飛鳥昭雄
(中山は2017)
ミスラ神説は藪田嘉一郎が唱えたという
(川村湊2021,163頁)
日本古代文化と宗教1976所収
#1
蘇民将来伝承 なぜ茅の輪をくぐると疫病除けになるのか。縁起は昔から語り継がれる「蘇民将来伝承」にある。古くは『釈日本紀』の中に引用された『備後国風土記』逸文に見え、少なくとも奈良時代初期には骨子ができていたと思われる。 広島県の疫隈神社の由来縁起として語られる内容は、こうだ。その昔、北海に住む「武塔神」が南海に后を得ようと旅に出たが、途中で日が暮れた。近くの村には「蘇民将来」というふたりの兄弟が住んでいた。兄の「蘇民将来」は貧しく、弟の「将来」は裕福で、蔵が100棟もあった。 武塔神が宿を乞うたところ、弟は拒んだが、兄は快く迎えて、粟飯で歓待した。翌日、出立した武塔神は無事、南海に赴き、そこで后と8人の子供をもうけた。祖国へと戻る際、武塔神は再び蘇民将来兄弟が住む村にやってきた。 かつての所業を思い出した武塔神は弟の巨旦将来に復讐することを誓った。ただし、兄の蘇民将来には報いてやろうと考え、そなたの子供らは巨旦将来の家にいるのかと問うた。蘇民将来は娘がひとり嫁いでおり、もうひとり女がいますと申し上げた。 すると武塔神は、これから災厄が襲うので、茅の輪を腰に巻いておくように娘に伝えよと命じた。いわれた通りにすると、その夜、恐ろしいことが起こった。蘇民将来の娘ひとりを除いて、巨旦将来の家の者はすべて死んだ。 武塔神は自らを「速須佐雄神(スサノオ命)」と名乗り、後世、疫病が流行ったら茅の輪を腰に巻いて、蘇民将来の子孫だと名乗れば、災厄から逃れられると約束して去っていったという。 以上が、現存する中でもっとも古い「蘇民将来伝承」である。本文では、弟の名前が「将来」とだけあるが、ほかの伝承では「巨旦将来」と呼ばれている。『備後国風土記』が成立する過程で「巨旦」という名称は欠落したのかもしれないが、ふたりが兄弟というからには、「将来」が姓であろう。 日本人名の一般的な表記からすれば、「蘇民将来」と「巨旦将来」ではなく、むしろ「将来蘇民」と「将来巨旦」だ。おそらく、これが本来の名称だったはずだ。なぜ姓と名が逆転しているのか。まるで欧米人の名前表記のようだが、ここにも何やら秘教的な仕掛けがありそうだ。 蘇民将来の茅の輪 蘇民将来伝承のテーマは疫病である。新型コロナを引き合いに出すまでもなく、人類史は病気との戦いの歴史である。現代医学の知識がなかった時代、流行り病は、みな目に見えない神や精霊、魔物が引き起こすものであった。まさに悪魔の所業であると同時に、悪事を犯した人間への神罰であると信じられてきた。疫病から逃れるためには、いい意味でも悪い意味でも、神頼みしかなかったのだ。 蘇民将来伝承では「茅の輪」である。武塔神による殺戮から逃れるため、蘇民将来の娘は茅の輪を腰に巻いた。少々滑稽ではあるが、これは「関取」の姿だ。茅の輪を腰に巻くとは、相撲取りがまわしをすることにほかならない。 横綱という言葉があるように、まわしは綱で作られる。先述したように、紙垂がしつらえられたまわしは、神社の注連縄である。まわしをすることで聖別される。蘇民将来の娘も、茅の輪を腰に巻くことによって聖別されたのである。 このことから、茅の輪は疫病除けのシンボルとなった。相撲取りのように腰に巻くことは難儀だが、逆に茅の輪をくぐることなら簡単だ。こうして考案されたのが夏越の祓いにおける「茅の輪くぐり」なのだ。 向かって左に2回転、右に1回転するのは、それぞれ偶数と奇数という陰陽思想によっている。合計3回転は茅の輪という太陽に棲む八咫烏の三本足を一本ずつめぐることを意味しているのである。 神社では茅の輪そのものを護符として配布しているところもある。ミニチュア版の茅の輪のお守りのほか、京都の八坂神社では「チ」の音が通じることから「粽」をもって護符にしているところもある。 また、相撲取りのまわしが注連縄であるように、そのまま茅の輪を正月飾りの注連縄とする地方もある。主に三重県の伊勢神宮周辺の地方では、戸口や家の門に蘇民将来の注連縄を飾っている。正月だけではない、一年中掲げられている。もちろん、年中、無病息災でいられますようにとの願いからだ。 蘇民将来の護符 蘇民将来の護符には、ひとつ共通点がある。お約束事といってもいいかもしれない。必ず「蘇民将来之子孫」と記す。戸口や玄関に飾るものには「蘇民将来子孫家」、もしくは「蘇民将来子孫家門」と書き込み、さらには「七難即滅」や「七福即生」といった文言を添えたりする。 もちろん、これは蘇民将来伝承において、自らをスサノオ命と名乗った武塔神の蘇民将来に対する祝福がもとになっている。このあたり、新型コロナで有名となったアマビエでいえば、自らの絵を描いて飾っておけば、疫病から逃れられるというまじないに通じるものがある。その意味でも、アマビエはスサノオ命の化身なのである。 文字を書き込むので、蘇民将来の護符は紙製もしくは木製の神札が多い。版木による刷り物のほか、絵馬などがあるが、なんといっても木柱護符が有名だ。大きさは数センチから50センチほどまでさまざまだが、四角柱や六角柱、もしくは八角柱をしており、頂部に独特の切れ込みを入れたり、先を尖らせたりする。 側面には、お決まりの「蘇民将来子孫家門」や「七難即滅」「七福即生」のほか、護符としては一般的な「家内安全」「家運隆盛」といった祈願文も見られる。とくに伊勢地方では、陰陽道の魔除紋として五芒星の「セーマン」と九字格子の「ドーマン」が描かれ、そこに「急々如律令」という道教由来の呪文が記される。ちなみに、このドーマン、伊勢志摩地方へ行くと、なぜか縦と横が逆転して描かれることもある。 長野県上田市の国分寺で配布される蘇民将来の護符には賑々しい七福神の絵が描かれたりするが、木柱護符の場合、側面に斜めの線で構成される網目模様が記されたりする。これは蓑を表現している。昔の人が外套として使用した蓑が描き込まれているのだ。 なぜか。理由は、ほかでもない。木柱護符が武塔神=スサノオ命に見立てられているからだ。スサノオ命は旅の途中だった。蓑を背負った旅姿を蘇民将来の木柱護符は表現しているのだ。そのため、頂部の切り込みは笠を象り、そこに網目模様を描いているのだ。 こうした網目模様は、見ようによってはアマビエのウロコのようでもある。