阿波の玄関を監視する高安城(西照神社)
阿波と讃岐の間を走る阿讃山脈の峰のひとつ大滝山。
その大滝山に「西照神社」は鎮座しています。
神社は尾根付近、山頂部が倭の高安城(たかやすのき)と推定されています。
「阿波誌」に「岩倉山の西北に在り、坂道四千余歩、四顧涯際なし、北は讃岐を臨み、遥かに播(磨)備(前)を見る、寺あり即ち大瀧寺、半腹に窟あり、北に瀑布あり」とあり、四方展望が開け、南は吉野川流域を、真北は讃岐の屋島を見通すことができます。
天智六年に築かれた倭国の高安城は瀬戸内海からの進入に備えたもので、当時天智天皇の大津宮が四国の阿波にあったからこそ屋島に城を築き、烽(とぶひ=狼煙)によって通信が容易にできるその奥の脇の峰(大滝山)に城を築いたものと考えられます。
そのことから「倭城(わき)」から脇町の名の興りがあった可能性が高く、その他、天智紀に高安城に塩や米を運び込むとあるのですが、大滝山の北麓には「塩江」の地名も残されています。
どうも西照神社の由緒の内容を確認すると、さらに昔から瀬戸内海から淡路島周辺である阿波の玄関の監視に充てられていた場所のようです。
それではちょっと長いですが、めちゃめちゃディープなことを書いている「西照神社」の由緒をご覧下さい。
大滝山阿讃国境に位し標高九四六米七尾七谷の源をなす嶺峰にして古代「大嶽山」と稱せられる。
由緒、古伝の存す所を案ずるに上代神世の昔、伊耶那岐尊、高御産巣日神の詔を以ちて、筑紫の日向の橘の小戸の阿波峡原に降り禊祓まして心身清浄なる身を以て山川草木各々の主管者を任命し終りに天照大神を高天原へ。
祖国並に大八州国を統治し次に月読尊は夜の食国(筑柴の国即ち九州全域尚湯の出る国即ち四国の嶋)を統括し
東大和紀伊の動向を看視せよと委任し給ふ。
そこで月読尊は航海の神、田寸津姫命即ち宗像三神の部族を率いて伊豫から阿波の国に移り大嶽山の頂、展望のきく所に櫓を設け瀬戸内海難波及び大和の動向を監視せしめ、天津神の詔を体し九州四国を統括し、蒼生人の九厄十悪を祓ひ退け、夜毎に白露をふらし、五穀草木を潤し海上安全を守護されしと降って、平安朝の初期桓武天皇の御代僧空海二十四才の頃三教指針(神道儒教仏教)の一佛教を選び厳修体得せんと大嶽山に登り、北面の崖の中腹に山籠すること三年。教理に初光を見出し、続いて土佐の国室戸に至って三年余を経て都に赴く。
偶に遣唐使の渡航舟団に加はるに及んで、大嶽山航海の神に安全を祈願して出稿す。
途中台風に遭ひ遣唐使の三隻は行衛不明になるも空海は遙か南方唐の赤岸鎮に漂着。
陸路都長安に至り、青竜寺恵果和尚に教を乞ふ。
和尚之を優遇し密教の奥義を伝授。
さる帰国に及んで大嶽山の三神に厚く感謝せし。後門弟をして別当寺を建て奉仕せしむ。
続いて本地垂迹の説を唱え布教に之努め社号に権現号を贈り、西照大権現と改稱し、神祇官に代わり祭祇を司り明治六年に至る。
中世稲田氏国守となるに及び崇敬社として山麓の九石八斗の村落を寄進し、諸役を定住させ奉仕せしむ。
明治六年、神仏習合分離の大政官布告に基き、社格郷社「西照神社」と旧に服し、神官をして祭祇することとなり今日に至る。
どうですか。真正面からドンズバで書いている由緒だと思います。
古の神であった月読命と宗像三神の足取りを追って空海が大滝山に入ったのですね。
今回は由緒に書いてくれているので楽ちん、楽ちん。
西照神社の隣にある大滝寺のことを書いた過去記事です。よかったらどうぞ。
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