2024年5月20日月曜日

刀伊の入寇 - Wikipedia

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刀伊の入寇

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊壱岐対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。

名称

刀伊(とい)とは、高麗語高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指すtoiに、日本の文字を当てたとされている[1]

15世紀訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では(そのまま「トイ」)として表れる[2]

史料

この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。

経緯

日本沿岸での海賊行為頻発

9世紀から11世紀にかけての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前筑後肥前肥後薩摩の九州沿岸である。

侵攻の主体

刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい脱出、連れ去られた家族の安否を心配して密かに高麗に渡り情報を得た[3]。長嶺が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人の捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと[3]などの情報を得た。

日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの女真族

「刀伊の入寇」の主力は女真であったと考えられている。女真とは、12世紀を、後の17世紀には満洲族として後金を経てを建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている[4][5]。10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直[注釈 1]の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる[6][7]

13世紀初頭に蒲鮮万奴中国東北部大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真もこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13~14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる[7]。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[7]

刀伊の入寇までの北東アジア情勢

926年契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。

1005年高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる[8]

しかし、当時の女真族の一部は高麗朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した[9]。また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている[10]

対馬への襲撃

寛仁3年3月27日(ユリウス暦1019年5月4日)、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返した。対馬の被害は36人が殺され、346人が拉致されている。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐への襲撃

賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。

藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の下、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。生存者はわずか35名。

筑前・肥前への襲撃

その後、刀伊勢は筑前国怡土郡志麻郡早良郡を襲い、4月9日には博多を襲った。博多には警固所と呼ばれる防御施設があり、この一帯の要衝であった。刀伊勢は警固所を焼こうとするものの、大宰権帥藤原隆家大蔵種材らによって撃退された[11]。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した[3]

高麗沿岸への襲撃

藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという[12]。しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された[13]

高麗との関係

上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した[12]。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。『小右記』では「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している[14]

日本はとの関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。日本と契丹(遼)はほぼ交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。

被害

対馬の被害

人的被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)であった。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還した[15]

物的被害としては対馬銀山が焼損した。

壱岐の被害

壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺された[15]。さらに、女性は239人が連行された[15]。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった[15]。この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられる[15]

記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという[16]

朝廷の対応

権帥藤原隆家は4月7日と4月8日に報告書を送り、京都に届いたのは10日後、4月17日のことであり[17]、4月18日には恩賞を約した勅符が発給されているが[18]、主要な戦闘はすでに終結していた。京都では刀伊の対馬襲撃から6日前、3月21日に藤原道長が出家し、息子の藤原頼通への権力継承が進んでいた時期で、遠い九州での戦闘、しかも長徳の変で道長と対立して失脚した経験のある藤原隆家が防衛戦の総指揮を執った今回の入寇に対する反応は鈍かった[19]

6月29日に行われた陣定では、恩賞が約された勅符が出されたのは戦闘の後だったため、藤原行成藤原公任が恩賞不要の意見を述べた。これに対し、藤原隆家から直接書状を受け取っていた藤原実資は寛平6年(894年)の新羅の入寇の際の例を上げ、今後のことを考え、約束がなくても恩賞を与えるべきと述べた。これを受け、本来与える必要はないが恩賞を与えることが決議されている[18]。恩賞を受けた例としては、戦闘で活躍した大蔵種材が壱岐守に叙任されている[20]。またこの際には、「刀伊に捕らえられた」という高麗人捕虜の証言についても検討されている[21]

賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという[注釈 2][22]

藤原隆家と九州武士団

藤原隆家中関白家出身の公卿であり、眼病[注釈 3]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。

九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。

なお、中世の大豪族菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。

九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。

備考

大鏡』の記述として、九州の武士だけでなく、大宰府文官にも武器を持たせて戦わせたとある。

脚注

注釈

  1. 女真のうち、黒水靺鞨に服属し中国化が進んでた渤海人のグループ。対して、ツングース系本来の生活スタイルを守っていたグループは生女真と呼ばれる。
  2. このことは『大鏡』にも記述がみられるが、高麗ではなく、旧称の新羅と記述している。
  3. 原因は『御堂関白記』によれば「突目」、すなわち先の尖った物による外傷のため。