笠をかぶり、蓑をまとった北海のスサノオ命は江戸時代、ウロコという網目をまとって、南海の肥後国にアマビエなる化身となって疫病の流行を警告し、茅の輪の代わりに姿絵を描くように命じたというわけだ。 まさに時代を超えて人々から愛される蘇民将来の護符だが、中にはスサノオ命の荒ぶる神格のように、激しい祭で文字通り奪い合いが行われる。世にいう「裸祭」だ。西日本では岡山県にある西大寺の「はだか祭」、東日本では岩手県にある黒石寺の「蘇民祭」が有名である。いずれも、氏子の男たちが裸になって、蘇民将来の護符を奪い合う。実にエキサイティングな祭礼である。裸の男たちが神事として戦う姿は、土俵という茅の輪で、まわしという茅の輪を腰に巻いて取り組みを行う大相撲に通じるものがあるといっていいだろう。 記紀の中の蘇民将来伝承 蘇民将来の護符の歴史は古く、古代の木簡にも描かれている。中でも最古とされるのが京都は長岡京跡から発見された「蘇民将来呪符木簡」である。表には「蘇民将来之子孫者」と記されている。 長岡京とは有名な平安京のひとつ前の都で、奈良にあった平城京から784年に遷都して建設された。が、天災や不吉な事件が続いたため、わずか10年で棄てられた。 よって、発掘された蘇民将来呪符木簡は784年から794年の間に作られたものと考えられる。いっしょに出土した木簡には791年を示す延暦11年の文字があったことから、平安京への遷都計画が本格化していたころのものだろう。蘇民将来の護符が作られたということは、それだけ疫病が蔓延していたのだろう。 当時、すでに蘇民将来という名称が一般に知られていたことを考えると、少なくとも8世紀には伝承が成立していたと思われる。『古事記』の成立が712年で、『日本書紀』の成立が720年。文字として日本神話は確立されていた。当時、人々が語っていた蘇民将来伝承で、武塔神の正体としてスサノオ命の名前が出てきても不思議ではない。 ということは、だ。蘇民将来伝承の原型もまた、記紀神話に求めることはできないだろうか。先述したように、スサノオ命はイザナギ命が黄泉の国から戻り、海で禊をした際に鼻から生まれた。高貴な神として聖別され、天照大神と月読命とともに三貴神のひとりに数えられた。 生まれながらに、スサノオ命は荒ぶる神であった。亡くなった母神イザナミ命に会いたいと泣き叫び、それが嵐を呼ぶ。ついには国土が荒れ果ててしまい、困り果てた父神イザナギ命は、やむなく母の住む根の国へ行くことを許す。事実上の勘当であろう。ここからスサノオ命の長い旅が始まる。蘇民将来における流浪の神としてのキャラクター設定は、記紀神話に由来すると見て間違いないだろう。 旅に出たスサノオ命であったが、気が変わったらしく、根の国へ行く前に、姉である天照大神に挨拶することにした。天照大神は太陽神ゆえ、天上の高天原に住んでいる。スサノオ命は地下ではなく、空高く上昇し、高天原にやってくる。 わがままで粗暴、しかも強力な力をもって災いをもたらすスサノオ命の噂については、すでに天照大神の耳にも入っていた。スサノオ命がやってきたと聞いて、天照大神はとっさに高天原を奪いにやってきたのではないかと疑い、戦いをする前提で完全武装する。 一方のスサノオ命は邪心はないと弁明。身の潔白を証明するために、誓約をしようではないかともちかける。天照大神は承諾し、両者は高天原にある天の安河を挟んで対峙。互いの所持品をもって誓約を始める。 最初、天照大神がスサノオ命がもっていた十拳剣を口でかみ砕き、天の真名井の水を含んで吐きだすと、その吐息から3人の女神が現れた。それぞれ「田心姫」と「湍津姫」と「市杵島姫」、世にいう「宗像三女神」である。 次に、スサノオ命が天照大神の八尺瓊勾玉を口に含み、同じく天の真名井の水を含んで吐きだした。すると、その吐息から5人の男神が誕生した。それぞれ「天忍穂耳命」と「天穂日命」「天津彦根命」「活津彦根命」「熊野櫲樟日命」の「五柱男神」である。 身の潔白を証明するために誓約という法廷闘争のような戦いをしているため、両者は敵対しているように思ってしまうが、ここでひとつ見方を変えてみよう。誓約によって子供が生まれている。子供たちにとって、天照大神とスサノオ命は両親である。体外に相手の持ち物から神々を生んでいるので、男女が契りを結んだとも解釈できる。 誓約の結果、女神を生んだスサノオ命が勝ち、二心がないことが証明される。話し合いによって、誕生した宗像三女神はスサノオ命の娘、五柱男神は天照大神の息子と認定される。なんだか離婚調停で、子供たちの親権を争っている夫婦にも見えるが、改めて天照大神とスサノオ命は結婚したと見なせば、すっきりする。 思い出してほしい。蘇民将来伝承において、スサノオ命が旅に出たのは后を求めることが目的だった。后は天照大神だったのだ。無事に后を得たスサノオ命は8人の子供をもうけたとあるが、誓約の結果、天照大神との間に生まれた神は宗像三女神と五柱男神、合計8人である。状況はぴったり重なる。これは偶然ではない。 天照大神とスサノオ命は、ここでも表裏一体なのだ。表伊勢=天照大神と裏伊勢=スサノオ命という構図は蘇民将来伝承を貫くテーゼといっても過言ではない。ちなみに、スサノオ命の娘と認定された宗像三女神を祀る福岡の宗像大社もまた「裏伊勢」と呼ばれることがある。 高天原を追放されたスサノオ命
牛頭天王縁起 幼いころから才能を発揮し、師匠である「賀茂忠行」から陰陽道を学んだ安倍晴明は、恩師の息子である賀茂保憲とともに、それぞれ暦道と天文道を伝授された。安倍晴明の子孫は代々、陰陽師として活躍し、日本に呪術的な仕掛けを施していく。その活躍は目覚ましく、のちのち、さまざまな文学や芸能の題材として語り継がれ、今日に至っている。 陰陽道には秘術を記した書物が数多く存在するのだが、中でも奥義書とされるのが安倍晴明が記したとされる『三国相伝陰陽轄簠簋内伝金烏玉兎集』である。実際には、安倍晴明に仮託して書かれたものだとされるが、実際の著者は不明だ。 表題にある「簠簋」とは中国の青銅器で、それぞれ方形と円形をしている。道教の「天円地方」の思想を表したもので、さらに内部は逆に円形と方形になっている。続く「金烏」と「玉兎」は太陽と月を示し、いずれも陰陽道を象徴している。 内容は主に陰陽道の占術に関する解説だが、その中に「牛頭天王縁起」がある。これこそ、蘇民将来伝承の最終形態である。