2025年1月6日月曜日

継体天皇関連



継体天皇


6月22日 メンバーシップライブ


徳島県阿南市楠根町

天皇は樟葉宮(大阪府枚方市)にお着きになった。 日本書紀

古事記

  継体天皇  品太王(応神天皇)の五世の子孫の袁本杼命は、磐余の玉穂宮においでになって、天下を統治なさった。天皇が、三尾君らの祖先の、名は若比売と結婚して、お生みになった御子は、大郎子、次に出雲郎女、二人。また、尾張連らの祖先の凡連の妹の目子郎女と結婚して、お生まれになった御子は、広国押建金日命、次に建小広国押楯命、二人。また、意富祁天皇(仁賢天皇)の御子の、手白髪命これが皇后であると結婚して、お生まれになった御子は、天国押波流岐広庭命、一人。また、息長手王の娘の、麻組郎女と結婚して、お生みになった御子は、佐々宜郎女、一人。また、坂田大俣王の娘の黒比売と結婚して、お生みになった御子は、神前郎女。次に田郎女、次に田郎女、次に白坂活日子郎女、次に野郎女、別名は長目比売。二人。また、三尾君の加多夫の妹の、倭比売と結婚して、お生みになった御子は、太郎女、次に丸高王、次に耳王、次に赤比売郎女、四人。また、阿倍波延比売と結婚して、お生みになった御子は、若屋郎女、次に都夫良郎女、次に阿豆王、三人。この天皇の御子たちは、合わせて十九人の王である。男が七人、女が十二人。この中で、天国押波流岐広庭命は、天下を統治なさった。次に広国押建金日命が天下を統治なさった。次に建小広国押楯命が天下を統治なさった。次に佐々宜王は、伊勢神宮をお祭り申し上げた。  この天皇の御代に、筑紫君の石井が、天皇の命令に服従せず、無礼なことが多かった。そこで、物部荒甲大連と大伴金村連の二人を派遣して、石井をお殺しになった。  天皇の御寿命は四十三歳。丁未の年の四月九日に崩御なさった。御陵は、三島の藍陵である。

日本書紀

日本書紀巻第十七 男大迹天皇 
継体天皇 継体天皇の擁立  男大迹天皇〔更の名は彦太尊〕は、誉田天皇(応神天皇)の五世の孫で、彦主人王の子である。御母を振媛と申しあげる。振媛は活目天皇(垂仁天皇)の七世の孫である。天皇の御父(彦主人王)は、振媛の容貌が端正で美しいということを聞き、近江国高嶋郡の三尾(滋賀県高島市)の別邸から使を遣わし、三国の坂中井(福井県坂井市三国町)〔中、これを那という〕に迎えて妃となさった。媛は天皇を産んだが、天皇がまだ幼少のときに、父の王はおなくなりになった。振媛は歎いて、
「私は今遠く故郷を離れていて、父母に孝養をつくせない。高向(福井県坂井市丸岡町付近)に帰って親のめんどうをみながら〔高向は越前国の邑の名である〕、天皇を御養育いたしましょう」と言った。成人された天皇は、士を愛し、賢人をうやまい、寛大な御心をおもちであった。御年五十七歳の八年(武烈天皇八年)冬十二月の己亥(八日)に、小泊瀬天皇(武烈天皇)がお崩れになった。天皇(武烈天皇)にはもともと皇子女がなく、継嗣が絶えようとした。壬子(二十一日)に、大伴金村大連は、
「今やまったく継嗣がない。天下の人々はどこに心をよせたらよいのであろう。古来、災禍はいつも継嗣のことからおこっている。今思うに、足仲彦天皇(仲哀天皇)の五世の孫の倭彦王が、丹波国桑田郡(京都府亀岡市など)におられる。試みに兵備を整えて乗輿の周囲を固め、お迎えして人主にお立てしてはどうだろうか」
とはかった。大臣(許勢臣男人)・大連(物部連麁鹿火)らはみなこの意見に従い、計略どおりにお迎えした。ところが倭彦王は、お迎えの軍兵を遠くに見てびっくりして色を失い、山中に逃げ入って行くえをくらましてしまった。  元年の春正月の辛酉の朔甲子(四日)に、大伴金村大連はまた、 「男大迹王は、めぐみ深く、孝養の念あつい御性格で、皇位をおつぎになるのにふさわしい方である。心をこめてお勧めし、皇統の栄えをはかろうではないか」 と相談した。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣らは、みな、 「御皇孫のなかで、賢者はまさしく男大迹王だけだ」 と言ったので、丙寅(六日)に臣・連らを遣わし、節を持ち乗輿を整えて王を三国にお迎えした。お使が兵備を固め威儀を整え、先払いを立てて突然に到着すると、男大迹天皇は平然と胡床(床几)に坐し、侍臣を整列させて、すでに帝王のようなお姿であった。節を持った使たちは、これを見てつつしみかしこまり、心命を傾け、王を天皇にあおいで忠誠を尽くしたいとお願いした。けれども天皇は、心中になお疑念をいだかれ、なかなか御承知なさらなかった。たまたま河内馬飼首荒篭を知っておられたので、荒篭はひそかに天皇に使をたてまつり、大臣・大連らが天皇をお迎えしようとする真意をくわしく申しあげた。留まること二日三夜して、ついに天皇は御出発になった。そして、 「よかった、馬飼首よ。お前が使を送って知らせてくれなかったら、私は天下の笑いものとなるところであった。『人の貴賎を論じてはいけない。