2025年6月3日火曜日

明鏡のこころ『夢の代』[388頁]近世⇒「豪商一代」「盲目で二千枚の著述」「江戸の百科全書派」


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明鏡のこころ『夢の代』
[388頁]近世⇒「豪商一代」「盲目で二千枚の著述」「江戸の百科全書派
                                   
「豪商一代」
江戸時代の大阪町人の豪奢な生活ぶりは、元禄ごろの淀屋辰五郎の例のよくあらわれている。
屋敷の前に橋をかけて「淀屋橋」と称し、いろは四十八戸の蔵を建て、大小の書院に金を延べ、ふすまも金張り。お座敷の欄間には四季の草花を彫らせ、ほかに夏座敷というビードロずくめの部屋をしつらえ、床下に清水をたたえて金魚を放した。庭には唐の名木を植えこみ、縁側には矢塗りの欄干をめぐらし、表まわりには手代屋敷や料理の間、台所などが大きくスペースをとってあり、それぞれ責任者を決めて采配をふるわせていた。
 台所が大きいのは、使用人の数が多いためばかりでなく、大名を接待する目的もあった。いうまでもなく、大名たちは金を借りにくるのである。家老クラスの人物も、金銀の威勢におそれをなし、膝をくずそうともしなかったという。のちに蒲生君平が「大坂の豪商一度起こりて、天下の諸侯懼るる威あり」といったのは、けっして誇張ではない。
 元禄の時点で、淀屋は西国三十三大名の蔵元、つまりメイン・バンクになっていたというが、一流の商人はみな幕府および諸藩大名と取引をもっていた。大名貸の利子は三分から五、六分程度のものでしかなく、完済の保証もないに等しかったが、その代償として帯刀を許されたり、扶持米を与えられたりという余禄があった。鴻池善右衛門などは、扶持米だけで一万石に達したという。
 だが、元禄から半世紀を経るころには、米価の不安定や凶作により、諸藩の困窮度は高まり、多くの蔵元も共倒れの危機に陥った。升屋も主力貸付先の仙台藩が左前になったため、あやうく「身上投出し」の悲運に見舞われかけたが、弱冠二十歳台の有能な番頭の手腕により、破局から免れた。
 その一つの方法がサシ米である。これは先端を鋭く削いだ竹筒(サシ)を米俵の下部に突き刺し、流れ出た米を検査することで、一俵につき一合となっている。仙台の廻米は仙台・銚子・江戸の三ヵ所でサシ米をするが、役人への費用や運送代が嵩むところから、升屋の番頭はサシ米の下付けを願い出た。算用にうとい役人は、僅かなものと思って許可した。
 妙計は図にあたり、升屋は年額六千両を手中にし、いらい家運も上昇に向かったのである。この番頭の名は-語呂合わせではないが、山片蟠桃という。

「盲目で二千枚の著述」
  蟠桃が伯父の升屋(別家)山片九兵衛の家を相続したのは、わずか十三歳のときである。本名長谷川芳秀。寛延元年(一七四八)、播州印南郡神爪村(現在の加古川市米田町)に生まれた。本家の升屋初代は、元禄年間に米相場で一山当てた人物だが、二代目の死後に前述の経営危機に見舞われ、おまけに相続をめぐる内紛が発生した。この時二十五歳の蟠桃がすべての采配をふるって解決に導き、財政も好転させたというのである。
 経営責任者といえば聞えはいいが、分家から出向の支配人にすぎない。自分より若い主人を立て、一刻も目を話せぬ相場の動き、店内のみならず幕府大名、あるいは株仲間との複雑な関係に気をくばるというのは、並大抵の苦労ではなかったろう。他の商人なら適当な道楽にも手を出すところだが、彼はレジャーのごときとおよそ無縁の人物だった。五十歳をすぎて、わずか一度だけ湯治に出かけただけである。
 性格的なものでもあったのだろう。彼は遊芸よりも読書を愛した。多忙な一日を終えると、寸暇を惜しんで学問に励んだ。『夢ノ代』はその努力の集大成で、享和二年(一八〇二)に稿を起し、何度か改訂を加えたのち、死の前年(一八二〇)、盲目となったため、嫡子善し芳達および弟子と思われる者二名に筆写させて完成した。目次を見ると十二巻の枠組に、天文・地理・神代・歴代・制度・経済・経論・雑書・異端・無鬼(上下)・雑論という章立てとなっており、原稿用紙にしてじつに二千枚。豊富な財力を背景に、当時有数の学術書を駆使して独自の認識体系を形づくった書物である。
 このうち「無鬼」というのは、霊魂の存在しないということは経験的、文献的に立証したもので、近世合理思想の一頂点を示すものだ。
 「唯天地ノ問ニ独尊ニシテ対ナキモノハ日輪ナリ。・・・・本ヨリ日輪ニ耳目・口鼻・心志ナケレバ、視聴・言動・思慮・工夫アルコトナシ。シカレバ、則何ヲカ見キ・何ヲカ思ハン。・・・・人何ヲ願フトモ、ナンゾ聴ン。ホムルトモ悦ブベカラズ。ソシルトモ憤ルベカラズ。コレ大ニ徳アリ。・・・・聖人ハコノ天心ヲ心トシテ、コノ天徳ヲタスケ、万物ノ生育ヲ導キ遂シメントス。・・・・シカレドモスデニ死スルノ後ハ、血脈ナク、疼痛・寒暖・飢渇・愛悪アルコトナケレバ、万民ノ辛苦ヲカナシムノ仁心モ止ミタレバ、再タビカヘルコトナシ」
 この部分は、神道家が「殷鬼」を尊ぶのは妄説にすぎぬとして、儒教的合理主義の立場から批判を展開しているのである。
 「聖人モ亦同ジ人ナリ。息アル内ハ聖徳カネ備フトイエドモ、死シテ後ハ血気・心志ナケレバ、ナンゾ思慮アラン。思慮ナケレバ、ナンノ霊験カアラン」
 蟠桃は今でいう無神論者、唯物主義者であるが、神を尊拝する心を否定するものではない。邪教説を憎むのみである。この部分だけで約二百五十枚。孔子から新井白石にいたる東洋の宗教思想を撃破していく迫力は、壮絶というしかない。
 
