秦河勝は長男には武を、次男には伶人(伎楽伶人)を、三男には申楽(猿楽)を伝えたとされます。猿楽は秦楽寺と関係し、一方伎楽は四天王寺が中心となりました。四天王寺に所属する天王寺楽所の楽人たちは江戸時代の初め頃四家に分かれ、その一つに東儀家があります。よって現在の東儀秀樹氏は秦氏で秦河勝の子孫とされています。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1762.html?sp
尾張氏の謎を解く その31
前回は引用が多く記事も長くなり、やや焦点がボケたようなので、ここで整理し直します。前回における記事のポイントは、金春屋敷の所在地を検討することにありました。なぜなら、金春屋敷は秦楽寺の門前にある点が大前提となり、仮に屋敷が別の場所に所在すれば秦楽寺の場所そのものも変わってしまい、ひいては元伊勢第一号となる笠縫邑の場所にまで影響を及ぼしてくるからです。
そのような問題を抱えつつ金春屋敷所在地を検討した結果、驚いたことに四か所(現在の秦楽寺、西竹田、田原本町蔵堂、田原本町法貴寺)もの候補地が出てきました。これらの場所は猿楽や伎楽と関係し、いずれも金春屋敷の所在地であった可能性を有しています。笠縫邑の場所特定の前段階でまだ右往左往しているのは実に情けないのですが、何とか答えを探っていきましょう。
まず比較的簡単そうな西竹田から入ります。西竹田は古い時代の伎楽や秦氏とは関係がなく、集落をグーグル画像で拡大し見ても、空海に関係した阿字池に相当する池は見られません。従って、金春家の別宅が西竹田にあった可能性は排除できないものの、秦楽寺の所在地ではないと考えられます。また西竹田は秦楽寺から近い距離にあり笠縫邑の範囲内と考えられます。つまり、この場所にかつて秦楽寺があってもなくても、笠縫邑の視点からは問題はないと判断されます。
問題は田原本町蔵堂です。「四天王寺の鷹」には以下のように記載されていました。
「延喜式」の雅楽寮式の「伎楽」の「楽戸郷」には、「大和城下郡杜屋に在り」という原注が施されている。楽戸は楽生を出すために設定された戸で、雅楽寮に所属している。雅楽寮式では、四月八日、七月十五日の斎会の折の伎楽人を、杜屋にある楽戸郷から選びあてる、としている。蔵堂は蔵人、大蔵、財人とも書いて、秦氏系の伎楽伶人のことであり、したがって、蔵堂に属する杜屋の楽戸郷は秦姓の伎楽戸の在所であった。
ここに書かれている内容は、延喜式(平安時代中期に編纂された律令の施行細則)の時代であり延長5年(927年)にまで遡ってしまいます。もちろんこの年代は延喜式が完成した時期に過ぎず、実際にはそれよりさらに遡ることになり、聖徳太子と秦河勝に近いところまで行き着いてしまうでしょう。伎楽や伎楽伶人に関しては以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/general_sasaki/shiten-bugaku-ni.html
蔵堂に金春屋敷と秦楽寺がかつてあり、後に現在地に移転したとすれば、蔵堂が笠縫邑となってしまい、鏡作郷からも離れすぎてしまいます。困りましたね。
この問題を考えるため、田原本町のホームページで、「秦楽寺」や金春屋敷ももとは村屋神社にあった、と書かれていた部分を最初に検討してみます。秦楽寺や金春屋敷があったかもしれない村屋坐弥冨都比売神社に関して、Wikiには、「三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を主祭神とし、大物主命を配祀する。三穂津姫命は大国主命の后神であり、記紀神話では大物主と大国主は同神としている。大物主命は大神神社の祭神であり、その后神を祀る当社はその別宮とされる。」と記載ありました。
