2025年1月14日火曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(2) 日蓮 忌部?

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(2)

内容についても申し訳ございませんが、抜粋でお願いします。

四国の阿波国、徳島県・・・

中略

十五分間の短い時間ですので、まず、主張したいことを三点、お話します。つぎに順次、資料に従って説明をしてゆきます。第一点、日蓮聖人のルーツは、今回の研究発表大会で二番目の発表にありますように、阿波忌部族であります。

中略

四国の阿波へ、更に千葉県の安房国へというのが日蓮聖人のルーツであろうと思います。

中略

忌部族の麻植氏のところ、資料二の三頁目、麻植氏系譜。初代に天太玉命、二代、三代、四代目に天日鷲命、ずーっと、神様の代から、数えていきまして、途中の神様の名前は省きまして、第三十一代の所をご覧になって下さい。第三十一代、玉垣宿祢が第三十一代の、麻植氏の当主です。その、玉垣宿祢の所に、玉垣姫、これたぶん奥さんじゃないかと思います。それから、小麻足姫、これは娘さんです、小麻足姫、その下の注記に、こう書いてあります。「中臣不比等の妻」と。「麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル、房前公也」、と書いてあります。非常に、私はこれ見た時に、びっくりしました。
「中臣不比等」と書いてありますが、藤原鎌足は、亡くなる直前に藤原の姓を朝廷から賜ります。鎌足が元気であった時は中臣です。ですから、中臣不比等の次男として、忌部族の族長クラスの男の子を、中臣氏の子として育てたいということを、鎌足は決意したのであろうと思います。
ですから、資料一のほうでは、房前は、北家の祖であって、母親は右大臣某氏、白鳳十一年生まれ、これは普通の歴史家が信じていることです。実は、阿波に伝わる伝承の大事な伝承の一つです。
房前は、実は、中臣の子ではなく、阿波忌部の族長の子供であります。
そして、その小麻足姫と中臣不比等の間には、子供がありませんでしたが、小麻足姫という阿波の女性が・・・

以下略

この講演録の内容については説明いたしません。
が、少なくともこの宗派の一部の人と二軒屋町忌部神社、元宮司「斎藤貢」氏は知っていたということなのです。

http://goutara.blogspot.com/2017/03/blog-post_20.html

麻植の系譜(2)

ヤバイんじゃないかなと思いつつ書いております(笑)

麻植の系譜(1)の続きとなります。
その前にちょっとだけ麻植氏についてのレクチャーを。

阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。
wikipedia

また麻植については

忌部社麻楮ノ密書に日く
夫レ神事ニ麻ヲ懸クルコトハ敬ノ表示ニシテ阿波國忌部遠祖天日鷲命ノ殖エ給フ今其地ヲ呼ンデ麻殖郡ト云フ忌部ハイミべニシテ敬ヲイタシ我神明ノ本主一身ノ主宰ヲ育イテ神ヲ祭リ神ニ祈リテ過ヲ善ニ遷スヲ要トス故ニ神事ニ之ヲ懸ク往古神代ノ時ニ高皇産霊奪ノ忌部天太玉命ヲ使シテ弱肩ニ太手◯ヲ被テ大物主神ヲ祭ラシム是即敬ナリ凡中臣忌部ハ氏ニ非ス工夫ノ名ナリ後世ニ其徳アルモノナキガ故ニ氏トス中臣ハ中心ヲ富シ養ヒ守リテ本末ヲ傾ケズ中執リ持チテ誠ノ至ヲ霊シ(是ヲ内清浄ト云フ) 忌部ハ外ヲ防ギ護リテ敬ノ極ヲ霊ス(是ヲ外清浄ト云フ)故ニ本朝ニ中臣忌部ノ工夫ヲ学ブハ専務トス依之神事ニ之ヲ懸ク慎而怠ルコト勿レ

