2024年7月31日水曜日

日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究 | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」

日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究 | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」

日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究

内城喜貴 / 科学ジャーナリスト、共同通信客員論説委員

 「日本人の祖先はどこからやってきたのか」。このロマンに満ちた問いに対しては、祖先は縄文人と大陸から渡来した弥生人が混血したとする「二重構造モデル」が長くほぼ定説となっていた。そこに日本人のゲノム(全遺伝情報)を解析する技術を駆使した研究が盛んになり、最近の、また近年の研究がその説を修正しつつある。

 日本人3000人以上のゲノムを解析した結果、日本人の祖先は3つの系統に分けられる可能性が高いことが分かったと理化学研究所(理研)などの研究グループが4月に発表した。この研究とは別に金沢大学などの研究グループは遺跡から出土した人骨のゲノム解析から「現代日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つ」と発表し、「三重構造モデル」を提唱している。

 理研グループの「3つの祖先系統」説は「三重構造モデル」と見方が重なり、従来の「二重構造モデル」の修正を迫るものだ。日本人の祖先を探究する進化人類学はDNA解析、ゲノム解析の技術という有力手段を手にして、大陸からさまざまな人々が渡来して現代の日本人につながった複雑な過程が見えてきた。今後さらに詳しい私たちのルーツが明らかになっていくだろう。それは「私たちの本質は何か」という壮大な探究テーマの回答を知ることにつながる。

大規模な日本人のゲノム解析により日本人集団の遺伝的構造を明らかにする研究の概念図(理研などの研究グループ提供)
大規模な日本人のゲノム解析により日本人集団の遺伝的構造を明らかにする研究の概念図(理研などの研究グループ提供)

祖先は「縄文系」「関西系」「東北系」の3つに

 母から子へ受け継がれるミトコンドリアにはわずかながらDNAが含まれ(ミトコンドリアDNA)、これを解析することにより、母系の血縁の有無が分かって遺伝的なルーツを調べることができる。細胞核に存在する核DNAは両親から半分ずつ子に伝えられる。このため、その配列や突然変異の規模などを解析することで人類の混血、交流や移動を調べることができる。

 「3つの祖先系統」説を発表したのは、理研生命医科学研究センターゲノム解析応用研究チームの寺尾知可史チームリーダー、劉暁渓上級研究員や東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センターの松田浩一特任教授ら。寺尾氏は静岡県立総合病院の免疫研究部長や静岡県立大学薬学部特任教授を兼任し、同総合病院や同大学も研究に参画した。

 寺尾氏らの研究グループは、多くの人の血液や遺伝情報を集めて保存している組織「バイオバンク・ジャパン」を活用。北海道、東北、関東、中部、関西、九州、沖縄の7地域の医療機関に登録された日本人3256人分のDNAの全配列を詳細に分析してゲノムの特徴を明らかにする膨大な作業を続けた。

 その結果、日本人の祖先は主に、沖縄県に多い「縄文系」、関西に多い「関西系」、そして東北に多い「東北系」の3つに分けられることが分かった。さらに調べると縄文系の遺伝情報の割合(祖先比率)は沖縄県が一番高く28.5%、次いで東北で18.9%、関西では最も低く13.4%だった。

「二重構造モデル」に疑問提示

 この祖先比率は縄文人と沖縄の人々の間に高い遺伝的親和性があるとの以前の研究とも一致し、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。また、東北系も縄文人との遺伝的親和性が高く、沖縄県・宮古島の古代日本人や韓国三国時代(4~5世紀)ごろの古代韓国人に近かったという。

 こうした研究成果は、縄文時代の狩猟採集民族である縄文人と弥生時代に大陸の北東アジアから渡来した稲作移民の弥生人の混血により現代の日本人が形成されたとする「二重構造モデル」に疑問を投げかける内容という。

 現代人の祖先はネアンデルタール人やデニソワ人と交雑したとされている。一連のゲノム解析では、現代の日本人にネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだとみられるDNA配列も見つかっている。

 デニソワ人から受け継いだ配列には興味深いことに2型糖尿病に関連するものも含まれていたという。DNAの解析は「病気感受性」をも明らかにして個別化医療に道を開くと期待されている。さらに詳しい分析が待たれる。研究論文は4月17日付の米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。

