美男子を選び、化粧させ、美しく装わせて花郎と名づけた国家的集団組織である花郎制度の起源伝説がみえる。」
「現代語訳『三国遺事』日本伝」より:
「〔一六七〕 海東の『安弘の記』では、「九韓とは、一に日本、二に中華、三に呉越……」と言っている。」
「〔一六八〕 第八代の阿達羅王の即位四年〔一五七〕丁酉に、東海の浜に延烏郎と細烏女の夫婦が住んでいた。ある日、延烏は、海に行って藻を採っていた。突然、一つの巌があって〈あるいは、一匹の魚であったという〉、(延烏を)背負って日本に送っていった。国人は、これを見て、「これは並みすぐれた人物だ」と言って、即位させて王とした。」
「〔一六九〕 『日本帝紀』によって考えてみると、この前後に新羅人で、(日本の)王となった者はいない。これは、つまり辺邑の小王であって、真の王ではないのであろう。」
「〔一七〇〕 この時、新羅では太陽と月とが輝かなかった。天文を占う者が奏して、「太陽と月の精が降りてきて、わが国にいたが、いま日本に去って行ってしまった。だからこのような奇異が起ったのだ」と言った。」
「〔一七一〕 開元十年〔七二二〕壬戌十月に、はじめて関門を毛火郡に築いた。いまの毛火村であって、慶州の東南の境に属している。すなわち日本(の来襲)を防ぐための要塞なのである。」
「〔一七二〕 貞元二年〔七八六〕丙寅十月十一日に、日本王の文慶は、軍隊を出動させて新羅を攻伐しようとした。新羅に「万波息笛」という笛があると聞いて、軍隊を退かせ、使者を遣わして、金五十両でもって、その笛を求めようとした。」
「〔一七三〕 『日本帝紀』によって考えてみると、第五十五代の王は、文徳王である。推測すれば、この王であろうか。他に文慶(という王)はいない。ある本では、この(文徳)王の太子であると言っている。」
「〔一七四〕 海東で名高く賢い人物である安弘が撰した『東都成立記』に、「新羅の第二十七代の王として女王が君主となった。徳はあったが、威力がなかった。(そこで)九韓が(新羅を)侵した。もし竜宮の南の皇竜寺に九層の塔を建てれば、すなわち近隣の国の侵犯を鎮めることができるであろう。第一の層は日本、第二の層は中華、第三の層は呉越……」と言っている。」
「〔一七五〕 第五番目の居烈郎、第六番目の実処郎〈あるいは突処郎にも作る〉、第七番目の宝同郎ら三名の花郎の人たちが、楓岳に遊ぼうとした。(その時)彗星が現われ心大星を犯そうとした。花郎の人たちは、これを不吉なこととして、遊びに行くのを止めようとした。その時、融天師が歌を作って歌うと、星の異変は、たちまち消え、日本の軍隊は、国に帰って行って、かえって幸いなことになった。(真平)大王は、歓喜して花郎たちを遣わして、岳で遊ばせた。」
こちらもご参照ください:
『新訂 魏志倭人伝 他三篇 ― 中国正史日本伝(1)』 石原道博 編訳 (岩波文庫)
(「『三国遺事』日本伝」 より)
『三国史記倭人伝
他六篇
― 朝鮮正史日本伝1』
佐伯有清 編訳
岩波文庫 青/33-447-1
岩波書店
1988年3月16日 第1刷発行
247p
文庫判 並装 カバー
定価450円
本書「凡例」より:
「本書は、『三国史記』『三国遺事』にみえる倭・日本関係の記事を抜き出し、あわせて七支刀・広開土王(好太王)碑・高仙寺誓幢和上塔碑に記されている倭・日本関係の銘文を取りあげて、これに訳注をほどこしたものである。」
「訳文は、『三国史記』については朝鮮史学会本(今西龍校訂・末松保和補訂)を、『三国遺事』については同じく朝鮮史学会本(今西龍校訂・末松保和「王暦第一」校訂)を底本とし、附録として掲げた両版本の原文を参照しながら書きくだした。」
「七支刀・広開土王碑銘の訳文は、佐伯有清『七支刀と広開土王碑』にもとづき、高仙寺誓幢和上塔碑銘の訳文は、稲葉岩吉『朝鮮金石攷』所載の釈文によって書きくだした。」
