2025年1月11日土曜日

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

初めてインドを旅した。使徒トマス遺跡ツアーの団長として責任を感じつつ、ワクワクしながら空港に集まった。旅行会社JTB法人東京の責任者から旅の注意事項を聞き、天地を支配される神様に、旅の導き手として共にいて、病や事故などから守ってくださるよう祈って日本を発った。主催は創立10周年を記念するイーグレープで、社長の穂森宏之氏も同行予定であったが諸般の事情から参加不可となり、残念であった。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

参加者はそれぞれ個性のある方ばかり。年齢は60歳以上でありながらも全員が活気と希望にあふれ、そのような心意気がインドのトマスに向かわせた。

チェンナイでは、使徒トマスの関連施設(会堂、墓、祈りの洞窟、殉教地ほか)を見学。使徒トマスについては、ヨハネの福音書20章にイエスへの信仰告白があり、復活のイエスに出会ったことがトマスの人生を祝福へと導いた。彼はイエスの12使徒の1人で、イエスが昇天されて後、イエスから直接インドに「私の福音を伝えるよう」派遣された。伝承には、インドに着いたのがAD52年で72年に殉教死、帰天した。トマスの布教活動によって彼の名の町も作られ、南インドではトマス派の教会が多く「サントメ教会」とも呼ばれている。特徴として、十字の上に聖霊のシンボルである鳩が付けられ、十字の下はナツメヤシの葉のような紋様がある。私たちはトマスの殉教教会に向かった。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

トマスはイエスに言った。「私の主。私の神」

聖トマス教会堂の最奥に設置されている石碑の周囲には、パフラヴィー語で「メシアと上にいます神と聖霊を信じる者は、十字架の上で裂かれた恵みによって贖(あがな)われる」と彫られ、その原石版は9世紀までには作成されたという。初めからキリスト教は神を「父・子・聖霊」とし、十字架による贖罪とそれへの信仰が語られていた。

茶色の石には人の手の大きさのへこみがあり、トマスと多くの信者たちが祈ったものといわれている。使徒トマスが遣わされて後、広大な地域に最初にまかれた福音の種が、芽を出して成長し、トマスの町と称されるほどに宣教の実が拡大しているのを見た。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

週の初めの主日の礼拝は、ニューライフ・アッセンブリーチャーチに出かけた。会堂には子どもから大人までいっぱい参加していた。教会の主任牧師は別の教会の奉仕に出ており、協力宣教師は韓国のバプテスト系の牧師で、特に牧師夫人への霊的訓練をしつつサントメ(聖トマス)のことを研究している第一人者でもあった。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

礼拝メッセージは、浜島敏氏が「伝承と真実」と題して現地語の通訳がついて語り、賛美は日本人教会ではおなじみのワーシップソングを繰り返し歌い続けていた。途中停電になったものの、日常のことで騒ぎもなく、点灯した途端に喜びの声が沸き起こった。彼らは熱心に賛美し、説教に耳を傾け、心熱く祈っていた。小さな子どもたちも真剣であった。

礼拝後には青年たちが集まり、私が「日本とインドの交流」と題して、奈良や江戸時代にはインドと日本が交流していたこと、インド綿の「唐桟織、桟留縞(さんとめじま)」が今も使用されていること、天草市のキリシタンたちが祈っていた「サントメ経」について話し、キリストの再臨に備えて世界に宣教しようと勧めた。礼拝後に昼食を頂き、カースト社会におけるインド人への宣教と教会形成について、上位カースト民への伝道よりも下位カーストの人々への伝道によって教会が成長していることを聞いた。共に祈り、興奮しながらバスに乗り、ホテルに着いた。

私たち一行は、プロペラ機でチェンナイからコチン(コーチン)に向かった。コチンはケララ州に広がる広大な水郷地帯で、天然の入り江や湖に恵まれた風光明媚(めいび)な港町。ここでは3千年も前からユダヤ人が寄留し、会堂礼拝をしていたという。そのシナゴクを有料で入館した。現在ユダヤ人は10人以内で、ほとんどはイスラエルに帰還したという。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

庭には幾つかの墓石(写真)が並び置かれていた。会堂内の正面奥、巻物が置かれた部分はカーテンで閉じられ、開けることを禁じていた。そこには聖書の巻物が設置されている。上の写真は、開かれた律法・ト―ラーの巻物「トラの巻」。

他に、聖フランシス教会の中にあるヴァスコ・ダ・ガマの記念墓碑(写真)やダッチ・パレスを見学。大きな網で魚を捕獲するチャイニーズ・フィッシングも見たが、ほとんど獲れていないのも滑稽な光景であった。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

次に一行は、聖トマス使徒神学校に向かった。以前に故・鄭学鳳師が訪問したこともあり、ゲートを過ぎて門番に話すと学長が快く出迎えに来てくれた。学長は私たちを大きな図書館に導いた。多くの書物が項目ごとに整理整頓されており、知識の宝庫を見た。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

神学生たちが授業をしていたこともあり、授業風景を見つつ階下を見下ろすと、そこにはパレスチナの地図を模した大きな庭が作られていて驚いた。そして、私たちは学長室へと向かった。

学長から自身が書かれた著書を贈呈され、しかも一人一人にサインも入れてくれた。さらに、神学校が50年経過したことを記念したマグカップも頂いた。学長の実に温厚な人柄が印象に残った。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

続いて私たちは食堂に行き、インドのローカルランチを頂いた。昼食を終えて近くのトマス派教会に行った。ここは特にマザー・テレサの写真が、マザーの部屋として所狭しと掲げられてあった。コルカタで活動した神の愛の宣教者会のシスターとして、世界的に有名な奉仕者である。

トマスの名を冠した教会ではあるが、内実はローマ・カトリック教会となっている。これが有名な世界のカトリック化現象の一つであろう。バスから外を眺めていると、ヒンズー教が多く占めるインドでも、ここ南インドはトマス派会堂を多く見ることができ、教会堂が多く建つ韓国に来ているようでもあった。

翌日、私たち一行は日本語達者なガイドのジャイアン氏の説明を聞きながら、風光明媚な水郷の港に着いた。そこに停泊してあった20人乗りくらいのボートに乗り、ウォータークルーを体験。現地の様子を眺めては、生活ぶりに歴史を感じ、旅の最終日を満喫した。

新・景教のたどった道(74)東方景教の遺跡を巡る旅・南インドの使徒トマス遺跡 川口一彦

(中央下)トマス教会のイエズス会IHSと十字の紋章

帰国に際し、すべてを平安に導かれた主なる神様に感謝をささげた。

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※ 参考文献
景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
川口一彦著『東方基督教遺跡見聞記』(2020年、私家版)

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