ゲノム解析による7地域の日本人集団は3つの集団に分けることを示す図。日本人の祖先が沖縄系(K1)、東北系(K2)、関西系(K3)の「3つの祖先系統」に分かれることを示す。(地域ごとの縄文系の祖先比率を示すグラフではない)(理研などの研究グループ提供)
ゲノム解析による7地域の日本人集団は3つの集団に分けることを示す図。日本人の祖先が沖縄系(K1)、東北系(K2)、関西系(K3)の「3つの祖先系統」に分かれることを示す。(地域ごとの縄文系の祖先比率を示すグラフではない)(理研などの研究グループ提供)
寺尾知可史氏(左)と劉暁渓氏(理研などの研究グループ提供)
寺尾知可史氏(左)と劉暁渓氏(理研などの研究グループ提供)

人骨のゲノム解析から「三重構造モデル」提唱

 理研などの研究グループの発表に先立つ2021年9月。金沢大学などの共同研究グループは、縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノム解析した結果、現代の日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つことが分かったと、同じくサイエンス・アドバンシズに発表している。

 この共同研究グループには当時の金沢大学人間社会研究域附属古代文明・文化資源学研究センターの覚張隆史助教や中込滋樹客員研究員のほか、アイルランドのダブリン大学のダニエル・ブラッドレイ教授や鳥取大学の岡崎健治助教、岡山理科大学の富岡直人教授、富山県埋蔵文化財センターの河西健二所長ら多くの研究者が参加した。

 覚張氏らは、縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡(愛媛県久万高原町)、縄文時代前期の小竹貝塚(富山市)、船倉貝塚(岡山県倉敷市)、縄文時代後期の古作貝塚(千葉県船橋市)、平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期の岩出横穴墓(金沢市)の 6 遺跡で出土した人骨から計12人分のゲノムを取得し解析した。そして既に報告されている国内の他の遺跡や大陸の遺跡の人骨ゲノムと比較した。

 その結果、縄文人の祖先集団は、2万~1万5000年前に大陸の集団(基層集団)から分かれて渡来して1000人ほどの小集団を形成していたことが分かった。そして弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、また古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ渡来してその度に混血があったと推定できたという。

 この研究成果は、大陸の集団から分かれた縄文人が暮らしている日本に古墳時代までに2段階にわたって大陸から遺伝的に異なる集団が流入したことを示唆しているという。そして研究グループは、従来の「二重構造モデル」に対して、新たに「三重構造モデル」を提唱した。

ゲノム解析に使われた試料の人骨が出土した遺跡の場所。○は新たな人骨ゲノムデータが得られた遺跡(金沢大学などの研究グループ提供)
ゲノム解析に使われた試料の人骨が出土した遺跡の場所。○は新たな人骨ゲノムデータが得られた遺跡(金沢大学などの研究グループ提供)
縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷を示すグラフ。本州での現代日本人集団は古墳時代に形成された3つの祖先から成る三重構造を維持している(金沢大学などの研究グループ提供)
縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷を示すグラフ。本州での現代日本人集団は古墳時代に形成された3つの祖先から成る三重構造を維持している(金沢大学などの研究グループ提供)

ゲノム解析と進化人類学の融合の賜物

 金沢大学などの研究グループによる研究は、日本人の祖先を巡る見方に科学的根拠をもって新たな説を提示する画期的な成果だった。ただ、古人骨のゲノムのサンプル数は制限されており、より多くの解析が必要と考えられていた。理研などの研究は大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいてこの三重構造モデルを裏付けた形だ。

 これらの研究のほか、東京大学大学院理学系研究科の大橋順教授と渡部裕介特任助教らの研究グループは現代日本人のゲノムの中から縄文人に由来する遺伝的変異を検出する独自の手法を開発。都府県別にどの程度縄文人を受け継いでいるかという「縄文人度合」を推定し、その研究成果を2023年2月に発表している。