「現代語訳は、原文に即して訳し、意訳するのを出来るだけ避けた。」
「附録に収めた『三国史記』の原文は、学習院東洋文化研究所刊の影印本(李朝中宗七年〈一五一二〉慶州重刊本)、『三国遺事』の原文は、同研究所刊の影印本(中宗七年の刊行とされる今西本〈天理図書館所蔵〉)によった。」
「附録に掲げた七支刀の図版は、榧本杜人(かやもともりと)(一九〇一~七〇)の作図したものを利用し、広開土王碑文の拓本は、内藤虎次郎旧蔵拓本(京都大学人文科学研究所所蔵)から抜粋し、高仙寺誓幢和上塔碑文は、稲葉岩吉『朝鮮金石攷』所載の釈文にもとづいた。」
「巻末に朝鮮三国・倭・日本関係年表と参考文献一覧とを掲げ、本書の利用の便を図った。」
カバー文:
「古代朝鮮の二大史書である『三国史記』『三国遺事』にみえる倭・日本関係の記事をはじめ、七支刀・広開土王(好太王)碑・高仙寺誓幢和上塔碑に記されている倭・日本関係の銘文等を一書に集めた基本史料集。丁寧な訳注を付した読み下し文、現代語訳に加えて、巻末に原文(影印)・年表・参考文献を付した。」
目次:
まえがき
凡例
解説
訳注
一 『三国史記』倭人伝
新羅本紀
高句麗本紀
百済本紀
雑志
列伝
二 『三国遺事』倭人伝
三 七支刀銘文
四 広開土王碑文抄
五 『三国史記』日本伝
新羅本紀
雑志
列伝
六 『三国遺事』日本伝
七 高仙寺誓幢和上塔碑文抄
現代語訳
附録
原文(影印)
朝鮮三国・倭・日本関係年表
参考文献一覧
◆本書より◆
「訳注『三国遺事』日本伝」より:
「〔一六七〕 海東安弘記に云く。九韓とは、一に日本、二に中華、三に呉越……。(紀異第一、馬韓条)」
「〔一六八〕 第八阿達羅王(あだつらおう)の即位四年丁酉、東海の浜に延烏郎(えんうろう)と細烏女(さいうめ)の夫婦有りて居(お)れり。一日、延烏、海に帰(つ)きて藻を採(と)れり。忽ち一巌有りて〈一に云く。一魚〉、負いて日本に帰(おく)る。国人、之を見て曰く。此れ非常の人なりと。乃ち立てて王と為す。(紀異第一、延烏郎、細烏女条)」
「〔一六九〕 日本帝紀を按ずるに、前後に新羅人にして、王と為る者無し。此れ乃ち辺邑の小王にして、真(まこと)の王に非ざる也。(同右条注)」
「〔一七〇〕 是の時、新羅、日月(じつげつ)、光(ひかり)無し。日者(にっしゃ)、奏して云く。日月の精、降りて我が国に在りしも、今、日本に去る。故に斯の怪を致せりと。(紀異第一、延烏郎、細烏女条)」
「〔一七一〕 開元十年壬戌十月、始めて関門を毛火郡に築く。今の毛火村にして、慶州の東南の境に属す。乃ち日本を防ぐの塞垣(さいえん)なり。(紀異第二、孝成王条)」
「〔一七二〕 貞元二年丙寅十月十一日、日本王文慶、兵を挙げて新羅を伐(う)たんと欲す。新羅に万波息笛有(あ)りと聞きて、兵を退(しりぞ)かせ、金五十両を以て、使を遣わして、其の笛を請(こ)えり。(紀異第二、元聖大王条)」
「〔一七三〕 日本帝紀を按ずるに、第五十五主は文徳王なり。疑うらくは是れか。余(ほか)に文慶なし。或る本に云く。是の王の太子なりと。(同右条注)」
「〔一七四〕 海東の名賢安弘が撰せる東都成立記に云く。新羅の第二十七代は、女王が主と為る。道有りと雖(いえど)も威なし。九韓、侵労す。若し竜宮の南の皇竜寺に九層の塔を建てれば、則ち隣国の災を鎮む可からん。第一の層は、日本、第二の層は、中華、第三の層は、呉越。……(塔像第四、皇竜寺九層塔条)」
「〔一七五〕 第五の居烈郎、第六の実処郎〈一に突処郎に作る〉、第七の宝同郎等、三花の徒、楓岳に遊ばんと欲す。彗星(すいせい)有りて心大星(しんだいせい)を犯さんとす。郎徒、之(これ)を疑いて、其の行を罷めんと欲す。時に天師、歌を作りて歌うに、星の恠(かい)、即ち滅し、日本の兵、国に還り、反(かえ)りて福慶を成(な)せり。大王、歓喜して、郎を遣わして岳に遊ばしむ。(感通第七、融天師彗星歌、真平王代条)」
