2024年4月30日火曜日

ふくい歴史百景: 羽賀寺(はがじ)

ふくい歴史百景: 羽賀寺(はがじ)

羽賀寺(はがじ)

716年(霊亀2年)元正天皇の祈願によって行基が建立し、1447年(文安4年)に再建された本堂を持つ寺

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寺に残る鳳凰伝説

「本浄山羽賀寺縁起」には、羽賀寺に残る鳳凰伝説について記されています。 その内容は、716年(霊亀2年)羽賀寺背後の山頂に五彩の羽毛を持つ神鳥が来て、美しい羽根を残して去りました。

十一面観音菩薩立像のモデルは元正天皇?(羽賀寺蔵・国指定重
羽賀寺蔵・国指定重

この羽根を当時の女帝・元正天皇に献上したところ、帝は行基に「何の羽か」と質問し、行基は鳳凰の羽根であると告げました。
すると、「鳳凰の出現は泰平の証」としてその地に寺を建立し、鳳聚山羽賀寺と名付けたというものです。

この時、行基が元正天皇をモデルに造ったのが、本尊十一面観音像です。その顔は心のやすらぎを覚える柔和さで国の重要文化財にも指定されています。

やさしい表情の十一面観音 長年公開されていなかったため鮮やかな色彩が残る
©福井テレビ

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羽賀寺
716年(霊亀2年)行基上人の創建といわれ、多くの仏像、書画等の文化財を所蔵。玄白の父が信心深く、羽賀寺に仏像や土地を寄進している。
住所:小浜市羽賀83-5
交通情報:JR小浜駅から約5km、車で20分

羽賀寺:木造十一面観音菩薩立像

羽賀寺:木造十一面観音菩薩立像

羽賀寺:木造十一面観音菩薩立像



 本像の特色のひとつは、当初の色彩がきわめてよく残っていることで、それ故に全国的に知られている。肉身部は黄白肉色、宝冠は代赭色、眉や眼は墨描、天衣には朱や緑が用いられている。寺伝では、この極彩色の観音さまを、勅願の御施主、女帝元正天皇の御影としている。
 像高146.4㎝、ほぼ等身に近い。桧材の一木造りで、胸部には干割れが入っているのがよく伺える。像は、両肩の張りも大きく胴部をつよく引締めて、一木彫成の古像らしい肉どりを示し、裳裾の衣文にも平安初期彫像の風をうけて翻波式の衣文(大きな波と小波を交互にくりかえす)を刻み、加えて条帛の垂下部と裳の折返しが交叉するさまを刻み、衣文の装飾的な意匠にはすこぶるみるべきものがある。
 しかし平安初期の作例と比べると、頭部も体部も奥行が減じて、むしろ軽快にみえ、また目鼻だちのすっきりと典雅なあたりをみれば、制作は10世紀のものと考えてよい。ただ垂下する右手がすこぶる長目で、膝に達するあたりも、貞観彫刻の例にならったものと認められ、その指先が外に反りかえるあたりも古風である。

妙楽寺:木造千手観音菩薩立像

妙楽寺:木造千手観音菩薩立像

妙楽寺:木造千手観音菩薩立像





 養老3年(719)、僧行基が若狭巡歴のとき、この山に登り、千手千眼の霊像を刻んで岩窟に安置したと伝え、つい先年までは厳重な秘仏で、33年目毎の開扉供養の行なわれるまでは拝めなかった。
 高さ176.3㎝、正面の本面のほかに両側に大ぶりの脇面をもち、頭上面を合せると、廿四面の千手像として、世に珍らしい実例の一つである。
 像は等身の姿を、桧材の一木で造り、裳裾を高くかかげた着衣の制、台座や光背なども、もっぱら古式による古風な造像であるが、体姿は総じてつつましく、相好も優しく、彫り口もおだやかなあたりをみれば、平安時代も半ばごろ、10~11世紀の制作であろう。
 このように両脇面をもつ千手観音を、ふつう三面千手と呼び、その古例は9世紀以降間々見出されるが、本像のように、廿四面の形を伝えるものは少ない。

森川清次郎




 
 
副主席
⁦‪@SEI__jou‬⁩
そう言っておじさんたちは、祭壇から日本人の神さまを出してくれた。

森川清治郎。植民地台湾の日本人警官でありながら、台湾の人々の教育や衛生のために尽くし、最期は総督府が人々に重税を課すのを止めようとして自害した神奈川県生まれの日本人はいま、「義愛公」という神さまになっている。 pic.twitter.com/6aI9wOwHfO
 
