2025年2月28日金曜日

エマニュエル・レヴィーンとアブラハム・セルファティの対話(1970) Un dialogue entre Emmanuel Lévyne et Abraham Serfaty (1970)



エマニュエル・レヴィーンとアブラハム・セルファティの対話(1970)

Abraham SerfatyEmmanuel Lévyne 04/02/18分析、意見、討論

参考:

#4

《…一カ所に集住している時、ユダヤの民は壊れやすい。だからこそ、パレスティナへの集団帰還がメシアの到来以前に行なわれてはならないのである。…(14)》

(14)

アブラハム・バルーフ・ステインベルグによるラビ裁定集、エマニュエル・レヴィーヌ『シオニズムに抗するユダヤ教』(Emmanuel Lévyne, Judaïsme contre sionisme, Paris, Clerc, 1969)二五六頁に引用。



#5

《われわれが大いなる驚きとともに知ったところによれば、天の王国の軛を受け入れない人々、われらが聖なるトーラーの道に一度も従ったことのない人々、みずからの同胞を知らず、また愛してもいない人々[……]、こうした人々が、イスラエルの家に救いをもたらすことができると喧伝しているということだ(25)。》

(25)

アブラハム・バルーフ・ステインベルグによるラビ裁定集。レヴィーヌ、前掲、二二六頁に引用。


https://books.google.co.jp/books?id=mLSgxVuslW8C&pg=PA170&dq=Emmanuel+L%C3%A9vyne,+Juda%C3%AFsme+contre+sionisme,+Paris,+Clerc,&hl=ja&newbks=1&newbks_redir=0&sa=X&ved=2ahUKEwiGlZ2FzuiLAxXRe_UHHRaPCKQQ6AF6BAgIEAM#v=onepage&q=steinberg&f=false


170ページ »

41. Or la-yasharim, op. cit.

42. Ephraim Weingott, Orah le-Tsion, Varsovie, (sans éditeur), 1902; 


Abraham Baruch Steinberg, dir., Daath Ha-rabanim, Varsovie, Y. Unterhendler, 1902.


43. Avraham Baruch Steinberg, cité dans Emmanuel Lévyne, Judaïsme contre sionisme,

Paris, Clerc, 1969, p. 226.

44. Rabbin Shalom Baer Schneerson, op. cit., p. 19-24.

109ページ »

19. Genèse 32, 9.

20. Avraham Baruch Steinberg, cité dans Emmanuel Lévyne, Judaïsme contre sionisme,

Paris, Clerc, 1969, p. 256.

21. Talmud de Babylone, Traité «Yevamoth », p. 79a.

22. Talmud de Babylone, Perek Hashalom, Traité «Derekh Eretz ».


は、一九〇〇年、ハシード*派、ミトナゲッド*派双方のラビたちの見解をまとめた選文集『オール・ラ゠イェシャリーム(廉直なる者たちへの光)』を刊行する。シオニズムがユダヤの民の存続にもたらす危険を説くこの書物は、それ以降、シオニズムに反意を唱えるユダヤ教徒たちにとって重要な典拠の意味を持つようになった(23)。一九〇二年には、ユダヤ教の立場から反シオニズムの姿勢を打ち出す二冊の選文集、『オラー・レ゠ツィッヨーン(シオンへの光)』、『ダアト・ハ゠ラバニーム(ラビたちの見解(24))』も刊行されている。  いずれにおいても、シオニズムに対するラビたちの見解は有無をいわせぬものであった。


(24) Ephraim Weingott, Orah le-Tzion, Warsaw, (n.p.), 1902 ; Avraham Baruch Steinberg, ed., Daath ha-rabbanim, Warsaw, Y. Unterhendler, 1902.


反シオニズムは、革命的な言語とされる言葉の下でさえ、今日最も風刺され、汚名を着せられた解放政治の伝統であることは間違いありません。1970年1月に雑誌Tsedek n°101の7ページから12ページに掲載されたこの非常に密度の高いテキストで、Abraham Serfatyは有名な反シオニストのKabbalistであるEmmanuel Lévyneと対話しました。一般的な信念に反して、セルファティは、1948年の国境にある民主的で世俗的なパレスチナの見通しは、ユダヤ人であろうとイスラム教徒であろうと、文化的および宗教的伝統の否定を意味するものではないことを示しています。反対に、彼のユダヤ・アラブの遺産を誇りに思うセルファティは、中東の社会主義革命が「啓典の人々」に共通するメシア、カルト、倫理的遺産の再流用をどれだけ必要としているかを強調しています。狭いマルクス・レーニン主義の対極で、セルファティはパレスチナの闘争にコミュニティと宗教的価値の開花の可能性を見て、それは「利己的な計算の氷の水」に苦しむ西洋の労働運動を再魅了する可能性があります。この貴重な貢献は、帝国主義への抵抗と多宗教覇権を組み合わせた解放の神学を考えようとするアラブ共産主義者の試みの印象的な証拠です。

編集者注:序文と注記は、Tsedek誌の出版ディレクターであるEmmanuel Lévyneによるものです。

ファイルの紹介状

Issy les Moulineaux on 26.5.69
アブラハム・セルファティ・ラバト・モロッコ氏

親愛なる兄弟と友人、

お会いできなかったことを残念に思いますが、あなたの手紙はとても嬉しかったです。私は長い間、アラブ諸国の同宗教家と連絡を取りたいと思っていました。なぜ彼らは、彼らの損失を望み、繁栄してきた彼らのコミュニティを破壊しようとするシオニストの行動とは異なり、彼らの直接の利益の方向に完全に進んだ私の行動に反応しなかったのですか?あなたは多くの忍耐力を持たなければならず、あなたが望むすべてのことは最終的に起こるでしょう、特にあなたがまだメシアを信じているとき-それがユダヤ教の信仰を構成するものです。
あなたが私に送ることができるすべての文書は、私の興味を引くでしょう、そして私はそれを私たちの友人に回覧します。

統一された民主的なアラブパレスチナのあなたの考えにとても興味があります。また、ユダヤ人とアラブ人は、より人間的で精神的な社会主義の概念を開発するために団結する運命にあると思います。イスラエルは独自の国家を持つ必要はありません。単純な存在だけで他の国家を肥やさなければなりません。しかし、パレスチナにユダヤ人国家がある限り、私たちを容疑者として保持するアラブ人の信頼を得ることは難しいでしょう。これが、私たちがまずシオニストイデオロギーとの戦いを主導しなければならない理由です。もしそれが勝利すれば、多くのアラブ人とユダヤ人の血を惜しまずるでしょう。シオニスト国家は、私たち全員を吹き飛ばす危険を冒す爆弾であり、シオニズムが彼らの利益に反し、資本主義の利益に奉仕するための大砲の餌として彼らを利用していることをユダヤ人大衆に示すことによって、それを鎮圧しなければなりません。私たち自身が国家を廃止することに成功すれば、世界にとって何という模範となるでしょう。私たちは模範的な革命的な人々として現れるでしょう。私たちの使命は、国家が国家と領土から解放され、グローバル化することが可能であることを証明することです...

E.レヴィン

モロッコ出身のユダヤ人の兄弟からの手紙

ラバト、1969年6月25日
エマニュエル・レヴィン氏。

親愛なる兄弟、
たとえ私たちがすべてに同意しなくても、私たちは兄弟であり、反シオニスト闘争の兄弟です。67年6月が私たちに引き起こした深い苦悩の中で、信者であろうと不信者であれ、ユダヤ教が人類にもたらした価値、私たちが育てられた価値観を否定することはできません。ユダヤ教がシオニズムというこの巨大な事業に沈むのを見るために、私は、このアルジェリアのアルジェリアの根を根絶したユダヤ人(ロジャー・ベンハイム)の叫びと苦悩は、私がこの同じ人間の兄弟愛の夢で私の人生を作ったので、私にとってより敏感であることを付け加えます。亡命したにもかかわらず、彼のままのアラブ世界。

私たち全員、世界の反シオニストユダヤ人は、シオニスト国家に対する革命的な活動に効果的に貢献し、したがって人種差別の罠に陥らないようにアラブ革命家の努力に貢献し、したがって、この仕事を真に革命的にすることに貢献し、アラブ世界のために、帝国主義の苦悩の中でピークに達する千年の抑圧の形態を根絶するための全人類の闘争への貢献として。

あなたが言うように、反シオニストの真実は、シオニズムによって困惑し、だまされたユダヤ人のために、実践的な行動に基づいて、さまざまな方法で、ユダヤ教に対する犯罪とシオニズムであるすべての人類に対する犯罪の認識にアクセスするすべての人々の自由な対立が明らかにされます。

だからこそ、私はあなたの社会主義に対する批判のいくつかを取り上げ、あなたが私を招待するように、アラブ世界の一部である世俗的で統一された民主的なパレスチナの概念を発展させなければなりません。

1/ 社会主義に関して、人間の不完全さを伴う50年間にわたる世界における社会主義の具体的な実現と、帝国主義の腐った世界を同じレベルに置くことができるでしょうか?これを行うには、現在「沈黙のユダヤ人」に関する反ソビエトキャンペーンを組織し、この目的のためにロンドンで会議を招集しているシオニストに参加することになります。

それと同様に、ロシアでのポグロムに終止符を打ち、そしてナチス主義を粉砕する主な要因であったソビエト連邦の人々の犠牲に終止符を打ちました。人種差別が根付いた文化構造からゆっくりと衰退しているだけなら、客観的な観察者は、5月に新聞「ル・モンド」が発表した報告書のように、ソビエト連邦のこのレベルで知られている根本的な変化を報告します。それにもかかわらず、反ソビエト主義の機会を逃さない、中央アジアのイスラム教徒の共和国、彼らの経済的および文化的発展、すべての人種的または宗教的差別の消失、およびユダヤ人とイスラム教徒の間の兄弟愛に関する報告書。