「三花の徒」注:
「居烈郎・実処郎・宝同郎ら三人の花郎。花郎については、『三国史記』新羅本紀、真興王三十七年(五七六)条に、美男子を選び、化粧させ、美しく装わせて花郎と名づけた国家的集団組織である花郎制度の起源伝説がみえる。」
「現代語訳『三国遺事』日本伝」より:
「〔一六七〕 海東の『安弘の記』では、「九韓とは、一に日本、二に中華、三に呉越……」と言っている。」
「〔一六八〕 第八代の阿達羅王の即位四年〔一五七〕丁酉に、東海の浜に延烏郎と細烏女の夫婦が住んでいた。ある日、延烏は、海に行って藻を採っていた。突然、一つの巌があって〈あるいは、一匹の魚であったという〉、(延烏を)背負って日本に送っていった。国人は、これを見て、「これは並みすぐれた人物だ」と言って、即位させて王とした。」
「〔一六九〕 『日本帝紀』によって考えてみると、この前後に新羅人で、(日本の)王となった者はいない。これは、つまり辺邑の小王であって、真の王ではないのであろう。」
「〔一七〇〕 この時、新羅では太陽と月とが輝かなかった。天文を占う者が奏して、「太陽と月の精が降りてきて、わが国にいたが、いま日本に去って行ってしまった。だからこのような奇異が起ったのだ」と言った。」
「〔一七一〕 開元十年〔七二二〕壬戌十月に、はじめて関門を毛火郡に築いた。いまの毛火村であって、慶州の東南の境に属している。すなわち日本(の来襲)を防ぐための要塞なのである。」
「〔一七二〕 貞元二年〔七八六〕丙寅十月十一日に、日本王の文慶は、軍隊を出動させて新羅を攻伐しようとした。新羅に「万波息笛」という笛があると聞いて、軍隊を退かせ、使者を遣わして、金五十両でもって、その笛を求めようとした。」
「〔一七三〕 『日本帝紀』によって考えてみると、第五十五代の王は、文徳王である。推測すれば、この王であろうか。他に文慶(という王)はいない。ある本では、この(文徳)王の太子であると言っている。」
「〔一七四〕 海東で名高く賢い人物である安弘が撰した『東都成立記』に、「新羅の第二十七代の王として女王が君主となった。徳はあったが、威力がなかった。(そこで)九韓が(新羅を)侵した。もし竜宮の南の皇竜寺に九層の塔を建てれば、すなわち近隣の国の侵犯を鎮めることができるであろう。第一の層は日本、第二の層は中華、第三の層は呉越……」と言っている。」
「〔一七五〕 第五番目の居烈郎、第六番目の実処郎〈あるいは突処郎にも作る〉、第七番目の宝同郎ら三名の花郎の人たちが、楓岳に遊ぼうとした。(その時)彗星が現われ心大星を犯そうとした。花郎の人たちは、これを不吉なこととして、遊びに行くのを止めようとした。その時、融天師が歌を作って歌うと、星の異変は、たちまち消え、日本の軍隊は、国に帰って行って、かえって幸いなことになった。(真平)大王は、歓喜して花郎たちを遣わして、岳で遊ばせた。」
こちらもご参照ください:
『新訂 魏志倭人伝 他三篇 ― 中国正史日本伝(1)』 石原道博 編訳 (岩波文庫)
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- 『三国史記倭人伝 他六篇 ― 朝鮮正史日本伝1』 佐伯有清 編訳 (岩波文庫)
- 佐藤進一 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中公文庫)
- ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』 岡田章雄 訳注 (岩波文庫)
- 畑井弘 『天皇と鍛冶王の伝承』
- 畑井弘 『新版 物部氏の伝承』
- 丹生谷哲一 『〔増補〕 検非違使 ― 中世のけがれと権力』
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