2024/04/30 20:14
 
 

千葉家系図 全:粟飯原氏の系譜 - awa-otoko’s blog

千葉家系図 全:粟飯原氏の系譜 - awa-otoko's blog

千葉家系図 全:粟飯原氏の系譜

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国造ニシテ子孫ハ千葉家ノ裔ノ如ク家系引誤タルヲ、其後揚奉リ国造甚□シ 千葉名全タカリシヲ以失実ニテ思ヘシヤト極依テ粟飯原ハ粟宿祢嫡流モ末流其後大名ニ成シモ其祖ヲ千葉トシテ系ヲ残キシハ誤リナルベシ。

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阿波国粟飯原家は千葉家末裔と伝承されています。(表向きは。www)たぶん千葉氏末裔という説のソースは今回紹介する「千葉家系図 全(粟飯原氏)」にあると思うのです。粟飯原家住宅で当主に閲覧させて頂いた粟飯原家の系図も同じ内容だったと記憶してます。

桓武天皇から始まり、平、千葉、天羽、横田、そして粟飯原と脈々と繋がっている内容が記載されているのですが、知りたいのはそれより遡った系譜。その内容は書かれていませんが、冒頭のように途中で千葉氏の末裔じゃないぜ!とか、補足説明が書かれた折紙が入っていたりとても興味深い内容です。それでは読んでみましょう‼︎

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 天女と契を結んだ平常将の名前がありますよ。↑↑↑ ここから安房の千葉氏でしょうね。

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「那西郡西須見へ移ル。」ここらで一部の氏族が阿波国に帰ってきたみたいですね。あと、、、名西郡・板野郡の範囲内で集中している天羽氏も調べたらいろいろ出てきそうに思います。

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阿波国式内社の横田神社が記載されています。貞和年間なので南北朝時代ですね。祠自体は延喜式に記録があるのでもっと遡りますが。。。

千葉より分派した胤元から横田を名乗り三好郡三加茂へ移動しております。

そして常昭から入田村に移動。この名残りが府中殿遺蹟ですね。(この石碑の後ろにある低い山に城が築かれ横田氏が地域を統括していたと伝わります。)

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初代 清常の頁:一宮氏(三好氏)は千葉氏の他、神領村大通寺正覚院(粟国造家の裔)と縁を結び粟国造家を存続させた。粟国造家の祖である大宜都比売命の記載もあり、「上古太粟姫命 国造を勤給う」と記されています。あと、粟飯原の名前の由来もね。(もっとこういう内容が欲しいところですが。)

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粟飯原家には系譜の記録が残されてなかったのでしょうが、本来なら大通寺正覚院系の系図(粟宿祢)で表すべきだと思います。阿波女社祖系図は一宮氏に伝承されていたので上角大通寺 正覚院系の系図は一宮氏に流れたのかもしれませんね。

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一通り目を通して頂けたでしょうか。ご覧の通り、内容はとても面白です。教科書で読んだ有名な名前も出てきて、その部分はアタマに入りやすいと思います。でも系譜の時系列がひじょうに掴みにくく、綴じた形態での系図は確認し辛いことこの上なしwwwですね。

やはり系譜を辿っていると阿波国に所縁があったのだろうと感じる部分が所々にあります。この千葉家系図の他、小笠原家(三好、一宮含む)系図、阿波女社祖系図、粟国造粟飯原氏系図が上手く繋がれば、、、さらに見えてくるものがあるでしょう。

そして最後に、この系図は管理人awa-otoko自身も内容を把握できていない箇所がまだまだ残っています。くずし文字が読める方がくまなく探せば大きな発見があるかもしれませんよ。興味ある方はさらに細かく目を通してみてくださいね。それではこのへんで。( ̄^ ̄)ゞ

20240202『日本とユダヤの古代史&世界史』田中英道 第五章 | PlanetWork五番町 BLOG

20240202『日本とユダヤの古代史&世界史』田中英道 第五章 | PlanetWork五番町 BLOG p209 田中 ルネサンス美術は、メディチ家(ユダヤ人資本家)が教会に大金を出し、文化が生まれる。反対にユダヤ自身からは文化は生まれない。作家を助ける形。ユダヤ人の...