もちろん、国家の枯れたものは、何世紀にもわたる不正、ソビエト革命によって行われた変化、中国革命、ベトナム人の闘争、キューバ人の努力によって根ざした文化構造の深遠な変化と結びついた、この目的は、何世代にもわたってかかる仕事です。それは、人間による人間搾取の経済構造を根絶すること、そして、前提条件として、侵略と腐敗の恒久的な要因である帝国主義の世界規模での清算を求めています。

私たちが懸念する限り、シオニズムに対するこの闘争において、反シオニストと反帝国主義の闘争と世界の社会主義勢力との団結以上に、帝国主義とのつながりを無視することはできません。
このユニットでは、判断と行動の自律性を維持しなければなりません。実際、反シオニストのユダヤ人が参加してアラブ世界で達成できる革命的な仕事は、人種差別を根絶する世界の模範であり、人間開発を保証する公正な社会の構築に重要な具体的な貢献をすることができます。

そのためには、反シオニストのユダヤ人として、この貢献の意味を深めなければなりません。

2/ 私の側では、世界の革命、より具体的にはアラブ革命へのこの貢献は、「ユダヤ人」ではないと思います。それは私たち自身の克服であり、「ユダヤ人国家」だけでなく、国家共同体を超えた文化共同体の概念でもあります。「ユダヤ人」の概念と「ユダヤ人の優越感」につながるそのような概念は、シオニズムを助長します。それは人類の歴史的発展に反する。

間違いなく、ヨーロッパ世界における「ユダヤ人問題」の具体的な貢献は、今日、アラブ世界で、人間を疎外するすべての社会的矛盾を克服し、革命を起こすことでのみ克服し、解決できるということです。

私たちが生きている歴史的段階は、ある人が主張するように、国家の特殊性を消去することではなく、資本主義と帝国主義の鎖を吹き飛ばし、さまざまな文化間の対等な立場での対話を通じて、兄弟的な世界を準備する国家アンサンブル内での発展です。

ユダヤ人として、革命的基盤でのこれらの国家アンサンブルの建設への私たちの具体的な貢献は、これらのコミュニティの外に「ユダヤ人」として配置することではなく、この建設に積極的に参加することで、後者を統合することによって、国民とユダヤ人の二重の資質を想定することです。この統合は消去を意味するのではなく、確かに、あなたが書いているように、「私たちの本質的な伝統的な価値の更新、それらの現代的な再表現。「

この人間の世界の統一が構築され、その前提が革命闘争から生まれることを可能にするものは、国家の多様性における人間の発展です。ユダヤ教は、その本質的な価値に忠実であり続けるために、これらの国の多様性における彼らの再表現を確実にしなければならない。

アラブ革命の特異性の1つは、まさにその性質上、この再表現を求めることです。「ユダヤ人問題」の誤った解決策は、マルクスがそれに捧げた研究で「政治国家」という用語の下で非難したものです。この状態は、人間が崩壊するブルジョア民主主義の状態です。ユダヤ教の本質的な価値は、イスラム教と同様に、人間全体の発展に対する農村コミュニティ社会の願望を表現しています。

苦しんだヨーロッパ社会は、資本主義の支配と呼ばれる「西洋文化」の中で最も深く、この本質を具現化しました。
これはまさに、マルクスが「安息日のユダヤ人」とは対照的に、ヨーロッパの資本主義社会における「真のユダヤ人」という用語の下で非難しているものです。彼の「ユダヤ人問題」の第二部では、一部の著者が悪意を持って反ユダヤ主義のパンフレット1として提示しています。人類の搾取者によるこれらの宗教の変形を批判しなければならないなら、社会主義の誤った概念は、この人間の発展を確保するためにマルクスが「精神のない時代の精神」(宗教)と呼んだものと戦わなければならないと信じることであり、後者は、この同じ研究で次のように述べています。「宗教精神は本当に世俗的であることはできません。確かに、人間の心の発達のすべての世俗的な形ではないとしたら、それは何ですか?宗教精神は、それが表現されている人間の精神の発達の程度が、その世俗的な形で現れ、構成される場合にのみ実現することができます。「
これは、この土地での神の王国の実現というユダヤ人やイスラムの理想とどう違うのか。

現代のアラブ社会は、以前の文化的acquisから生まれた新しい文化を含む革命的な再構築において、この文化的成果を特徴づけたコミュニティ構造が、逆にブルジョア社会と文化を可能にするこの人間の充実の「現代的な再表現」を保証することができるでしょう。'

S。ゴイテンは、アラブ世界における一般的なユダヤ人-イスラム教徒の過去からこれを書きました。「イスラム教はユダヤ教の肉と骨でできています。アラビア語がヘブライ語と非常に密接に関連しているように、いわば、それはその再発酵と拡大です。したがって、ユダヤ教はこの周囲の文明を利用することができ、同時にアレクサンドリアのヘレニズム社会や現代世界よりもはるかに簡単にその独立性と完全性を維持することができました...ユダヤ教は、アラブイスラムの中世文明ほど緊密な関係と共生状態にあったことはありません。「2

この過去は、シオニストの影響下で、これらのコミュニティが崩壊するまで、アラブ世界のユダヤ人コミュニティの日常生活にまだ生きていました。モロッコでは伝統的にユダヤ・イスラム教徒の友情と兄弟愛の祭りであるミムナ祭よりも良いシンボルがあるでしょう。過越祭の終わりを記念する最初のパンは、イスラム教徒によってユダヤ人の兄弟に提供されました。この人気のあるジェスチャーは、カナンの地の聖書の人間の兄弟愛の内容の具体的な再表現と、その部族主義と人種差別主義の起源の拒絶です。

これは私にとって、意識的なアラブ革命家にとって、宗教的起源に関係なく、すべての市民が信仰に関係なく平等な権利を享受する「独立で民主的なパレスチナ国家」の目的、アラブの祖国の一部である「国家」が「進歩的で統一されたアラブ社会の構築に積極的に貢献し」(El-Fathプログラム)を意味すると確信しています。

私は、「文化と科学的進歩」に関する私の研究の第二部で、アラブ文化の人間的で進歩的な内容に命を与え、それを未来の構築に投影するそのような概念は、同時に資本主義世界とその退廃的な「西洋文化」よりも科学的を含む進歩の担い手であることを示しています。

親愛なる兄弟、私はすでに長すぎます。この手紙には、モロッコの反シオニスト闘争に関するいくつかの文書を添付します。最近まで、散発的なままで、フォローアップがないことに気付くでしょう。私は数ヶ月後に発表される研究でいくつかの理由を分析します3。アラブ世界のためにすでに明確にされた目標に頼って、この闘争はもはや止まるのではなく、発展しなければならないことは確かです。

親愛なる兄弟、これは共通の戦いの始まりに過ぎません。ここでは、植民地化とシオニズムの複合的な影響の下で、ますます非人格化するユダヤ人コミュニティで反シオニストの情報を整理しなければなりません。世界中の反シオニストユダヤ人のように、あなたのような努力の知識は、私たちの努力に不可欠な要素です。

兄弟のように挨拶します
エイブラハム・サーファティ
メモ



(1) 別の手紙で、アブラハム・サーファティはこの一節について私たちに書いています。
「マルクスが「真のユダヤ人」を批判したのは、ユダヤ教の本質である安息日の本質に反対しているので、その重要性を理解するでしょう。
革命の流れがシオニズムのために反ユダヤ主義の人種差別の影響を受ける危険を冒している時に、そのような曖昧さの存在を許さないことが重要です。ここで、私は若い学生が哲学の高校生を対象とした本から参照し、マルクス主義者であると主張する紳士、アンリ・ルフェーブルによって書かれた「マルクスの思想を知る」というタイトルの作品から参照しているのを見ました。この紳士は、このマルクスのテキストに捧げられた一節で、そのような狂気を主張しています。「
マルクスによる「ユダヤ人問題」に関するこの有名なテキスト、そして何よりもブルーノ・バウアーが答えたあまり知られていないテキストについて、私たちは再びそれについて話す機会があります。なぜなら、彼らは容赦なく客観的であり、ユダヤ人社会に対する批判に反論するのが難しいからです。ユダヤ教の本質は、ユダヤ人を他の人類から分離することです。特権的で利己的な存在は、ブルジョアジーと同じです。このユダヤ人は、どのように異なる扱いを受けることについて文句を言うことができますか?ユダヤ人とブルジョアは本質的な親和性を持っています:彼らは選出され、好まれ、特権的で、優れた存在です。ブルジョアが社会的ユダヤ人であるように、ユダヤ人は精神的なブルジョアであり、最終的にユダヤ人とブルジョアは同じ存在に融合し、これが今日起こっているように識別しなければなりませんでした。「マルクスは、ブルジョア社会の特定のメンバーとして配置されているユダヤ人は、ブルジョア社会のユダヤ主義を特別な方法で含むだけです」と書いています。

「ユダヤ人は、金融市場の主人になるだけでなく、彼のおかげで、そして彼を通じて、お金が世界の大国になり、ユダヤ人の実践精神がキリスト教の人々の実践精神になったため、ユダヤ人の方法で自分自身を解放しました。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になったまさにその程度まで、自らを解放した。「

「現実的な必要性、利己主義はブルジョア社会の原則です。」それは「ユダヤ教の基礎」でもある。(「ユダヤ人の質問」、50-52ページ)

だからこそ、この観点からは、ユダヤ人社会と衝突することなくブルジョア社会を破壊する方法がわかりません。言い換えれば、「反ユダヤ主義」に見えずに革命的になる方法がわかりません。

しかし、神、モーセ、預言者、トーラー自身が「反ユダヤ人」として現れ、黄金の子牛を崇拝し、絶滅を脅したユダヤ人を嘆いた。

私たちはまた、差別化は生命と創造の原則であり、ユダヤ人は具現化し、人格化し、保護する責任があり、その同化と消失は、生命の質的要素、量と一次元の人間の支配の破壊を意味するという観点を擁護することができます。
しかし、アブラハム・セルファティが指摘しているように、マルクス自身は本質的なユダヤ人、安息日のユダヤ人、そして真のユダヤ人を区別しました。代表的なユダヤ人、世界が扱っているユダヤ人は、本質的なユダヤ人、安息日のユダヤ人、神秘的なユダヤ人、詩篇を持つユダヤ人ではないことは明らかです。その存在は偶発的な懸念から切り離され、社会的および政治的問題を引き起こしませんが、本当のユダヤ人はロスチャイルド、ダッソー、ブルーンシュタイン=ブランシェ、レヴィタン、カイル通りまたはサントワーヌの貿易業者、さらにベングリオン、モシェ・ダヤン、ゴルダ・メイル、そしてイスラエルのすべてのものです。ユダヤ教と本物のユダヤ人は彼らです。これらのブルジョアユダヤ人は、彼らの宗教的性質の影響により、非ユダヤ人のブルジョアジーよりも無限にブルジョアです。ブルジョアの欠陥と悪徳は、彼らを絶対にする神秘的な力で彼らの中に現れます。これは、特にユダヤ人の国際ブルジョアジーによって作成されたイスラエル国家で、私たちが見るものです。すべての国家は搾取と支配の道具ですが、イスラエル国家-絶対国家-国家神-は限りなく、すべてがそれに許され、私たちは何も否定する勇気がありません。全世界はその要求に屈しなければなりませんが、同じ彼は犠牲者の反乱と憎しみ、言い換えれば反ユダヤ主義を無限に引き起こします...彼はそれを排除することを提案しました!