 その度合には地域差があり、東北の青森、秋田、岩手、宮城、福島の各県や関東の茨城、群馬の両県、鹿児島県や島根県などは度合いが高く、近畿や四国の各県では低かった。「度合い地図」では縄文人度合いが飛び抜けて高いことが確実に予想された沖縄県と分析に重要なアイヌ人のデータが得られなかった北海道は除かれている。

 また、縄文人は渡来人と比べて遺伝的に身長が低いことや血糖値が高くなりやすく中性脂肪が増えやすい傾向も分かったという。縄文人は農耕を営んでいた渡来人より炭水化物への依存度が低く、血糖値などを高く維持することで狩猟生活に適応していた可能性があるという。興味深い見方だ。

 現代日本人のベースになっているのは弥生時代以降の渡来人であることは分かっていたが、東アジアの中で日本人を特徴付けるのは縄文人から受け継いだ遺伝的要素で、東京大学のこの研究は現代人の成り立ちは地域によってかなり異なることを示している。

都府県別「縄文人度合」。色が濃いほど度合いが高いことを示す(東京大学の研究グループ提供)
都府県別「縄文人度合」。色が濃いほど度合いが高いことを示す(東京大学の研究グループ提供)

祖先集団の移動や複雑な混血の実相明らかに

 今春発表された理研の研究成果も、それに先立つ金沢大学や東京大学の研究成果も、DNA、ゲノム解析の技術が進化人類学と融合した賜物(たまもの)と言える。日本人のルーツだけでなく、人類のさまざまな集団が持つ遺伝的変異の系統が明らかになって人類がどのように世界中に広まっていったかが分かってきた。

 人類進化の研究に新たな視点を提供したデニソワ人の名を命名したのは、2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞したドイツ・マックスプランク進化人類学研究所のスバンテ・ペーボ教授だ。教授は約4万年前に絶滅したネアンデルタール人の骨片のゲノム解析を行ってゲノム配列を2010年に発表。欧州やアジアに住む現代人のゲノムの1~4%がネアンデルタール人に由来し、ネアンデルタール人が現生人類と交雑していた証拠を示した。

 ペーボ教授はまた、2008年にロシア・シベリアのデニソワ洞窟から出土した骨片の核DNAの全配列を決定してデニソワ人と命名。世界各地の現生人類の核DNA配列と比較して東南アジアの集団では全DNAの4~6%がデニソワ人から受け継いでいることも突き止めている。進化人類学を大きく前進させた業績がノーベル賞受賞につながった。

 日本の進化人類学や分子人類学研究の第一人者である国立科学博物館館長の篠田謙一さんによると、1981年に人間のミトコンドリアDNAの全配列が解読された。その後DNAを増幅する技術「PCR法」ができるなどして20年が経過し、2001年に人間一人分の核DNAの全塩基配列が明らかになった。「次世代シーケンサー」と呼ばれる装置の登場で核DNAの解析を短時間で大量にできるようになり、2010年以降、進化人類学は新しい段階に入ったという。

現生人類のホモ・サピエンスがネアンデルタール人やデニソワ人と交雑してそれぞれの遺伝子の一部を引き継いでいることを示すイメージ図(ノーベル財団提供)
現生人類のホモ・サピエンスがネアンデルタール人やデニソワ人と交雑してそれぞれの遺伝子の一部を引き継いでいることを示すイメージ図(ノーベル財団提供)
ペーボ氏(沖縄科学技術大学院大学提供)
ペーボ氏(沖縄科学技術大学院大学提供)

時空を超えて人類、日本人の本質に迫る

 篠田さんは日本人の成り立ちを探るために2018~22年に実施された「ヤポネシアゲノムプロジェクト」に主要メンバーとして参画し、日本人成立のシナリオを明らかにする数多くの研究成果を残している。ヤポネシアとはラテン語を組み合わせた造語で日本列島を表す。

 今年1月に開かれた日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)主催の講演会(月例会)で篠原さんは「このプロジェクトで現代日本人につながるプロセスは弥生時代で止まっておらず古墳時代まで延びることが分かった」「縄文人のゲノムは全て読めているが本州の日本人では(平均)10%が縄文人の遺伝子で90%は弥生時代以降入ってきた遺伝子だ」などと説明した。