登場する神々や場所、スケールが大きく、ストーリーも完成されているといっていいだろう。全国各地にある寺社の蘇民将来伝承も、およそ『三国相伝陰陽轄簠簋内伝金烏玉兎集』の「牛頭天王縁起」によっている。 概略は、こうだ。 昔々、インドの王舎城には「牛頭天王」なる王様が住んでいた。善王であり、優れた為政者であったが、容貌が恐ろしかった。頭には牛のような角が2本生えており、夜叉のような面相をしていたため、女性に恐れられ、なかなか后が見つからなかった。 あるとき、案じた瑠璃鳥が牛頭天王のもとにやってきて、南海にある龍宮には美しい「頗梨采女」がいるので、彼女を娶るべしと進言する。これを聞いた牛頭天王は喜び、さっそく眷属とともに旅に出る。 ところが、龍宮は思ったより遠い。あいにく、途中で日が暮れてしまう。やむなく、その日は、近くの夜叉国で夜を明かすこととし、地元の有力者である「巨旦大王」に宿を乞うたのだが、これがまずかった。なんと、けんもほろろに断られ、激しく罵倒された挙句、城門を固く閉ざされてしまったのだ。 これには温厚な牛頭天王も激怒した。すぐさま巨旦将来を打ちのめそうと考えたが、物忌み中だったがゆえ、その場を去った。 再び一行が旅を続けていると、松林でひとりの女と出会う。彼女は巨旦大王の奴隷だった。事情を聞いた女は、この先に貧しいが慈悲にあふれた「蘇民将来」の家があると告げる。 助言通りに訪ねたところ、蘇民将来は牛頭天王を歓待し、粗末な家と食事しかないとしながらも、篤く丁重にもてなした。これには牛頭天王もいたく感動し、蘇民将来の慈悲に深く感謝した。 翌日、蘇民将来に船を用意してもらった牛頭天王は無事、龍宮に至り、託宣通り、頗梨采女を后に迎え、やがて8人の子供「八王子」をもうけた。ちなみに八王子の名は「総光天王」「魔王天王」「倶摩羅天王」「得達神天王」「良持天王」「侍神相天王」「宅神天王」「蛇毒気神」といった。 21年もの歳月が過ぎたころ、牛頭天王はいつぞやの一件を思い出した。憤慨が込みあげてきた牛頭天王は巨旦将来に復讐することを宣言。八王子たちはもとより、龍神たちをはじめ数百数千の眷属たちを引き連れて、再び夜叉国へとやってきた。 戦いの予兆は巨旦将来の顔に出た。鬼の相が現れたのだ。配下の博士に占わせたところ、牛頭天王が攻めてくることがわかった。事態を悟った巨旦将来は僧侶たち1000人に「泰山府君の法」を行じさせ、城の警備を堅固なものとした。 決戦当日、巨旦将来の城にやってきた牛頭天王の軍勢は、しばし作戦を練ることにした。物理的にも、呪術的にも、このままでは城内に入り込むことができない。そこで、ふたりの鬼神「阿你羅」と「摩你羅」をスパイとして潜入させ、状況を報告させた。鬼神ら曰く、居眠りをして呪文に力が入らない僧侶がおり、そのおかげで窓に大きな穴がある。そこを攻めるべし、と。 万端整ったところで、牛頭天王は、ふと松林で会った女を思い出した。巨旦将来の城で奴隷として働く女だ。彼女には恩義がある。助けてやろう。そう考えた牛頭天王は桃木で札を作り、そこに「急急如律令」と記し、指ではじいた。すると、護符は女のもとに飛んでいった。 いざ、出陣の雄たけびを上げた牛頭天王の軍勢は巨旦将来の城へ攻め上り、呪術的なバリアの穴である窓を蹴破って内部に侵入し、そこにいた人間をすべて殺した。護符を手にしていた女奴隷だけは助かったものの、夜叉国は滅亡した。 牛頭天王は憎き御敵である巨旦将来の体を5つに分断し、五節句に配当。巨旦将来の魂を調伏する儀式を執行した。 すべてを終えて、北の王舎城へと帰ろうとした際、牛頭天王らは、かつての一宿一飯の恩義に応えるべく、蘇民将来のもとを訪れた。貧しかった蘇民将来は裕福になっており、牛頭天王らを宮殿でもてなした。大いに満足した牛頭天王は蘇民将来を祝福し、こう予言する。 やがて、この世が乱れたとき、再び牛頭天王はやってくる。恐るべき疫病神となり、八王子と眷属たちを引き連れて、人々を粛清するために乱入するだろう。世の末には、煩悩がゆえに、人々は寒冷の病と懊熱の病に冒されるが、すべては牛頭天王とその配下の者たちの所業である。 しかし、義人である蘇民将来の子孫たちだけは助ける。疫病が流行したとき、自分たちが「蘇民将来の子孫である」と述べれば、災厄から逃れることができるだろう。それゆえ、毎年、五節句の祭礼を正しく行い、心の中で26の秘密の呪文を唱え、信仰心を篤くもつように、と。 こうして牛頭天王らは北インドにある居城へと帰っていったという。 牛頭天王の五節句 まさに長編スペクタクル映画のようであるが、最後に牛頭天王は五節句に関する祭礼の意味について述べている。五節句とは、①1月1日、②3月3日、③5月5日、④7月7日、⑤9月9日に行われる祭礼だ。ちなみに、現代では1月1日を正月として別格扱いとし、人日である1月7日をあてる。 五節句では決まったお供え物をするのだが、それらは、みな八つ裂きにされた巨旦将来の体だと牛頭天王は説く。すなわち、①正月元旦:紅白の鏡餅は巨旦将来の骨肉、②上巳の節句:蓬の草餅は巨旦将来の皮膚、③端午の節句:菖蒲の粽は巨旦将来の髪と髭、④七夕の節句:小麦の素麺は巨旦将来の筋、⑤重陽の節句:黄菊の酒は巨旦将来の血液である。このほかにも、祭礼で用いられる蹴鞠の鞠は巨旦将来の頭、弓矢の的は巨旦将来の目、門松は巨旦将来の墓標、修正の導師や葬礼の威儀は、みな巨旦将来を調伏する儀式だというのだ。
八坂神社の縁起と新羅 かつて牛頭天王を主祭神とした京都の八坂神社、すなわち祇園感神院の由来は、伝わる縁起によれば、656年、斉明天皇の御代、朝鮮半島から渡来してきた「伊利之使主」なる人物によって山城国八坂郷に神祠が作られたことに始まるという。伊利之使主は高句麗からやってきた渡来人であった。 当時、朝鮮半島には大きく4つの国があった。北に高句麗、南に伽耶、東に新羅、そして東に百済があり、互いに勢力をしのぎあっていた。このうち、もっとも巨大な力を誇っていた高句麗からやってきた調進副使、伊利之使主が新羅にある「牛頭山」で祀られていたスサノオ命の御魂を日本に勧請したのだという。 これが日本において、スサノオ命を祀った最初の神社であった。この功績によって、伊利之使主は八坂造の姓を賜り、667年には社号を感神院として宮殿が建造された。牛頭山に座していたがゆえ、スサノオ命を牛頭天王と称したと主張する。 