ユダヤ教の神秘的な伝統であるカバラルはまた、本質的なユダヤ人-真のイスラエル、貧しく、穏やかで平和な人々、地上の野心がなく、ネトゥーレイ・カルタのようなトーラーの研究と実践に忙しい人々-と明らかなユダヤ人-偽のイスラエル、「エレブ・ラヴ」、金持ちと反逆者、邪悪で暴力、征服者と支配者、ユダヤ人コミュニティの主人と指導者の社会、時の終わりに消えるように呼ばれています。
カバラの聖書であるゾハールが言うように、イスラエルがあり、イスラエルがあります。

[↩]
S。ゴイテン、「ユダヤ人とアラブ人」、エディション・ド・ミニット。
西洋からの疎外という顕著な結論にもかかわらず、ユダヤ人とアラブ人の共通の過去に関する注目すべき研究。[↩]
この研究は、雑誌「Souffles」(モロッコ、ラバト、パスツール通り4)の最新特別号「パレスチナ革命のために」に「モロッコのユダヤ教とシオニズム」というタイトルで掲載されました。この同じ問題で、この同じ著者による別の研究があります。「イスラエル国は国家ですか?"。伝記ノートでは、アブラハム・セルファティは「1926年に生まれた」と述べられています。カサブランカ鉱山技師。ラバトにあるモハメディア工学部の教授。1944年以来、国民運動で民兵。「[↩]
からのすべての記事アブラハム・セルファティ
アブラハム・セルファティは、1926年1月16日にカサブランカで生まれ、2010年11月18日にマラケシュで亡くなったモロッコの独立活動家であり、政治活動家です。ハッサン2世王政権の反対派である彼は、17年以上刑務所で過ごし、そこでの生活について証言しました。彼は時々「モロッコのマンデラ」というあだ名を呼ばれた
からのすべての記事エマニュエル・レヴィーヌ
エマニュエル・レヴィーンは、1928年にパリで、ロシアとポーランド出身のフランス人の両親のもとに生まれました。彼は仲間に認められずにラビの勉強をした。彼はカバラ主義者になり、多くの作品を制作し、雑誌「Tsédek」を出版する教師になりました。彼は政治的イオニズムにおいて、ユダヤ人思想の耐え難い劣化と見なしている。彼はトーラー、タルムード、ゾハールからヒューマニストの批判を引き出しています。ーー



https://ujfp.org/un-dialogue-entre-emmanuel-levyne-et-abraham-serfaty-1970/



Un dialogue entre Emmanuel Lévyne et Abraham Serfaty (1970)
Abraham Serfaty et Emmanuel Lévyne04/02/18

L’antisionisme est sans doute la tradition politique émancipatrice la plus caricaturée et la plus stigmatisée de nos jours, y compris sous un langage prétendument révolutionnaire. Dans ce texte extrêmement dense paru en janvier 1970 dans la revue Tsedek n°101 pages 7 à 12, Abraham Serfaty engageait un dialogue avec Emmanuel Lévyne, kabbaliste antisioniste de renom. Contrairement aux idées reçues, Serfaty montre que la perspective d’une Palestine démocratique et laïque, sur les frontières de 1948, n’implique en rien le reniement des traditions culturelles et religieuses, qu’elles soient juives ou musulmanes. Au contraire, fier de son héritage judéo-arabe, Serfaty souligne combien la révolution socialiste au Moyen-Orient nécessite une réappropriation des héritages messianiques, cultuels et éthiques communs aux « peuples du Livre ». Aux antipodes d’un marxisme-léninisme étriqué, Serfaty voit dans la lutte palestinienne un épanouissement possible de valeurs communautaires et religieuses, qui pourraient réenchanter un mouvement ouvrier occidental embourbé dans « les eaux glacées du calcul égoïste ». Cette contribution inestimable est un témoignage saisissant des tentatives communistes arabes de penser une théologie de la libération, qui combine résistance à l’impérialisme et hégémonie multiconfessionnelle.

NDLR : l’introduction et les notes sont d’Emmanuel Lévyne directeur de publication de la revue Tsedek

LETTRE D’INTRODUCTION A UN DOSSIER

Issy les Moulineaux le 26.5.69
M. Abraham SERFATY RABAT Maroc

Cher Frère et Ami,

Je regrette de ne pas vous avoir rencontré, mais votre lettre m’a fait bien plaisir. Cela faisait longtemps que je voulais entrer en contact avec des coreligionnaires des pays arabes. Pourquoi ne répondaient-ils pas à mon action qui allait tout à fait dans le sens de leurs intérêts immédiats, contrairement à l’action des sionistes qui veulent leur perte et cherchent à détruire leurs communautés qui ont été florissantes ? Il faut avoir beaucoup, de patience et tout ce que l’on espère finit par arriver, surtout quand on croit encore au Messie- c’est en cela que consiste la foi juive.
Toute la documentation que vous pourrez m’envoyer m’intéressera, et je la ferai circuler parmi nos amis.

Votre conception d’une Palestine arabe unifiée et démocratique m’intéresse beaucoup. Je pense également que les Juifs et les Arabes sont destinés à s’associer pour élaborer une conception plus humaine et plus spirituelle du socialisme. Israël n’a nul besoin d’avoir un Etat à lui, il doit féconder ceux des autres ne serait-ce que par sa simple présence. Mais tant qu’il existera un Etat juif en Palestine, il nous sera difficile de gagner la confiance des Arabes, qui nous tiendront pour suspects. C’est pourquoi il nous faut d’abord diriger notre lutte contre l’idéologie sioniste, et si elle est victorieuse, elle épargnera beaucoup de sang arabe et juif. L’Etat sioniste est une bombe qui risque de tous nous faire sauter, il faut la désamorcer en montrant aux masses juives que le sionisme va contre leurs intérêts et qu’il les utilise comme chair à canon pour servir les intérêts du capitalisme. Si nous réussissons nous-mêmes à abolir notre Etat, quel exemple pour le monde, nous apparaîtrons comme un peuple révolutionnaire modèle. Notre mission est de prouver qu’il est possible à une nation de s’émanciper de l’Etat et du Territoire et de se mondialiser …

E. LEVYNE

LETTRE D’UN FRERE JUIF DU MAROC

Rabat, le 25 Juin 1969
M.Emmanuel Lévyne.

Cher Frère,
Même si nous ne sommes pas d’accord sur tout, nous sommes frères, frères dans la lutte antisioniste, dans l’angoisse profonde que juin 67 a fait éclater en nous de voir le judaïsme auquel, croyants ou incroyants, nous ne pouvons pas dénier les valeurs qu’il a apportées à l’humanité, les valeurs dont nous avons été nourris, de voir le judaïsme sombrer dans cette monstrueuse entreprise qu’est le sionisme, j’ajouterai que le cri et l’angoisse de ce juif algérien (Roger Benhaim) déraciné me sont d’autant plus sensibles que j’ai fait ma vie de ce même rêve de fraternité humaine, ici, dans ce monde arabe qui reste le sien, malgré son exil.

Nous tous, juifs antisionistes dans le monde, nous devons effectivement contribuer à l’œuvre révolutionnaire contre l’Etat sioniste, contribuer ainsi à l’effort des révolutionnaires arabes pour ne pas tomber dans le piège du racisme, contribuer ainsi à ce que cette œuvre soit vraiment révolutionnaire, et pour le monde arabe, et comme apport à la lutte de toute l’humanité pour déraciner les formes d’oppression millénaire qui trouvent leur apogée dans l’agonie impérialiste.

Comme vous le dites, la vérité antisioniste se clarifiera, pour les juifs qui ont été mystifiés et trompés par le sionisme, de la libre confrontation, s’appuyant sur l’action pratique, de tous ceux qui, par des chemins divers, accèdent à la prise de conscience du crime contre le judaïsme et contre toute l’humanité qu’est le sionisme.

C’est pourquoi, je me dois de reprendre certaines de vos critiques concernant le socialisme et développer, comme vous m’y invitez, le concept de Palestine laïque, unifiée et démocratique, partie du monde arabe.

1/ Peut-on, concernant le socialisme, placer sur le même plan la réalisation concrète du socialisme dans le monde depuis cinquante ans avec ses imperfections humaines, et le monde pourri de l’impérialisme ? Faire cela serait rejoindre les sionistes qui actuellement organisent en grand une campagne antisoviétique sur les « juifs du silence » et convoquent à Londres une conférence à cette fin.