 さらに「弥生時代にはたくさんの遺伝的変異を持った人たちがこの日本列島で暮らしていた。弥生人と言うが誰か1人をもって弥生人の代表とは言えない」と指摘。「日本人はどこから来たのかとよく言う。私も『我々はどこから来たのか』と自分の本のタイトルに書いたが、アフリカから来たことは分かっているので『日本人の成り立ち』と考える方がいい」と述べた。

 さまざまな年代や地域で得られた試料のDNAを比較することが可能になり、出土された骨の形状の違いだけでは判別できなかった私たちの祖先の集団の移動や複雑な混血の経緯が分かってきた。日本人の成り立ちが、そして日本人のルーツは多様であることがはっきりしてきた。

 「古代の人々のゲノムを調べることで当時の社会を知ることができるようになった。このことがこの10年のゲノム研究の進歩だ。こうした科学の進歩により社会とか人間とかを深く知ることができる」。篠田さんはこう強調している。

 DNA解析、ゲノム解析は明らかに考古学や人類学を大きく変えた。約31億塩基対の「遺伝情報文字」が詰め込まれている細胞核のゲノム。それを読み解く現代の技術は時空を超えて人類や日本人の本質に迫っている。

日本人の成り立ちなどについて語る篠田謙一氏(筆者撮影)
日本人の成り立ちなどについて語る篠田謙一氏(筆者撮影)

2024年7月30日火曜日

高安城 - Wikipedia

高安城 - Wikipedia

高安城

高安城(たかやすじょう/たかやすのき)は、奈良県生駒郡平群町大阪府八尾市にまたがる、高安山[1]の山頂部にあったとされる日本古代山城

目次

概要

日本書紀』に、「大和国高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城対馬国金田城を築く」と、記載されたである[注 1]

白村江の戦い新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、(日本)の防衛のため、対馬畿内に至る要所に様々な防御施設を築いている。古代山城の高安城は、667年天智天皇6年)、金田城・屋嶋城とともに築かれた[2][3]。また、高安城は、国土の領域を守る最前線の金田城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、政権基盤の宮都を守る重要なポイントであった[4]

高安城が築かれた標高487メートルの高安山は、奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部に位置する。山の南の大阪湾に注ぐ大和川は、奈良盆地を遡り、支流の飛鳥川は宮都の飛鳥京に至る[1]

山頂周辺は、大阪平野側の西斜面は急峻で、東斜面は標高400メートルほどの多数の尾根が谷を抱える地形である[1]。また、山頂部の眺望は良好で、大阪平野・明石海峡ほかの大阪湾と、飛鳥京ほかの奈良盆地が視野に入る。

高安城は、史書にその名がみえるものの、明確な遺構・遺物は未発見である。1978年(昭和53年)、「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見し、一躍注目される存在となる。発見された礎石建物跡6棟のうちの、2号と3号の礎石建物の発掘調査は、8世紀前期の建物と推定される。その後も、大阪府や奈良県が推定地内で発掘調査を実施しているが、明確な遺構は確認されていない。また、高安城の外周城壁ラインの推定範囲を最初に提示した関野貞の他、城の範囲に諸学説があり、古代山城の高安城の具体像は、まだ解明されていない[5]

2007年、神籠石を有する自治体が光市石城山神籠石)に参集し、「第一回 神籠石サミット」が開催された。「第4回 神籠石サミット」が開催された後、他の古代山城を有する自治体が加わり、2010年より「古代山城サミット」へと展開されている[6]

山頂の西側の大阪管区気象台 高安山気象レーダー観測所は、四国中国紀伊半島など、半径約300キロメートルの気象を観測する。

関連の歴史

『日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

『日本書紀』と『続日本紀』に記載された、高安城の関連記事は下記の通り。

  • 天智天皇8年(669年)8月:天皇 高安嶺に登り、城の修理を試みるが、人民の疲労を思いやり中止す。
  • 天智天皇9年(670年)2月:高安城を修理し、穀と塩を積み入れる。
  • 天武天皇元年(672年)7月:壬申の乱の際、高安城の近江朝廷軍は、大海人皇子軍の来襲により、税倉を焼き払って逃亡する。
  • 天武天皇4年(676年)2月:天皇 高安城に行幸す。
  • 持統天皇3年(689年)10月:天皇 高安城に行幸す。
  • 文武天皇2年(698年)8月:高安城を修理する。
  • 文武天皇3年(698年)9月:高安城を修理する。
  • 大宝元年(701年)8月:高安城を廃(と)め、その舎屋、雑の儲物を大和国河内国の二国に移し貯える。
  • 和銅5年(712年)正月:河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大和国の春日烽を置き、もって平城(なら)に通せしむ。
  • 和銅5年(712年)8月:天皇 高安城へ行幸す。