いかがでしょう?大神神社の別宮の中に秦氏の氏寺・秦楽寺があったとは考えられませんね。また、既に書いたように村屋坐弥冨都比売神社鎮座地は物部氏のエリアと推定され、そこに秦氏の氏寺があったと考えるのもやや筋が通りにくいと思われます。
秦河勝は長男には武を、次男には伶人(伎楽伶人)を、三男には申楽(猿楽)を伝えたとされます。猿楽は秦楽寺と関係し、一方伎楽は四天王寺が中心となりました。四天王寺に所属する天王寺楽所の楽人たちは江戸時代の初め頃四家に分かれ、その一つに東儀家があります。よって現在の東儀秀樹氏は秦氏で秦河勝の子孫とされています。
余談はさて置き、同じ秦氏の流れであっても、秦河勝の次世代で三つに分流しているような感があります。そして、谷川氏の「四天王寺の鷹」には、「蔵堂に属する杜屋の楽戸郷は秦姓の伎楽戸の在所であった。」と書かれていることから、猿楽とは明らかに別流となる伎楽の中心地が蔵堂となり、そこに秦楽寺があったとは断定はできません。
でもそれだけでは蔵堂説を否定できないので、別の視点から検討します。秦楽寺の創建には聖徳太子が関与しています。聖徳太子は飛鳥から筋違道(太子道)を馬に乗り斑鳩に通っていました。筋違道は黒田から斜行して秦楽寺の西側(西竹田の東側)を通り、新木の集落を抜けて多神社の東を斜行していくルートになっていると推定されます。そうしたルートの脇に秦楽寺があるのは実に自然なことと考えられます。
筋違道の推定ルート。
画像では筋違道は秦楽寺(画像の右上端辺り)の東を通り、新木の集落を抜けて多神社(画像の下端真ん中辺り)の東を通っています。このルートは「田原本町 都市計画マスタープラン」にも出ているので参照ください。現在の秦楽寺は筋違道のすぐ近くですが、蔵堂の場合は筋違道からかなり離れることになります。これも、蔵堂説を否定する根拠となるでしょう。
また秦楽寺遺跡からは8世紀後半ごろの柱穴が見つかっています。700年代において既にこの地にお寺が存在していたことは間違いありません。
大神神社の別宮の中に秦氏の秦楽寺があったとは考えられないこと、蔵堂は筋違道から離れすぎていること、秦楽寺遺跡からは8世紀後半ごろの柱穴が見つかっていること、お寺の方にお聞きしても、創建からずっとこの場所だと話されていたこと、秦楽寺は猿楽と関係するのに対し、蔵堂は伎楽と関係し猿楽とは流れが異なること、などの理由で、蔵堂は金春屋敷の所在地ではないと考えられます。
既に書いたように、秦河勝は長男には武を、次男には伶人(伎楽伶人)を、三男には申楽(猿楽)を伝えたとされます。消去法で考えると、次男の子孫である伎楽伶人の拠点は蔵堂に確定し、金春屋敷候補から消えました。
次に消去すべきは田原本町法貴寺です。法貴寺が武を伝えられた長男の子孫に関係すれば、法貴寺も消去され問題は解決します。実はこの答えは既に得られています。前回で法貴寺に関してある内容を書きました。そう、「法貴寺は秦河勝が武芸を伝えた子の子孫となる長谷川党の氏寺です。」の部分です。法貴寺が長谷川党の氏寺である以上、あれこれ考えるまでもなく、田原本町法貴寺は武を伝えられた長男の子孫の拠点になり、金春屋敷候補から消えることとなります。
ここまでの考察で答えが出ました。武芸を伝えられた長男の子孫となる長谷川党の氏寺は法貴寺、伎楽を伝えられた次男の子孫は蔵堂にある村屋神社境内(或いは新楽寺)、猿楽を伝えられた三男の子孫は現在の秦楽寺をそれぞれ拠点としたことになり、うまく場所を振り分けることができます。よって、金春屋敷は現在の秦楽寺門前にあったとして間違いなさそうです。これで金春屋敷の問題が決着し、秦楽寺の位置も確定したので、笠縫邑の所在地問題に悪影響を及ぼすことはなくなりました。
なお、前回に出てきた蔵堂の新楽寺と秦楽寺の関係については、谷川健一氏の意見がどのような史料に基づくものなのか書かれておらず何とも言えません。酔石亭主としては、蔵堂にあった楽戸のお寺(新楽寺)のメンバーの一部が何らかの事情で以前から秦庄ある秦楽寺に移ったと理解しておきます。