Alors que, tout de même, c’est bien le socialisme qui a mis fin aux pogromes en Russie, et les sacrifices des peuples d’Union Soviétique qui ont été le principal facteur d’écrasement du nazisme. Si le racisme ne s’efface que lentement des structures culturelles où il a été enraciné, les observateurs objectifs rapportent les changements radicaux connus sur ce plan en Union Soviétique, tel le reportage publié en mai par le journal « Le Monde », qui pourtant ne manque pas une occasion d’antisoviétisme, reportage sur les Républiques Musulmanes d’Asie Centrale, leur développement économique et culturel, la disparition de toute discrimination raciale ou religieuse, et la fraternité entre juifs et musulmans .

Bien sûr, le dépérissement même de l’Etat, lié aux changements profonds des structures culturelles enracinées par des siècles d’injustice, changements entrepris par la Révolution Soviétique et auxquels la Révolution chinoise, le combat des Vietnamiens, l’effort des Cubains, font de nouveaux apports, cet objectif est une œuvre qui demandera des générations. Il demande le déracinement des structures économiques d’exploitation de’ l’homme par l’homme, et, comme préalable, la liquidation, à l’échelle mondiale, de l’impérialisme, facteur permanent d’agression et de corruption.

En ce qui nous concerne, nous ne pouvons pas plus, dans cette lutte contre le sionisme, ignorer les liens de celui-ci avec l’impérialisme, que l’unité de la lutte antisioniste et anti-impérialiste avec les forces du socialisme dans le monde.
Dans cette unité, nous devons garder notre autonomie de jugement et de conduite, Et effectivement, l’œuvre révolutionnaire qui peut être accomplie dans le monde arabe avec la participation de juifs antisionistes pourra être un exemple pour le monde dans le déracinement du racisme et un apport spécifique important dans la construction d’une société juste assurant l’épanouissement humain.

Pour cela nous devons approfondir le sens de cette contribution en tant que juifs antisionistes.

2/ Je pense, pour ma part, que cette contribution à la révolution dans le monde, à la révolution arabe plus spécifiquement, n’est pas en tant que « peuple juif ». Elle est dans notre propre dépassement, pas seulement de « l’Etat juif », mais aussi de la conception d’une communauté culturelle au-dessus et au-delà des communautés nationales. Une telle conception, qui mène au concept de « peuple juif » et au sentiment de « supériorité juive », nourrit le sionisme. Elle est contraire au développement historique de l’humanité.

L’apport, sans doute spécifique, de la « question juive » dans le monde européen, et aujourd’hui, de façon aiguë, dans le monde arabe, est de ne pouvoir être dépassée et résolue que dans le dépassement et la révolution de l’ensemble des contradictions sociales qui aliènent l’homme.

L’étape historique que nous vivons n’est pas, comme le prétendent certains, d’effacement des spécificités nationales, mais celle de leur épanouissement au sein des ensembles nationaux qui font sauter les chaînes du capitalisme et de l’impérialisme et préparent ainsi un monde fraternel, par un dialogue sur un pied d’égalité entre les diverses cultures.

Notre contribution spécifique, en tant que juifs, à la construction de ces ensembles nationaux sur des bases révolutionnaires n’est pas en tant que « peuple juif » extérieur à ces communautés et s’y plaquant, mais en assumant notre double qualité de national et de juif par l’intégration de celle-ci à celle-là dans la participation active à cette construction. Cette intégration ne signifie pas l’effacement, mais effectivement, comme vous l’écrivez, « le renouvellement de nos valeurs traditionnelles essentielles, leur réexpression moderne. »

Ce qui permettra l’unité de ce monde humain à construire, et dont les prémisses émergent des luttes révolutionnaires, sera l’épanouissement des hommes dans leurs diversités nationales. Le judaïsme doit, pour rester fidèle à ses valeurs essentielles, en assurer la réexpression dans ces diversités nationales.

L’une des spécificités de la révolution arabe est justement de demander, par sa nature même, cette réexpression. La fausse solution de la « question juive » est dans ce que Marx dénonçait sous le terme de » Etat politique » dans l’étude qu’il y a consacrée. Cet Etat est celui de la démocratie bourgeoise, où l’homme est désintégré. Les valeurs essentielles du judaïsme, comme de l’islam, expriment l’aspiration des sociétés communautaires rurales à l’épanouissement de l’Homme total.

La société européenne qui a subi -le plus profondément, dans ce que l’on appelle la « Culture Occidentale », l’emprise du capitalisme, a désincarné cette essence
C’est ce que Marx justement dénonce sous le terme de » juif réel » dans la société capitaliste européenne par opposition au » juif du sabbat « , dans la deuxième partie de sa « Question Juive » que certains auteurs, de mauvaise foi présentent comme un pamphlet antisémite 1. S’il faut critiquer ces déformations .de la religion, par les exploiteurs de l’humanité, une fausse conception du socialisme est de croire qu’il faut lutter contre ce que Marx appelait « l’esprit des temps sans esprit » (la religion) pour assurer cet épanouissement humain, alors que celui-ci précise, dans cette même étude : « l’esprit religieux ne saurait être réellement séculaire. En effet qu’est-il sinon la forme nullement séculaire d’un développement de l’esprit humain ? L’esprit religieux ne peut être réalisé que si le degré de développement de l’esprit humain, dont il est l’expression, se manifeste et se constitue dans sa forme séculaire. »
En quoi ceci diffère-t-il de l’idéal judaïque et islamique de la réalisation sur cette terre du Royaume de Dieu.

La société arabe contemporaine, dans sa restructuration révolutionnaire, incluant celle d’une culture nouvelle émergeant de l’acquis culturel antérieur, pourra assurer la « réexpression moderne » de cet épanouissement humain que des structures communautaires qui ont marqué cet acquis culturel permettent, au contraire ..de la Société et de la culture bourgeoises . ‘

S. Goiten a écrit ceci du passé commun judéo-musulman dans le monde arabe » L’islam est fait de la chair et des os du judaïsme. Il est pour ainsi dire une refon¬te et un élargissement de celui-ci, exactement comme la langue arabe est très étroitement apparentée à la langue hébraïque. Le judaïsme a pu par conséquent puiser dans cette civilisation ambiante, et en même temps préserver son indépendance et son intégrité beaucoup plus facilement que dans la société hellénistique d’Alexandrie ou dans le monde moderne … jamais le judaïsme ne s’est trouvé dans des relations si étroites et dans un état de symbiose si fécond que dans la civilisation médiévale de l’islam arabe. » 2

Ce passé était encore vivant dans la vie quotidienne des communautés juives dans le monde arabe jusqu’à l’éclatement de ces communautés, sous l’emprise sioniste. Quel meilleur symbole que celui de la fête de Mimouna qui est traditionnellement, au Maroc, une fête d’amitié et de fraternité judéo-musulmane. Les premiers pains marquant la fin de Pessah étaient et sont encore offerts par les musulmans à leurs frères juifs, ce geste populaire marquant mieux que toute étude, la réexpression concrète du contenu de fraternité humaine biblique du pays de Canaan et le rejet de ses origines tribalistes et racistes. .

Voilà ce que signifie pour moi, et j’en suis convaincu, pour les révolutionnai¬res arabes conscients, quelle que soit leur origine religieuse, l’objectif d’un « Etat Palestinien Indépendant et démocratique » dont tous les citoyens, quelle que soit leur confession, jouiront de droits égaux, cet « Etat », partie de la Patrie arabe « devant contribuer activement à l’édification d’une société arabe progressiste et unifiée »‘ (Programme de El-Fath)

Je montre, dans la deuxième partie de mon étude sur « Culture et Progrès scientifique » qu’une telle conception, redonnant vie au contenu humain et progressiste de la culture arabe pour la projeter dans la construction de l’avenir, est en même temps autrement plus porteuse de progrès, y compris scientifique, que celle du monde capitaliste et de sa « Culture Occidentale » décadente.

Cher frère, j’ai déjà été trop long. Je joins à la présente lettre quelques documents sur la lutte .antisioniste au Maroc. Vous remarquerez que jusqu’à la période récente, elle était restée sporadique et sans suite, j’en analyse quelques raisons dans une étude qui paraîtra dans quelques mois 3. Il est sûr que maintenant, nous appuyant sur un objectif déjà clarifié pour le monde arabe, cette lutte ne doit plus s’arrêter mais se développer.

Cher frère, ce n’est que l’amorce d’un combat commun. Nous devons ici organiser l’information antisioniste dans une communauté juive de plus en plus dépersonnalisée sous des influences conjuguées de la colonisation et du sionisme. La connaissance d’efforts comme les vôtres, comme ceux de tous les juifs antisionistes dans le monde, est un élément essentiel pour notre effort.

Je vous salue fraternellement
Abraham SERFATY

Note-s

(1) Dans une autre lettre, Abraham SERFATY nous écrit au sujet de ce passage :
« Vous en comprendrez l’importance puisque c’est bien par opposition à l’essence du judaïsme, celle du sabbat, que Marx a critiqué le « juif réel « , de même qu’il a critiqué la réalité prise par la religion en général, par opposition à son essence.
En ce temps où le courant révolutionnaire court le risque, du fait du sionisme, d’être influencé par le racisme anti-juif, il est important de ne pas laisser subsister de telles ambiguïtés. Ici, j’ai vu de jeunes étudiants prendre référence d’un ouvrage destiné aux lycéens de philosophie et écrit par un monsieur qui se prétend marxiste, Henri Lefebvre, ouvrage intitulé « Pour connaître la pensée de Marx », où ce monsieur entretient, dans un passage consacré à ce texte de Marx, de telles insanités. »
Ce fameux texte de Marx sur « La Question Juive » et aussi et surtout le texte moins connu de Bruno Bauer auquel il répondait, nous aurons l’occasion d’en reparler. Car ils constituent une critique impitoyablement objective et difficilement réfutable de la société juive : l’essence du judaïsme étant la séparation du peuple juif du reste de l’humanité – l’existence privilégiée, égoïste, la même que celle de la bourgeoisie – comment ce peuple juif peut-il se plaindre d’être traité différemment ? Le juif et le bourgeois ont des affinités essentielles : ils sont des êtres élus, favorisés, privilégiés, supérieurs : le juif est un bourgeois spirituel comme le bourgeois est un juif social, et finalement le juif et le bourgeois devaient finir par se fondre en un même être et à s’identifier comme cela se produit de nos jours : « le juif, écrit Marx, qui se trouve placé comme un membre particulier dans la société bourgeoise, ne fait que figurer de façon spéciale le judaïsme de la société bourgeoise ».

