2024年7月1日月曜日

坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(1/3) NHK番組再現&自叙伝エピソード挿話 | Kou

坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(1/3) NHK番組再現&自叙伝エピソード挿話 | Kou

坂本龍一ファミリーヒストリー拡大版(1/3) NHK番組再現&自叙伝エピソード挿話

 拙文は、2018年に放送された、NHK「ファミリーヒストリー坂本龍一」を"再現"したものです。静止画とナレーションの文字おこしから構成しました。

 文中には、坂本龍一の著書からの引用文を付加させていただきました。自叙伝とも言うべき、2009年の『音楽は自由にする』と、逝去後に刊行された『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』からの引用であり、本人が語るところの、父母をはじめとする親族のエピソードはとても興味深いものです。

 さらには、坂本龍一の父・坂本一亀の評伝、『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』からも引用させていただきました。この本は、かつて出版社で一亀の部下だった田邊園子に龍一が執筆を依頼したものです。「ファミリーヒストリー」は一亀を軸に展開しており、貴重な資料となりました。また母・坂本敬子に関し、『草の分際 : 金子きみ歌集』からも抜粋引用させていただきました。

 文中の関係各所に適宜挿入したこれら引用文は、本文と重なる部分があるものの、オリジナルを尊重しそのまま掲載しました。完成された番組の中に他書からの引用文は不自然感も否めないのですが、ファミリーの方たちの人となりをさらに理解できるとの思いから、このような構成としました。

 また、登場する親族以外の一般の方々については、氏名など詳述を差し控えました。文字起こしは文体の変更など調整を施し、あとがきなども含め、親族の方々の敬称は略させていただきました。  

 ここにある、番組では語られなかったエピソードや後日談は、放送をご覧になった方も関心を抱かれるはずです。故人を偲ぶよすがとしてお読みいただければと思います。





昭和27年、東京中野に生まれた坂本龍一。坂本家のルーツについて、詳しく聞いていないと言う。

「何度か(ファミリーヒストリーの)オファーを受けたんですけど、今までは気乗りしなかったんですけど、そういう過去とのつながりっていうのは、関心は大きくなりますね。両親も亡くなったし、もっと自分の家の先祖のこととか、両親に聞いておけばよかったなと最近思うことが多くて、だからあまり知らないんです、僕は」

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』 

(2018年)3月、NHKで『ファミリーヒストリー』のスタジオ収録(引用注:放送は4月23日)が行なわれました。家族の歴史を本人に代わって取材するという趣旨の番組ですが、もし若い頃に話をもらっていたら辞退していたかもしれない。でも不思議なもので、自分も高齢になってくると、亡くなった親に先祖のことをもっと聞いておけばよかったという気持ちが芽生えてくるものです。そこで、知るのが怖いという気持ちもありつつ、思い切って出てみることにしました。

物語は父方の曾祖父・兼吉の代にさかのぼる。坂本家の明治41年の戸籍を見ると、福岡県朝倉郡甘木町、現在の朝倉市に居たことがわかる。朝倉はかつて秋月城があった城下町で、筑前の小京都ともいわれている。

地元の朝倉市中央図書館で、兼吉が暮らしていた時代の地図を見せてもらう。大正5年の坂本家があった場所には、「料理坂本」と書かれていた。

取材班は、「料理坂本」があった場所を訪ねる。

その家に住む女性に話を聞くことができた。女性の年齢は101歳で、結婚してこの家に住み始めた。料理坂本については知らないが、以前は病院であったといい、今では築百年以上経つという。二階の広間は、料理坂本では宴会場に使われていたと思われる。

さらに、料理坂本を知る人が見つかった。95歳のその女性はこの町で生まれ育った。料理坂本は日本料理店で、昭和のはじめごろまで繁盛していたという。

取材を進めると、当時の資料が保管されていることがわかった。町の歴史を記録した古いカセットテープで、昭和50年に地元の新聞社が取材を行った、町の長老が語った、明治から昭和初期のできごとが72本のテープに収められている。

取材班がテープを丹念に聞き取ると、わずかながら料理坂本を語った箇所があった。

「坂本兼吉という料理屋をしております。屋号は『坂本』というんです。この人は旧三奈木村の英彦山道の坂の下から出た人です」。

「坂の下」は、甘木からクルマで三十分のところにある。山の上に続く、長さ二百メートルほどの細い坂道の、その両脇に五軒ほどの家がある小さな集落。二軒の家には「坂本」の表札がかかっていた。が、どちらも留守のようだ。クルマで通りかかったこの地の女性に話を聞いたところ、表札の家の人はもう亡くなっているという。

農作業をしていた別の人に話を聞くことができた。「一番上の坂本さんの弟は、甘木で焼き鳥屋さんをしている」という。

取材陣は甘木に戻り、坂の下出身である、坂本姓の焼き鳥屋の店主に話を聞くことができた。

坂本龍一と縁戚と思われるこの坂本家には、家系図が伝わっていた。残念ながらそこに兼吉の名は記されていなかったが、坂本の名の由来を聞くことができた。「山の上に峠があって、下が坂の山の麓だから、坂のふもと=坂本」から坂本の名になったという。