秦楽寺に関して「その27」から長い記事を書き続け、ようやく今回でその所在地の検討が終わりました。秦楽寺が当初から現在地にあったという点は何とか確認できましたが、そこが笠縫邑かどうかはまだ結論に至っていません。次回から秦楽寺一帯が笠縫邑であり元伊勢第一号の場所であった点の論証に入りたいと思います。
尾張氏の謎を解く その32に続く
そのような問題を抱えつつ金春屋敷所在地を検討した結果、驚いたことに四か所(現在の秦楽寺、西竹田、田原本町蔵堂、田原本町法貴寺)もの候補地が出てきました。これらの場所は猿楽や伎楽と関係し、いずれも金春屋敷の所在地であった可能性を有しています。笠縫邑の場所特定の前段階でまだ右往左往しているのは実に情けないのですが、何とか答えを探っていきましょう。
まず比較的簡単そうな西竹田から入ります。西竹田は古い時代の伎楽や秦氏とは関係がなく、集落をグーグル画像で拡大し見ても、空海に関係した阿字池に相当する池は見られません。従って、金春家の別宅が西竹田にあった可能性は排除できないものの、秦楽寺の所在地ではないと考えられます。また西竹田は秦楽寺から近い距離にあり笠縫邑の範囲内と考えられます。つまり、この場所にかつて秦楽寺があってもなくても、笠縫邑の視点からは問題はないと判断されます。
問題は田原本町蔵堂です。「四天王寺の鷹」には以下のように記載されていました。
「延喜式」の雅楽寮式の「伎楽」の「楽戸郷」には、「大和城下郡杜屋に在り」という原注が施されている。楽戸は楽生を出すために設定された戸で、雅楽寮に所属している。雅楽寮式では、四月八日、七月十五日の斎会の折の伎楽人を、杜屋にある楽戸郷から選びあてる、としている。蔵堂は蔵人、大蔵、財人とも書いて、秦氏系の伎楽伶人のことであり、したがって、蔵堂に属する杜屋の楽戸郷は秦姓の伎楽戸の在所であった。
ここに書かれている内容は、延喜式(平安時代中期に編纂された律令の施行細則)の時代であり延長5年(927年)にまで遡ってしまいます。もちろんこの年代は延喜式が完成した時期に過ぎず、実際にはそれよりさらに遡ることになり、聖徳太子と秦河勝に近いところまで行き着いてしまうでしょう。伎楽や伎楽伶人に関しては以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/general_sasaki/shiten-bugaku-ni.html
蔵堂に金春屋敷と秦楽寺がかつてあり、後に現在地に移転したとすれば、蔵堂が笠縫邑となってしまい、鏡作郷からも離れすぎてしまいます。困りましたね。
この問題を考えるため、田原本町のホームページで、「秦楽寺」や金春屋敷ももとは村屋神社にあった、と書かれていた部分を最初に検討してみます。秦楽寺や金春屋敷があったかもしれない村屋坐弥冨都比売神社に関して、Wikiには、「三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を主祭神とし、大物主命を配祀する。三穂津姫命は大国主命の后神であり、記紀神話では大物主と大国主は同神としている。大物主命は大神神社の祭神であり、その后神を祀る当社はその別宮とされる。」と記載ありました。
いかがでしょう?大神神社の別宮の中に秦氏の氏寺・秦楽寺があったとは考えられませんね。また、既に書いたように村屋坐弥冨都比売神社鎮座地は物部氏のエリアと推定され、そこに秦氏の氏寺があったと考えるのもやや筋が通りにくいと思われます。
秦河勝は長男には武を、次男には伶人(伎楽伶人)を、三男には申楽(猿楽)を伝えたとされます。猿楽は秦楽寺と関係し、一方伎楽は四天王寺が中心となりました。四天王寺に所属する天王寺楽所の楽人たちは江戸時代の初め頃四家に分かれ、その一つに東儀家があります。よって現在の東儀秀樹氏は秦氏で秦河勝の子孫とされています。