出典

  1. 瀬野ほか 1975, p. 44.
  2. 石井 2010, p. 93.
  3. ^ a b c 瀬野ほか 1975, p. 45.
  4. 蓑島 2006, pp. 76–99.
  5. 中村 2006, pp. 100–121.
  6. 蓑島 2006, p. 91.
  7. ^ a b c 中村和之 「『混一疆理歴代国都之図』にみえる女真の活動」 (混一疆理歴代国都之図研究プロジェクト 国際シンポジウム「混一疆理歴代国都之図とその周辺」2012年12月8日 の講演より)
  8. 蓑島 2006, pp. 88–90.
  9. 土田 1965, p. 369.
  10. 小右記』5巻140頁。寛仁3年4月25日
  11. 佐藤 1994, p. 40.
  12. ^ a b 小右記』5巻180頁。寛仁3年8月3日
  13. 瀬野ほか 1975, p. 46.
  14. 小右記』5巻177頁。寛仁3年8月3日
  15. ^ a b c d e 瀬野ほか 1975, pp. 45–46.
  16. 寛仁三年四月十七日~同年七月十三日条。大日本資料2-14、213~312頁。[要出典]福田 1995, 戦争とその集団
  17. 小右記』 寛仁3年4月17日条
  18. ^ a b 尾崎 1998, p. 36.
  19. 丸山淳一 (2023年7月19日). "平安時代最大の対外危機「刀伊の入寇」…平和ボケの朝廷に代わり、力を発揮した「さがな者」藤原隆家". 読売新聞オンライン. 読売新聞社. 2024年5月19日閲覧。normal
  20. 大蔵種材(おおくらのたねき)とは - コトバンク、朝日日本歴史人物事典の解説、朧谷寿執筆項
  21. 尾崎 1998, p. 35.
  22. 西川吉光「海民の日本史4」『国際地域学研究』第22号、東洋大学国際学部、2019年3月、93-122頁、ISSN 1343-9057NAID 120006629488normal 

参考文献[編集]

古典史料[編集]

現代文献[編集]

  • 天野哲也; 臼杵勲; 菊池俊彦 編『北方世界の交流と変容 中世の北東アジアと日本列島』山川出版社、2006年8月。ISBN 978-4-634-59061-8 
    • 蓑島栄紀「史料からみた靺鞨・渤海・女真と日本列島」、76–99頁。 
    • 中村和之「金・元・明朝の北東アジア政策と日本列島」、100–121頁。 
  • 石井正敏「高麗との交流」『通交・通商圏の拡大』吉川弘文館〈日本の対外関係 3〉、2010年12月。ISBN 978-4-642-01703-9 
  • 尾崎典子「摂関期の陣定について<論説>」『史人』第2号、広島大学学校教育学部下向井研究室、1998年12月、27-38頁、doi:10.15027/42822NAID 120006221892 
  • 佐藤鉄太郎「博多警固所考(人文・社会科学編)」『中村学園研究紀要』第26巻、中村学園大学、1994年3月、35-51頁、ISSN 02887312NAID 110000999242 
  • 関幸彦『刀伊の入寇 最大の対外危機』中央公論新社〈中公新書 2655〉、2021年8月。ISBN 978-4-12-102655-2 
  • 瀬野精一郎、新川登亀男、佐伯弘次、五野井隆史、小宮木代良『長崎県の歴史』山川出版社〈県史 42〉、1975年。ISBN 978-4-634-32420-6 
    • 瀬野精一郎、新川登亀男、佐伯弘次、五野井隆史、小宮木代良『長崎県の歴史』(第2版)山川出版社〈県史 42〉、2012年12月。ISBN 978-4-634-32421-3 
  • 土田直鎮『王朝の貴族』中央公論社〈日本の歴史 5〉、1965年。ISBN 978-4-12-400285-0 
    • 土田直鎮『王朝の貴族』(改版)中央公論新社〈日本の歴史 5 (中公文庫)〉、2004年9月。ISBN 978-4-12-204425-8 
  • 福田豊彦「戦争とその集団」『室町幕府と国人一揆』吉川弘文館、1995年1月。ISBN 978-4-642-02742-7 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

藤原隆家 - Wikipedia

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藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ、天元2年〈979年〉 - 寛徳元年〈1044年〉)は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白内大臣藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。官位正二位中納言

経歴

一条朝初頭の永祚元年(989年)11歳で元服して従五位下叙爵し、翌永祚2年(990年)正月に侍従任官する。同年7月に右兵衛権佐に任ぜられると、正暦2年(991年)従五位上、正暦3年(992年正五位下左近衛少将、正暦4年(993年従四位上・右近衛中将、正暦5年(994年)正月に正四位下と父・藤原道隆の執政下で武官を務めながら急速に昇進し、同年8月には中将を帯びたまま従三位に叙せられ(三位中将)公卿に列した。長徳元年(995年)4月に権中納言に任ぜられるが、まもなく父・道隆が没する。