その心がけをこそ重んじるべきだ』と世にいうのは、荒篭のような者をさすのであろう」 と歎ぜられ、践祚されるに及んで手厚く荒篭を遇せられた。甲申(十二日)に、天皇は樟葉宮(大阪府枚方市)にお着きになった。  二月の辛卯の朔甲午(四日)に、大伴金村大連は、ひざまずいて天子の璽符としての鏡・剣をたてまつり、拝礼した。男大迹天皇は、 「民を子とし国を治めるというのは、重大なことである。自分は才がなく、天子たるの資格がない。どうかもう一度考え直し、賢者を択んでほしい。自分はその任ではない」 といって辞退された。大伴大連は地に伏してなおもお願いをし、男大迹天皇も、西に向かって三度、南に向かって再度、辞譲の礼をくり返された(ここは中国の儀礼にもとづく文飾)。大伴大連らは口をそろえて、 「つつしんで考えまするに、大王(男大迹天皇)は民を子とし国を治めるのにもっともふさわしいかたであられます。私どもは、決していいかげんな気持で国家のためのはかりごとを立てたのではございません。なにとぞ人々の願いをお聞きとどけくださいますように」 と申しあげた。すると男大迹天皇は、 「大臣・大連・将相(大夫。国政に関与する有力者)・諸臣がみな自分を推すのであれば、自分はそれに反することはできない」 と言われ、璽符をお受けになった。この日、天皇は即位され、今までどおり、大伴金村大連を大連、許勢男人大臣を大臣、物部麁鹿火大連を大連とし、大臣・大連らはその職位についた。庚子(十日)に、大伴大連が、 「古来、国王の治世にあたっては、たしかな皇太子がなければ天下をよく治めることができず、むつまじい皇妃がなければよい子孫を得ることができないと聞いております。そのとおり、白髪天皇(清寧天皇)は、皇嗣が無かったために、私の祖父の大伴大連室屋を遣わし、州ごとに三種の白髪部〔三種というのは、一つには白髪部舎人、二つには白髪部供膳、三つには白髪部靫負である〕を置いて、後世に天皇の名を残そうとなさいました。いたましいことではございませんか。どうか手白香皇女(仁賢天皇の皇女)を皇后にお立てになり、神祇伯らを遣わして神々に御子息の生誕を祈念し、民の望みにお答えいただきますように」 と奏請したところ、天皇は、 「よろしい」 と言われた。  三月の庚申の朔に、詔して、 「神々を祭るには神主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を立ててそれを助け養わせ、その本性と天命とを全くさせている。大連(大伴金村)は、自分に子息のないことを心配し、国家のために世々忠誠を尽くしている。決して自分の世だけのことではない。よろしく礼儀を整え、手白香皇女をお迎えするように」 と言われた。甲子(五日)に、皇后手白香皇女を立て、後宮のことを修めさせられた。皇后はやがて一人の男子をお生みになった。これを天国排開広庭尊(欽明天皇)と申しあげる〔開、これを波羅企という〕。尊は嫡子ではあるが年幼く、二人の兄の治世のあとで、天下をお治めになった〔二人の兄とは、広国排武金日尊(安閑天皇)と武小広国押盾尊(宣化天皇)とである。下の文に見える〕。戊辰(九日)に詔して、 「男が耕作をしないと、その年には天下が飢饉におちいることがあり、女が糸をつむがないと、その年には天下が寒さにふるえることがある。それゆえ、帝王はみずから耕作を行なって人々に農業を勧め、后妃はみずから養蚕を行なって人々にそれを勉めさせると聞いている。まして官人や人民までがみな農業や紡織をやめてしまっては、どうして国が富み栄えようか。官人は全国に布告して、自分の気持を人々に知らせるように」 と言われた。  癸酉(十四日)に、八人の妃をお召しになった〔八人の妃をお召しになったことには先後があるが、ここに癸酉にお召しになったと記すのは、即位されてから吉日を占いえらんで初めて後宮のことをお命じになったためである。他の場合もみなこれに倣うように〕。以前からの妃で、尾張連草香の女を、目子媛という〔またの名は色部〕。この妃は二人の皇子を生み、二人とも天下をお治めになった。その一人を勾大兄皇子といい、これを広国排武金日尊(安閑天皇)と申しあげる。二人目を桧隈高田皇子といい、これを武小広国排盾尊(宣化天皇)と申しあげる。次の妃、三尾角折君の妹を稚子媛といい、大郎皇子と出雲皇女とを生んだ。次に坂田大跨王の女を広媛といい、三女を生んだ。長を神前皇女、仲を茨田皇女、少を馬来田皇女と申しあげる。次に息長真手王の女を麻績娘子といい、荳角皇女を生んだ〔荳角、これを娑佐礙という〕。この皇女は、伊勢大神の祭祀に奉仕された。次に茨田連小望の女〔あるいは妹という〕を関媛といい、三女を生んだ。長を茨田大娘皇女、仲を白坂活日姫皇女、少を小野稚郎皇女〔またの名は長石姫〕と申しあげる。次に三尾君堅楲の女を倭媛といい、二男二女を生んだ。その第一を大娘子皇女と申しあげる。その第二を椀子皇子と申しあげる。これは三国公の先祖である。その第三を耳皇子、第四を赤姫皇女と申しあげる。次に和珥臣河内の女を荑媛といい、一男二女を生んだ。その第一を稚綾姫皇女、第二を円娘皇女、第三を厚皇子と申しあげる。