2025年6月25日水曜日

日本人のルーツを考えるー大陸に残る足跡

日本人のルーツを考えるー大陸に残る足跡

日本人のルーツを考えるー大陸に残る足跡

第3話 大陸に残る足跡

 前20世紀ごろ、中国の最古の夏王朝の頃に、九夷と呼ばれた異国人の存在がありました。それは、?夷(けんい)、干夷、方夷、黄夷、赤夷、白夷、玄夷、風夷、陽夷の9部族からなっていたといいます。ちなみに、シュメール人は前21世紀ごろ、アモリ人によって征服され突如消えていますが、文化的な特徴がこのシュメールやイスラエルと類似していたとされています。
 
 この九夷は殷時代の前17世紀から前11世紀に中国東部でその数を増やし、東夷と呼ばれるようになりました。
東夷人の特長は「酒を飲み、歌舞をすることが好き。時には冠をかぶって錦の着物を着て、祭壇にお供え物をして儀式をした。一般に穏やかに行動し、心を慎むことを慣習としている。衣服については、一般の服装と礼服が兼ねており、儒教の経典を学ぶのが好きで、文学や史書を愛読する」とあります。まるで、現在の日本人に相通じるものがあるようにも思います。東夷は、前8世紀から前6世紀には大勢のイスラエル難民と合流し、一大勢力となっていきました。

 紀元前770年に周が東西に分裂してからは、春秋戦国時代とよばれる混乱の時代が始まります。一説には、中東からの大量の難民によって、国の経済や治安が混乱し、春秋時代になったとも言います。この時代に、孔子、老子、荘子、墨子、孟子などの諸子百家と呼ばれる思想家が輩出します。以後の中国に大きな影響を与えた人たちですが、彼らの多くがイスラエル系であったといいます。顔つきは西アジア特有の顔ですし、体格は2mちかくあったようです。これらはこの時代を過ぎると、ピークを過ぎて消えていきます。

 この春秋時代を含め、前789年から前206年までは、黄河西部に秦という国が存在します。出自ははっきりしないとされていますが、かの始皇帝が前259年に史上初めて中国を統一します。部族が土地を所有する封建制から、国が所有する郡県制に。貨幣や計量単位を統一したり、交通規制制度を制定したりしました。万里の長城や兵馬俑で知られる始皇帝陵の建設もします。法による統治など、今までにない先進的な事業を行いました。

 始皇帝は49歳で亡くなりましたが、長寿なら5帝にも入れられるとも言います。辰韓の人達は、この秦の末裔とも言われています。この秦が206年に滅びてからは、先ほどの東夷は朝鮮半島を中心とした地域を指すようになったようです。

 それとは別に、前7世紀には河北省から吉林省の西部にワイハクと呼ばれる国が存在しました。前4世紀から494年まで、同じく中国東北部には扶余という国が存在しました。双方とも、イスラエル文化と類似した文化を持ち、扶余では自らを亡命者と呼んでいたそうです。扶余は、3世紀ごろには弱体化し、朝鮮半島の3韓、馬韓、弁韓、辰韓(秦韓)に勢力を移しました。

 特に辰韓(秦韓とも書く)は時期的には紀元前2世紀から356年まで存在し、その後は、新羅になりました。自ら中国の秦の末裔とも言い、苦役を避けて韓国に来たと言ったということです。「辰韓人の言語は秦人に類似しており、穀物と稲を育て養蚕を生業としていた」と中国の記録にあるといいます。
新羅からだけではなく高句麗や百済からも、3世紀から7世紀ぐらいまでの間、切れ目なく大量の移民となって日本へ渡来することになります。

 話は現代に戻りますが、皆さんはキルギスという国をご存知でしょうか。ソビエト連邦の時にはキルギスタンと呼ばれていましたが、今は独立してキルギスと言う国になっています。人口は590万人、面積は日本の半分ぐらいです。このキルギス人の顔つきが日本人そっくりと言われています。コマ回しや凧揚げの習慣もあるそうです。キルギスの言い伝えに「昔、エニセイ川流域に住んでいた人たちが移動して、魚の好きな人たちは東の海へ行き日本人になった。肉の好きな人たちは西の高原に移動してキルギス人になった」と言うのがあるそうです。キルギスの存在も、古代イスラエルの部族が東へ移動したという痕跡の一つになるのでしょうか。

 シルクロードとは地中海諸国と中国との間の歴史的な交易路であり、2014年にはユネスコの世界遺産に登録されています。欧州側の起点は地中海に面するトルコ南部のアンテオキアであり、東の起点は中国の西安とされていますが、一説には日本が東端とも言われています。
 モンゴルやカザフスタンの草原を通る「草原の道」はもっとも古い交易路であり、スキタイ、匈奴、突厥などの遊牧民も東西の文化交流を担っていたようです。「オアシスの道」と呼ばれる天山北路、天山南路、西域南路は天山山脈やタリム盆地の周辺を通る道で、中国の敦煌は東の玄関口であり、キルギスを通って黒海の南を通り地中海に出ます。