事実上の創建者である伊利之使主については『日本書紀』に、その名がある。当時、高麗=高句麗から81人で来朝したとあり、『新撰姓氏録』の八坂造の項目には、狛国人から出ずとして「留川麻乃意利佐」という名でも記載があることから少なくとも実在した人物であることは間違いないとされる。 ただ、気になるのは新羅である。高句麗の人間が、なぜわざわざ新羅で祀られていた神を日本に勧請するのか。しかも、その神はスサノオ命ときた。日本の神が新羅で祀られていた理由も釈然としない。構図的には、神様の帰還、逆輸入みたいなものだ。 しかも、新羅において祀られていた場所が牛頭山だ。牛頭山の祭神であるがゆえ、スサノオ命は牛頭天王と呼ばれたというのだ。予定調和といえば言葉は悪いが、最初から「スサノオ命=牛頭天王」を前提とした由緒に見えなくもない。 ところが、この疑惑に対して、もっともらしい裏づけが『日本書紀』にはある。『日本書紀』によれば、高天原から追放されたスサノオ命は最初、日本列島ではなく、新羅に天下った。降臨した場所は「曽戸茂梨:ソシモリ」といったが、どうも気になじめなかったのだろう。新羅の地にはいたくないといって、スサノオ命は息子の「五十猛命」とともに赤土で作った船に乗って海を渡り、日本の出雲の鳥上の峰にやってきた。 続いて、スサノオ命は韓郷、すなわち朝鮮には金銀があると語ると、船がなかったら子供たちが困るだろうから、その材料となる杉や檜、槙、そして楠などの樹を自らの体毛によって生じさせ、有用な樹木の種を全国に蒔くよう息子の五十猛命と娘である大屋津姫命と枛津姫命らに命じたという。 おわかりように、スサノオ命は高天原から新羅に降臨し、そこから船に乗って朝鮮海峡を渡り、出雲へとやってきた。朝鮮半島情勢に詳しいことから、一定期間、新羅に住んでいたのだろう。状況が状況なら、そのまま定住していたかもしれない。旅人というよりは、もはや地元の住人、あえていうなら「新羅神」、あるいは「新羅人」になっていたのかもしれない。 しかも、注目は、ここ。降臨した山の名前が「ソシモリ」だとある。朝鮮語で「ソ」は牛、「モリ」は頭の意味で、「ソシモリ」は「牛頭」であると解釈できる。『日本書紀』の記述を信じるならば、スサノオ命は新羅の牛頭山に降臨したことになる。 実は、現場も特定されている。現在の韓国の江原道春川に牛が寝そべったような形をした山があり、その頭に当たる峰を「牛頭山」と呼んでいる。韓国の牛頭山は、かつて新羅があった領域にあり、八坂神社の縁起にも出てくる牛頭山と同一だった可能性が高い。 となると、八坂神社が伝える縁起にも一定の信憑性が出てくるのだが、それでもなお解せないのは伊利之使主である。彼は高句麗の調進副使だった。高句麗の人間が、なぜわざわざ隣国の牛頭山に詣でたうえに、そこで祀られていたスサノオ命を日本に勧請するのか。まったくもって理由がわからない。 ひとつ可能性として考えられるのは、これ。伊利之使主自身、もともとは新羅人だったのではないか。彼は高句麗の領域内に住んでおり、それなりに出世はしたものの、本来は新羅出身の人間だった。 伊利之使主は牛頭山信仰をもっていた。配下の者もしかり。彼らは牛頭山を御神体として崇拝。牛頭山に宿る神のことを「牛頭神」と呼んでいた。日本に渡来してくると、ソシモリに降臨した伝説をもつスサノオ命の存在を知る。ソシモリは牛頭山のことにほかならないと考えた伊利之使主は、主祭神はスサノオ命であるという名目で牛頭山神を祀り、これがいつしか牛頭天王と呼ばれるようになったのではないだろうか。 新羅に限らず、渡来人は、とかく出生をごまかす傾向がある。百済人だといいながら、寺の瓦を見ると新羅系だったり、民族のルーツを中国に求めることもしばしば。歴史学者の武光誠氏は高句麗系渡来人の中には、新羅系渡来人が含まれていた可能性を指摘している。伊利之使主も、そうした新羅系渡来人だった。そう筆者は睨んでいる。 朝鮮の蘇民将来 蘇民将来伝承の主人公であるスサノオ命、さらには牛頭天王が朝鮮半島との関係が濃密であったとくれば、期待されるのは、ひとつ。朝鮮にも蘇民将来伝承があったのかどうかだ。民族学者の調査によれば、これまで明確な蘇民将来伝承はないというのが定説だ。文字に残っていないだけで、かつてはあった可能性は残しつつも、あくまで蘇民将来伝承は日本で生まれ、そして発展したものだという。 しかし、蘇民将来の護符に関しては、必ずしも、そうではないらしい。日本が朝鮮半島を支配していた時代、民俗学者の村山智順が現地調査をしてまとめた『朝鮮の鬼神』の「呪符法」という章には、平安南道に伝わる「蘇民将来之子孫海州后入」なる呪符が紹介されており、この文言を書いた紙を門戸に貼ったり、直接、書き込んだりするという。ほかにも、眼病の呪符として、朝早く門戸に人の顔を描き、その両眼を針で刺してまじないの文字を描き、最後に「蘇」と記すのだとか。 民俗学者の今村鞆が著書『歴史民俗朝鮮漫談』、その名も「朝鮮の蘇民将来」という論文で、平安南道で調査を行った際、安州郡で「蘇民将来之子孫海州后入」と書かれた赤紙を戸口に貼っている光景を発見したと記しているという。 これらの事実を踏まえ、文芸評論家の川村湊氏や古代史研究家の鹿島曻氏は、いずれも蘇民将来伝承のルーツは朝鮮半島に求められると述べている。確かに、もっと埋もれた伝承や記録を調査すれば、その痕跡が発掘される可能性は大いにあるだろう。こと「蘇」という音韻が朝鮮語の響きだという研究家も少なくない。 考えてみると蘇民将来伝承の原典ともいえる『備後国風土記』に登場する神の名前は「武塔神」である。記紀には、武塔神なる神様は登場しない。地方で祀られているマイナーの神か、もしくは異国の神ではないかという指摘は、かねてからある。 「武塔」を「ムトウ」や「ムドウ」とし、これを朝鮮の「ムーダン」に充てる説も、よく知られる。漢字では「巫堂」と書くように、ムーダンは巫覡や巫女といったシャーマンであり、今日でいう霊能者だ。武塔神という名前にはムーダンが関係しているのではないか。 とくに、シャーマンが身に降ろした神と一体化したことで、本人自身が神と呼ばれることもある。日本でいえば、太陽神の託宣を行う巫女が天照大神という女神として振る舞うように。武塔神には、そうした朝鮮シャーマニズムが投影されているのではないか。武塔神=スサノオ命が新羅から船で渡来してきたとあらば、可能性は大いにある。 