余談はさて置き、同じ秦氏の流れであっても、秦河勝の次世代で三つに分流しているような感があります。そして、谷川氏の「四天王寺の鷹」には、「蔵堂に属する杜屋の楽戸郷は秦姓の伎楽戸の在所であった。」と書かれていることから、猿楽とは明らかに別流となる伎楽の中心地が蔵堂となり、そこに秦楽寺があったとは断定はできません。
でもそれだけでは蔵堂説を否定できないので、別の視点から検討します。秦楽寺の創建には聖徳太子が関与しています。聖徳太子は飛鳥から筋違道(太子道)を馬に乗り斑鳩に通っていました。筋違道は黒田から斜行して秦楽寺の西側(西竹田の東側)を通り、新木の集落を抜けて多神社の東を斜行していくルートになっていると推定されます。そうしたルートの脇に秦楽寺があるのは実に自然なことと考えられます。
筋違道の推定ルート。
画像では筋違道は秦楽寺(画像の右上端辺り)の東を通り、新木の集落を抜けて多神社(画像の下端真ん中辺り)の東を通っています。このルートは「田原本町 都市計画マスタープラン」にも出ているので参照ください。現在の秦楽寺は筋違道のすぐ近くですが、蔵堂の場合は筋違道からかなり離れることになります。これも、蔵堂説を否定する根拠となるでしょう。
また秦楽寺遺跡からは8世紀後半ごろの柱穴が見つかっています。700年代において既にこの地にお寺が存在していたことは間違いありません。
大神神社の別宮の中に秦氏の秦楽寺があったとは考えられないこと、蔵堂は筋違道から離れすぎていること、秦楽寺遺跡からは8世紀後半ごろの柱穴が見つかっていること、お寺の方にお聞きしても、創建からずっとこの場所だと話されていたこと、秦楽寺は猿楽と関係するのに対し、蔵堂は伎楽と関係し猿楽とは流れが異なること、などの理由で、蔵堂は金春屋敷の所在地ではないと考えられます。
既に書いたように、秦河勝は長男には武を、次男には伶人(伎楽伶人)を、三男には申楽(猿楽)を伝えたとされます。消去法で考えると、次男の子孫である伎楽伶人の拠点は蔵堂に確定し、金春屋敷候補から消えました。
次に消去すべきは田原本町法貴寺です。法貴寺が武を伝えられた長男の子孫に関係すれば、法貴寺も消去され問題は解決します。実はこの答えは既に得られています。前回で法貴寺に関してある内容を書きました。そう、「法貴寺は秦河勝が武芸を伝えた子の子孫となる長谷川党の氏寺です。」の部分です。法貴寺が長谷川党の氏寺である以上、あれこれ考えるまでもなく、田原本町法貴寺は武を伝えられた長男の子孫の拠点になり、金春屋敷候補から消えることとなります。
ここまでの考察で答えが出ました。武芸を伝えられた長男の子孫となる長谷川党の氏寺は法貴寺、伎楽を伝えられた次男の子孫は蔵堂にある村屋神社境内(或いは新楽寺)、猿楽を伝えられた三男の子孫は現在の秦楽寺をそれぞれ拠点としたことになり、うまく場所を振り分けることができます。よって、金春屋敷は現在の秦楽寺門前にあったとして間違いなさそうです。これで金春屋敷の問題が決着し、秦楽寺の位置も確定したので、笠縫邑の所在地問題に悪影響を及ぼすことはなくなりました。
なお、前回に出てきた蔵堂の新楽寺と秦楽寺の関係については、谷川健一氏の意見がどのような史料に基づくものなのか書かれておらず何とも言えません。酔石亭主としては、蔵堂にあった楽戸のお寺(新楽寺)のメンバーの一部が何らかの事情で以前から秦庄ある秦楽寺に移ったと理解しておきます。
秦楽寺に関して「その27」から長い記事を書き続け、ようやく今回でその所在地の検討が終わりました。秦楽寺が当初から現在地にあったという点は何とか確認できましたが、そこが笠縫邑かどうかはまだ結論に至っていません。次回から秦楽寺一帯が笠縫邑であり元伊勢第一号の場所であった点の論証に入りたいと思います。
尾張氏の謎を解く その32に続く
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