2024年7月29日月曜日

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ねむたが語源?


●ねぶたの歴史   今度は、ねぶたの歴史について見ていきたいと思います。   ねぶたの起源については諸説ありますが、伝承の域を出ないものも多く、どれが正しいという議論はむしろ無意味なものといえます。もっと言えば、様々な要素が絡み合って、今のねぶた祭の形に発展してきたのであって、沢山ある起源の伝承は全て正しいというべきかもしれません。ここでは、現在に伝わる起源伝説の主なものを列記してみます。   数ある起源説の中でも、もっとも豪快で愉快なものは、坂上田村麻呂にまつわる伝説です。征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に、敵をおびき出す作戦で大灯籠を造ったというもの。これを後に敵である蝦夷がまねて、ねぶた祭をするようになったといいます。寛文2年(1662)に書かれた『東日流由来記』に記されていますが、史実というより伝承として捉えられているようです。しかし、親しみやすい名前が出てくるためでしょうか。以前はこの伝承はパンフレットには必ず記され、ねぶたの評価の最高賞も田村麿賞と呼ばれていました。今のねぶた大賞です。   津軽藩祖・津軽為信の大燈籠の故事を起源とする説もあります。寛政5年(1793)に編纂された『津軽偏覧日記』に書かれているもので、藩祖・為信が文禄2年(1593)、京都にいたとき、大燈籠を造ったというのです。この年の盂蘭盆会に、せっかく京にいるのだから田舎者の趣向を凝らした燈籠を造って都の人に見物させようと、家臣からアイディアを募ったものの、結局あまり奇抜なものを出すよりは、と2間四方と巨大ではあるものの通常の形の燈籠を出した。代々この燈籠を出したので「津軽の大燈籠」として遠国まで知れ渡ったが、享保年間に経費がかかるため廃止したというもの。これも、かなり時代が下ってから記録されているので、史実と見るかどうかは怪しい部分がありますが、実際巨大な燈籠が、京屋敷に飾られたことはあったかもしれません。しかし、これがねぶたの起源という記述はないので、やはり伝承の域を出ないといえるでしょう。   民俗学的な起源論からいうと、「ねぶた祭」という名称ができる前は「七夕祭」であったということがよく知られています。文献に「ねぶた(ねむた)」という言葉が登場するのは、青森より弘前が先になるのですが、『御国日記』享保7年(1722)7月6日の条に、津軽藩主・信寿が「ねむた流し」を見学したことが記されています。しかし、その後、享保11年(1726)7月の記述では、信寿が見たのは「七夕祭」とされており、宝暦6年(1756)7月6日にも、信寧が「七夕祭」を見た、と記されていることから、「ねむた流し」と「七夕祭」は同じものとして認識されていたものと思われます。  「ねむた流し」という名称から考えると、柳田國男が『年中行事覚書』の中の「眠流し考」で書いているように、「眠り流し」との関係も避けて通るわけにいきません。眠り流しは、暑さが厳しく、農作業の激しい夏季に、睡魔を追い払うために行う行事で、7回水浴びして7回飯を食うしきたりですが、七夕行事の一つと混同されていることも少なくありません。その場合は、藁で作った舟形や、燈籠、人形、飾り竹などを、「ねむた流れろ、豆の葉はとまれ」などと唱えながら川や海に流す行事を指します。   青森のねぶたに関する最初の記録は、江戸末期、天保13年(1842)の『柿崎日記』に書かれた「七月、妄武多なし…当年七夕祭は子供ばかりにて、町内よりねぶた一切不出」という記述です。このことから、江戸末期には青森でも町内単位で大人がねぶたを造り、この年は凶作で出せなかったものの、毎年運行していたことがわかります。また、弘前と同じように「七夕祭」とも呼ばれ、子供たちも参加していたと窺うことができます。   青森の「七夕祭」でも、ねぶたを中心に町を練り歩くとき、「ねぶた流れろ、豆の葉は留まれ」などと囃しながら踊り子衆がついて踊り、祭の最終日にはねぶたは川に流され、それを「ねぶた流し」と呼んだといいます。「七夕祭」が「眠り流し」の一つであったことは、間違いないようです。   では、江戸末期以降のねぶたはどのように変化してきたのでしょうか。   