次に根王の女を広媛といい、二男を生んだ。長を兎皇子と申しあげる。これは酒人公の先祖である。少を中皇子と申しあげる。これは坂田公の先祖である。この年の太歳は丁亥。  二年の冬十月の辛亥の朔癸丑(三日)に、小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇)を傍丘磐杯丘陵(奈良県北葛城郡)に葬った。  十二月に、南の海のかなたの耽羅(済州島)の人が、初めて百済国に使を送った。  三年の春二月に、使を百済に遣わした〔『百済本記』に久羅麻致支弥が日本から来たとあるが、いまだ詳らかでない〕。任那の日本の村々に住む百済の人々のなかで、本貫の地から浮浪・逃亡して来た者を三、四世にまでさかのぼって調べあげ、百済に送りかえして戸籍につけた。  五年の冬十月に、都を山背の筒城(京都府綴喜郡)に移した。 任那四県の割譲  六年の夏四月の辛酉の朔丙寅(六日)に、穂積臣押山を百済に使させた。そのため、筑紫国の馬四十匹を賜わった。  冬十二月に、百済は使を遣わして調をたてまつり、別に上表して任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を賜わることをこうた。哆唎国守穂積臣押山は、 「この四県は百済に近接し、日本からは遠く隔たっております。哆唎と百済とは朝夕に通いやすく、鶏や犬の声も、どちらの国のものか区別がつかないくらいです。今百済に賜わって同じ国としたなら、この地を保つための政策としてこれに過ぎるものはありません。百済に賜わって国を合わせても、後世には危ういことがあるかも知れませんが、このまま切り離しておいたのでは、なおのこと、とても何年とは守りきれますまい」 と申しあげた。大伴大連金村もこの意見に同調して奏上し、物部大連麁鹿火を勅を宣する使にあてた。物部大連が難波の館(外国使臣のための客舎)に出かけ、百済の客に勅を宣しようとすると、その妻は大連に、 「住吉大神は、海のかなたの金銀の国、高麗(高句麗)・百済・新羅・任那などを、胎中の誉田天皇(応神天皇)にお授けになりました。そこで、大后の息長足姫尊(神功皇后)と大臣の武内宿禰とが、国ごとに初めて官家を置き、長らく海表の蕃屏(海外の属国)としてきたのです。それを削って他国に賜われば、元来の区域と違ってしまいます。そうしたら後世まで、人々に非難されることになりましょう」 と言っていさめた。大連が、 「もっともだが、天皇の勅命に背くのが恐れ多い」 と答えると、妻はいっそうきびしく諌言して、 「それなら、病気だといって、勅命を宣するのをおやめなさい」 と言ったので、大連は妻のいさめに従った。このため、使人を改めて勅命を宣べさせ、賜物と制旨(勅命の書)とを百済の使にさずけ、上表どおり任那の四県を賜わった。大兄皇子(勾大兄皇子。のちの安閑天皇)は、事情があって国を賜うことに関与せず、あとで宣勅のあったことを知り、驚き残念がってこれを改めようとし、 「胎中之帝(応神天皇)以来官家を置いていた国を、蕃国の乞うままに軽々しく賜うということがあってはならぬ」 と言われ、日鷹吉士を遣わして百済の使に命令を改め伝えた。すると使者は、 「父君の天皇が事情をお考えになり、勅命によって賜わったものです。その子である皇子が、天皇の勅命に違い、命令を改め発するということがありましょうか。これはきっと 虚でありましょう。たとえ本当のことだとしても、杖の太いほうの頭で打つのと、細いほうの頭で打つのと、どちらが痛いでしょうか(天皇の勅は重く、皇子の命令は軽いことのたとえ)」 と答え、帰ってしまった。世間では、 「大伴大連(金村)と哆唎国守穂積臣押山とは、百済の賄賂を受けたのだ」 という流言があった。 己汶・帯沙をめぐる争い  七年の夏六月に、百済は、姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わし、穂積臣押山〔『百済本記』には、委の意斯移麻岐弥とある〕に従わせて、五経博士段楊爾をたてまつった。また別に上奏して、 「伴跛国(任那北部の一国)が、わが国の己汶の地(蟾津江流域の地)を略奪しました。どうか御判断いただき、本来の領有者にお返しください」 と言った。  秋八月の癸未の朔戊申(二十六日)に、百済の太子淳陀が薨じた。  九月に、勾大兄皇子は、親しく春日皇女(仁賢天皇の皇女)を聘われた。月の美しい夜、語りあって、いつしか夜は明けてしまった。思いはたちまちに言葉となり、皇子は口ずからお唄いになった。 八島国 妻枕きかねて 春日の 春日の国に 麗し女を 有りと聞きて 宜し女を 有りと聞きて 真木さく 桧の板戸を 押し開き 我入り坐し 脚取り 端取して 枕取り 端取して 妹が手を 我に纒かしめ 我が手をば 妹に纒かしめ 真柝葛 たたき交はり 鹿くしろ 熟睡寝し間に 庭つ鳥 鶏は鳴くなり 野つ鳥 雉は響む 愛しけくも いまだ言はずて 明けにけり我妹(八島の国で妻をえることができず、春日の国に美しいひとがいると聞いて、すばらしい桧の板戸を押し開いてはいり、足の方から、頭の方からと着物の端をとって、妻の手を自分にまきつかせ、自分の手を妻にまきつかせて、抱きあい、交わってぐっすりと眠っているあいだに、鶏は鳴き、雉も鳴き立てる。