同月中に道隆の弟である藤原道兼関白となるがこれもまもなく没し、5月に入って執政の座は内覧右大臣となった藤原道長に移る。この状況の中で、7月末に隆家の従者と道長の従者が七条大路で乱闘したほか[1]、8月初旬には隆家の従者が道長の随身・秦久忠を殺害している[2]。しかし、翌長徳2年(996年)正月に同母兄の内大臣藤原伊周の女性関係に関連して、隆家は従者の武士を連れて花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖をで射抜くという事件を起こす[3][4]。このことを藤原道長に利用され、4月になると花山法皇奉射・東三条院呪詛大元帥法実施の罪状三ヶ条を以って、隆家は出雲権守に、伊周は大宰権帥左遷された(長徳の変[5]。なお、隆家は出雲国までは行かずに病気を理由に但馬国に留まっている。

長徳4年(998年)5月に東三条院(藤原詮子)の御悩による大赦を受けて帰京し、10月に兵部卿として官界に復帰。長保4年(1002年)以前の権中納言に復し、寛弘4年(1007年従二位、寛弘6年(1009年)中納言に叙任された。この間の長保2年(1000年)に姉の定子が、寛弘7年(1010年)には兄の伊周が没している。こうして、中関白家の声望は隆家の双肩にかかる中で[6]、隆家は外甥の敦康親王の立太子に期待をかける[7]。世間からも、敦康親王が即位して隆家が政治を輔佐したなら天下はよく治まるだろう、との声もあったという[7]。しかし、寛弘8年(1011年三条天皇践祚に際して、有力な後見人がいないことが理由で敦康親王の立坊は実現せず、道長の外孫である敦成親王(のち後一条天皇)が春宮に立てられた。

長和元年(1012年)末頃より先の尖った物による外傷を原因とした眼病を患い、出仕や交際もできず邸宅に籠居するようになる[8]。ここで、大宰府には眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞きつけて、隆家は進んで大宰権帥への任官を望む[7]。この任官希望に対しては、未だ声望高い中関白家と九州在地勢力との結合を抑止したい[6]道長に強く妨害されるが[注釈 1]、結局同じ眼病に悩む三条天皇の隆家への同情は深く、決定までに9ヶ月を要した末、長和3年(1014年)11月になってようやく大宰権帥に任ぜられた。長和4年(1015年)には赴任の功労により正二位に叙せられている。大宰府では善政を施し、九州の在地勢力はすっかり心服したという[7]。在任中の寛仁3年(1019年刀伊の入寇が発生。刀伊(女真族と考えられている)が対馬壱岐に続いて、同年4月に博多を襲うが、隆家は総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮してこれに応戦・撃退している。同年6月には高麗が虜人送使・鄭子良を派遣し、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送還する。隆家は鄭子良に対して朝廷の返牒を遣わし禄物を与えるなど後処理を行った[10]

同年12月に大宰権帥を辞して帰京(後任は藤原行成)。帰京後の朝廷において、刀伊を撃退したことに対する功績により隆家の大臣大納言への登用を求める声もあったが、帰京後の隆家は内裏出仕を控えていたため昇進の沙汰はなかったという[7]。一方で、翌寛仁4年には都に疱瘡が大流行し、刀伊が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。治安3年(1023年)次男の経輔右中弁に昇任させる代わりに中納言を辞退する。その後、大蔵卿などを務めるが、後朱雀朝長暦元年(1037年藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられ、長久3年(1042年)までこれを務めた。

長久5年(1044年)1月1日薨去享年66。最終官位は前中納言正二位。

人物

天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事[7]や、姉の中宮定子の女房清少納言との応酬[注釈 2]など、『枕草子』『大鏡』『古今著聞集』にも多彩な逸話が伝えられている。姉が生んだ敦康親王の立太子を実現できなかった一条天皇を「人非人」と非難したり[7]、権力者の叔父道長の嫌がらせに屈せず三条天皇皇后娍子皇后宮大夫を引き受けたり[11]するなど、気骨のある人物として知られた。その「こころたましひ」(気概)は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている[7]。「もし敦康親王が即位して隆家が政治を輔佐したならば、天下はよく治まるだろう」という世人の密かな期待があり、その期待に反して敦康が立太子できなかったのは、さすがの隆家も気落ちしているだろう、という世間の忖度を逆手にとって、隆家は三条天皇の大嘗会では華美な正装で煌びやかに振る舞ったという[7]

