『日之本文書』とシュメール文明「真実の日本史 真実の世界史『日之本文書』連載1万回1169回
中国の殷王朝はバビロンのネブガドネザル王のイシン王朝からの借史?
鹿島説によれば、中国の前期殷王朝の歴史は、エブス人たちが、メソポタミアの南部に築いていた前期イシン王朝(前21世紀~前1世紀)やバビロンのアモル王朝(前19世紀~前16世紀)からの借史と考えられている。
前2000年頃の前期殷王朝のイシュピ・イラは殷王朝の天乙王であり、前1800年頃の殷王朝の祖丁王はバビロンのアムル王朝のハムラビ一世であり、前1124年頃の後期イシン王朝のネブガドネザル一世は殷王朝の祖甲王のことであるという。
この過程について改装復刻版の前波仲尾著『復原された古事記』(復原された古事記刊行会)では、シュメール人の由来について、以下のような興味深い解説記事が掲載されている。前波は元満州教育専門学校長で、戦時中に『復原された古事記』を自費出版したが、「国体の尊厳」を傷つけるものとして、当局から解版を命ぜられてしまったという(引用文は筆者の責任において現代語訳してある)。鹿島説と類似的である。
「このシュメール族の由来をみると、もともとバビロニア文化を作り上げたものは、アラブ出のアッカド族とアフガン人のシュメール族の2つで、お互いに抗争し、融合したが、このシュメール族がバビロニアの滅亡に際して、その末期の文化を北中国に持って来て流布した。これが中国史にある尭舜禹(ぎょうしゅんう)族である」
「シュメール族がバビロニアの滅亡に際して、その末期の文化を北中国に持って来て流布した。これが中国史にある尭舜禹(ぎょうしゅんう)族である」――実に驚くべき指摘である。尭舜は中国の古代共同体国家の名君としても知られ、西郷隆盛なども高く評価している。彼らがシュメール族であるとしたらこれまた驚愕の事実である。
佐伯陽介も『現代革命と大崩壊』の中で、殷王朝がオリエントからやってきた民族による征服王朝であると見ている。
「殷部族が中国平原に現れた頃(前1400年頃)、彼らはすでに氏族専業化をとげた十集団の統一体として現れている。ということは、共同体の集団が勝手に変異し(狂気し)、氏族として専業化(この場合、農業専業化と牧畜専業化は一応除く)することはありえないから、どこかで上位社会から圧迫され、専業化せしめられた氏族の連合であったと考えられる。この段階の上位社会は、オリエント以外の地域にはみられなかったから、トルコ、アナトリア辺の専業化部族がはるばる辿りついたものであったと考えて良い。その論拠の一つは、この国家の主要な基礎に青銅冶金ということがあったからである」
「オリエントからやってきた氏族連合、共同体国家の人々が青銅冶金の技術をもって、殷殷として中国に植民した」――これもまた驚愕の事実である。シュメール系のイシン王朝の流民たちが青銅技術をもって殷王朝として植民した。ありうることではある。墟から都市の廃墟、甲骨文字、青銅器、象牙、象骨、真珠、子安貝など発掘されているが、それらはオリエントならびに海のシルクロードが起源であり、アラビア海、インド洋経由の海洋ルートの臭いが濃厚である。
すでに著者は「前2000年頃の前期殷王朝のイシュピ・イラは殷王朝の天乙王であり、前1800年頃の殷王朝の祖丁王はバビロンのアムル王朝のハムラビ一世であり、前1124年頃の後期イシン王朝のネブガドネザル一世は殷王朝の祖甲王のことである」という鹿島説を紹介しているが、後期イシン王朝のアラム人の王族が中国に植民して殷王朝を作ったということで両者整合性がある。
まさに鹿島曻は『バンチェン/倭人のルーツ』の中で、ウルク、ウル、イシンと夏、殷王統の一致表を示しながら「このように、殷王が実はアラム人(アムル人)のイシン王であることが判かれば、殷の実体はイシンのアラム王朝支配下の海人、カルディア人やエブス人の海商だったことが判るのではないか」と結論づけている。エブス人は殷王朝で先住民の苗族やシュメール人とも混血したのではないか。
メソポタミアでの馬の家畜化はいつからどこではじまったか
馬の飼育については、前2000年紀頃までは家畜化されていなかったとされてきたが、名著であるステファニー・ダリー著『バビロニア都市民の生活』の中で、この定説を覆す様々な発見を示している。同書曰く。文中のマリとは、ユーフラテス川中流の右岸(西岸)にあった古代シュメール人およびアムル人の都市国家のことである。
「マリ文書に初めて馬を指す文書が見つかったとき、研究者の間では驚きの声が上がった。紀元前2千年紀中頃まで馬は家畜化されていなかったというのがそれまでの定説だったからである。当時知られていたわずかな文献資料から推測すると、前2千年紀中ごろに馬を調練する技術を史上初めて導入したのはミタンニ人として知られるインド・ヨーロッパ語族の侵略民族だったと言われていたのである。前2千紀諸島の戦争形態では、馬に牽かせて走行する戦車はまだ本格的になっていなかった。しかし当時すでに馬匹が飼育・訓練されて、交易品の対象となったり、多様な目的に利用されるようになっていたことは明らかである。家畜としての馬利用を示す証拠は、主にマリ、カラナ、チャガル・バルサで出土した粘土いた文書群にある」
このように述べたうえで、著者は具体例をいくつか挙げているが、ここではマリにおける例を見てみよう。マリにおいては、家畜ウマの利用に関するさまざまな資料群が蓄積してきて、その実像が明らかになりつつある。アキートゥム祭の実施に際してシャムシ・アダド王がマリから、ラバ、馬とともに、戦車や荷車を送るようヤスマハ・アッドゥに指示する内容の書簡を出した。この史料からマリ王のもとには良い馬匹を飼育する厩舎があり、またすでに宗教儀礼における行列行進に利用されていたことが明白である、としている。
そして同書には、馬に関する図像、シリア様式円筒印章に軽戦車を描いた図像、初期の鼻輪がくっきりと見える戦車図像、カニッシュ出土の鼻輪に手綱をつけた2頭の馬が惹く車両が描かれた印章図像、手綱が鼻輪に装着され、人物が馬の尻近くに騎乗している土版の図像が掲載されている。
上記引用文のミタンニ人は前1450年頃に北部マリあたりに建国したフリル人の国家で戦士階級に支配されていた。特に馬を用いる技術に長けていたようである。彼らが馬を調練する技術を史上初めて導入したというのは理解できる。
0 件のコメント:
コメントを投稿