新羅の延烏郎・細烏女伝説 神々が住まう高天原から追放されたスサノオ命は最初、朝鮮半島の新羅に降臨し、その後、船で海を渡って日本の出雲へとやってきた。新羅の滞在からして、スサノオ命は渡来神である。『日本書紀』に記されている以上、それは否定できない。 では、同様の伝説が朝鮮にもあるのだろうか。あいにく、朝鮮の歴史書には古いものがない。中国歴代王朝が編纂した史書もなく、日本の記紀より古い書物は、まったく残っていない。時代が下って、12〜13世紀。百済や新羅、そして伽耶の始源について書かれた『三国史記』と『三国遺事』は仏教説話の影響が強く、そこから史実を読み解くことは難しいと評価されるが、興味深い伝説がひとつある。「延烏郎伝説」だ。 西暦157年、阿達羅王の時代のこと。新羅の東方、海辺に延烏郎と細烏女の夫婦が住んでいた。延烏郎が海で海藻をとっていると、突然、足元の岩が動き、彼を沖へと流し、ついには日本にまで運んでしまった。異国の地へやってきた延烏郎は地元の人々に祭り上げられ、ついには王となった。 一方、いつまでたっても帰ってこないことを不審に思った妻の細烏女が海岸に行ってみると、そこに夫の履物があった。姿が見えない夫を捜していると、またしても岩が動き、今度は彼女を日本へと連れ去ってしまう。 幸い、夫婦は再会することができたのだが、そのころ新羅では大変な事態になっていた。太陽と月の光が失われ、地上が闇に包まれてしまったのである。というのも、延烏郎と細烏女は、それぞれ太陽と月の精だったからである。呪術師から理由を聞いた阿達羅王は、使者を日本へと派遣し、夫婦に帰国するよう伝えた。 だが、延烏郎は、すでに日本の王として即位している以上、新羅に帰ることはできないと固辞。代わりに、妻の細烏女が織った絹織物を差しだした。使者は、これを携えて帰国。延烏郎にいわれた通りに、天を祀る儀式を行ったところ、再び太陽と月が光を取り戻した。以後、絹織物は神宝として大切に倉に納められたという。 お気づきのように、延烏郎と細烏女という名前には「烏」という文字が入っている。太陽と月の精とあるので、これは明らかに金烏を意識している。日本でいう八咫烏である。太陽と月の神という意味では天照大神と月読命だ。月読命を同一神であるスサノオ命と読み替えると、これは表伊勢と裏伊勢の関係である。 伊勢神宮で祀られる天照大神の象徴、太陽に棲む八咫烏がスサノオ命を祀る裏伊勢の熊野大社では神使となっている構図が見てとれる。仮に延烏郎をスサノオ命に見立てると、実に興味深い。 高天原を追放されたとき、スサノオ命は独身である。まだ后を得ていない。が、新羅に降臨するときは、息子の五十猛命を伴っている。この時点で后がいるはずだ。父と子のふたりだけで降臨したとは考えにくい。后もいっしょにいたに違いない。どれだけの期間、スサノオ命一家が新羅に滞在したかは不明だが、やがて彼らは日本へ船でやってくる。もちろん、そこには后もいたことだろう。 だとすれば、奇しくも日本と新羅の伝説が一致することになる。かつて新羅で延烏郎と呼ばれた男が日本に渡来してスサノオ命となり、人々から大王として祭り上げられ、ついには神となったというわけだ。 しかし、ここまでの推論は、あくまでも神話の世界の話である。史実ではない。実際の人間世界の話として、新羅系渡来人が日本で大王となり、神として祀られたという記録はあるのだろうか。 天之日矛 記紀に記された新羅系渡来人として注目すべきは「天之日矛」である。『古事記』では第15
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ツヌガアラシト 天之日矛に関して避けて通れないのが「ツヌガアラシト」である。『日本書紀』に「都怒我阿羅斯等」という名前で登場する渡来人で、その伝承が天之日矛とそっくりなのである。しかも、書かれている場所が天之日矛の記事の直前なのだ。 逸話はふたつある。ひとつは先代の崇神天皇の御代の話として、こう記されている。あるとき、額に角の生えた男が一艘の船に乗って越の笥飯浦にやってきた。角が生えていたので、その地を角鹿と呼ぶことにした。 何者かという問いに対して、ツヌガアラシトは自分を「大加羅国」の王子であり、名を「都怒我阿羅斯等」、またの名を「于斯岐阿利叱智干岐」と称した。日本に聖王がいると聞き、海を越えて穴門へ上陸。そこから出雲を経て、ここにやってきたという。 だが、あいにく、ちょうどそのころ崇神天皇が崩御された。やむなく、ツヌガアラシトは垂仁天皇に仕えた。3年後、垂仁天皇はツヌガアラシトに帰国することを許し、祖国の名を崇神天皇の御名「御間城天皇」にちなんで「任那」と呼ぶようにいった。 帰国の際、ツヌガアラシトは赤い絹織物を賜り、これを大切に倉庫へ納めた。が、そこへ新羅人がやってきて、強引に赤い絹織物を奪っていった。このことが原因で、任那と新羅の関係がこじれ、人々は互いに争うようになったのだという。 もうひとつは、こうだ。故国にいたとき、ツヌガアラシトは農具を背負わせた黄牛を引いて地方の村へ行った。すると、急に黄牛がいなくなった。足跡をたどって村の奥へと捜しに行くと、そこにひとりの老人がいた。 老人曰く、ツヌガアラシトが捜している黄牛は、この村の役人がつかまえて食べてしまった。どうせ食べるための黄牛に違いない。飼い主がやってきたら、物を与えて代償とすればいいと村役人は考えている。だから、もし彼に会って、黄牛の代償として何を望むかと聞かれたならば、下手に財物を望んではいかん。むしろ村に祀ってある神様がほしいというがいい、と。 そこでツヌガアラシトは出会った村役人に対して、いわれた通りの返事をした。すると村役人は了承し、村で祀っていた御神体の白い石を差しだした。これを受け取ったツヌガアラシトは帰宅して納屋にしまっておいた。すると、白石は美しい女になった。ツヌガアラシトは大いに喜び、一夜を共に過ごそうとしたが、それも束の間。ちょっとした隙に女は姿を消してしまう。 妻に聞くと、彼女は東方へ旅立ったという。あきらめきれないツヌガアラシトは女を追って海を渡り、日本へとやってきた。女は豊国から難波に至って、日本の神様となっていた。彼女は今も「比売語曽社」に祀られているという。 天之日矛とツヌガアラシトの類似性は、だれの目にも明らかだ。まず、両者は、共に朝鮮半島からの渡来人である。