諏訪大社下社の遷座祭(春の遷座は秋宮から春宮へ) 2月1日
中世に編纂された『諏方大明神画詞』に、下社の遷座祭が書かれています。諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』
上社の本宮から下社の瓦が見えたというのは疑問ですが、素直に「昔は、環境も人の目も良かった」としました。念のために調べると「甍」には「屋根の意」もありました。
内御玉戸社祭・外御玉戸社祭 諏訪大社下社では、遷座祭に先立ち、冬期では早朝とも言える9時から「内御玉戸社祭と外御玉戸社祭」が行われます。かつては、両社の御霊代を「大御正台・小御正台」に乗せて先導したようにも思えますが、現在は通常の神事で終わっています。
初めての遷座祭
平成16年は諏訪湖が全面結氷したため、昨日「御神渡拝観式」がありました。続いての今日は諏訪大社下社で春の遷座祭があります。「春」と言っても厳寒期の神事なので、年によっては雪の舞う中で行われます。映像で見る限り「白い遷座祭」は実に風情がありますが、…今日は現地で見学するには最適の晴天です。
今日を逃すと当分は休日と重ならないことはわかっていますが、それでも迷っていました。最大の要因は寒さによる腰の重さでした。開始時間だけでもチェックしよう、と調べると午後1時でした。これなら朝の暖かく穏やかな「コーヒーと新聞」を犠牲にしなくても済みます。急に腰周りが軽くなりました。
遷座は秋宮から
諏訪大社秋宮の境内は思いの外参観者が少なく、ほぼ希望通りの場所からカメラを向けることができました。
笙や篳篥(ひちりき)などの鳴り物が流れる中で、宝殿から神輿に御霊代(みたましろ)が移されました。ただし、幣拝殿や片拝殿の隙間を通しての動きしか見えませんから、遷座の具体的な様子は紹介できません。
御霊代を乗せた神輿(と担ぐ人)だけが幣殿と神楽殿の真ん中を通り、薙鎌や鉾を先頭にした約二百人の行列の最後尾という位置で春宮へ向かいます。私も、写真を撮りながら行列の後先になって同行しました。
春宮へ
遷座の道程は最短距離ではなく、秋宮・春宮間を一辺とする「三角八丁」の二辺を伝って春宮へ向かいます。
その頂点に当たるのが現在の住所表示では「矢木東」ですが、かつては、この近辺まで諏訪湖が広がっていたという話があります。
参道にある下馬橋も神輿だけが通ることができます。このシーンを春宮境内の石垣上から望遠で狙ってみました。距離感が詰まった望遠効果狙いの写真が左です。(この当時は)連写ができないデジカメの悲しさで、書き込みが終わるのが長く感じられました。
2時5分、行列の後部に位置する神輿はそのまま春宮神楽殿の中を素通りし、さらに幣拝殿の真ん中を誰はばかることもなく進入して宝殿前に置かれました。
遷座の儀は、秋宮とは逆に、御霊代を宝殿に安置することから始まります。神職の動きだけは窺えられる秋宮と違い、春宮は条件が悪いので司会のアナウンスを聞いて想像するだけです。
楊柳の幣帛 神輿から宝殿へ遷座する御魂代は、本来は"見(撮)る"ものではないので諦めがつきます。しかし、「楊柳の幣帛」だけは撮りたいと、"奥の手"を使って、離れた場所から望遠で撮ってみました。
円内(○)が楊柳の幣帛です。数本ずつ小分けにした枝を、神職がリレー形式で宝殿内に座す宮司に渡しました。
下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』では、「楊柳の幣とは川柳の小枝百本であるが、以前は二百五十本であったという。新しく巡り来る年の初めにあたり、芽吹き始めた川柳に春の神々の訪れを信じた古代の住民が、この柳の小枝を一束に束ねて、山の御手倉として奉ることそれ自体この川柳が神霊招請の依坐(よりま)しであったのであり」と書いています。
今日は快晴ですが、2月初日の日陰では寒さが身に染みます。写真のような人だかりですから、神事の立ち会いは"専門職"にお任せし、私は焚き火を囲む輪の方に加わりました。体の前後を交互にあぶりながら、神事の終わりをひたすら待つだけという関係者の冷えた身を思いやりました。
3時過ぎに、秋宮へ帰る行列の先頭が鳥居から顔を出しました。遷座祭は終わりましたが、今日は最後まで見届けようと秋宮まで同行することにしました(実は、秋宮の駐車場に車を置いてあったので…)。出発時は、宮司と献幣使は馬に乗っていましたが、気が付くと、(乗り慣れない)疲労や渋滞対策でしょうか、今は歩いています。3時半に秋宮の鳥居下に戻り、神職を始め関係者は寒さから解放されました。
一ヶ月遅れの遷座祭
冒頭の『諏方大明神画詞』では「正月一日」とありますから、現在の遷座祭は、旧儀より一ヶ月遅れで行われていることになります。
下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』〔民俗編〕
当時の養蚕は国策でしたから、神社側も呑むしかなかったのでしょう。この"影響"で、春宮の筒粥神事は祭神不在の状態で行われていることになります。
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