江戸末期から幕末にかけての資料には、ねぶた禁止令が出ていたのにねぶたを出し、処罰されたという記事が頻出します。また、大政奉還のあった慶応3年(1867)には、ねぶた・盆についての訓令が出て、①喧嘩口論をしないように ②ねぶたの形態は、大振りのものや手の込んだ細工は禁止。1人持ちのねぶた以外は出さないように ③金銭を徴収することのないように、といっています。他に、合同運行が行われていたらしき記述も見られますので、この時期ねぶたは既に都市の祭となって盛んに行われ、禁止令が出てもやめられないほど根付いており、しかも大型で手の込んだものが出されて、多額の費用がかけられていたと窺うことができます。   明治時代に入ると、明治2年(1869)に、高さ約20メートルものねぶたが出されたと記録に残っています。幕末の不安定な情勢から解放されて、ねぶたへの情熱が一気に噴出したのかもしれません。しかし、明治6年(1873)には、文明開化の影響で旧来の風習は全て悪習と決めつけられ、ねぶた禁止令が出されます。禁令は明治15年(1882)に解かれますが、今度は大きさが制限されるようになりました。ねぶたの運行は、1台ごと許可制になり、大きさも、高さ約5・5メートル、幅・奥行きが約4メートルに制限されます。ただし高さ3メートル以下の小さなねぶたに許可は必要ありませんでした。この取締規則は、青森市が誕生した明治31年(1898)に改正され、高さは土台から約2・8メートル以下、4人以下で担ぐものとされますが、これは、ねぶたが大型になると、運行の邪魔になる電線を上げようとして、電線を切断するなどのトラブルが多発したためと見られます。ねぶたはますます盛んになりますが、電線などのため、大きさはむしろ小型化していったのがこの頃の動きのようです。   大正初期は、まだ旧暦7月の運行ですが、合同運行が始まります。この頃は、力自慢の若者が担ぐ、1人担ぎのねぶたが人気でした。最終日の旧暦7月7日には、「ねぶた流し」と呼ばれる行事もまだ行われていたようですが、実際ねぶたを川に流したのかどうかははっきりしません。その後、ねぶたは景気に左右されて、人出が多くなったり少なくなったりしながら続いていきますが、特に最終日の旧暦7月6、7日の盛り上がりは高まっていったようです。大正末期にはねぶたの形態も、高欄の上に人形が付き、高さ2~3メートル、幅約2メートルのものが定番となり、ねぶた造りの名人と呼ばれる人も現れ始めました。昭和初期には、一般の人も、ねぶたの造作の細部まで気を配るようになっていきます。賑わいも、年によって異なるようですが、昭和11年(1936)には50を超える「官許」のねぶたが出そろったという記録があり、かなり賑わっていたことは間違いありません。しかし、ねぶたがまともに行われたのはこの年までで、翌年から戦時下のねぶたは中止されることになります。ただし、一度だけ、昭和19年(1944)に、「銃後の士気を高揚し決戦生活の明朗化をはかるため」とされて18台のねぶたが運行されました。翌20年(1945)7月27日、青森市は空襲により、壊滅的被害を受けます。   戦後、ねぶたは昭和21年(1946)には復活されました。この年は、戦災を免れた旭町や油川での運行でしたが、翌22年(1947)には「戦災復興港祭り」が8月20日から3日間開催され、ねぶた約30台が運行されています。昭和23年(1948)には、青森市制施行50周年記念「港祭り」として、規模を拡大して旧暦7月1日~7日に当たる8月5日~11日に、ねぶた運行を含む多様な催しが行われました。「青森港祭り」は、昭和32年(1957)まで続いていきます。当初は、旧暦7月3日~7日の5日間がねぶた運行に当てられていましたが、昭和30年(1955)からは、日程が新暦の8月3~7日になりました。   この頃のねぶたは、高さ4・5~6・4メートル(2間半~3間半)、長さも5・5~7・3メートル(3~4間)と大きいもので、ねぶたの中にバッテリーを積むようになり、担げなくなったので、リヤカーや大八車に載せられ、やがては2輪の台車も登場してきます。昭和30年(1955)に、新町通りにアーチ形ネオンが取り付けられると、高さは5・7メートルを超えることができなくなりましたが、運行が道幅の広い国道や新町通りに限られるようになったことで、幅は広くなっていきます。 

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