 さらには「海の道」として、中国福建省泉州市(台湾の対面)を起点として、東シナ海、南シナ海、インド洋、インド、アラビア半島を通る海道もありました。
 これらのシルクロードは、中国からは絹製品などを運ぶ交易路として栄えました。日本の奈良の正倉院にも中国製の他にペルシャ製の宝物が数多く残されています。

 地中海と中国を結ぶシルクロードですが、シュメール人や古代イスラエルの大量の人達が東へ移動した痕跡であり、そのルートを交易路としてのちの人達が利用したとも考えられています。

 日本列島へは、海路を使って割合早く日本に辿り着いたグループと、陸路を中国や朝鮮の文化を取り入れながら、苦労の末に辿り着いたグループがありました。船を使った早いグループでも数十年かかり、陸路を使った遅いグループは何百年もかけて遥か遠い東の島々へたどり着きました。
祖国を追われた古代イスラエルの人達が、預言で示された自分らの理想国としての日本列島に辿り着き、それぞれが部族となり日本各地に住み始めました。弥生人と呼ばれる渡来人の多くが、彼らだったというのが実情のようです。

 弥生時代前期である紀元前3世紀ころから、古墳時代を経て奈良時代にいたるまで、絶えることなく牛の涎のごとくにこの日本に渡来人としてやってきました。大量の渡来人を抜きには、縄文晩期の8万人から奈良時代の500万人近くにまで急激な人口増加を説明できないと言います。

 北海道の民謡でソーラン節をご存知ですか。ニシンが大量に採れて大いににぎわった時期もあったようですが、そのソーラン節の歌詞は
「ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ハイハイ。沖のカモメに潮どき問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ ヤサエエンヤサンサノ ドッコイショ。」となります。

 「ヤーレン」は喜び歌う。「ソーラン」は1人で歌う者 「チョイ」は行進する、「ヤサ・エンヤン」はまっすぐ進む 「サ」は嵐 「ノ・ドッコイショ」の「ノ」は願う、「ドッコイショ」は神の力で押しのける」の意味になります。「私は1人で喜び歌います。嵐の中でも神の力でまっすぐ進みます。」のような意味で、古代のイスラエル人が苦労の末に海を渡って日本で来た時に、船の漕ぎ手が歌ってきたのでしょうか。

神々が集ったとされる高天ヶ原の話

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日本人のルーツを考えるー神々が集ったとされる高天ヶ原

「余話1」 神々が集ったとされる高天ヶ原の話

 高天ヶ原は、古事記に書かれている神々の日本列島創生の舞台とされているところです。いままで、神話の世界であり、実在する場所ではないと思われていました。それが、近年、幾つかの理由にて、沖縄がその高天ヶ原でなかったかという説が出て言います。順番に説明をしていきたいと思っています。

 理由1 高天ヶ原が存在したとすれば、日本列島の外であるはず。日本列島は大八島国と呼ばれ、できた順に、淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州の8つの島を大八島国と呼んでいた。この大八島国を作るには、その場所以外、例えば、大陸とか、半島とか、沖縄を含む南西諸島でなくてはならないことになる。

 理由2 古事記の中に「矛から滴る塩が積もる島」とあります。これは、黒潮の流れの最北端に漂う島々と読むことが出来る。事実、沖縄から見れば、沖縄の北を通る黒潮は日本列島で別れて日本海側と太平洋側に流れ、その表現のような状態になる。

 理由3 高天ヶ原は空想の地とは思えないような現実的な記述がある。
「天熊人によってもたらされた粟、稗、麦、大豆などの畑が耕され、稲種も田に植えられた。養蚕も始まった。天照大神は自分の田を所有して農業を営んでいた。さらに、神衣も織ることもしていた。」とある。これらは、古代沖縄で実現できていたことであり、事実、縄文や弥生の遺跡が出ている。

 理由4 沖縄が稲作伝来の中継地点であること。近年の研究で、日本の稲作は中国南部から南西諸島を経由して日本各地に普及したことが判明している。古事記では「高天原で稲が育てられ天つ神らが苗しょうである天皇に与えた後、天皇が地上を支配した」と。琉球国由来記によると、沖縄では古代、アマミキヨにより海のかなたの理想国より稲が持ち込まれ、受水走水の水田に植えられたと伝わっている。その水田のあった地は、今日まで霊域として毎年、親田御願と呼ばれる田植え行事が行われている。