調査・研究

遺構に関する内容は、概要に記述の通り。

  • 1922年(大正11年)、関野貞三郷町を中心とする想定ラインを発表したが、考古学的調査は進まなかった[7]。また、1999年(平成11年)、高安山の西斜面の誤認遺構が新聞で報道され話題となった[8][9]
  • 河内国大和国の国境に位置する高安城は、倭国最後の防衛線と言われることが多い。しかし倭京の逃げ込み城ならば、飛鳥東方の細川山や多武峰の方がふさわしい。高安城の立地は畿内全体で捉えるべきで、両国から動員して築城する適地は高安山しかなかったといえる[9]
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[10]
  • 1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 2]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある高安城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 3]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[11]

脚注

注釈

  1. 『日本書紀』の天智天皇六年(667年)十一月の条に、「是月、築 倭(やまとの/大和)國高安城 讃吉國山田郡屋嶋城 対馬國金田城」と、記載する。
  2. 歴史学会・考古学会における大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一 「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』 第6巻、雄山閣出版、1987年)。
  3. 1995年(平成7年)の文化財保護法の史跡名勝天然記念物指定基準の改正にともない、「神籠石」は削除され、「城跡」が追加された。

出典

  1. ^ a b c 国土地理院基準点成果等閲覧サービスー国土地理院
  2. 鬼頭清明 著 『白村江 東アジアの動乱と日本』、教育社、1981年、150~180頁。
  3. 澁谷啓一 「屋島」『歴史考古学大辞典』、吉川弘文館、2007年、1167頁。
  4. 澁谷啓一 「白村江の戦いと屋嶋城」『屋島風土記』、屋島文化協会、2010年、75頁。
  5. 山田隆文 「高安城」『季刊 考古学』第136号(西日本の「天智期」山城)、雄山閣、2016年、43~45頁。
  6. 「古代山城サミットの歩み」『月刊 文化財』631号、第一法規、2016年、45頁。
  7. 向井一雄 「高安城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、356頁。
  8. 高安城 幻の城壁。讀賣新聞、1999年6月20日閲覧。
  9. ^ a b 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、60・158頁。
  10. 狩野久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』第21巻 月報21、岩波書店、2015年、3頁。
  11. 赤司善彦 「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財』631号、第一法規、2016年、10・13頁。

参考文献

  • 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10712-8
  • 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年。ISBN 978-4-642-08303-4
  • 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-05840-7
  • 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(特集 西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
  • 小島憲之 他 項注・訳 『日本書紀』、小学館、1998年。ISBN 4-09-658004-X
  • 青木和夫 他 項注 『続日本紀 新日本古典文学大系 12』、岩波書店、1989年。ISBN 4-00-240012-3

外部リンク

阿波の玄関を監視する高安城(西照神社) - awa-otoko’s blog

阿波の玄関を監視する高安城(西照神社) - awa-otoko's blog

阿波の玄関を監視する高安城(西照神社)

阿波と讃岐の間を走る阿讃山脈の峰のひとつ大滝山。

その大滝山に「西照神社」は鎮座しています。

 

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神社は尾根付近、山頂部が倭の高安城(たかやすのき)と推定されています。 
 

はい。Wikipediaではあまり詳しく触れられていませんね。とりあえず高安城奈良県にあったのが定説ですが阿波の高安城をどうぞ。

 