« Le Juif s’est émancipé d’une manière juive, non seulement en se rendant maitre du marché financier, mais parce que, grâce à lui et par lui, l’argent est devenu une puissance mondiale, et l’esprit pratique juif l’esprit pratique des peuples chrétiens. Les Juifs se sont émancipés dans la mesure même où les chrétiens sont devenus juifs. »

« Le besoin pratique, l’égoïsme est le principe de la société bourgeoise ». C’est aussi « la base de la religion juive ». (« La question Juive », pages 50-52)

C’est pourquoi, de ce point de vue, on ne voit pas comment on peut détruire la société bourgeoise sans se heurter à la société juive, autrement dit comment on peut être révolutionnaire sans paraître « antisémite » ?

Mais Dieu, Moïse et les Prophètes, la Tora apparaissaient eux-mêmes comme des « antisémites » quand ils fulminaient contre le peuple juif qui adorait le veau d’or et le menaçaient d’extermination.

On peut aussi défendre le point de vue que la différenciation est un principe de vie et de création que le peuple juif est chargé d’incarner, de personnifier et de sauvegarder, et que son assimilation et sa disparition signifieraient la destruction de l’élément qualitatif de la vie, le règne de la quantité et de l’homme unidimensionnel.
Mais comme le fait remarquer Abraham Serfaty, Marx lui-même faisait une distinction entre le juif essentiel, le juif du sabbat, et le juif réel. Il est évident que les juifs représentatifs, les juifs auxquels le monde a affaire, ce ne sont pas les juifs essentiels, les juifs du sabbat, les juifs mystiques, les juifs aux psaumes, dont l’existence détachée de toute préoccupation contingente ne pose pas de problèmes sociaux et politiques, mais les juifs réels ce sont les Rothschild, les Dassault, les Bleunstein-Blanchet, les Lévitan, les commerçants de la rue du Caire ou du faubourg Saint-Antoine, et encore plus Ben-Gourion, Moché Dayan, Golda Mèïr et tout ce qui est israélien. Le judaïsme et les juifs réels ce sont bien eux. Ces juifs bourgeois, par l’effet de leur nature religieuse, sont infiniment plus bourgeois que les bourgeois non juifs : les défauts et les vices bourgeois se manifestent en eux avec une force mystique qui les rend absolus : c’est ce que nous voyons plus particulièrement avec l’Etat d’Israël créé par la bourgeoisie internationale enjuivée : tout Etat est un instrument d’exploitation et de domination mais infiniment plus l’Etat d’Israël – Etat absolu – Etat Dieu – : tout lui est permis et on n’ose rien lui refuser, le monde entier doit se plier à ses exigences, mais par là même il provoque infiniment plus la révolte et la haine de ses victimes, autrement dit l’antisémitisme … qu’il se proposait d’éliminer !

La tradition mystique juive, la Kabbale, établit également la distinction entre les juifs essentiels – le véritable Israël, peuple de pauvres, doux et pacifiques, sans aucune ambition terrestre, tout occupés à l’étude et à la pratique de la Tora, comme les Netourei Karta – et les juifs apparents – le faux Israël, le »Erev Rav » , société de riches et de repus, méchants et violents, conquérants et dominateurs, maîtres et dirigeants de la Communauté juive, appelés à disparaître à la fin des temps .
Comme le dit le Zohar, la Bible de la Kabbale, il y a Israël et il y a Israël.

[↩]
S. Goiten, « Juifs et Arabes », Editions de Minuit.
Etude remarquable sur le passé commun des Juifs et des Arabes malgré une conclusion marquée d’aliénation à l’Occident. [↩]
Cette étude vient de paraître dans le dernier numéro spécial de la revue « Souffles » (4 avenue Pasteur, Rabat, Maroc) « Pour la Révolution Palestinienne » sous le titre « Le Judaïsme Marocain et le Sionisme ». Dans ce même numéro, il y a une autre étude de ce même auteur « L’Etat d’Israël est-il une nation ? ». Dans une note biographique, il est indiqué qu’Abraham Serfaty est « né en 1926 à. Casablanca. Ingénieur des Mines. Professeur à l’Ecole Mohammedia- d’ingénieurs, de Rabat. Milite dans le mouvement national depuis 1944. »[↩]

2025年2月27日木曜日

【古事記一新】第三十二話・論争お仕舞い

『200年間で13回』吉原の遊女たちが命がけで放火した理由とは? - Yahoo! JAPAN

『200年間で13回』吉原の遊女たちが命がけで放火した理由とは? - Yahoo! JAPAN

『200年間で13回』吉原の遊女たちが命がけで放火した理由とは?

『200年間で13回』吉原の遊女たちが命がけで放火した理由とは?

NHKの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、物語の重要な舞台となっている「吉原」。

花魁道中などの華やかなイメージが強い場所ですが、遊女は自由を拘束され「年季十年、二十七歳まで」が原則ではあるものの、生活費や行事で新たな借金を背負うことも多く、十年を経ても吉原に残って働く女性も少なくなかったそうです。

そんな吉原は、最初に誕生した日本橋の遊郭が明暦の大火(1657年)で消失、浅草寺北の日本堤付近に移転をし「新吉原」となった後も、明和の大火(1772年)で被災しました。

一説によると、1866(慶応2)年頃までの約200年間で20回前後の火事が起こり、そのうち、およそ13回は遊女による「つけ火(放火)」だったそうです。

当時の江戸ではつけ火は重罪で、極刑に処せられるものでした。

しかし、処罰覚悟でつけ火をした遊女たちには深い事情があり、それを知ったお上の裁きは温情あるものだったのです。

画像:花魁と禿と下男 歌川豊春 public domain

約200年の間でおよそ13回の火事は遊女の放火

当時、木造家屋が立ち並ぶ江戸では、火事がよく起こっていました。

前述したとおり、新吉原でも約200年の間に20回以上(18〜19回、22〜23回との説も)も火事が起こり、そのうちおよそ13回が遊女による「つけ火(放火)」だったといわれています。

画像:明暦の大火田代幸春画『江戸火事図巻』public domai

楼閣は全焼して営業ができなくなると、期間限定で江戸市中の家屋を借りて仮営業をすることが許可されていました。

けれども、料理屋・茶屋・商家・民家などを借りて改装するので、もとの妓楼のような豪華な造りにはできません。
そんな仮店は、いたる場所に点在していました。

そこで、大河ドラマ「べらぼう」で蔦屋重三郎が作った吉原のガイドブック『吉原細見』ならぬ、仮店のガイドブック『仮宅細見』が登場したそうです。

画像:江戸末期の新吉原の見取り図 wiki c De Becker, J.E.

仮店は江戸市中に存在していたために、不便な場所にあった「新吉原」よりは通いやすく、構造も本物の楼閣に比べると安普請だったために、今まで吉原には縁のなかった客も気軽に足を運べるようになり、繁盛しました。

楼閣主のなかには「安い経費で営業できる仮店のほうが儲かる」とばかりに、火事が発生しても消火活動を怠り、幕府に厳重注意を受ける者も少なくなくありませんでした。

画像:大門入ると「面番所」「四郎兵衛会所」が。新吉原夕暮れ透視図 歌川豊春 public domain

遊女たちが放火した理由

新吉原で、遊女による放火が多かったのには、切羽詰まった訳がありました。

遊女たちは、梅毒などの性病に加え、劣悪な環境や栄養不足による病に苦しむことが多かったのです。また、荒々しい方法での堕胎によって命を落とすことも少なくありませんでした。

さらに、吉原から逃げ出そうものなら残酷な罰を与えられます。

こうした地獄のような状況から逃げ出すため、彼女たちは捕まるのは覚悟で放火をしたのでした。

江戸では放火は「火あぶりの重罪」のはずが…

江戸時代、放火は現代とは比べものにならないほどの甚大な被害を及ぼすために、重罪でした。

「馬で市中引き回しのうえに火あぶりの刑」、依頼放火は「市中引き回しのうえに死罪」だったそうです。

ところが、遊女たちによる放火は火あぶりにはならず、多くは「流罪」などでした。

画像:放火の罰。茅で全体を覆う(竈造り)public domaini

最年少14歳の姫菊は、親元預かり

遊女の放火事件の中でも、化政期(文化・文政年間を中心とした時代)以降の遊女による放火事件の犯人の中には、10代の少女もいました。

江戸時代末期、江戸を中心とした事件や噂などを詳細に記録した『藤岡屋日記』によると、弘化2年(1845)12月5日、妓楼・川津屋で放火事件が起きています。

画像:纏を持つ火消し。月岡芳年「月百姿」public domain

楼主の女房・おだいは冷酷な性格で、稼ぎが悪い遊女に折檻を繰り返していました。

ある時、あまりの仕打ちに耐えかねた3人の遊女が、火付けを計画したのです。
彼女らは、玉菊(16歳)・六浦(米浦/16歳)・姫菊(14歳)という年齢でした。

彼女らは火付盗賊改に召し取られますが、弘化3年4月、当時の火付盗賊改・水野采女(重明)により、年上の二人は「中追放」(重追放と軽追放の中間のもの)で、一番幼い姫菊は15歳まで親元預かりという、温情のある刑が下されたのでした。

おだいは「急度(きっと)叱り」という「叱り」よりきつい刑罰を受け、悪評が立った川津屋は衰退しました。

この事件を知った江戸では「火付をも 助けるものは水野さま 深き御慈悲が ありて吉原」という落首ができ、水野采女を讃える声が広まったのでした。

画像:花魁と新造と禿 wiki c Andrew O

奉行・遠山の金さんの、情けあるお裁き

また、嘉永2年(1849年)、粗末な食事や過酷な経済的負担、虐待などを日常的に強いる非道な妓楼「梅本屋」の主人・佐吉に耐えかねた16人の遊女たちが、放火を決意しました。

