一四八九年の碑文「重建清眞寺記」
それ一賜樂業(イスラエル)の立教の祖師阿無羅漢は、迺ち盤古阿眈十九代目の孫である。天地開闢以来、おもね師は代々伝統を授受して、形像を塑らず、鬼神に諂らず、邪術を信じることがなかった。その時、鬼神も救いをもたらさず、偶像も人を助けず、邪術は無益だからである。思うに、天なる者は軽くかつ清らかにして上に在り、至尊にして並ぶ者がない。天道は語らず、四季行って、万物生ずる。観るに、それ春に生じ、夏に長じ、秋に斂め、冬に蔵する。飛ぶもの、泳ぐもの、動くもの、生え出るものがあり、繁茂・・開花・凋落がある。生ずる者は自ら生じ、変化する者は自ら変化し、形ある者は自らその形があり、色ある者は自ら色がある。祖師は忽然として目覚め、この幽玄の理おのずかを悟り、実に正教を求め、眞天に賛仰し、一心に天に仕えて、敬い慎しむことひたすらであった。その間において教の本を立て、今に伝わるに至る。これ思うに、周朝の百四十六年(紀元前九七七年)のことである。伝えられて、正教の教祖攝に至った。思うに、周朝の六百十三年(紀元前五一〇年)である。生まれながらに知恵純粋にしてかつ仁義俱備し、道徳は兼ね備わっていた。昔那山の頂に経を求め、潔斎すること四十昼夜、その嗜欲を捨て去り、寝膳を絶ち、誠心誠意祈禱したところ、信心は天心に感応した。正経一部、五十三巻にはその来歴が有る。その内容は至微至妙にして、善き者には人の内なる善心を感発し、悪しき者には人の逸脱しがちなる心を懲らしめる。さらに伝えられて正教の祖師靄子刺に至った。系は祖師に出で、道は租統を承けている。敬天礼拝道こそ、それを以て道の蘊奥を闡らかにするに足る。然らば道は必ず清眞の礼拝に基づく。清とは精一無二、眞とは眞正にして邪心無きこと、礼とは尊崇拝とは拝礼である。人は日用の間に於て片時たりとも天を忘れてはならぬ。思うに、寅(午前四時頃)午(正午頃)戊午後八時頃)にして三度礼拝するのは、逎ち眞実天道の理である。祖師・賢者の一途なる修法は如何。必ず先ずは沐浴し、衣を替え、その心を清め、その五官を正し、しかして恭敬して道経の前に進む。道に形像なく、厳然として天道は上に在る。ここでしばらく敬天礼拝の綱領を開陳しよう。始めは鞠して道を敬する。道は鞠躬に在る。中立して偏らず道を敬する。道は中立に在る。静かに存養し、無言のうちに讃美して道を敬する。不忘の天である。動いて省察し、声に出して讃美し道を敬する。不替の天である。退くこと三歩。忽然として背後に在る。背後に在る道を敬するのである。進むこと五歩。これを見れば、前に在る。前に在る道を敬することである。これを左にして鞠躬して道を敬する。即ち善道は左に在る。これを右にして鞠躬して道を敬する。即ち不善道は右に在る。仰いで道を敬する。道は上に在る。俯いて道を敬する。道は此処に在る。最後に道を拝する。敬は拝に在る。噫、天を敬して、祖を尊ばなければ、先祖を祀る所以ではない。春秋にはその祖先を祭り、「死に事ふるに生に事ふるが如くし、亡に事ふるに存に事ふるが如くす。」「これ牛、これ羊」、「その時食を薦む。」祖先の過ぎにしことを以て敬せざることはない。毎月の際には四日斎する。斎は乃ち入道の門、積善の基である。今日一善を積み、明日一善を積んで、善はそれでこそ積累するのだ。斎に至っては、諸悪成さず、衆善奉行せよ。七日善く終われば、週ってまた始まる。これ『易』に云う「吉人善を作すは、これ日に足らずとす」の意である。四季の際には、七日戒する。衆祖の苦難には、先人を祀って先祖に報じ、飲食を絶つ。