「阿波誌」に「岩倉山の西北に在り、坂道四千余歩、四顧涯際なし、北は讃岐を臨み、遥かに播(磨)備(前)を見る、寺あり即ち大瀧寺、半腹に窟あり、北に瀑布あり」とあり、四方展望が開け、南は吉野川流域を、真北は讃岐の屋島を見通すことができます。
天智六年に築かれた倭国の高安城は瀬戸内海からの進入に備えたもので、当時天智天皇大津宮が四国の阿波にあったからこそ屋島に城を築き、烽(とぶひ=狼煙)によって通信が容易にできるその奥の脇の峰(大滝山)に城を築いたものと考えられます。
そのことから「倭城(わき)」から脇町の名の興りがあった可能性が高く、その他、天智紀に高安城に塩や米を運び込むとあるのですが、大滝山の北麓には「塩江」の地名も残されています。

 

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どうも西照神社の由緒の内容を確認すると、さらに昔から瀬戸内海から淡路島周辺である阿波の玄関の監視に充てられていた場所のようです。

 

それではちょっと長いですが、めちゃめちゃディープなことを書いている「西照神社」の由緒をご覧下さい。

 

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大滝山阿讃国境に位し標高九四六米七尾七谷の源をなす嶺峰にして古代「大嶽山」と稱せられる。
由緒、古伝の存す所を案ずるに上代神世の昔、伊耶那岐尊、高御産巣日神の詔を以ちて、筑紫の日向の橘の小戸の阿波峡原に降り禊祓まして心身清浄なる身を以て山川草木各々の主管者を任命し終りに天照大神高天原へ。
祖国並に大八州国を統治し次に月読尊は夜の食国(筑柴の国即ち九州全域尚湯の出る国即ち四国の嶋)を統括し
東大和紀伊の動向を看視せよと委任し給ふ。
そこで月読尊は航海の神、田寸津姫命即ち宗像三神の部族を率いて伊豫から阿波の国に移り大嶽山の頂、展望のきく所に櫓を設け瀬戸内海難波及び大和の動向を監視せしめ、天津神の詔を体し九州四国を統括し、蒼生人の九厄十悪を祓ひ退け、夜毎に白露をふらし、五穀草木を潤し海上安全を守護されしと降って、平安朝の初期桓武天皇の御代僧空海二十四才の頃三教指針(神道儒教仏教)の一佛教を選び厳修体得せんと大嶽山に登り、北面の崖の中腹に山籠すること三年。教理に初光を見出し、続いて土佐の国室戸に至って三年余を経て都に赴く。
偶に遣唐使渡航舟団に加はるに及んで、大嶽山航海の神に安全を祈願して出稿す。
途中台風に遭ひ遣唐使の三隻は行衛不明になるも空海は遙か南方唐の赤岸鎮に漂着。
陸路都長安に至り、青竜寺恵果和尚に教を乞ふ。
和尚之を優遇し密教の奥義を伝授。
さる帰国に及んで大嶽山の三神に厚く感謝せし。後門弟をして別当寺を建て奉仕せしむ。
続いて本地垂迹の説を唱え布教に之努め社号に権現号を贈り、西照大権現と改稱し、神祇官に代わり祭祇を司り明治六年に至る。
中世稲田氏国守となるに及び崇敬社として山麓の九石八斗の村落を寄進し、諸役を定住させ奉仕せしむ。
明治六年、神仏習合分離の大政官布告に基き、社格郷社「西照神社」と旧に服し、神官をして祭祇することとなり今日に至る。

 

どうですか。真正面からドンズバで書いている由緒だと思います。

古の神であった月読命宗像三神の足取りを追って空海が大滝山に入ったのですね。

今回は由緒に書いてくれているので楽ちん、楽ちん。

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ちなみに取り壊した倭の高安城の資材は大倭(奈良県)に搬出して再利用されている可能性が高いです。
阿波産の青石が奈良県の高安城跡で見つかれば、今回の説の証拠のひとつにはなるんじゃないでしょうか。

西照神社の隣にある大滝寺のことを書いた過去記事です。よかったらどうぞ。

壬申の乱 大野の丘(得度山潅頂院 大野寺) - awa-otoko’s blog

壬申の乱 大野の丘(得度山潅頂院 大野寺) - awa-otoko's blog

壬申の乱 大野の丘(得度山潅頂院 大野寺)