かわいい、とも言わないうちに夜が明けてしまった。妻よ)  妃(春日皇女)はこれに和して、 隠国の 泊瀬の川ゆ 流れ来る 竹の い組竹節竹 本辺をば 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹き鳴す 御諸が上に 登り立ち 我が見せば つのさはふ 磐余の池の 水下ふ 魚も上に出て歎く やすみしし 我が大君の 帯ばせる 細紋の御帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て歎く(泊瀬川を流れてくる竹の、組みあわさった竹、節々の立派な竹の、根もとの太いところを琴に作り、先の細いところを笛に作って、それを吹き鳴らす御諸の山の上に登り立って見ると、磐余の池のなかの魚も水面に出て歎いています。わが大君の締めておいでの細かい模様の御帯を結び垂れ、誰もが悲しみをあらわして歎いています) とお唄いになった。  冬十一月の辛亥の朔乙卯(五日)に、朝廷に百済の姐弥文貴将軍、斯羅(新羅)の汶得至、安羅(任那の一国)の辛已奚及び賁巴委佐、伴跛の既殿奚及び竹汶至らを召集し、勅を宣して、己汶・帯沙(蟾津江河口の地)を百済国に賜わった。  この月に、伴跛国は、戢支を遣わして珍宝を献上し、己汶の地を乞うたが、賜わらなかった。  十二月の辛巳の朔戊子(八日)に、詔して、 「自分は皇位をつぎ、国家のことをゆだねられて、いつも恐れあやうんでいる。このところ国内は穏やかで豊年が続き、国は富んでいる。摩呂古(愛称。皇子のこと)よ、わが心を八方の人々に示すのはなんと喜ばしいことか。また勾大兄よ、わが徳化を万国に及ぼすのはなんと晴れがましいことか。今日本は平和で、わが名声は天下に聞こえ、秋津(日本)の勢いはさかんで、わが栄誉は王畿(国内)に重んじられている。賢人を宝とし、善をなすを楽しみとすれば、天皇の徳化は遠くに及び、その功業は長く伝えられる。これらはみな、おまえの力にまたねばならない。皇太子として自分を助けて仁政を行ない、至らないところを補うように」 と言われた。  八年の春正月に、太子(勾大兄皇子)の妃の春日皇女が、朝なかなか起きてこず、いつもと様子がちがっていた。不審に思った太子が御殿に入って御覧になると、妃は床に泣き伏し、どうしようもなくもだえ苦しんでいた。太子が不思議に思って、 「そんなに泣いて、なにか恨めしいことでもあるのか」 とおたずねになると、妃は、 「ほかの事ではございません。空を飛ぶ鳥も、わが子を養うためには木のいただきに巣を作り、地をはう虫も、わが子を護るためには土の中に穴を掘ります。その愛護の気持は、深く、また厚いのです。人として、どうして考えないでいられましょう。私は太子が恨めしい。あとつぎがないために自分の名まで絶えてしまう。それが私には悲しいのです」 と申しあげた。太子は心を痛め、天皇にこのことを奏上した。天皇は、詔して、 「わが子麻呂古よ、おまえの妃の言葉は、まことに理にかなっている。つまらないことだといって慰めずにほうっておいてはいけない。匝布屯倉(奈良市内にあった屯倉)を賜い、妃の名を万代までも伝えるように」 と言われた。  三月に、伴跛は城を子呑と帯沙とに築いて満奚と結び、烽候(敵襲を急報するためにのろしをあげる施設)・邸閣(武器庫)を置いて日本に備えた。また城を爾列比と麻須比とに築いて麻且奚・推封と結び、軍兵や兵器を集めて新羅を圧迫した。男女を捕え、村々を掠奪し、襲われたところはほとんど生存者がいなかった。その暴虐、奢侈、人々を悩まし苦しめ、多くを殺害したさまは、詳しく記すことができないほどである。  九年の春二月の甲戌の朔丁丑(四日)に、百済の使者文貴将軍らが帰国したいとこうたので、勅して物部連〔名は伝わらない〕を使者に副えて遣わした〔『百済本記』には物部至至連とある〕。この月に沙都嶋(巨済島)に着いたところ、伴跛の人が恨みをいだき、強さをたのんで暴虐のかぎりを尽くしているという噂を聞いた。そこで物部連は、水軍五百をひきいて直ちに帯沙江(蟾津江の河口)に到達し、文貴将軍は新羅を経由して百済に入った。  夏四月に、物部連が帯沙江に停泊して六日たって、伴跛は軍勢をおこして攻めかけてきた。衣服をはぎ、所持品を掠奪し、帷幕(露営用の天幕)をことごとく焼いた。物部連らは恐れて逃げ、命からがら汶慕羅〔汶慕羅は嶋の名である〕(蟾津江河口外の一島か)に停泊した。  十年の夏五月に、百済は前部木刕不麻甲背を遣わし、物部連らを己汶に迎えてねぎらい、先導して国に入った。百済では群臣が、おのおの衣裳・斧鉄・帛布を出し、国物(国からの賜物)とともに朝廷に積みあげ、物部連らをねんごろに慰問し、例にまさる賞禄をおくった。  秋九月に、百済は州利即次将軍を遣わし、物部連に従わせて来朝し、己汶の地を賜わったことを感謝した。