喧嘩するねぷた ねぶた 第2回「江戸時代の喧嘩口論(1)」
青森県のねぷた・ねぶたは、1980年に国の重要無形民俗文化財に指定され、国内外でも有名になった。しかしそのルーツは明らかではない。もともとは旧暦7月7日七夕の習俗で、東北や関東ではネブタ流し、ネムタ流しなどと呼んで、川や海に笹飾り、ネムノキ、灯籠などを流し、夏季の睡魔を払う眠り流しと、災厄を払う人形流し、盆の精霊送りなどが集合したものだと考えられ、津軽では坂上田村麻呂や弘前藩藩祖津軽為信の伝説と結び付くなど、多様な要素を含んだ行事である。
現在、弘前市の行事を「ねぷた」、青森の行事を「ねぶた」と区別して呼ぶが、民俗調査に歩けば、同一地域内で両方の名称が混在しており、明確な判別は難しい。よって本連載では、各史料の表記や聞き取り調査で話者が語った呼称に従うとともに、習俗全体を示す場合にはネブタと表記する。
青森県域のネブタ行事が記録に現れるのは18世紀の享保年間以降である。当時すでに、行事の性格は二極化しており、旅行家菅江真澄が下北および津軽で目撃したような、村落の子供行事としての「ねぶたながし」と、弘前城下で灯籠を作って練り歩き、藩主も高覧するような風流を尽くす都市祭礼の二種類があった。近世の弘前城下のねぷたについては、弘前藩庁日記を分析した田澤正氏の研究が参考となる。享保13(1728)から慶応3年(1867)まで、毎年ねぷたの「喧嘩口論」が発生し、藩による禁令と取締りが繰り返された。
18世紀前期、弘前の「祢ふた」「祢ふた流し」は、子供が灯籠を持ち歩く行事であったようだが、灯籠が切り落とされたり、大勢集まって礫を打ち、木刀、棒、鳶口での打ち合いや口論が発生し、他町まで遠征していた。この騒動には子供、町人、藩士の二男三男、召使いも交じり、刀で手首を切り落とされた者までいた。そのため藩は、ねぷたは町内や屋敷内のみで行えとし、違反者については、藩士は主人、町人は名主まで詮議して、処罰することもあったようだ。
この時代の弘前ねぷたを記録したのが「奥民図彙(おうみんずい)」である。著者比良野貞彦は江戸詰の弘前藩士で、八代藩主津軽信明に随行して天明8年(1788)津軽領に入り、一年間にわたって民衆生活を記録した。現在確認されている最古のねぷた絵画資料である。
絵では、現在のねぷたとは異なる長方形の灯籠が市街を練り歩いている。灯籠には、ねぷたのルーツである七夕に関わる「七夕祭」「二星祭」「織姫祭」の字だけではなく「禁喧嘩」「石投無用」という字が見える。この文言は近現代の弘前ねぷたにも受け継がれてきたものである。
(青森県立郷土館 小山隆秀)
出典=毎日新聞青森版 平成23年6月23日(毎日新聞社許諾済み)
0 件のコメント:
コメントを投稿