渡来人と赤穂
「秦河勝」と播州・赤穂の強い絆
3世紀から7世紀ごろにかけて、中国や朝鮮半島から多くの人々が日本に移住した。彼らは「渡来人」と呼ばれ、漢字、仏教や建築技術など、当時最先端の知識や技術を古代の日本に持ち込んだ。渡来人の中でも「秦氏(はたうじ)」は最大勢力の一つとされ、その後の日本の産業、文化を形作る大きな功績を残した一族とされる。これは秦氏と播州・赤穂にまつわる物語だ。
なぜ渡来人は日本に来るようになったのだろうか。
中国では、秦の始皇帝が中国を統一して以来、北方からの騎馬民族の襲来により漢民族の人口が極端に減少するほどの被害を受けた。お隣の朝鮮半島でも争いが絶えなかった。そこで、彼らは安住の地を当時は東方の桃源郷と呼ばれていた日本に求めたのであろう。時間をかけて日本に入植し、定住するようになる。
5世紀ごろに日本にやってきた渡来人が「秦氏」である。もともと職能集団であった彼らは、治水による灌漑、製鉄、鉱山開発、酒の醸造、養蚕と絹織物の製造など、高度な技術を持ち込んだ、いわば殖産興業の祖であり、時のヤマト朝廷からも厚い信頼を得ていた。また日本の神社に最も多い「八幡神社」、穀物の神様を祀る「稲荷神社」の信仰を持ち込んだのも秦氏であるといわれる。
6世紀になると秦氏の族長的な人物、秦河勝(はたかわかつ)が、当時、政治の中枢にいた聖徳太子の側近として活躍する。秦河勝と聖徳太子との芸能にまつわる、こんなエピソードがある。ある日、聖徳太子が秦河勝に命じて物まねをさせた。あまりの上手さに、太子は66個の面を与えた。それが神に奉納するため奏される歌舞である神楽(かぐら)の始まりだ。のちに秦河勝は、この芸を子孫に伝え、神楽は後に「申楽(さるがく)」「能」と呼ばれるようになる。受け継いだ子孫が、「能」を大成させた観阿弥・世阿弥親子である。世阿弥が記した能の家伝書「風姿花伝」には、「能」の元祖は秦河勝であり、自分はその末裔であるとの記述がある。また、日本の古典音楽である雅楽を奈良時代から世襲してきた東儀家も河勝の末裔である。秦河勝は日本の芸能・音楽の始祖ともいえよう。
その秦河勝にゆかりの地が、播磨・赤穂の岬から北東に海沿いの町・坂越(さこし)だ。それまで中央で大活躍していた彼が、なぜ兵庫県のこの地にやってきたのか?
聖徳太子の死後、秦河勝は蘇我氏との政変に巻き込まれ、摂津難波の浦(現在の大阪)から舟に乗ってこの坂越にたどり着く。秦河勝は当地を流れる千種川流域の開拓などを進めるなど数々の功績を残したのち80余歳で死去。地元の人々がその霊を大避大神として祀ったのが坂越の大避(おおさけ)神社である。
この大避神社には、日本の古典音楽である雅楽の舞楽面「蘭陵王」が神宝として伝わっている。また雅楽を伝承する宮内庁楽部の大絵馬が掛けてある。まさに、この神社が雅楽と深い関わりがあることを物語っている。
赤穂郡千種川沿いには、秦氏の繁栄を物語るがごとく大避神社が約30社も連なる。また坂越の浦には、秦氏が掘ったといわれる大泊金山がある。これらから考えれば、坂越は秦河勝が逃避して来る以前から秦氏が入植し、金山を掘り、治水したいわば「秦王国」が築かれていたのではないかという説も立てられるだろう。
現在、赤穂には「秦氏を学ぶ会」という会が赤穂市立図書館に本部を置き、研究がを続けられている。現代にも秦氏との関係はこの地で結ばれているのである。
この物語のように渡来人に焦点を当て各地の歴史を紐解いていくと、日本の歴史はより一層多様な色彩を帯びてくる。
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