彼女たちは妓楼の二階の天井に火を放ち、その後、自ら出頭しています。

調べによると、玉芝という遊女が足抜けをした際、佐吉は「最年長の遊女・豊平がそそのかした」と濡れ衣を着せ、激しく折檻したことが判明しました。玉芝は佐吉に大きな鉄槌(てっつい)で頭を殴られ、耐え難い苦痛の中で「豊平にそそのかされた」と嘘の証言をしてしまったのです。

当時の豊平の日記によると、「首や手に跡が残るほどきつく縛りつけられ、腹這いにされたまま弓の棒で40回以上殴られたうえ、夕暮れまで湯も茶も許されなかった」と記されています。

非道な仕打ちを受けながらも、豊平は「くやしい一心でなんとか耐え、意識を保っていた」とのことです。
最終的に佐吉は、無理やり豊平の年季を2年延長させたうえで、ようやく縄をほどきました。

これは実は、人気遊女だった豊平の年期明けが近づいてきたのを阻止するための佐吉の企みだったのです。

ただでさえ日頃の佐吉の極悪非道な扱いに耐えかねていた16人の遊女たちは、この事件を知り怒り心頭、抗議のために放火をしたのでした。

画像:豊原国周「遠山金四郎 尾上菊五郎」public domain

当時、この事件の裁きを行ったのは名奉行の誉が高かった、遠山の金さんこと、遠山景元(金四郎)でした。

金さんは遊女たちの過酷な状況を知り、「火あぶりの刑」ではなく、主犯の遊女4人は島流し、残りの12人は押し込め(屋敷内での幽閉)という温情のある刑を下したのです。

さらに、楼主の佐吉は家財没収のうえ島流しとしました。

衰退していく吉原

吉原で最後の大火となったのは、慶応2年(1866)11月4日の火事でした。

この火事を起こしたのは14歳の遊女・重菊で、動機や処分については記録が残っていません。

当時、禿(かむろ)は15歳前後になると花魁見習いとなり、接客の作法や振る舞いを学ぶようになっていました。重菊もまた、悪待遇に耐えかねたのか、客をとることに抵抗があったのか、それとも自由の身になりたかったのか…その真意は不明です。

新吉原では、最下級の「切見世(きりみせ)」の遊女から最上級の「花魁」まで、店の待遇や食事、衣装には大きな差がありました。
しかしどの身分であれ、遊女である以上、身体を売り、時には嫌な客を相手にしなければならない現実に変わりはありませんでした。

その新吉原も、享保期(1716~1735年)頃には、揚代の安い岡場所や宿場の台頭、さらに武家の財政難などの影響を受け、次第に衰えの兆しを見せ始めました。江戸末期の嘉永年間に入ると、妓楼同士が客を呼び込むために揚代の値引き競争を繰り広げるようになります。

さらに、諸外国から「遊女は奴隷と同じである」との批判が高まり、新政府は1872年(明治5年)10月に「芸娼妓解放令」を発布しました。これにより、遊女は自由に廃業できるようになります。

しかし、その一方で、貧困や家庭の事情から身売りを余儀なくされる女性が完全にいなくなることはありませんでした。

吉原は存続し遊女の世界は形を変えながらも続いていきます。その後の歴史については、また別の機会にご紹介したいと思います。

画像:明治時代の花魁。遣り手と禿と。wiki c oseph Ernest De Becker(小林米珂)

参考:『図説 吉原事典(朝日文庫) 』永井義男
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

2025年2月26日水曜日

秦氏はやっぱりユダ族!?三井家にまつわる神社に残された痕跡を辿る【三囲神社】

進撃の信政チャンネル

 


近江商人を創った血の秘密〔滋賀〕  


 若いT氏が、わざわざ大阪まで出むいてくれて、拙宅で落ちあった。こんどはぜひ滋賀県にゆこう、というと、

 「近江商人のふるさとですね」  

 と、たちどころに反応した。滋賀県にはそういう意味で、たとえば「武の国薩摩」といったふうのパターンとおなじ先入主が世間にある。江戸時代の地口には、   


近江ドロボウに   

伊勢コジキ  


というひどいのがある。近江も伊勢も、戦国時代から徳川期を通じて京、大坂、江戸の三都の商業界で活躍する有力商人たちのふるさとである。百姓や生産者たちのひがみ根性からみれば、つねに商人は盗賊同然のアザトサにみえるのであろう。中世の西洋でも、「盗賊の紋章と商人の紋章とはおなじである」といわれた。西洋のばあいも、農民が言いだしたにちがいない。  

 大阪から名神高速道路にさえ乗れば、一時間もかからずに琵琶湖畔に達する。その車のなかでT氏が、 「近江人というのは、それほど損得利害に敏感なのでしょうか」  と、いった。むろんT氏はごく気軽に、ごく概念でいっている。それだけに、世間の多くのひとも、近江ノ国、江州、滋賀県という地名感覚から、そのような人間風土をばく然と感じているのであろう。

 「さあ。……」  

 と、私は頭のなかを整理しつつ考えた。  

 こまったことに人間風土の観察というのは、すこし視点をずらせると、まったくべつな風景が展開するのである。たとえば、日本歴史には歴史上の名士として多くの近江人(そういう名士の数の多さでは他県を圧しているであろう)が登場するが、そういう系列をみていると、どうもアキンド的体質もしくは思考法のにおいとはちょっとちがうようなのである。  

 それらの名前をあげる前に、商人的思考法とはなにかということを簡単に定義しておかねばならない。つまり形而下的思考法というか、右ノ品物ト左ノ品物ハドチラガドレホド大キイ、とか、ドチラガドレホド値ガタカイ、という具体的思考法の世界ということであり、商人的体質とはそういう形而下的な判断によって自分の身動きをきめる割りきった体質といっていい。  

 さわやかな近江の武将たち  ところがいま思いつくままに戦国期以後の近江人の名前をここにならべると、ずいぶんちがう風土をおもわせる。  

 浅井長政がいる。戦国期、北近江でざっと三十万石程度の領域をもっていた浅井氏の若い当主であり、織田信長の結婚政略の相手にされた。信長は岐阜から出て京都をおさえようとしたが、途中の回廊として近江がある。この浅井氏と通婚することによってその通路の安全を得ようとし、妹の、高名なお市御料人を長政の嫁にしたのだが、その後、信長が越前の老大国である朝倉氏を攻めることによって情勢が一変した。浅井氏は朝倉氏とふるくから友誼関係でむすばれており、この矛盾に悩んだ。新興の織田勢力の姻戚でありつづけることはきわめて安全度が高く、功利性から考えればそのほうがいいのだが、「朝倉氏からうけた旧来の恩をうらぎることはできない」として織田氏と断交し、数年にわたって織田軍と戦い、ついにほろんだ。長政のそういう気節の高さは、江戸時代の歴史家たちからも好意をもたれている。  

 気節という点からいえば、豊臣大名のなかでは生っ粋の近江人である蒲生氏郷をその代表的人物とすべきであろう。氏郷は、日野の出身である。さらに、石田三成がいる。三成は豊臣期の政治家としてはめずらしいタイプに属する。なにが正義であるかということを考える観念がきわめてつよく(まるで江戸時代の教養人のように)規律好きであり、その規律好きはむしろ病的なほどで、それをひとにも押しつけ、不正があると検断者のような態度で糾弾し、同僚から極端にきらわれた。かれの政敵であった浅野幸長なども、三成の死後、「かれが死んでから、大名たちの殿中での行儀がわるくなった」という意味のことをいっているが、とにかく、利害で離合集散する豊臣期の時代精神のなかにあって、正義とか規律とか遵法とかという、いわば形而上的なものに緊張し昂奮する観念主義者がいたということ自体、きわだったことであるとおもわれる。  

 ついでながら、関ケ原の前夜、旧豊臣系の、とくに尾張出身者の諸将のほとんどは家康方の勝利を見こし、家康に加担した。三成と同僚であった敦賀の城主大谷刑部少輔吉継(吉隆)はそういう判断力のきわめてするどい人物とされていたが、三成に乞われ、負けを見こして西軍に加担した。友情だけが動機であったことはあきらかであり、かつ、友情という、この明治以後に輸入された西欧くさい道徳が、明治以前の日本史において登場する数少ない実例としてかれの名は記憶されねばならない。  

 T氏と私は琵琶湖南岸で一泊し、あくる日、湖東平野を中山道ぞいに北にむかった。車は、残雪をかぶった旧宿場の村々を通過してゆく。途中、日野川をこえてほどなく入った村の交通標識に、馬淵という村名を見て、つい声をあげた。この村名におぼえがあった。 

「とめましょうか」 

 と、運転手がいってくれたが、よく考えてみると、たいしたことでもなかった。馬淵というのは大坂夏ノ陣の大坂方の七将のひとりである木村重成の縁故の地であり、私の記憶ではかれの戦死ののち、その美しい若妻が近江へのがれ、馬淵に隠れたはずであった。重成自身の故郷はおなじ近江でも蒲生郡西村であり、馬淵には縁故者がいたのだろうか。木村重成というのは戦前、国定教科書にのっていたころは知名度の高い名であったが、ちかごろはあまり知られていない。分類すれば、殉節者である。  

 瀬田川の上流の山間に「大石」という在所がある。土地の者はオイセという。戦国期には大石党として族党武士団がこのあたりに割拠していたが、織豊の統一期になるとここ出身の者が諸大名につかえた。浅野家に仕えた者の裔が大石良雄である。大石家の菩提寺もこの村の浄土寺にある。  

 以上、これら思いつくままにひきだした人物たちから共通項をひきだすと、他県の歴史上の名士たちにはない一種のさわやかさと知的緊張感と形而上的思考に習熟した共通体質を見出すであろう。これと、いわゆる江州商人とはどういうつながりがあるのだろうか。  考えてゆくうえで、かれらが歴史に投影している精神よりも、もっと具体的な、その才質について観察してみたい。  