新羅と大加羅=任那との違いはあれど、共に王子という身分だ。渡来してきた理由のひとつは、日本に聖王がいるから謁見したい。もうひとつは逃げた女を追ってきた。どちらも説話に牛が登場し、色の違いはあれど、玉が女に化生して、さらに男の元を去って海を渡り、日本の難波で神として祀られる。天之日矛とツヌガアラシトは同一人物だと見て間違いないだろう。 さらに『日本書紀』で、ツヌガアラシトを紹介した段には、もうひとり「蘇那曷叱智」なる人物が登場する。彼も任那の人間で、崇神天皇の時代に渡来し、垂仁天皇の時代に帰国している。その際、彼は赤い絹織物を賜ったが、これを新羅人が略奪したことで、任那と新羅の関係がこじれて争うようになったという。状況から考えて、蘇那曷叱智も同一人物だと考えていい。つまり、こうだ。 「天之日矛=都怒我阿羅斯等=于斯岐阿利叱智干岐=蘇那曷叱智」 ツヌガアラシトで興味深いのは、その額に生えた角だ。おそらく鬼のように、2本の角が生えていたのだろう。鬼門の方角は「艮」、つまり「丑寅」であり、鬼のイメージは牛の角に虎の腰巻だ。ツヌガアラシトは「牛人間」として描かれている。 事実、朝鮮半島の官職名だとされる「于斯岐阿利叱智干岐」の「于斯岐」は「ウシキ」である。「キ」は助詞であると説明されるが、これを日本語読みすれば「牛鬼」とも解釈できる。合わせて「都怒我阿羅斯等=于斯岐阿利叱智干岐」とは、牛鬼のような角が生えた人という意味だ。 そう、これは、まさしく牛頭天王である。牛頭天王は新羅の牛頭山で祀られていた。牛頭山=ソシモリに降臨したスサノオ命は新羅から日本へと渡ってきた。ある意味、天之日矛は牛頭天王にして、スサノオ命であったのかもしれない。 もっとも、頭に牛の角があったというのは、おそらく象徴だろう。石川県七尾市にある「久麻加夫都阿良加志比古神社」では配神としてツヌガアラシトを「都努加阿羅斯止神」という表記で祀っている。実際は、主祭神である「阿良加志比古神」と同一神だと思われる。神社名にある「久麻加夫都」は「熊甲」であり、勇壮な武者甲を意味している。戦国武将の甲には、しばしば角がしつらえられる。ツヌガアラシトもまた、牛のような角をつけた甲をかぶっていたのではないだろうか。 さらにいえば、天之日矛は牛頭天王を祀っていたのではないか。彼は牛をトーテムとする一族で、牛頭天王を信仰していた。新羅にいたころ、牛頭山に牛頭天王を祀り、日本に渡来して、スサノオ命として神社の祭神としたのは、天之日矛及び、その配下でいっしょにやってきた新羅系渡来人だった可能性は高い。 イザサワケ命 天之日矛という名前は非常に日本的である。あくまでも記紀においてではあるが、実在する人間に対して「天」と冠する例は、ほかにはない。研究家によっては、そもそも天之日矛は倭国の人間だったとする人もいる。 確かに、天之日矛と同一人物と目されるツヌガアラシトは大加羅の王子だった。大加羅とは伽耶諸国のひとつで、日本は任那と呼んでいた。任那は朝鮮半島における大和朝廷の直轄地とされ、そこにいた優秀な人物に対して「天」という名を贈ったとしても不思議ではない。 問題は天皇だ。古代天皇と天之日矛の関係だ。ただ単に新羅や伽耶からの渡来人であるならまだしも、天皇と深い関係にあるとすれば、話は違う。記紀神話において、きわめて微妙な説話がひとつある。「イザサワケ命」だ。 イザサワケ命は『古事記』で「伊奢沙和気大神之命」と記される。時代としては、応神天皇のころだ。まだ「応神天皇=誉田別命」が幼かったころ、彼は豪族の有力者であった武内宿祢に連れられて諸国を行脚した際、越の敦賀へとやってくる。敦賀には父である第14代・仲哀天皇が立てた行宮「笥飯宮」があり、禊をするため仮宮を建てた。
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陰陽道と迦波羅 秦氏がユダヤ人原始キリスト教徒であり、ユダ教神秘主義カッバーラの担い手であったことを示す重要な証拠が陰陽道である。一般に、陰陽道は道教をベースに、仏教や儒教などが習合した一種の混淆宗教だと評される。中国の陰陽家がもとだといわれるが、あくまでも日本で独自に発展した宗教である。神道の祭礼や儀式は、すべからく陰陽道のしきたりに則っているといっても過言ではない。 陰陽という言葉からわかるように、陰陽道は森羅万象をすべて陰と陽で説明する。光と闇、表と裏、上と下、男と女など、徹底した二元論である。当然ながら、陰陽道そのものにも、陰と陽がある。表の陰陽道に対して、裏は「迦波羅」という。漢字表記としては「迦波羅」や「迦婆羅」などがある。 仏教の経典では頭蓋骨の意味で使われることもある。サンスクリット語で迦婆羅はカパーラといい、髑髏を意味する。ヒンドゥー教のタントラやチベット密教などでは、髑髏の頂部を切って杯にすることもある。カパーラは杯や皿、そして瓦の意味でもある。禅宗の托鉢のように、皿や鉢は神聖なる器である。食べ物などの施し以上に、世の真理をいただくという意味がある。これは、そのままカッバーラなのだ。ヘブライ語でカッバーラとは受け取るという意味であり、現在では領収書の意味で使われる言葉なのだ。 カッバーラが西洋において魔術であるように、陰陽道も呪術である。陰陽道における積極的な呪術が迦波羅だといってもいい。いずれも、表は人々の幸せを願う祝福の呪術であるが、裏は真逆だ。神道の儀式で行われる陰陽道は「右道」だが、相手を呪う迦波羅は「左道」とされる。まさに禁断の呪術だ。 呪いの極致は呪殺である。相手の死を願って行う呪術に「呪いの藁人形」がある。殺したい相手に見立てた藁人形を用意し、これを深夜、神社の御神木に五寸釘で打ちつける。儀式を行うためには、頭にろうそくを3本立てた五徳を乗せ、首からは鏡を提げる。一本歯下駄をはいて、深夜、丑三つ時にひとりで行う。その間、だれにも見られてはいけない。藁人形の中には爪や髪など相手の体の一部を入れたり、写真を貼ったりする。実におぞましい光景だが、現代でも人知れず行っている人もいる。