また別に五経博士漢高安茂をたてまつり、博士段楊爾に代えたいと願ったので、願いのままに交代させた。戊寅(十四日)に、百済は、灼莫古将軍、日本の斯那奴阿比多(日本系の百済人か)を遣わし、高麗(高句麗)の使安定らにつきそわせて来朝し、修好した。  十二年の春三月の丙辰の朔甲子(九日)に、弟国(京都府乙訓郡)に遷都した。  十七年の夏五月に、百済の王武寧が薨じた。  十八年の春正月に、百済の太子明(聖王=聖明王)が王位についた。  二十年の秋九月の丁酉の朔己酉(十三日)に、磐余の玉穂(奈良県桜井市)に遷都した〔一本には七年とある〕。 磐井の反乱  二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午(三日)に、近江毛野臣が六万の軍兵をひきいて任那におもむき、新羅に破られた南加羅・㖨己呑(いずれも任那の国名)を再興して任那に合わせようとした。筑紫国造磐井は、かねて叛逆を企て、事が失敗するのを恐れてためらいつつもすきをうかがっていたが、新羅はこれを知ってひそかに賄賂を磐井におくり、毛野臣の軍を防ぐようにと勧めた。そこで磐井は、火(佐賀県・長崎県・熊本県)・豊(福岡県東部・大分県)の二国にも勢いを張って朝廷の命をうけず、海路を遮断して高麗(高句麗)・百済・新羅・任那などの国の毎年の朝貢の船をあざむき奪い、任那に派遣する毛野臣の軍を抑えて、 「今は使者だなどと言っているが、昔はおれの同輩で肩肘触れあわせ、ひとつ食器で食事をしたものだ。急に使者になったからといって、そうおめおめと従うものか」 と豪語し、交戦して従わず、気勢がさかんであった。このため毛野臣は前進をはばまれ、中途に滞留した。天皇は、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに詔して、 「筑紫の磐井が反乱し、西辺の地を占領している。だれを将軍としたらよかろう」 と言われた。大伴大連らがみな、 「正直で仁慈も勇気もあり、軍事に精通しているという点で、麁鹿火の右に出る者はございません」 と申しあげたところ、天皇は、 「よろしい」 と言われた。  秋八月の辛卯の朔に、詔して、 「大連よ、磐井が従おうとしない。おまえが征討せよ」 と言われた。物部麁鹿火大連は再拝して、 「磐井は西辺の姧賊で、険阻な山川をたのんで反乱し、道義にそむき、おごりたかぶっております。道臣(大伴氏の祖。神武天皇に仕えたとされる)の昔から室屋(大伴室屋。金村の祖父)にいたるまで、武将が天子を助けて征伐し、民の苦しみを救うことに変りはございません。ただ天の助けのみを、私はいつも大切に思っております。つつしんで命を拝し、征伐いたしましょう」 と申しあげた。天皇は詔して、 「名将は出陣にあたっては将士を恵み、思いやりをかける。そして川が決壊する勢いで攻め、風の吹きおこる勢いで戦うものだ」 と言われ、重ねて、 「大将は民の生命を左右する者で、国の存亡もここにかかっている。しっかりせよ。つつしんで天罰を行なうのだ」 と言われた。天皇はみずから斧鉞を取って大連に授け、 「長門(山口県)から東は自分が統治しよう。筑紫(福岡県)から西はおまえが統治し、思いのままに賞罰を行なえ。一々奏上する必要はない」 と言われた。  二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子(十一日)に、大将軍物部大連麁鹿火は、みずから賊の首領磐井と筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で交戦した。両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のかき立てる埃塵も入りみだれた。両軍は勝機をつかもうと必死に戦ってゆずらなかったが、麁鹿火はついに磐井を斬り、反乱を完全に鎮定した。  十二月に、筑紫君葛子は、父(磐井)に連坐して誅せられるのを恐れ、糟屋屯倉(福岡県粕屋郡)を献上して死罪を贖う(財物を出して罪を免除される)ことをこうた。  二十三年の春三月に、百済の王は下哆唎国守穂積押山臣に、 「日本への朝貢の使者は、嶋曲〔海中の嶋の出入りの崎岸をいう。人々は美佐祁という〕を避けようとしていつも風波に苦しみ、貢納の物を湿らせたり、こわしてしまったりしております。なにとぞ加羅の多沙津(蟾津江河口の地)を賜わり、私どもの朝貢の路としたいと存じます」 と言った。そこで押山臣は、この要請を天皇に奏上した(以上七年条参照)。  この月に、物部伊勢連父根・吉士老らを遣わし、津(多沙津)を百済の王に賜わろうとした。すると加羅(大加羅=高霊加羅)の王は勅使に、 「この津(多沙津)は、官家が置かれて以来、私どもが朝貢するための津渉としております。そうたやすく隣国に賜うということができましょうか。統治せよと定められた、最初の領域を違えることになります」 と言った。