また家系図には、坂本家はかつて三奈木黒田家に仕える銃手、すなわち足軽だったと書かれていた。

兼吉の坂本家も足軽だったのか。九州大学に残されている、三奈木黒田家の記録を見せてもらう。そこには、主家である三奈木黒田家に付属している、銃手(足軽)の数と戸数の明細が書きあげられていた。

そして「武七の倅の武七 兼吉 八歳」とあった。兼吉の父・武七も足軽だったことが記録されていた。

なぜ坂の下に足軽がいたのか。郷土史家によると、英彦山街道は国境にあたり、他藩から国を守るため足軽が配置されたという。坂の下は福岡藩と隣の藩との境に位置していた。今から三百五十年ほど前、他藩からの侵入者を防ぐため、数人の足軽を家族とともに住まわせていた。そのなかに坂本龍一の先祖がいた。

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』  

ぼくが昔から抱いていた「先祖は落武者ではないか」という予感は、ある意味では当たっていたのですね。資料の裏付けが取れず、番組内では紹介されなかったものの、兼吉からさらに遡った祖先はもともと隠れキリシタンで、異教徒に寛容であった黒田家にその昔、拾われたという話もあるらしい。

江戸時代、現在の福岡県朝倉市坂の下で足軽として三奈木黒田家に仕えていた坂本家は、明治に入ると、苦しい生活を強いられる。前出の郷土史家は、「足軽たちは新しい時代になると、もらっていた4俵(の米)がもらえなくなり、生活できなくなった。当時非常に華やかな甘木町に出て行ったのではないか」と言う。

明治の中頃、龍一の曾祖父兼吉は、朝倉市甘木に移住し、料理坂本をはじめる。当時甘木は福岡と大分を結ぶ交通の要衝で、商業の町としてにぎわい、料理屋はすぐに繁盛する。

当時神社の境内では、素人相撲やプロの力士を招いての興業が行われていて、兼吉はその世話人になるなど、地元の有力者となった。みなから「親分」と慕われ、今も神社の鳥居には寄進者として、あるいは神社内の相撲施設の番付表にも、兼吉の名が今も残っている。

町の長老のカセットテープには、もうひとつの情報が残されていた。
「坂本兼吉、この人は親分でした。親分にもいろいろありますけれど」

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

番組内ではさすがに直接的な表現はされなかったものの、ひょっとしてやくざ者として有名だったのかな、とも思います。

そして明治35年、兼吉の長男として生まれたのが昇太郎。のちの龍一の祖父である。

昇太郎は興業をとりしきる父の影響もあり、芸事が好きな少年に育った。甘木は江戸時代から、「盆にわか」と呼ばれる素人歌舞伎が盛んな地である。芸達者で顔立ちが整った昇太郎は、アイドル的な存在となった。

素人名人演芸人気投票では、歌舞伎部門で特一等を獲得。投票数で二位に大差をつけた。芸達者の昇太郎は演技指導する立場ともなった。

22歳になった昇太郎は、料理坂本で働いていた女性タカと結婚。二人の間に生まれたのが長男の一亀で、龍一の父である。

昭和6年、甘木町に有力者たちが出資した「甘木劇場」ができ、その経営主として、29歳の昇太郎が抜擢された。朝倉市中央図書館にある資料には、甘木劇場の写真と、昇太郎の名が記されている。

しかし2年後の昭和8年、甘木劇場でおこった喧嘩がもとで、従業員が殺されてしまう。甘木歴史資料館提供の両築新報の記事には、喜劇開幕中、劇場の入り口で始まったケンカに窓口の男性が巻き込まれ、刃渡り四寸の刃物で刺されたとある。

昇太郎はその責任をとり、劇場の経営から身を引くことになる。その後、福岡の生命保険会社に就職。家族と離れての単身赴任となった。仕事は外回りの営業。それから数ヶ月後、ある女性と関係ができ、共に暮らすようになった。甘木には、妻タカと、一亀を含む四男二女が残されることとなった。

まじめな性格な長男一亀は、弟たちを厳しく躾けるようになる。

昇太郎の三男・昇は兄について語る。

「僕らから言うと怖かったですね、兄は。やっぱり非常に厳しかったですよ、筋が通ってないことをしたら、やっぱり怒る。父のことも多少(影響が)あったと思いますよ。やっぱり特別な家庭環境ですよね。そういうことは多少あったと思いますよ。兄貴の言動には」