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壬申の乱大海人皇子が祈願した寺、得度山潅頂院 大野寺阿波市市場町にあります。
 

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大野寺は天智天皇の建立とされる古刹。山号を得道山 潅頂院と号しているのは、天武天皇(当時は大海人皇子)が出家し「陛下の為に功徳(のりのこと)を修はむ」として仏門に入り、壬申の乱に及んで戦勝を祈願したことに因んで冠したもの。
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壬申の乱大友皇子軍の淡海の大津宮を阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津とし、大海人皇子軍の吉野宮を上流域北岸の三好郡三野町加茂宮として、天武天皇紀の戦闘記事を当てはめれば、本来の壬申の乱の舞台が掴めます。
天武天皇紀に記される地名を阿波吉野川北岸の地名に当てはめたもの】

⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津

⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)

⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮
このように阿波に残る地名で壬申の乱を考えると、吉野川下流域の鳴門市大津町と上流域三好郡三野町加茂野宮に挟まれた北岸で比定でき、そのうちの大野の丘がこの大野寺付近。
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大野寺の北側、国道192号線がまさに丘になるのです。

現在の大野寺は閑散としておりますが、天智天皇勅願にかかる郡内第一の古刹。
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ぜひ一度足を運び、天智天皇天武天皇の想いに触れてみてはいかがでしょうか。

倉本一宏 - Wikipedia

倉本一宏 - Wikipedia

倉本一宏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

倉本 一宏(くらもと かずひろ、1958年昭和33年)6月14日 - )は日本歴史学者博士論文博士・1997年)(学位論文「日本古代国家成立期の政権構造」)。専門は日本古代政治史、古記録学[1][2]国際日本文化研究センター(日文研)名誉教授、総合研究大学院大学(総研大)名誉教授。

略歴

三重県津市生まれ[2]1974年(昭和49年)、私立高田中学校卒業。1977年(昭和52年)、三重県立津高等学校卒業。1978年(昭和53年)、東京大学文科三類入学。土田直鎮笹山晴生に師事。1983年(昭和58年)、東京大学文学部国史学専修課程卒業[3]。1989年(平成元年)、同大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学[1][3]1997年(平成9年)「日本古代国家成立期の政権構造」で東京大学より博士(文学)の学位を取得。2009年国際日本文化研究センター教授、総合研究大学院大学教授[1]2024年定年退職、日文研・総研大名誉教授。

2024年大河ドラマ「光る君へ」の時代考証を務めている[1]

著作

単著

  • 『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館、1997年
  • 『奈良朝の政変劇 皇親たちの悲劇』吉川弘文館、1998年
  • 『摂関政治と王朝貴族』吉川弘文館、2000年
  • 『一条天皇』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年
  • 『戦争の日本史2 壬申の乱』吉川弘文館、2007年
  • 『歴史の旅 壬申の乱を歩く』吉川弘文館、2007年
  • 『平安貴族の夢分析』吉川弘文館、2008年
  • 『持統女帝と皇位継承』吉川弘文館、2009年
  • 『三条天皇』ミネルヴァ書房日本評伝選〉、2010年
  • 『藤原道長の日常生活』講談社現代新書、2013年
  • 『藤原道長の権力と欲望 「御堂関白記」を読む』文春新書、2013年
    • 『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』文春新書、2023年
  • 『藤原道長「御堂関白記」を読む』講談社選書メチエ、2013年/講談社学術文庫、2023年11月
  • 『紫式部と平安の都』吉川弘文館、2014年
  • 『平安朝 皇位継承の闇』角川学芸出版〈角川選書〉、2014年
  • 『「旅」の誕生 平安―江戸時代の紀行文学を読む』河出書房新社河出ブックス〉、2015年
  • 『蘇我氏 古代豪族の興亡』中央公論新社中公新書〉、2015年
  • 『藤原伊周・隆家 禍福は糾へる纏のごとし』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2017年
  • 『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』講談社現代新書、2017年
  • 『日本古代氏族研究叢書6 藤原氏の研究』雄山閣出版、2017年、新版2023年
  • 『藤原氏 権力中枢の一族』中公新書、2017年
  • 『『御堂関白記』の研究』思文閣出版、2018年
  • 『内戦の日本古代史 邪馬台国から武士の誕生まで』講談社現代新書、2018年
  • 『はじめての日本古代史』ちくまプリマー新書、2019年
  • 『公家源氏 王権を支えた名族』中公新書、2019年
  • 『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』KADOKAWA〈角川選書〉、2020年
  • 『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年
  • 『平氏 公家の盛衰、武家の興亡』中公新書、2022年
  • 『紫式部と藤原道長』講談社現代新書、2023年
  • 『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』NHK出版新書、2023年
  • 『平安貴族列伝』SYNCHRONOUS BOOKS・ワニブックス、2024年
  • 『平安貴族の心得 「御遺誡」でみる権力者たちの実像』朝日新書、2024年