より来ているというのが分かりやすいでしょうか。


で、ここが鴨島町の麻植氏発祥の地。
個人の方の畑の中を通らなくちゃいけないので、場所は明記いたしません。

ここは麻植氏を祀る「麻植神社」



で、ここが忌部の大宮司としての麻植氏が滅んだ終焉の地、貞光町端山の家賀城(けがじょう)跡へ行く途中の石碑

ここが家賀城(けがじょう)跡


麻植氏は阿波忌部の正統といわれ、代々忌部神社の大宮司をつとめ、美馬郡一帯に大きな勢力を持っていた。天文22年(1553)、勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に殺されが、忌部神社は細川氏の祈願所でもあった。忌部の大宮司で内山城主であった麻植忌部守持光は持隆の信任も厚く、名前に「持」の一字を与えられたほどであった。そこで兵を集めて義賢を討とうとしたが、義賢は岩倉城主三好康俊に命じて内山城を攻撃した。城兵は地の利によってよく戦ったが、数日後には城は落城した。持光は阿波郡や讃岐に逃れたが丹生で戦死した、この戦いを内山合戦といい、長年続いた麻植氏の神権政治は滅んだ。
ベイシー写真館 阿波城郭探偵団様より転用

で、前回の

小麻足姫

中臣不比登の妻 麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トス是房前也

この部分について、阿波国の一部、某宗派の伝承としてこの件が伝わっていたらしいのです。
某宗派、研究発表会の記事が下にあるのですが、ちょっと・・
いや、非常に公表が憚られる内容ではないかと思いますので、残念ながらベタベタの修正を施した状態で最初のページのみ出してみますが、いやぁ。

内容についても申し訳ございませんが、抜粋でお願いします。

四国の阿波国、徳島県・・・


中略


十五分間の短い時間ですので、まず、主張したいことを三点、お話します。つぎに順次、資料に従って説明をしてゆきます。第一点、日蓮聖人のルーツは、今回の研究発表大会で二番目の発表にありますように、阿波忌部族であります。


中略


四国の阿波へ、更に千葉県の安房国へというのが日蓮聖人のルーツであろうと思います。


中略


忌部族の麻植氏のところ、資料二の三頁目、麻植氏系譜。初代に天太玉命、二代、三代、四代目に天日鷲命、ずーっと、神様の代から、数えていきまして、途中の神様の名前は省きまして、第三十一代の所をご覧になって下さい。第三十一代、玉垣宿祢が第三十一代の、麻植氏の当主です。その、玉垣宿祢の所に、玉垣姫、これたぶん奥さんじゃないかと思います。それから、小麻足姫、これは娘さんです、小麻足姫、その下の注記に、こう書いてあります。「中臣不比等の妻」と。「麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル、房前公也」、と書いてあります。非常に、私はこれ見た時に、びっくりしました。

「中臣不比等」と書いてありますが、藤原鎌足は、亡くなる直前に藤原の姓を朝廷から賜ります。鎌足が元気であった時は中臣です。ですから、中臣不比等の次男として、忌部族の族長クラスの男の子を、中臣氏の子として育てたいということを、鎌足は決意したのであろうと思います。

ですから、資料一のほうでは、房前は、北家の祖であって、母親は右大臣某氏、白鳳十一年生まれ、これは普通の歴史家が信じていることです。実は、阿波に伝わる伝承の大事な伝承の一つです。

房前は、実は、中臣の子ではなく、阿波忌部の族長の子供であります。

そして、その小麻足姫と中臣不比等の間には、子供がありませんでしたが、小麻足姫という阿波の女性が・・・

以下略

この講演録の内容については説明いたしません。

が、少なくともこの宗派の一部の人と二軒屋町忌部神社、元宮司「斎藤貢」氏は知っていたということなのです。


え〜っ、まだ書くのぉ


続く(次回で最後)
なんか、3回で終わらないような気がするのはワタクシだけでしょうか?

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ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(追記)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(追記) http://goutara.blogspot.com/2017/06/blog-post_25.html 麻植の系譜(追記) 麻植の系譜(2) あたりの追記になると思います。 ...