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蘇民将来伝承と古代シュメール人 蘇民将来伝承に関する研究は多い。朝鮮系渡来人にからめて分析する論考がほとんであるが、中には中国や西域に起源を求める説もある。当然ながら時代も遡る。人類最古の文明とも称されるメソポタミアの「シュメール文明」に起源を求めるのが、実験考古学者の岩田明氏である。 岩田氏が注目するのは仏典の『大蔵経』である。『大蔵経』の「慧琳音義」には「蘇民」という民族が登場する。岩田氏によれば、蘇民とはシュメール人のことである。シュメールの本来の発音「スメル」に蘇民という漢字を充てたのだという。 蘇民将来伝承では人名になっているが、本来は民族を表した。蘇民将来の「将来」とは古代シュメール語で「王」を意味する「シャーレ」のことではないか。もし、そうなら、蘇民将来とは「シュメール・シャーレ」、つまりシュメール人の大王を意味した言葉であると解釈できるという。 では、一方の巨旦は、どうか。これについても、やはりシュメールと関係している。メソポタミアに進出する以前、シュメール人の祖先は中央アジアにいた。そこには、かつて「巨丹」という国があった。巨丹は「コタン:コータン」、もしくは「ホタン:ホータン」と発音する。現在でも、当地にはコタンという地名が残っている。 蘇民将来伝承に登場する弟の巨旦は巨丹のことではないか。コタンに住んでいたシュメール人の祖先はコタン人である。よって、巨旦将来は「コタン・シャーレ」となり、コタンの大王という意味になるというのだ。 岩田氏によれば、蘇民将来伝承と密接な関係にある渡来人の秦氏も、そのルーツをたどれば、シュメール人に行きつく。古代シュメール人たちはインド洋から船に乗って、日本列島にやってきた。これを実証するため、岩田氏は実際にシュメール人の古代船を復元し、「キエンギ号」と名づけると、自ら操舵して実験航海を試みている。あいにく沖縄の久米島を目の前にして、三角波を受けて転覆してしまったが、自説を裏づけるには十分な結果であったと述べている。 コタンのある中央アジアの南方はインドである。安倍晴明が記したともいわれる陰陽道の奥義書『三国相伝陰陽轄簠簋内伝金烏玉兎集』によれば、牛頭天王はインドに住んでいたことになっている。牛頭天王は南海に向かう途中、蘇民と巨旦が住む町へとやってくる。蘇民からは船を借りるのであるが、確かに中央アジアのコタンからメソポタミア地方に広がったコタン人、もしくはシュメール人がモデルになったとしても不思議ではない。コタン人は山の民であったが、シュメール人は海の民でもあったからだ。 蘇民将来伝承とノアの箱舟 シュメール人とイスラエル人の関係は深い。『聖書』の「創世記」に記されたノアの大洪水伝説は、シュメール神話に起源があるといわれる。『聖書』では創造神ヤハウェが罪に覆われた地上を一掃すべく、大洪水を起こす。ただ、正しき預言者ノアとその家族8人だけは神の助言に従って建造した箱舟に乗って助かったと語る。 これに対して、シュメール神話では神エンキが大洪水を起こすも、シュルパックの王ジウスドラだけには、それを予告。大洪水が起こることを知ったジウスドラは大きな船を造り、これに乗って助かった。ジウスドラは古代バビロニア王国の『ギルガメシュ叙事詩』の中ではウトナピシュティムという名前で登場する。 神が地上に災厄をもたらし、人類が滅亡するのだが、ほんのひと握りの正しき者だけが生き残る。神話の構造だけに注目すれば、これは蘇民将来伝承とまったく同じだ。神のお眼鏡にかなった人間だけが、指示通りに作ったものによって助かる。蘇民将来伝承における茅の輪は、さしずめ箱舟ともいえよう。 最新の考古学によれば、古代シュメールの大型船は円形をしていたというから、茅の輪ならぬ浮き輪によって助かったのだと解釈できないこともない。 いずれにせよ、シュメール神話におけるジウスドラやウトナピシュティムは『聖書』における預言者ノアに相当する。ノアは大洪水後の人類にとって王だった。聖書学的に見れば、シュメール文明を築いたのはノアだったことになる。ノアの息子セムはサレムの王となり、別名をメルキゼデクといった。メルキゼデクのもとへ祝福を求めてやってきたのが、その子孫の預言者アブラハムである。 預言者アブラハムと日本神話 アブラハムは「タガーマ」にある「ハラン」の出身だと『旧約聖書』にはある。日本人とユダヤ人が民族的兄弟であったと考える「日ユ同祖論」の研究家、小谷部全一郎氏は日本の神々が住んでいる高天原とは、この「タガーマ・ハラン」だと指摘する。 語呂合わせのように感じるかもしれないが、視点を変えると、これが実に興味深い。日本神話における神々の系図と『聖書』に書かれた預言者の系図が似ているという指摘がある。とくにふたりの娘レアとラケルを妻として勧められたヤコブのエピソードが木花開耶姫と石長姫を妻として勧められたニニギ命の伝説とそっくりなのだ。 仮にヤコブをニニギ命に対応させると、祖父であるアブラハムは天照大神に対応する。天照大神は高天原の支配者であり、預言者アブラハムがタガーマ・ハラン出身であることと合致するのである。 さらに、ヤコブの息子からイスラエル12支族の祖となる息子たちが誕生するのだが、ニニギ命の子孫からは神武天皇が生まれる。天皇家の家紋である「十六花弁菊花紋」は古代イスラエル王国やユダヤの地において、至るところに掲げられている。エルサレムにあるヘロデ門にも十六花弁菊花紋が大きく刻まれていることは有名だ。 メソポタミア地方でも十六花弁菊花紋は王家の紋章として、装飾品や城壁などに数多く描かれている。シュメールという言葉にしても、本来はスメルである。日本の歴史学者はスメルとは天皇を意味する「スメラギ」や「スメラミコト」に通じるため、あえてシュメールと表記したという経緯がある。 天皇がシュメールと関係があるとすれば、両者をつなぐのはアブラハムであり、その子孫のイスラエル人だった可能性は高い。岩田氏は秦氏を「シュメール系渡来人」だと位置づけたが、その意味で「イスラエル系渡来人」といい換えることができるだろう。 もっとも、だからといって、シュメール人が直接、この日本列島に渡来してきた可能性はゼロではない。岩田氏が実験航海で証明してみせたように、イスラエル人以前の預言者ノアの子孫としてのシュメール人たちが東を目指し、ついには日本にたどり着いた。彼らがシュメールの神々に対する信仰をもちこみ、これがのちのち、神道の八百万の神々に対する信仰をもたらしたことは十分ありうる話だ。 古代日本における縄文人と弥生人の祖先は、海を越えてやってきた。主に東日本の縄文人はアイヌで、西日本の弥生人は熊襲と琉球民族である。彼らは太平洋の彼方、南北アメリカ大陸から船で渡ってきた。ネイティブアメリカンと同族で、そのルーツをたどっていくと、これまた古代イスラエル王国へとつながってくる。 古代イスラエル王国 預言者アブラハムはメソポタミア地方からパレスチナ地方へとやってくる。絶対神によって与えられた約束の地カナンだ。のちに神殿が建てられるエルサレムの聖地、モリヤの丘にアブラハムは祭壇を築いた。創造神ヤハウェから息子イサクを生贄に捧げと命じられたのだ。断腸の思いで犠牲に捧げようとするも、直前に天使に止められ、