「江戸の百科全書派」
 『夢ノ代』の意味は、理想世界ということだろうか。夢の代用、カタとなるもの、それは彼のことばを借りれば「明鏡の心」があまねく普及するユートピアであった。「天文」の章で、彼は地動説を主張し、引力や重力について説く。「地理」では地球における日本の地位を示すとともに、世界に雄飛する西洋人を讃え、その文字がわずか二十六文字であることの能率性を評価し、さらに「神代」では『日本書紀』等の神話の虚構を論破し、本居宣長の八紘一宇的な感覚を批判している。
 同時代にあって、西洋のトップ・レベルの学問を吸収していたのは彼ばかりではないが、儒学の格物致知、すなわち道理を究明して自らの後天的な知をきわめるという精神を最高度に発揮したのは、彼をもって第一人者といわざるをえない。とくに宇宙論において、解明された部分と「不測」の部分とを厳密に区別していく論法は、現代の人が読んでも教えられるところが大きい。同時代の英国では、マルサスが『人口論を書いていたが、わが『夢ノ代』も百科全書派的な幅の広さと強靭な論理性において、西洋の書物にひけをとるものではない。
 蟠桃は幕藩経済に寄生して巨利を博した商人であるから、体制への批判力は乏しい。あえて究明を回避したふしも見られないではないが、いかなる思想家といえどもその生存基盤は多少なりとも掣肘をうけるものだ。
 『夢ノ代』は子孫への「教戒」として書かれ、ついに公刊されることはなかったが、写本として広まり、現在山片家をはじめ約四十種の存在が知られている。国会図書館の写本は全一二冊、薄茶表紙に『夢之代』『由女之志呂』などの外題があり、大きさタテ二六・四~二六・七センチ、ヨコ一八・七センチ。各巻の丁数は最大百六丁(巻一)から最小二十七丁(巻八)までの不均等なものだが、計六百四十九丁。「天文」「地理」などの巻には大宇宙図をはじめ多数の図版を含んでいる。
 本書は明治になって、少年向きの叢書に一部が抄出されたほかはまったく等閑に付され、大正五年にようやく全文が活字化された。歴史的な名著というだけでなく、随所に現実的な知性が閃いている。たとえば植民地主義を洞察したことば―。「(西洋の人々)外国ニ心ヲ用ヒ、遠略ヲツトメ、珍物ヲ得テ、諸国ヲ属セシメントスルモノハ過タリト云ベシ。必ラズカクノゴトキノ後ハ災イ蕭墻ノ内(囲いの内、すなわち国内)ヨリ起ルベシ」
 
夢の代』(ゆめのしろ)・・・ソビエト科学アカデミーの「世界哲学」に初期唯物論の先駆的著作と紹 介された。豪商の番頭という町人学者、山片蟠桃(やまがたほばんとう)(1748~1821)が松平定信の寛 政の改革の経済ブレーンとして改革の挫折後それまでの経験主義的哲学を展開した12巻 の百科全書。地動説、無神論、神話の排撃等の近代に先駆する唯物論的世界観を築いた。
                                   812180 須賀 優梨さん入力 『夢ノ代』

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