 理由5 「タカアマハラ」と「タガーマハラン」の読み方が類似していること。アブラハムが1500キロ先のカナンの地に向かう時、自然に恵まれたタガーマハランの地でお10数年滞在し、十分な休息を得てカナンに向かった。日本列島へ入る前。高天ヶ原はタガーマハランと同じ役割を果たした。沖縄の那覇(ナハ)はヘブライ語で休息を表す。

 理由6 沖縄は天が高いこと。沖縄は緯度26度。夏至では太陽はほぼ真上になる。まさしく、沖縄は天が高いところであり、この漢字が当てはめられた可能性がある。おき

 理由7 沖縄は日本で最も宗教的文化背景がある。祭祀を取り仕切る女性ノロが存在する。イスラエルの神である「ヤーウエー」に対する信仰の跡がある。八重山、八重島、八重垣、八重岩など八重(ヤエ)を使った地名があちこちにみられる。さらには、年中行事の中にイスラエルのカレンダーに合わせたものが多いと聞いています。

 理由8 南西諸島では古代より今まで女性の宗教リーダーが活躍している。御獄の管理者であり宗教的リーダーとしてのノロ、民間霊媒師のユタ、などはすべて女性。日本列島へは黒潮にのるため一方通行の旅になる。男性は旅に出て、そのまま戻ってこなかったため、結果的に残った女性が主になった。

 理由9 天照大神が隠れたとされるクマヤ洞窟が存在する。クマヤ洞窟は沖縄本島の北部に浮かぶ伊平屋島にある。「クマヤ」とは神の外壁という意味がある。海抜25~30m、幅189m、奥行き63m、中央奥に神殿があり、人工の石積み跡も残る。

 理由10 レイラインの存在。伊江島の城山と伊平屋島のヤヘー岩と出雲の八雲山が一直線になるというが、自分には良く分かりません。
 これらを考察すると、高天ヶ原の推定地が南西諸島の沖縄であることを否定する方が難しいのかも知れません。 

謎の邪馬台国と卑弥呼姫

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日本人のルーツを考えるー謎の邪馬台国と卑弥呼姫

「余話2」 謎の邪馬台国と卑弥呼姫

 邪馬台国とは2世紀から3世紀に日本列島に存在した国である。7万戸の人々が女王卑弥呼のもとで暮らしていたとされる。日本には記録が無く、中国の西晋(265年~316年)の陳寿という人により書かれた「三国志」の東夷伝の倭人の部分に記されている。

 魏志倭人伝とは、「三国志」の中の「魏書」第30巻の東夷伝倭人条の略称です。その邪馬台国の暮らしぶりを魏志倭人伝より拾い上げてみることにします。
 当時の男子は、大人も子供も体に入れ墨を入れていました。諸国(その頃の国はちょっとした集落集団のようなもの)によって左であったり右であったり、あるいは小さかったり大きかったりしました。また、身分によっても違ったと言います。

 風俗はみだらではなく、男は結った髪を露出し、木綿で頭に括りつけていました。着物は横幅があり、結びつけているだけでほとんど縫ってありませんでした。女性はおでこを髪で覆い、折り曲げて結っていました。上敷きのような衣を作り、中央に穴をあけて着ていました。
 稲を栽培するとともに養蚕をしており、紡いで目の細かい布や絹を作っていたようです。牛、馬、羊などの家畜はいないと書かれています。

 気候は温暖で冬でも夏でも生野菜を食しており、皆裸足で生活していました。屋根や部屋がある住居で、父母と兄弟は別の場所で寝たり休憩をしたりしていました。食事は竹などで編んだ高坏や木をくりぬいた高坏に食材を盛り、手づかみで食べていたようです。
 人が死ぬと、「かりもがり」といって10数日間は埋葬せずに置きました。その間は、肉を食べずに、喪主は泣き叫び、その他の人は歌い踊って酒を飲みました。埋葬が終わると一家そろって水中に入り、洗ったり浴びたりしました。現代で言えば身を清めるという意味でしょうか。

 海を渡る大きな旅をする場合は、ジサイと呼ぶ人が髪も梳かずシラミも取らず、衣服は垢で汚したまま肉も食べず女性も近づかず、喪中のような生活をしました。無事に目的地に着いたなら生口や財物を対価として与えるが、病気になったり危険な目に合ったりしたら命を取ったという。それは、ジサイが慎しまなかったからだと言うらしい。

 気がかりことや、何かを知りたいときは骨を焼いて、吉凶を占ったという。会合での立ち振る舞いは、男女、父子の区別はなく、人は酒を好んだらしい。敬意を表す時は、ただ手をたたくのみ。長寿で100まで生きる人がいるし、80歳も90歳もいるという。