一日大戒し、慎んで以て天に告げ、前日の過失を悔い、今日の新善に遷る。これ『易』に聖人の、益の大象にて云う言がある、「風雷は益なり。君子以て善を見れば則ち遷り、過を見れば則ち改む」と。まさにこの謂であろうか。噫、教道相伝え、その授受に来歴が有る。天竺より出でて、天命を奉じてやって来た。李・俺・艾・高・穆・趙・金・周・張・石・黄・李・聶・金・張・左・白の七十姓等有り、西洋布を以て宋に進貢した。皇帝は言われた、「我が中夏に帰せよ」と。祖風を遵守して、汴梁に留遺することになった。宋の孝宗の隆興元年癸未(一一六三年)に列微五思達がその教を領掌し、俺都刺が始めて寺を建てた。元の至元十六年己卯(一二七九年)、五思達は古刹清眞寺を重建し、土市字街の東南に落成した。周囲三十五丈である。我が大明の太祖・高皇帝國を開くに殆び、初めて天下の軍民を撫安する。およそその王化に身を寄せる者は皆土地を賜り、樂土に安居することになる。誠に一視同仁の心である。ここにおいて寺には管理運営する者がなければならない。ここに、李誠・李實・俺平徒・艾端・李貴・季節・李昇・李綱・艾敬・周安・李榮・李良・李智・張浩等、正経に通暁して、人に善を行うよう勧めていた故に、満喇と呼ばれた。その教道相伝えて今に至るも、衣冠礼樂正しく、時制を遵行し、言語、動作は古式に則り、人々成法を遵守して、天を敬い祖を尊び、君に忠に親に孝たること、すべて彼ら満喇の力なのである。俺誠医士、永樂十九年(一四二一年)周府定王の伝令を奉じ、香を賜って、清眞寺を重建し、寺中に「大明皇帝万万歳」の牌を奉じた。永樂二十一年(一四二三年)、功有るを聞こし召されて趙姓を賜り、錦衣衛指揮を授かり、浙江都指揮僉事に昇る。正統十年(一四四五年)、李榮・李良自ら資財を備え、前殿三間を重建した。天順五(一四六一年)に至り、河水に溶没したものの、その基址はほぼ残存した。艾敬等は具申し、先に本府に奉って、河南布政司の認可を受けたのに従い、至元の年(一二七九年)の古刹清眞寺に基づき此れに則った。李榮は再び資財を備え、幽邃に建造し、金箔五彩にて美装を施し、煥然として一新した。成化の年(一四六五一四八八年)に、高鑑・高鋭・高鉉、自ら資財を備え、後殿を増建した。金箔五彩にて美装を施し、道経三部を安置した。外に穿廊を作って、前殿に連接し、迺ち永遠の計を為した。これが蓋し寺の前殿・後殿の来歴である。天順の年(一四五七―一四六五年)、石斌・李榮・高鑑・張瑄は、寧波より本教の道経一部を取り寄せた。寧波の趙應が一部を捧げて汁梁まで持ち来り、寺に納めたのである。高年は貢士の身分により徽州歙県の知県に任じられ、艾俊(がいしゅん)は挙人の身分により徳府の長史に任じられた。寧夏の金瑄は、先祖が光禄寺卿に任じられ、伯祖勝が金吾前衛千兵に任じられ、瑄は供卓・銅爐・瓶・燭台を購入した。そこで金瑄の弟瑛は、弘治二年(一四八九年)に資財を喜捨して、寺地一段を購った。金瑛と金鍾とは、趙俊に託して碑石を購った。俺都刺がその基址を立てて、その端を発し、李榮・高鉉が建造し、これを完成して、寺に功が有った。諸氏は、公格・経龕・経楼経卓・連籠・欄杆付簷の品々、食器を喜捨し、また周囲を彩色をもって画飾する費用を調達し、全寺を壮麗にした。愚考するに、三教には各々殿宇が有り、その主を尊崇する。儒教に在っては則ち大成殿が有り、孔子を尊崇する仏教に在っては則ち聖容殿有り、釈迦牟尼を尊崇する。道教に在っては則ち玉皇殿が有って、三清を尊崇する。清眞に在っては則ち一賜樂業殿が有って、皇天を尊崇する。