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

祖父・昇太郎は福岡の生命保険会社に就職し、サラリーマンとして単身赴任の生活をすることになりました。外回りの営業だったそうです。しかしわずか数ヶ月後に、赳衽先で別の女性ができ、そのことを残酷にも妻であるぼくの祖母に告げた。そして彼女は、残された6人の子供を女手ひとつで育てることになりました。こんなひどい昇太郎の姿を見ているから、きょうだいたちはみんな真面目で、特にうちの父親は長男として責任を背負って頑張っていたようです。後年、ぼくがチャラチャラした生活を送っているのを知ると、父親は「俺たちは堅気でやってきたのに、お前がこうなるとは……」と、ガックリ肩を落としていました。まあ、祖父の遊び好きが隔世遺伝してしまったんですね。血は争えない。

昭和10年、一亀は旧制朝倉中学に入学する。軍国化が進む時代で、中学でも盛んに軍事教練が行われていた。中学2年のときに書いた一亀が書いた作文が見つかった。タイトルは「我が理想」

「今日の日本は非常時に直面している。今後の日本は孤立無援、世界を相手に戦わねばならぬ」

昭和15年、日本大学文学部にする。

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

坂本一亀は、1921年12月8日、福岡県甘木市で生まれ育った。6人弟妹の長男であった。中学時代は「カメさん」と呼ばれて、信望の厚い名級長だった。水泳部の主将で、走ったり泳いだりするのが得意だった。明るく、ひょうきんで、周囲を笑わせていたという。中学を卒業すると上京し、日大の国文科に入学する。実は旧制高校の受験に失敗し、級長としては友大たちに顔向け出来なくなり、東京に飛び出したらしい。

その翌年、太平洋戦争が勃発。戦局が悪化すると一亀はいわゆる学徒出陣で徴兵される。入隊したのは佐賀の電信第二連隊で、戦地に向け情報を送った。毎日幾度となく上官からビンタをくらい、ときには頭を割られるほど強く殴られた。昭年、ソ連との国境付近の旧満州東安に配属され、マイナス30度にもなる極寒の地で、指が凍傷になりながらモールス信号を送り続けた。

昭和20年4月、満州から福岡県筑紫野にあった通信基地に移動となり、4ヵ月後、終戦を迎えた。一方、東安に残された多くの仲間たちは、シベリアに送られ強制労働を強いられた。戦友がいまだ極寒の地で苦しんでいる。当時の心情を綴った日記が残されている。

一亀の弟・昇。「(戦後)帰ってきましてね。とにかく家に籠もりっきりでしたね。(向こうでどんなことをしたとかは?)何も話しませんね」。

何も手につかず、時間だけが過ぎていった。

半年後、周囲のすすめで近所にあった鋳物工場でようやく働きはじめた。数日後、同僚たちが安い給料に不満を抱いていると知る。一亀は、ひとりで社長に直談判した。「みんな給料が安いとブツブツ言っている。なんとかしなさいよ」。だが一蹴されてしまう。社長から詰問された従業員たちは口をつむんでしまい、人間不信に陥った一亀は即刻工場を辞めてしまった。

仕事を失った一亀が、しばらくしてはじめたことがあった。文学を好きな若い人を募り、同人誌を発行することだった。目標が見つかり、人が変わったように元気になった。町の書店に「朝倉文学 同人募集」なる大きな紙を張り出し、自身も戦争に疑問を抱く青年を主人公に小説を書いた。

ある日、甘木に療養に来ていた東京の出版社社員が、朝倉文学に目をとめる。そして一亀に東京の出版社で働くことを勧めた。昭和22年、25歳の一亀は上京。東京神田にある河出書房で小説の編集者として働きはじめる。文学に力を入れている出版社だった。一亀は小説の編集を担当する。

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

1946年9月、中学時代の友人とガリ版刷りの小さな同人誌を創刊するが、翌年1月、元河出晝房社員の紹介を得て上京し、河出書房に入社する。ときに25歳。しかし実はこの上京の裏には、人に言えぬ彼自身の秘めた失意があったらしい。それは実らなかった恋への断念である。彼は両親の猛反対にあい、その恋を諦めざるを得なかった。彼は親から勘当されても、と望んだが、それすらも叶わなかったのである。受験の失敗、敗戦の挫折と多くの仲間たちの戦死、実らなかった恋、と次々に襲った失意の感情が、感受性のつよい彼に影響を与えないはずはない。明るく闊達だった彼の内面に、複雑な屈折を生じさせたのだろう。彼は自分のプライバシイを極端に押し隠した人であるが、それはきわめてシャイであった彼の傷の深さを推測させるものである。

一亀が東京で勤め始めた2年後のある日、突然父の昇太郎から連絡が入った。「息子が東京の出版社で働いていると保険会社の上司に話したところ、その娘さんがおまえの担当した本を読みたがっている」と言う。一亀は椎名麟三の小説『永遠なる序章』を、その人のもとに届けた。

現れたのは、笑顔の可愛い女性だった。一亀と下村敬子の運命の出会いとなった。

 

坂本龍一ファミリーヒストリ拡大版(2/3)

後日アップ予定

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