財政コンサルタント・三成  

 一、二の不明例をのぞけば、かれらはいずれも経済観念と計数に長けた経理家的素質をもっていたことを考えねばならない。  

 蒲生氏郷は、秀吉によってその故郷の近江日野から伊勢十二万石に転封させられ、松阪の城主になった。このとき氏郷は田園のなかに都市区劃をし、さらにこの新城下を商業都市にするために故郷の近江日野郷から、日野商人をほとんど、根こそぎに移住させた。「伊勢商人」の発祥である。  

 この誘致された商人のなかには、この機に武士から商人になった者もおり、その最大なるものが三井氏であった。「三井家奉公履歴」という書きものにも三井氏の祖は近江蒲生郡の地侍三井越後守高安であるとされており、これは孫引きだがその文中、「三井越後守高安は江州鯰江より伊勢に移り、その子三井則兵衛高俊、元和年間松阪に居り、醸酒の業を営む。人呼んで越後殿の酒屋という。越後屋の屋号、ここに濫觴す」とある。ちなみに右の三井高俊の長男俊次が京都に移って呉服屋になり、さらに江戸店をひらいた。その弟の高利が兄の江戸店を管理し、さらに別店をひらき、現金正札主義をとって空前の繁昌をした。  

 話が、それた。松阪におけるこれらの基礎をつくった蒲生氏郷はのち会津盆地に転封させられたが、氏郷はここでも漆器その他の物産を開発し、奥州における経済政策の最初の根をおろした。  

 氏郷がすぐれた経済政策家であるとすれば、同郷の石田三成はすぐれた経済技術者であるといえるであろう。かれはかれ自身の創始的技術かどうかはべつとして豊臣家の財政を運営するのに、近代的な──ちょっと信じられないほどのことだが──簿記のようなものを用いているのである。  

 というのは、薩摩の島津家が秀吉に降伏したとき、三成はその戦後処理官になり島津家と接触をもったが、そのときそういう帳簿のつくりかたや経理技術を島津義久に伝授しているのである。帳簿は米の売却、送金、物品の購入といった大きなものから日用品についての小払帳にいたるまで多種多様にわたっており、それによって島津家の財政を中世的な出し入れ式のものから一挙に豊臣時代という新流通経済時代に適合できるように仕立てあげた。三成は、算木による計算もたくみであったという。三成が身につけていたそういう経済や商業の実務技術はやはり、かれの出身地である近江というものをのけては考えられぬであろう。近江の商人のあいだにはそういう思想や技術があったはずであり、三成はそれを大名の家政や天下財政の面へもちこんで行ったものにちがいない。もっともそういう技術のもちぬしは三成だけでなく、近江の草津付近の出身である長束正家なども豊富にもっていたにちがいない。正家はその財務能力だけで秀吉から大名に抜擢され、五奉行の一人にまですすんだ人物なのである。  

 こういう連中を輩出した近江というのはよほど特異な地帯であり、商業という点では他の国々とくらべものにならぬほどの先進性をもっているにちがいない。むろん、簿記にかぎっていえば三成や正家がつかっていたのは単式簿記であったであろうが、それから一世紀あまり経ったあと、かれらの故郷の日野で成立した大商家中井家の商法にあっては記帳も複式簿記の水準に達していたそうである。こういう商業的先進性は、いったいどこからうまれたのか。  


 近江商人の神聖な故郷  

 それを考えるために、われわれは近江にきている。  

 われわれの車は、北をめざしている。 

「五個荘(ごかしょう)村につれて行ってほしい」  と、私どもは土地の運転手にたのんだ。五個荘村(いまは町だそうだが)というのは江戸時代以来、成功した近江商人のもっとも多く出た村である。私はその外観だけをみたいとおもった。  

 中山道のあたらしい舗装道路は、老蘇ノ森を両断してしまっている。それをすぎ、安土城址を左に見つつしばらく北にゆき、あてずっぽうの見当で車を降り、小さな部落に入ってみた。どうも家の構えがいぶせくて、それらしいたたずまいではなかった。道をきくために村の店屋でボールペンを買い、たずねてみた。


 「この部落も五個荘は五個荘ですがね、あの金持村じゃありませんよ」  

 と、店番の老婦人は無愛想にいった。

「じゃ、金持村のほうは、どこです」ときくと、

 「そんなものは知らない」  

 と、どうも知っていそうな顔つきなのに教えてくれなかった。五つの聚落があつまって五個荘をなしているのに、一つ聚落から江戸時代いらい成功者が簇出しているというのは、他の聚落にとっては愉快なことではないであろう。  

 国道へ出て、べつなひとにきくと、「それは金堂という聚落だろう」ということであった。教えられたとおり、観音寺山を正面に見ながら枝道に入り、その聚落に入った。なるほど、村の中央部に入ると、そのあたりに見るどの家も居館というべき豪壮な構えであり、いくつもの蔵をもち、堅牢なねり塀をめぐらせている。塀と塀のあいだをひろいあるくうちに、なにかの写真で見たおぼえのある一角に出くわした。

 「その家はね」  

 と、通りがかりの七十年配のおばあさんがふりかえって教えてくれた。

 「シゲルさんのお家ですよ」  

 先年、亡くなられた作家の外村(とのむら)繁氏の生家であることがわかった。外村家というのは五個荘でも代表的な名家であるということを、うかつにもその家の前にくるまで思いだせなかった。  

 私は、外村繁氏はその作品を通じてしか知らない。戦前、日本浪漫派に属し、地味な私小説を書き、熱心な親鸞の教徒であり、貨財にはいたって淡泊なあのひとが、私の仄聞するところでは、帳簿をぱらぱらとめくっただけでその誤りが指摘できたというほどの眼力があったという。どこか、蒲生氏郷や大谷吉継、石田三成に通じる人間風景が感じられはしないか。

 「五個荘の丁稚学校のあとを見ましたか」  

 と、この日、大津にもどってから、土地に住む友人の徳永真一氏にきかれた。いや、見なかったです、そんなものがあるのですか、ときくと、「江戸時代にはあったのです」と、徳永氏はいう。このひとは毎日新聞の古い記者で、近江が好きなあまり大津の膳所の旧膳所藩の家老屋敷あとに住み、この県の歴史のほとんど生き字引のような存在である。むかしの商業学校というべきものでしょうな、という。  

 五個荘の商人は京都、大坂、江戸に店をもっているが、それらの店に送りこむ丁稚はかならずこの五個荘にあつめて寄宿舎訓練をし、ひととおりの商業技術やしつけを身につけさせ、しかるのちに配分したという。明治後にそれが発展したのが、近江商人の訓練所として有名だった県立八幡商業なのであろう。  


 商才は帰化人の血か  

 話題をかえよう。  

 帰化人についてである。帰化人ということばが、この県ほど、その県民の商業能力を語るときに重味をもってくる土地はない。


 「やはり、帰化人でしょうなあ」  

 と、徳永さんもいう。「江州人」という、滋賀県に関するいい書物が、昭和三十七年、毎日新聞社編で出た。筆者は向井義朗というひとで、私の学校のころの友人である。やはり近江的商才の帰化人淵源説をとっている。勝手に引用させてもらうと、「……帰化人が多く、文化程度が高く、そして計数観念の極度に発達していた江州人が」といったふうになっている。近江人の「利口な頭」というものが、どこから出てきたか、やはり朝鮮からの帰化人であるというところにもってゆくのがいちばん安定した落ちつきぐあいなのであろう。  

 しかもこの県人のおもしろさは、「われわれには帰化人の血が濃く伝わっている」ということをむしろよろこばしげにいうことである。むかし(いつごろか不明)帰化人が集中的に居住していたとされる蒲生郡の八日市の町に、私の友人がいる。その友人がいまから十年ほど前に私を案内して八日市付近を歩き、やがて、

 「どうや、おれの頬」  

 と、その隆起した頬骨をたたいて誇ったことがある。「韓国人にそっくりやろ」というのである。頬骨だけでなく、両眼がつり気味であり、頭骨がひらべったく、後頭部がそぎ立っている。「おれの頭が、帰化人淵源説の証拠物件だ」というのであったが、かといってかれの頭だけをたよりに近江人の淵源のなぞを解いてしまうのは気がすすまなかった。帰化人説をもちこんでくる心情というものは一種のロマンティシズムであるという気持が私にはぬけきれないのである。  菅野和太郎氏(自民党代議士)は、かつて旧制彦根高商の教授であった。その時期の著作に「近江商人の研究」という標題のものがあり、大意つぎのように書かれている。「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部(蒲生郡、坂田郡、愛知郡、犬上郡、野洲郡)に移住し、本国の制度にならって市を開設したが、後に延暦寺(叡山)と結んで市の専売権を確立し、商権を拡張して一大飛躍をとげた。この訓練をうけた住民は、農民、武士よりの転向組を加え、全国の行商行脚に力をのばした」  

 滋賀大学教授江頭恒治氏の「江州商人」でもこれに触れ、近江商人が他の土地(江戸、大坂、京都など)に店を出してもその土地の者をやとわず、いかに遠くても故郷の近江から奉公人をよびよせた、このことは華僑の風習に似ている、という旨のことが書かれている。  

 しかし、どうだろう。朝鮮人の血は、なるほど近江人のからだに、ことに脳髄に濃く流れているかもしれないが、他の土地の日本人にとっても同様である。北九州人は歴史地理的にその血の飛沫をもっとも濃厚にうけたであろうし、山口県人も同様であり、出雲をはじめとする裏日本の地帯もそうである。しかし同じような血をうけつつかれらが近江人のような商才や商業的先進性をもたなかったのはどういうわけだろう。  

 