それ儒教と本教とは大同小異であるとは雖も、その立心制行では、また天道を敬い、祖宗を尊び、君臣を重んじ、父母に孝養を尽くし、妻子に和し、尊卑の序を守り、朋友に交わるのであって、五倫に外れない。噫、人は徒に清眞寺の礼拝敬道を知るのみで、ことに道の大本が天に発し、古今相伝え、あざむくことの出来ぬのを知らない。されども、本教での尊崇はかくの如くに篤い。徒に福田の利益を求めて計るのみではない。君の恩を受け、君の禄を食み、ここに礼拝して、天に祈る誠心、報國忠君の意を尽くしている。大明の皇上、その徳は禹・湯に勝り、聖は堯舜に並び、聡明叡知は日月の照臨に同じ慈愛寛仁は広大無辺の乾坤にも匹敵し、國祚の綿々たらんことを頌視する。聖なる天子の万年にまでいのち長く、皇土の鞏固ならんことを祈り、天長地久、風雨順調にして、共に太平の福を享けんことを願う。これを金石に刻み、よって永久に伝えんとする。
開封府、儒學增廣生員、金鐘撰
祥符縣、儒學廩膳生員、曹佐書
開封府、儒學廩膳生員、傅儒篆
弘治二年、己酉の歳(一四八九年)に在り。仲夏の吉日、清眞の後人、寧夏の金瑛、祥符の金禮、共にこの石碑建立する。瓦匠は呉亮・呉遵。
一四八九年の碑文「重建清眞寺記」解説
開封のユダヤ人の運命について、陳舜臣はその著書『日本人と中国人』の中で次のように述べている。各地に散ったユダヤ人のうち、中国にはいった一派だけは溶けて消えた。シナゴーグもタルムードも、またトインビーのいう「文明の化石」の断片も、中国にはのこらなかった。一九世紀初頭に開封最後のラビが亡くなって、北宋以来続いてきたユダヤ人共同体が徐々に衰退し、ついには消滅してしまったという意味では、確かに陳舜臣のこの言葉は正鵠を射ている。二〇世紀に入ってからも、ユダヤ人がまさに溶けて消えた」南教経胡同の隅々から開封のユダヤ人の信仰と生活に直結したあらゆる文物がカナダやアメリカ、イギリス、あるいはイスラエルなどへ持ち去られてしまった後、「トインビーのいう『文明の化石』の断片」も、開封には残らなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%BB%BA%E6%B8%85%E7%9C%9F%E5%AF%BA%E8%A8%98
夫一賜樂業(イスラエル)立教祖師阿無羅漢(アブラハム)、乃盤古阿躭(アダム)十九代孫也。自開闢天地、祖師相傳授受、不塑於形像、不諂於神鬼、不信於邪術。其時神鬼無濟、像態無祐、邪術無益。思其天者輕清在上、至尊無對、天道不言、四時行而萬物生。觀其春生夏長、秋斂冬藏、飛潛動植、榮悴開落、生者自生、化者自化、形者自形、色者自色、祖師忽地醒然、悟此幽玄、實求正教、參贊真天、一心侍奉、敬謹精專、那其間立教本至今傳、考之在周朝一百四十六年(紀元前900年)也。一傳而至正教祖師乜攝(モーセ)考之在周朝六百十三載(紀元前433年、西周孝王8年)也。生知純粹、仁義俱備、道德兼全。求經於昔那山(シナイ山)頂、入齋四十晝夜、去其嗜慾、亡絕寢膳、誠意祈禱、虔心感於天心、正經一部、五十三卷、有自來矣。其中至微至妙、善者感發人之善心、惡者懲創人之逸志。再傳而至正教祖師藹子剌(エズラ)、系出祖師、道承祖統、敬天禮拜之道、足以闡祖道之蘊奧。然道必本於清真禮拜、清者精一無二、真者正而無邪、禮者敬而已矣、拜下禮也。人於日用之間、不可頃刻而忘乎天、惟寅午戌而三次禮拜、乃真實天道之理。祖賢一敬之修何如、必先沐浴更衣、清其天君、正其天官、而恭敬進於道經之前。道無形像、儼然天道之在上。姑述敬天禮拜綱領而陳之、始焉鞠躬敬道、道在鞠躬也。中立不倚敬道、道在中立也。靜而存養、默贊敬道、不忘之天也。動而省察、鳴贊敬道、不替之天也。