勅使の父根らは、その場で津を百済に賜うのはむずかしいとみて、大嶋(南海島か)にもどり、別に録史(文書・記録をつかさどる下級の官人)を遣わして扶余(百済)に賜わった(以上九年条参照)。このため加羅は新羅と結び、日本を怨んだ。加羅の王は新羅の王の女を娶り、こどもをもうけた。新羅は最初女を送るとき、従者百人を遣わし、各県に分散させて新羅の衣冠を着させたが、阿利斯等(任那の王)は衣服を変えたことをいきどおり、使を遣わしてそれらの人々をよび集め、新羅に送りかえした。新羅は大いに面目を失い、女をつれもどそうとして、 「あなたが求婚されたから、私も許したのだ。こういうことをされるのなら、王の女を返してもらいたい」 と言った。すると加羅の己富利知伽〔未詳〕は、 「夫婦となったものを、いまさら仲をさくことができようか。子どももあるというのに、それを棄ててどこに行けるというのだ」 と答えた。結局新羅は、道すがら刀伽・古跛・布那牟羅の三城を攻略し、また北境の五城を攻略した(二十四年九月条参照)。 近江毛野の渡海  この月に、近江毛野臣を安羅(任那の一国)に遣わし、勅して新羅に勧め、南加羅・㖨己呑を再建させようとした。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを遣わし、安羅に赴かせて天皇の詔勅を聞かせた。新羅は蕃国の官家(任那)を破ったことを恐れ、大人(官位の高い人)を遣わさず、夫智奈麻礼・奚奈麻礼らを遣わし、安羅に赴かせて天皇の詔勅を聞かせた。安羅は高堂を新たにつくって勅使をみちびき、国の主(任那の国王)はその後について階段をのぼった。国内の大人も、一、二人が堂に昇った。百済の使の将軍君らは堂の下にあり、いく月もの間再三堂上で謀議が行なわれたのに庭に控えていなければならず、それを恨みに思った。  夏四月の壬午の朔戊子(七日)に、任那の王己能末多干岐が来朝した〔己能末多というのは、阿利斯等のことであろう〕。王は大伴大連金村に、 「海外の諸国は、胎中天皇(応神天皇)が内官家を置かれたとき以来、元来の国王にその土地の統治を委任されてきております。これはまことにもっともなことであります。しかるに今新羅は、最初に賜わった領域を無視し、しばしば越境し侵入してまいります。どうか天皇に、わが国を救ってくださるよう奏上していただきたい」 と言ったので、大伴大連はそのとおりに奏聞した。  この月に、使を遣わして己能末多干岐を送るとともに、任那にいる近江毛野臣に詔して、 「任那の王の奏上するところをよく問いただし、任那と新羅とが疑いあっているのを和解させるように」 と言われた。そこで毛野臣は、熊川(慶尚南道昌原郡熊川面)にあって〔一本には、任那の久斯牟羅でとある〕、新羅・百済二国の王を召集した。新羅王佐利遅は久遅布礼〔一本には久礼爾師知于奈師磨里とある〕を遣わし、百済は恩率弥騰利を遣わして毛野臣のもとへ赴かせ、二王自身は参集しなかった。毛野臣は大いに怒って二国の使を責め、 「小さなものが大きなものに仕えるのは天の道である〔一本には、大きな木の端には大きな木を接木し、小さな端には小さな木を接木するものだ、とある〕。なぜ二国の王は自分自身やって来て天皇の勅を受けようとせず、軽んじて使をよこすのだ。もうおまえたちの王が勅を聞こうとやって来ても、自分は勅しない。きっと追い返してやる」 と言った。久遅布礼と恩率弥騰利とは、内心恐れをいだきつつ、それぞれ国に帰って王に召しに応じるようにと伝えた。すると新羅は、あらためて上臣伊叱夫礼智干岐(異斯夫)を遣わし〔新羅では日本の大臣にあたるものを上臣とする。一本には伊叱夫礼知奈末とある〕、三千の軍兵をひきいて来たり、勅を聞こうとした。毛野臣は、武備を整えた数千の軍兵を遠くに見て、熊川から任那の己叱己利城(久斯牟羅)に入った。伊叱夫礼智干岐は多多羅原(釜山南方の多大浦)にあって、帰服のさまを示すことなく三ヵ月も待ち、しきりに勅を聞くことを要請したが、毛野臣はとうとう勅を宣しなかった。たまたま伊叱夫礼智の士卒が聚落で食物を求め、毛野臣の従者の河内馬飼首御狩のもとに立ち寄った。御狩は他人の家にかくれ、士卒がとおりすぎるのを待って、こぶしを握って遠くからなぐるまねをした。士卒たちはそれを見つけ、 「謹んで三ヵ月も勅旨を聞こうと待っているのに、いっこうに宣しようとせず、勅を聞く使を苦しめている。これはだまして上臣を殺そうというつもりだったのだ」 と言い、見たままを上臣に話した。上臣は四つの村〔金官・背伐・安多・委陀を四村とする。一本には多多羅・須那羅・和多・費智を四村とするとある〕(いずれも任那の洛東江河口の地方か)を侵し、人々をすべて連れ去って本国に入った。 「多多羅などの四村が掠奪されたのは、毛野臣の過失だ」 と言う人があった。  秋九月に、巨勢男人大臣が薨じた。  二十四年の春二月の丁未の朔に、詔して、 「磐余彦の帝(神武天皇)や水間城の王(崇神天皇)以来、国の政治を行なうには、みな博識・明哲な臣下の補佐に頼っている。神日本(神武天皇)は道臣(大伴氏の祖)の計略により、胆瓊殖(崇神天皇)は大彦(四道将軍の一人、崇神十年条参照)の計略によって、ともにその隆盛をえた。