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契約の聖櫃アークと古代朝鮮 ユダヤ教徒にとって、もっとも大事な創造神ヤハウェとの契約、すなわち十戒石板が入った表アークは、秦始皇帝が保持した。背後にいた漢波羅秘密組織八咫烏は密かに秦始皇帝の血を引く子供たちをかくまっていた。秦始皇帝の死後、当然ながら起こる権力争いを見越したうえで、次なる行動に出た。秦帝国が滅亡すると見るや、彼らは陸路、東へと向かった。中国北東部から朝鮮半島へと集団で移住したのだ。 秦帝国末期、中国は大混乱に陥っていた。中原は戦国状態となり、多くの亡命者が朝鮮半島へと流れてきた。秦人である。秦人には北方の騎馬民族のほか、秦帝国からの亡命者も多数いた。彼らは、失われたイスラエル10支族とミズラヒ系ユダヤ人、そしてユダヤ人原始キリスト教徒である。 秦人と呼ばれたイスラエル人たちは朝鮮半島の東部に秦韓と弁秦を築く。この両国に表アークは運ばれてきた。その証拠に、建国神話には契約の聖櫃アークをモデルにした「金櫃」が登場する。 秦韓から誕生した新羅の第4代目の王に「脱解王」がいる。彼は新羅から東北、海の彼方にあった「多婆那国」の出身である。あるとき、王女が卵を産んだ。無気味に思った王は玉を箱に入れて海に流した。箱は秦韓の海辺に漂着した。村人が開けてみると、中には子供がいた。子供は長じて脱解王となった。ずっと鵲がついてきたので、脱解王は昔氏を名乗ったという。 ここでいう多婆那国とは丹波国、すなわち投馬国のことである。脱解王は倭人だった。投馬国を支配していたのは海部氏である。海部氏は裏アークを手にしていた。裏アークの記憶が卵を入れた箱として描かれている。鵲が箱についてきたとは、表アークには翼を広げた天使ケルビムが設置されていたことを暗示している。表アークは秦帝国からやってきた秦人たちが手にしていた。 新羅には、もうひとり、箱に関わる人物がいる。金氏を名乗る新羅王の始祖「金閼智」である。やはり、これも脱解王の時代である。あるとき、始林で鶏がけたたましく鳴いていた。脱解王が「瓠公」を遣わすと、樹木に金色をした箱が引っかかっている。箱を下ろして、蓋を開けてみると、そこには子供がいた。脱解王は非常に喜び、王国を継がせるために大事に育てた。のちに、金の箱があった場所は鶏林と呼ばれたという。 脱解王の大臣とされる瓠公は倭人である。海を渡って、新羅へとやってきた。腰に瓢箪を下げていたので、瓠公と呼ばれた。瓢箪を下げているとは、まさに浦島太郎の姿そのものだ。瓠公は海部氏である。瓢箪は籠神社の重要なシンボルで、奥宮である真名井神社の別名は「匏宮」という。匏とは瓢箪のことである。 樹にかかっていた金の箱、すなわち金櫃は契約の聖櫃アークである。鶏が鳴いていたとあるように、ここでも翼を広げた天使ケルビムを暗示している。 秦人が建国したもうひとつの弁韓からは伽耶が誕生する。伽耶諸国の中でも大伽耶の始祖「金首露」の伝説は、こうだ。あるとき、亀旨峰という山で、天から声がすると騒ぎになった。人々が喜んで舞い踊ると、天から金の箱が降りてきた。紫の紐の先に紅の布で包まれた金の箱には、6つの卵が入っていた。卵が孵化すると、中から子供が生まれた。子供は長じて金首露となったという。 基本的なストーリーは金閼智の金櫃伝説と同じである。いうまでもなく、天から降りてきた金の箱、金櫃とは契約の聖櫃アークである。秦人たちが持ってきた表アークの記憶が金櫃として、始祖伝説に反映しているのだ。 伽耶の金首露伝説は、しばしば日本の天孫降臨神話と比較される。天孫ニニギ命は高千穂の久士布流多気に降臨した。久士布流=クシフル、もしくはクジフルが亀旨峰のクジホンに通じる。降臨するとき、ニニギ命は真床追衾にくるまれていた。真床追衾は卵が入っていた金櫃に相当する。 伽耶と日本の神話が類似しているのは、朝鮮半島から秦人たちが渡来してきたからである。具体的にいえば秦氏である。秦氏が朝鮮半島の金櫃伝説を生みだし、さらに日本列島へと伝えた。 実際、九州には箱にまつわる伝説がある。福岡の筥崎宮である。社伝によれば、かつて神功皇后が、自らが産んだ応神天皇の胞衣を箱に入れて地中に埋めた。その場所には目印として松を植えた。松は筥松と呼ばれ、埋めた場所は筥崎宮と呼ばれるようになったのだという。 胞衣とは胎盤である。応神天皇の体の一部である。胞衣を箱に入れたとは、応神天皇が箱に入っていたと解釈できる。箱に入っていた王子とは、まさに新羅や伽耶の王と神話的にまったく同じである。神功皇后が天之日矛の末裔であり、応神天皇が八幡神と呼ばれた背景には、秦氏がいる。秦氏によって契約の聖櫃アーク、ここでは表アークが朝鮮半島を経由して、九州に運ばれてきたことを物語っているのだ。 契約の聖櫃アークと神輿 表アークが上陸したのは九州の筥崎宮である。筥崎宮の神職は秦氏だった。正式には筥崎八幡宮という。宇佐八幡宮と石清水八幡宮と合わせて日本三大八幡宮のひとつに数えられる。八幡神社の総本山である宇佐八幡宮の創建には秦氏の支族、辛島氏が深く関わっている。原始八幡信仰は秦氏によるもので、八幡とは弥秦を意味する。先述したように、弥秦はユダヤを意味するヘブライ語「イエフダー」のことだ。 あまり知られていないが、宇佐八幡宮は「神輿」の発祥地である。歴史上、初めて神輿が記録として登場するのが『続日本紀』である。奈良時代、東大寺の大仏が完成した折、これを祝福するために宇佐八幡宮から神輿がはるばる運ばれてきたという。このとき東大寺の別当だった「良弁」も、実は秦氏である。いうなれば、日本で神輿を最初に作ったのは秦氏であるといっていい。
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