アイヌ・朝鮮・南方種族  

 関東なども、そうである。上代日本にあっては帰化人は文化のにない手として大いに優遇された。それをききつたえて、奈良朝時代に入っても朝鮮半島から陸続と移住者が集団でやってきたが、もうこの時期になると日本人の文化能力や体制がかたまりはじめていたためにかれらは不要であった。朝廷ではやむなくかれらを、その当時フロンティアであった関東平野に送り、開拓民にした。というより、あとあとになると技術者ではなく能なしの農民がやってきたのかもしれない。年表にみても、持統天皇の朱鳥四年「二月、新羅帰化人を武蔵に置く」とか、聖武天皇の天平十八年「新羅帰化人を武蔵に置く」といったふうの記載事項がさかんに出てくる。上毛、下毛といった群馬県付近にもさかんに送られた。  

 これらの子孫が開墾田を私有しつつ、平安期に入ればあの剽悍な、最初の日本人美を形成した坂東武者になってゆくのである。人間とはまことに妙なものである。おなじ朝鮮からの帰化人が近江に住まわせれば近江商人になり、関東に住まわせれば坂東武者になる。  

 もっとも血の配合がちがうという点は、注目しなければならないかもしれない。奈良朝のころの関東といえばアメリカ開拓期の西部よりもさらにいっそうに荒蕪の地帯であった。インディアンの数よりもさらに多くのアイヌが住んでいたであろう。アイヌ人はインディアンと同様、狩猟民族で、農耕ができなかった。農耕ができないというのは適者として生存するには致命的な欠陥である。モンゴル民族が漢民族に戦いにやぶれることはなかったが、それでも塞外へ塞外へと追いやられたのは、蒙古草原をいつのまにか漢民族の農民どもが耕してしまうからであり、耕地が北へ北へとひろがるにつれてモンゴル人どもの遊牧地はそのぶんだけ北へ移動しなければならない。それと同様、アイヌは朝鮮からの移住農民たちの耕地のためにさらに北へ移動した。その間、当然ながら大規模な混血がおこなわれた。  

 このため、アイヌ風の剽悍さをもった「東夷」が出来あがり、それが武士になってゆく。このわれわれの先祖の一派はその生活が計数を必要としなかったため、そういう文化遺伝が坂東人を支配し、武勇や権力への指向性につよくても商売に弱いという歴史的性格をつくりだしたのかもしれない。  

 上代や中世の近江人は、その地域性からみてもアイヌ人という強烈な個性的血液をほとんど受けていないか、微量にしか受けていなかったであろう。それに九州人のような南方種族との血液的混合ということもよりすくなく、要するに琵琶湖畔にあっては朝鮮半島からもちこまれた血が、比較的純度高く残りうる可能性があったということはいえるかもしれない。私のおぼろげな記憶では、どこかの大学が測定した日本人の頭型の分布のなかで、滋賀県をふくめた近畿がもっとも朝鮮人的な短頭的特徴を示していたような、そういう記憶がある。  


 日本歴史のなかで、最初に記録される帰化人の大集団は、新羅の王子といわれる天日槍(あめのひぼこ)のひきいるそれである。  

 かれらは裏日本づたいにきて若狭湾に上陸し、途中、さまざまの痕跡を後世にのこしつつ南下した。古代日本における最大の事件のひとつであろう。  

 地方史の名著とされる「滋賀県史」全六巻の冒頭にもこのことがやや感動的に触れられている。ただし近江には一部が定住しただけで、総帥の天日槍そのものは、残念ながら但馬に行ってしまう。 

(但馬などにゆかず、天日槍が一族総ぐるみで近江に定住していてくれれば、この推論も落ちつくのだが)  と、私は近江路を歩きながらおもった。おもいながら、石塔寺のながい石段をのぼった。石塔寺は、八日市から南へ四キロ、蒲生郡の丘陵地帯にある古刹である。が、大きな寺ではない。  

 〝異国の丘〟に石塔は立つ

 「石塔寺にゆけば、近江がわかる」  

 というのが、「上代以来、近江に住んでいる」という草津在の友人我孫子元治氏の説であった。どうわかるのか、このながい石段をのぼりつめてみねばならない。途中で、なんどか息がきれた。たまたま石段のふもとに矢竹の杖がおいてあったのでそれを借用して一段ずつついてのぼっているのだが、つらかった。のぼりつめれば頂上に伽藍かなにかあるのですか、と同行のひとにきくと、

 「いいえ、建物はいっさいありません」  


 ただ不可思議な石造の巨塔が一基、天にむかって立っているだけだという。  

 最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、私は生涯わすれることができないだろう。  

 頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである。

 「なんのためにこんな山の上にこんな塔があるのだろう」  

 と、同行のたれかが気味わるそうにつぶやいたが、これはこの方面のどういう専門家にも答えられぬことであった。巨石の積みあげによる構造上の技法は、あきらかに古代朝鮮のものだそうである。  

 ──この近所の帰化人がやったことです。  

 と、たまたま頂上にのぼってきたこの寺のお坊さんがいった。この丘の付近は、八日市にしろ日野にしろ、上代帰化人の大聚落のあったところである。かれらが、故郷をなつかしむあまり、この山の上にこのような巨石をひきあげ(どういう工夫でひきあげたか、謎である)、それをどういう技法かで積みあげ、いかにも擬人的な石塔を組みあげて半島をしのぶよすがにしたのであろう。

 「石材も、百済か新羅のものですか」  

 と、お坊さんにきいてみた。そうだとすれば、はるばると半島からこれだけの巨石を運んでくるというのは、秀吉の大坂城の巨石運搬のなぞよりもさらに大きい。お坊さんによると、たしかに外来のものだと信じられていたそうである。しかし最近になって石だけは近江のこのあたりの地場のものだということがわかったらしい。ただし工法や構造、造形的な嗜好は、むろん朝鮮のものである。よほど古いころに出来あがったらしいが、いつごろ、たれがこれを作ったか、むろんわからない。(なるほど、近江はいわれるように帰化人のものだったのだ)ということを、理屈をこえてこの塔は訴えてくるし、理屈以上の迫力をもってこの塔は証明しているようである。  

 この奇妙な塔があるためにこのあたりの地名は「石塔」というし、またこの塔があるというのでいつのほどか、それを護持するための小さな寺がその山麓にできた。寺はつけたしである。塔が主人である。塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言であるような気もする。  


 華僑に似た風習がある  

 あと、湖西のほうをすこしまわった。堅田の湖港を見たり、浮御堂に詣ったり、琵琶湖大橋をわたったりしたが、車のなかでもあの石塔が網膜からはなれず、そのことばかり考えていた。

  唐突にいうが、日本人がその居住地を離れて遠くへ移動することがさほどの苦痛でなくなったのは、豊臣政権の成立からであり、それ以前はうまれて生えたその地帯に日本人どもは動くことがなかった。そういう上代、中世にあって、国から国へと行商してあるいたのは近江人であり、そういうことが近江人だけの習慣になっていたというのは、やはり菅野氏のいうように、「商人的素質をもつ高麗の帰化人」であるがためかもしれない。

 「運転手さんは、滋賀県ですか」  


 と、同行のT氏がきいた。はい、左様でございます、と中年以上のどの滋賀県人もたいていそうであるようによく躾られた上品な敬語でこたえた、「高島郡でございます」、という。高島郡というのは湖西のほうの山岳地帯である。デパートの高島屋の名称はこの高島郡からとられている。  

 大正期、大阪で成功した近江商人の富商たちは、阪神間の芦屋をひらいてそこをあたらしい居住地にした。その芦屋の近江人というのは上女中はかならず近江の高島郡からよんだ。高島郡の女性は聡いし、上品だし、律義だという。嫁に行ってからも縁は切れず、主家はよく面倒をみてくれる。

 「わたくしの姉も、若いころ芦屋に奉公にあがっておりました」  

と、運転手さんはいった。芦屋の近江人たちは上女中はかならず近江からよぶが、ところが水仕事をする下女中は播州(兵庫県)の田舎からよぶ。播州こそいい面の皮だが、これが近江人の近江至上主義であり、近江共栄主義であり、江頭教授のいうところの「華僑の風習に似ている」ところであろう。  

 戦前、大阪や東京の近江系の繊維会社は、かならず故郷の県立八幡商業の卒業生を採った。「八商は他の商業学校の卒業生とははじめから商人として出来がちがう」といわれた。しかしちかごろは日本平均化の共通現象の例外ではなく、在校生にそれほどの特色はみられないという。ただ、旧制彦根高商はいまは滋賀大学経済学部になっているが、「どうしてもあの学校の卒業生を」といって採用したがる会社が依然として多いという。  


 後退した商業主義の精神  

 しかしながら、上代以来、日本の商業界でその特異性を誇った近江と江州商人も、全般として過去のものになっている。繊維業界や商社の一般的後退ということもあるであろう。それよりも大きいのは、近江商人の機敏さや倹約哲学や世界観では、十九世紀までの商業主義には生きられても、二十世紀の産業主義には不向きであるということであろう。  

 商業資本がえらいか、産業資本がえらいか、というこどものような議論をすこしここで考えてみなければならない。両者は本質的に異質なものだといったのは、ウェーバーだそうである。たしかに異質である。産業主義というのは、たとえば一つの機械を発明したり、機械組織を変えて生産量を変動させたりする能力は、最終的には利潤追求でありながら、モトの発想はきわめて非商人的である。  

 一つの機械を発明するのに数十年かかるかもしれず、この間の金利計算や仕込みの計算をしているような精神や能力ではそういう根気仕事──ときには無意味にみえるような努力──はできないのである。世界中にちらばっている華僑が、ついには金利計算者である域を脱せず、産業資本家になりえていないのはその好例であろう。  

 江州商人的精神も、華僑に似た運命をたどっている。明治以後の日本の産業資本をになったひとびとは近江から出ず、他の封建分国から出たし、戦後の産業界の覇者たちも近江からは出なかった。しかしながら、近江人が、歴史あってこのかた、日本の経済と政治と精神史のなかにはたしてきたかがやかしい足跡は、いかにその精神がいま休止期に入ったとはいえ、その評価をいささかでも過小にすべきではない。もしそうすれば、蒲生郡の山上に古寂びて立つ、かれらの呪術がこめられているようなあの大石塔が、神怒りにいかるような気がするのである。 


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