皇位をうけついだ者として中興の功業を立てようとすれば、どうしても賢哲の人の計略に頼らねばならぬ。いま小泊瀬天皇(武烈天皇)の世にいたり、前代の聖天子以来の長い太平のなかで、人々の気風はようやく沈滞し、政治も衰えて改めることがなくなった。どうしてもしかるべき人が、それぞれの才能に応じて推挙されてくるのを待つほかはない。大きな計略をもつ人は他人の短所を問題にせず、すぐれた才能をもつ人は他人の過失をとがめない。そうして皇統を保ち、国家を危うくすることがない。それゆえ、すぐれた補佐が必要なのだ。自分が皇位をついでから二十四年、天下は安泰で土地はこえ、穀物もよくみのっている。心配なのは人々がこの太平になれ、驕りの気持をおこすことだ。ぜひ清廉で節度ある人を推挙させ、徳化をひろめねばならない。能力ある人を官に任ずることは古来むずかしいとされているゆえ、慎重に行なわねばならぬ」 と言われた。 近江毛野の死  秋九月に、任那の使が、 「毛野臣(近江毛野)は久斯牟羅に家をかまえて二歳(満二年間)〔一本に三歳とあるのは、往復の歳をあわせたものである〕も滞留し、政務を怠っています。日本人と任那の人との間によく子供が生まれ、その帰属をめぐる訴訟が決しがたい時に、毛野臣はすぐ誓湯を置き、『本当のことを言う者は爛れない。うそを言う者はきっと爛れる』というので、熱湯に身を入れて爛れ死ぬ者がたくさんいます。また、吉備韓子那多利・斯布利〔大日本の人が、蕃国(朝鮮諸国)の女を娶って生んだ子が韓子である〕を殺し、常に人民を苦しめて宥和の心がありません」 と奏上した。天皇は毛野臣の行状を聞き、人を遣わしてよびもどそうとされたが、毛野臣は来ようとせず、ひそかに河内母樹馬飼首御狩を都に送り、天皇に、 「勅命を果たさずに帰還したら、労をねぎらわれて赴きながらむなしく帰ることになり、面目がありません。どうか陛下、自分が大命を果たして朝廷に参入し、謝罪いたすのをお待ちください」 と奏上した。使を送りだしたあと、毛野臣はまたひとり考えて、 「調吉士(毛野を召喚するための使か)は朝廷の使だ。自分より先に帰ってありのままに報告したら、自分の罪はきっと重くなるだろう」 と言い、調吉士に軍兵をひきいさせ、伊斯枳牟羅城を守らせた。阿利斯等(任那の王)は、毛野臣が細事にのみかかわって約束(任那の復興)を履行しないのを知り、しきりに帰朝を勧めたが聞き入れなかった。毛野臣の行状のすべてを知った阿利斯等は、離反の気持をおこし、久礼斯己母を新羅に遣わして軍兵をこい、奴須久利を百済に遣わして軍兵をこうた。毛野臣は百済の兵が来ると聞き、背評〔背評は地名である。またの名は能備己富利〕(背伐と同じか)に迎えうって、半数が死傷した。百済は奴須久利をとらえて杻・械・枷・鏁(鉄のくさりで身体をしばる)し、新羅とともに城を囲み、阿利斯等を責め罵って、 「毛野臣を出せ」 と言ったが、毛野臣が城を固めていたので、捕虜にすることはできなかった。そこで二国は、便宜の地を占めて一ヵ月滞留し、城を築いて帰還した。その城を久礼牟羅城と号する。帰還の道すがら、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を攻略した(二十三年三月条の任那北境の五城にあたるか)。  冬十月に、調吉士は任那から帰り、 「毛野臣は傲慢な性格で、政治に熟達せず、宥和の心がなく加羅を混乱におとしいれています。ほしいままにふるまい、憂慮される事態を防ごうとしておりません」 と奏上した。そこで天皇は、目頬子を遣わして毛野臣を召喚された〔目頬子は、いまだ詳らかでない〕。  この歳、毛野臣は召喚され、対馬にいたって病のために死んだ。葬送の舟は、河に沿って近江に入った。その時毛野の妻は、 枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る(枚方[大阪府枚方市]をとおり、笛を吹いて舟が上っていく。近江の毛野の若さまが、笛を吹いて上っていく) と歌った。  目頬子がはじめ任那に着いたとき、任那に住む日本の人々は、 韓国を 如何に言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡を 目頬子来る(韓国にどのようなことを言おうとして目頬子は来たのだろう。遠く離れた壱岐からの海路を、目頬子がやって来た) という歌を贈った(目頬子の任那への赴任を現地の日本人が批判したものと見られる)。
継体天皇の崩御  二十五年の春二月に、天皇は病が重くなられ、丁未(七日)に磐余玉穂宮にお崩れになった。時に御年八十二。  冬十二月の丙申の朔庚子(五日)に、藍野陵に葬りたてまつった。 〔ある本には、天皇が二十八年歳次甲寅にお崩れになったとある。それなのにここに二十五年歳次辛亥にお崩れになったとするのは、『百済本記』によって文をなしたものである。その文には、「太歳辛亥の三月に、百済の軍は進んで安羅(任那の一国)に至り、乞乇城を築いた。この月に、高麗(高句麗)ではその王安(安蔵王)が殺された。また聞くところによると、日本では天皇及び太子・皇子がそろってなくなったということである」とある。これによると、辛亥の歳は二十五年にあたる。後世考究する人が、いずれが正しいかを知ることであろう。〕