共著・編著

共編著

  • 『日本古代の地域と交流』加藤謙吉佐藤信と共編 臨川書店、2016年
  • 『日本的時空観の形成』吉川真司と共編 思文閣出版、2017年
  • 『説話の形成と周縁 古代編』臨川書店、2019年。小峯和明・古橋信孝と共編
  • 『説話の形成と周縁 中近世編』臨川書店、2019年。小峯和明・古橋信孝と共編
  • 『『小右記』と王朝時代』吉川弘文館、2023年。加藤友康・小倉慈司と共編

翻訳

  • 『藤原道長「御堂関白記」 全現代語訳』 講談社学術文庫(全3巻)、2009年
  • 藤原行成権記」 全現代語訳』 講談社学術文庫(全3巻)、2011~2012年
  • 『現代語訳 小右記』吉川弘文館 (全16巻)、2015年~2023年
  • 源顕兼『古事談 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』角川ソフィア文庫、2020年
  • 藤原行成『権記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』角川ソフィア文庫、2021年
  • 藤原実資『小右記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』角川ソフィア文庫、2023年

データベース

  • 摂関期古記録データベース(2012年 - 24年)
本康親王『八条式部卿私記』、宇多天皇『宇多天皇御記』、醍醐天皇『醍醐天皇御記』、藤原忠平『貞信公記』、藤原実頼『清慎公記』、重明親王『吏部王記』、『御産部類記』(編者不明)、藤原穏子『太后御記』、藤原師輔『九暦』、藤原師尹『小一条左大臣記』、村上天皇『村上天皇御記』、沙門仲増『沙門仲増記』、藤原元方『元方卿記』、源延光『延光記』、藤原兼通『忠義公記』、平親信『親信卿記』、藤原済時『済時記』、藤原宣孝『藤原宣孝記』、『小記目録』(編者不明)、藤原実資『小右記』、藤原為光『法住寺相国記』、藤原行成『権記』、藤原信経『信経記』、惟宗允亮『宗河記』、藤原道長『御堂関白記』、藤原師実抄出『御堂御記抄』、一条天皇『一条天皇御記』、源経頼『左経記』、藤原資房『春記』、藤原頼通『宇治殿御記』、源師房『土右記』、藤原教通『二東記』、『宗金記』(記主不明)、後朱雀天皇『後朱雀天皇御記』、藤原資平『資平卿記』、平範国『宇治関白高野山御参詣記』、平定家『定家朝臣記』、藤原経任『経任記』、藤原資仲『資仲記』、中原師平『師平記』、藤原師実『師実公記』、後三条天皇『後三条天皇御記』、『寛治二年記』(記主不明)、藤原季仲『季仲卿記』、高階仲章『高階仲章記』、清原重憲『清原重憲記』

脚注

  1. ^ a b c d "戦争だけが歴史じゃない 2024年大河ドラマ「光る君へ」時代考証・倉本一宏教授インタビュー【後編】". 東大新聞オンライン. 公益財団法人東京大学新聞社 (2023年12月29日). 2024年3月6日閲覧。normal
  2. ^ a b "倉本 一宏 KAZUHIRO KURAMOTO". 現代新書 | 講談社. 2024年3月6日閲覧。normal
  3. ^ a b "倉本一宏 | SYNCHRONOUS シンクロナス". SYNCHRONOUS シンクロナス. シンクロナス (2023年11月22日). 2024年3月6日閲覧。normal

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