 大人は4から5人の妻を持ち、下戸でも2,3人の妻を持っていた。婦人は貞節で、嫉妬もしない。窃盗せず、訴えも少ない。法を犯すと、軽いものは妻子を没し、重いものはその一家や一族を没した。尊卑はそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。

 下級階級のものが貴人に道で出会うと、後ずさりして草むらに入る。言葉を伝えたり物事の説明には、しゃがんだりひざまずいて両手を地面につけ、うやうやしく表現をする。貴人の返答は「あい」といった。
 女王国より以北にひとりの大率を置き検察し、諸国はこれを恐れている。常に伊都国で政務を執っている。国の出入りには伊都国の役人が港へ出向いて調査確認している。

 元々男子を王としていたが、7,80年後に国が乱れ攻撃し合っていた。一人の女子を共に立てて乱れが収まり、その名は卑弥呼といった。鬼道の祀りを行い、人々を惑わせた。高齢で夫はいない。侍女が千人いて自律的に働いていた。男子が一人いて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりしている。
 それでは、この邪馬台国は一体どこにあったのでしょうか。これも魏志倭人伝に詳しく書かれています。

「帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し韓国を通り過ぎ、北岸の狗邪韓国へ到達する。距離は七千里」。一里は短里で70メートルで計算します。7千里だと約490キロで、韓国の釜山の西の巨済島付近になります。

「海を渡り、千余里で対海国にいたる。絶海の孤島で400里四方。山が険しくて深い林が多く、千余戸の家がある」。これは、対馬になります。大きさや距離が合致します。

「南に海を渡り千余里。一大国に至る。300里四方で3000戸の家がある」。これは、壱岐にあたり、島の大きさも合います。

 「海を渡り、千余里。末盧国に至る。山と海すれすれに沿って住んでいる。魚やアワビを採ることが好きで、皆これを潜って採っている」。末盧国は福岡県の鐘崎、宗像市の海岸沿いの場所になります。ちなみにここは海女の発祥地とも言われています。伊都国での入国手続きのため、関門海峡を直接船で瀬戸内海にはいかず、一度九州へ上陸しました。

「東南に陸上を500里行くと伊都国に達する。千戸あまりあり、代々王がおり、女王国に従属している。郡の使者が往来し、常に足を止める所である」。伊都国は、今の福岡県の八幡製鉄がある場所です。東西の交通の便の要所でありました。

「東南に100里で奴国、東に100里で不弥国に至る」。不弥国は北九州市の東岸にあります。ここから、再び船に乗って瀬戸内海へ出ます。
「水行20日で投馬国に至る」。船で行く場合は、手漕ぎを基本にして、天候も考慮すれば、一日15キロぐらいだと言われます。水行20日だと300キロぐらいになります。

 それに、瀬戸内海は潮の流れが複雑で、小さな木造船では通りにくい場所です。当時は、国東半島をまわり、大分から佐田岬を通って四国沿いに移動するのが一番安全でした。投馬国は愛媛県の今治市にあたります。「とうま」はアイヌ語で二つの半島という意味だそうです。今治の手前には二つの半島があります。

 また、松山には古代の天皇が利用したとされる温泉があります。長旅の疲れをいやすため、ここの温泉を楽しみにして倭国までやってきたのでしょうか。
「水行10日、陸行ひと月で女王国に至る」。船で150キロ行って香川県の東端あたりで上陸し、剣山の麓へ入ったと想定されます。四国と言えば、高い山が多く、道なき道を剣山まで行くにはひと月ぐらいかかる可能性はあります。

 ここで、邪馬台国の姿を説明したいと思います。古代の中国、四国地方には高地集落が数多く存在しました。当時、遥か東の島々の日本列島を見つけ出しました。預言書の教えによって山々の頭としてそびえ立つ「主の神殿の山」を求めて、各地の山を上り詰め、その周辺に集落を作り続けました。イスラエル系の渡来人が訪れた四国や中国、近畿や中部に至るまで高地集落が広がりました。邪馬台国もその中の一つではなかったのかと考えられています。

 剣山の初めとして多く山々の頂付近には、いまでも不自然な笹薮が見られます。本来、森林が生い茂る場所であったはずの山腹を切り拓き、集落が存在した痕跡とみられます。それが、有るとき、第2波で渡来した大和を中心とした天孫族に非難され、その集落はすべて焼き払われたと考えられます。徳島県名西郡神山町神領高根にある悲願寺、同じく名西郡神山町には高野山真言宗の寺院四国八十八か所の十二番札所の焼山寺があります。その時の悲劇を伝えているのでしょうか。

 ちなみに、女王の国は東西に徒歩で5カ月、南北が3カ月とありますが、東西の比率は四国のそれと一致します。また、徳島を流れる吉野川はヘブライ語で「ヨシュア」「ナハー」で神の救いの川と言う意味だそうです。

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