退三步也、忽然在後、敬道後也。進五步也、瞻之在前、敬道前也。左之鞠躬敬道、即善道在於左也。右之鞠躬敬道、即不善道在於右也。仰焉敬道、道在上也。俯焉敬道、道在爾也。終焉而拜道、敬在拜也。噫。敬天而不尊祖、非所以祀先也。春秋祭其祖先、事死如事生、事亡如事存。維牛維羊、薦其時食、不以祖先之既往而不敬也。每月之際四日齋、齋乃入道之門、積善之基。今日積一善、明日積一善、善始積累。至齋、諸惡不作、眾善奉行。七日善終、周而復始。是易有雲、吉人為善、惟日不足之意也。四季之時七日戒、眾祖苦難、祀先報本、亡絕飲食。一日大戒、敬以告天、悔前日之過失、遷今日之新善也。是易聖人於益之大象有曰、風雷益、君子以見善則遷、有過則改、其斯之謂與。噫。教道相傳、授受有自來矣。出自天竺、奉命而來、有李、俺、艾、高、穆、趙、金、周、張、石、黃、李、聶、金、張、左、白七十姓等、進貢西洋布於宋、帝曰、歸我中夏、遵守祖風、留遺汴梁。宋孝隆興元年癸未、列微五思達、領掌其教、俺都剌、始建寺焉。元至元十六年己卯、五思達重建古剎清真寺、坐落土市字街東南、四至三十五杖。殆我大明太祖高皇帝開國初、撫綏天下軍民、凡歸其化者皆賜地以安居樂業之鄉、誠一視同仁之心也。以是寺不可無典守者、惟李誠、李實、俺平徒、艾端、李貴、李節、李昇、李綱、艾敬、周安、李榮、李良、李智、張浩等、正經熟曉、勸人為善、呼為滿剌。其教道相傳、至今衣冠禮樂、遵行時制、語言動靜、循由舊章、人人遵守成法、而知敬天尊祖、忠君孝親者、皆其力也。俺誠醫士、永樂十九年(1421年)奉周府定王傳令、賜香重修清真寺,寺中奉大明皇帝萬萬歲牌。永樂二十一年以奏聞有功、欽賜趙姓、授錦衣衛指揮、升浙江都指揮僉事。正統十年、李榮、李良自備資財、重建前殿三間。至天順五年、河水渰沒、基址略存、艾敬等具呈、按照先奉本府承河南布政使司札付等因至元年古剎清真寺准此。李榮復備資財、起蓋深邃、明金五彩妝成、煥然一新。成化年高鑑、高銳、高鋐、自備資財、增建後殿三間、明金五彩妝成、安置道經三部、外作穿廊、接連前殿、乃為永遠之計。此蓋寺前後來歷也。天順年石斌、李榮、高鑑、張瑄、取寧波本教道經一部、寧波趙應捧經一部、賫至汴梁歸寺。高年由貢士任徽州歙縣知縣、艾俊由舉人任德府長史。寧夏金瑄、先祖任光祿寺卿、伯祖勝、任金吾前衛千兵、瑄置買供卓、銅爐瓶燭台、乃弟瑛、弘治二年、捨資財、置寺地一段、瑛與鍾托、趙俊置碑石。俺都剌立基址啓其端、李榮、高鋐建造成其事、有功於寺。諸氏捨公帑、經龕、經樓、經卓、連籠、欄桿、供卓、付檐諸物器皿、亦為妝彩畫飾周圍之用、壯麗一方。愚惟三教、各有殿宇、尊崇其主。在儒則有大成殿、尊崇孔子、在釋則有聖容殿、尊崇尼牟、在道則有玉皇殿、尊崇三清。在清真、則有一賜樂業殿、尊崇皇天。其儒教與本教、雖大同小異、然其立心制行、亦不過敬天道、尊祖宗、重君臣、孝父母、和妻子、序尊卑、交朋友、而不外於五倫矣。噫嘻、人徒知清真寺禮拜敬道、殊不知道之大原出於天、而古今相傳、不可誣也。雖然、本教尊崇如是之篤、豈徒求福田利益計哉。受君之恩、食君之祿、惟盡禮拜告天之誠、報國忠君之意、祝頌大明皇上、德邁禹湯、聖並堯舜、聰明睿智、同日月之照臨、慈愛寬仁、配乾坤之廣大。國祚綿長、祝聖壽於萬年、皇圖鞏固、願天長於地久、風調雨順、共享太平之福。勒之金石、用傳永久雲。
開封府儒學增廣生員金鐘撰
祥符縣儒學廩膳生員曹佐書
開封府儒學廩膳生員傅儒篆
弘治二年歲在己酉仲夏吉日清真後人寧夏金瑛、祥符金禮並立瓦匠吳亮、吳遵[1]。
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