(1)『古事記』『日本書紀』はともに五世とだけ書いて、応神天皇から継体天皇にいたる中間の系譜を省いている。『釈日本紀』に載せる『上宮記』逸文には、この間の系譜を、   

と記している。この逸文は、用字法からみて、七世紀前半の頃に書かれたと推定されている。 (2)同じく『上宮記』逸文に、垂仁天皇から振媛にいたる系譜を、   と記している。 (3)以下は『漢書』成帝紀による文飾。 (4)以下「この日、天皇は即位され」までは、ほぼ『漢書』文帝紀による文飾。 (5)清寧二年二月条に設置のことが見える。舎人は天皇に近侍し、宿衛・雑使にあたる者。供膳(膳夫)は天皇の食膳に奉仕する者。靫負は靫(矢を納める道具)を負って天皇を警固する者。白髪は清寧天皇の名で、白髪部は皇族の資養のために設定された人民であるいわゆる名代の部の一種。白髪部舎人・供膳・靫負は、それぞれ白髪部の資養をうけて宮廷に奉仕する舎人・供膳・靫負をさす。 (6)令制では神祇官の長官。ここは令制による文飾で、宮廷の神職をさす。 (7)『芸文類聚』帝王部引用の『呂氏春秋』の文による。この前後の詔勅には、『芸文類聚』所収の文による修飾が多い。 (8)これ以後七世紀前半にかけて、皇子の名に「大兄」の称が付せられることが多い。これらは皇后・正妃もしくはそれに準じる者それぞれの生んだ第一の皇子であり、皇位継承の有資格者を示す称であったかと考えられる。 (9)いわゆる伊勢の斎王。未婚の皇女がその役に奉仕する。斎王の派遣が恒常化するのは天武朝以後である。 (10)木星のこと。木星は十二年で天を一周するので、そのめぐる順序によって干支に配当し、年を数えた。『日本書紀』では、天皇即位の年ごとに、その年の太歳のやどる干支を記す。 (11)日本からみて耽羅(済州島)を南の海のかなたと記すのはおかしい。ここは百済の記録によった記事か。 (12)『百済記』『百済新撰』と並んで『日本書紀』編纂に用いられた百済側の史料。継体紀・欽明紀の各所に引用される。 (13)いわゆる任那四県の割譲。上哆唎以下の四県は、朝鮮半島の南西端、全羅南道のほぼ全域にあたると考えられる。百済はこの頃南進してこの地域を支配し、その領有をめぐって任那に勢力をもつ日本と交渉を行なったのであろう。 (14)五経は易経・書経・詩経・春秋・礼。五経博士は儒教を教授する学者で、この後百済からは交代制で貢上された。 (15)任那北部の伴跛が、百済の領有した己汶の地を襲ったもの。十一月に、百済・新羅・安羅・伴跛の代表を集めた上で、己汶・滞沙(帯沙)を百済に賜わったとある。己汶・滞沙は前記の上哆唎等四県の東、蟾津江の中・下流域をそれぞれ占める。 (16)「八島国 妻枕きかねて」の歌は、『古事記』上の「八千矛の 神の命は ……」の歌とよく似ており、『万葉集』巻十三の「隠口の 泊瀬の国に ……」の歌とも類似している。妻問いの儀礼に歌われたものであろう。 (17)「隠国の 泊瀬の川ゆ」の歌は、元来は泊瀬を舞台とした葬送歌であろう。 (18)注(15)参照。 (19)屯倉は大和政権の直轄支配地。大阪平野などの農業経営の要地や吉備・筑紫などの軍事・交通上の拠点に設定され、武器・稲穀が蓄積された。また農民を田部として耕作させた。六世紀になると、服属した地方豪族の支配する領域の一部を献上せしめ、屯倉とする例が増加する。 (20)百済の貴族組織である五部のひとつ。『周書』によると、五部は上部・前部・中部・下部・後部からなる。 (21)『三国史記』百済武寧王二十三年(五二三、この年)条に、五月に王が薨じ、諡して武寧といったとある。公州武寧王陵発見の墓誌銘には、癸卯年(五二三)五月丙戌朔七日壬辰に、寧東大将軍百済斯麻王(武寧王)が崩じ、乙巳年(五二五)八月十二日に葬ったとある。 (22)以下の詔と麁鹿火のことばとは、すべて『芸文類聚』武部に収める文章をもとにつくりあげたもの。また麁鹿火のことばに、大伴氏の祖先の功業を述べているのも、物部氏の人のことばとしてふさわしくない。 (23)中国では天子が征伐の将軍に斧と鉞とを授け、誅殺を専らにすることのしるしとした。ここは将軍に任じて全権を委任したことの漢文的修辞。 (24)磐井の反乱については、『古事記』にも記述がある。また『釈日本紀』に引く『筑後国風土記』逸文には、磐井の墓についての記述があり、福岡県八女市の岩戸山古墳が、石人・石馬を有することなどから、風土記の伝える磐井の墓にあたると考えられている。 (25)百済の官位。百済の十六品の官位制がいつ制定されたかははっきりしないが、『周書』に見える官位名と『日本書紀』に見える官位名とを対照させると、左表のとおりである。

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