また、父・道隆や兄・伊周に対しては批判的な態度を取り続けていた藤原実資からは可愛がられ、彼の日記である『小右記』には隆家が実資に悩み事を打ち明ける記事[12]や、実資が大役に任じられた隆家の息子を気遣う記事が見られる[13]。特に前者の長和2年の記事には、実資が隆家に対して眼病の治療と道長からの圧迫を避けるために「遠任之案」を勧め、それを受けた隆家が「深有鎮西之興」を抱いたことが記されている[14]

後拾遺和歌集』(2首)、『新古今和歌集』(1首)に和歌作品が採られている勅撰歌人である。文人の家系に恥じず、漢詩も『本朝麗藻』に七言律詩1首が残っている。

隆家の子孫

隆家の娘は長女が三条天皇の皇子式部卿敦儀親王[注釈 3]、もう一人が参議藤原兼経室となっている。

隆家の長男良頼正三位権中納言に進み、その娘は参議源基平室となり後三条天皇の寵愛をうけた源基子実仁親王輔仁親王の生母)を生んだ。良頼の4代後の子孫に、平清盛の継母として源頼朝の助命を嘆願したという池禅尼がいる。

隆家の次男経輔1006年 - 1081年)は、正二位権大納言となって水無瀬大納言と称せられた。経輔の5世孫にあたる従三位忠隆の息女は近衞家の祖である基実の室となって基通を生み、その兄弟信頼後白河上皇の寵臣で平治の乱の首謀者として有名。同じく経輔の5世孫にあたる修理大夫信隆の息女七条院殖子後鳥羽院生母であり、その弟坊門信清内大臣の位にまで昇った。源義経の母の常盤御前の再婚相手で奥州藤原氏とも関係があった一条長成も経輔の5世孫である。

隆家流は女系を伝って皇室摂家にその血を残し[注釈 4]、子孫は水無瀬流として後世、水無瀬羽林家)・七条(羽林家)・町尻(羽林家)・桜井(羽林家)・山井(羽林家)の五堂上家を出して明治維新に至る。

なお、南北朝時代懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔を称し、祖先たる藤原政則 (基定) を隆家の子としている[16]

官歴

注釈のないものは『公卿補任』による。

系譜

関連作品

脚注

注釈

  1. 「天気無動、但左府猶有遏絶者」[9]
  2. 枕草子』、隆家は「三位中将」または「中納言」の官名でしばしば登場する。
  3. 隆家は敦儀親王を婿取ろうとして道長の「気色不快」を招き、その結果翌年に延引したという[15]
  4. 隆家次女(参議兼経室)の4世孫にあたる従三位季行の息女が九条兼実室となり良経を生んでいるため、九条家にもその血は入った。

出典

  1. 小右記』長徳元年7月27日条
  2. 『小右記』長徳元年8月3日条
  3. 日本紀略』長徳2年正月16日条
  4. 栄花物語』巻第4「みはてぬゆめ」
  5. 『小右記』長徳2年4月24日条
  6. ^ a b 勝倉[2003: 15]
  7. ^ a b c d e f g h i 『大鏡』第四巻,内大臣道隆
  8. 御堂関白記』長和2年正月10日条
  9. 『小右記』長和3年5月7日条
  10. 森克己「日麗交渉と刀伊賊の来寇」『続 日宋貿易の研究』国書刊行会〈森克己著作選集〉、1975年。
  11. 小右記』長和元年4月27日条
  12. 『小右記』寛弘2年正月5日条,長和2年8月13日条,同年9月8日条
  13. 『小右記』寛仁元年9月16日条,寛仁4年10月30日条
  14. 関口力『摂関時代文化史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、2007年、pp. 23-26, 77-79。ISBN 978-4-7842-1344-3
  15. 『小右記』寛仁4年(1020年)10月23日条・治安元年(1021年)2月1日条
  16. 菊池氏#起源参照。
  17. ^ a b c 『近衛府補任』
  18. 『帥次第』[疑問点ノート]

参考文献

刀伊の入寇 - Wikipedia

刀伊の入寇 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87 刀伊の入寇 刀伊の入寇 (といのにゅうこう)は、 寛...