Ⅱ 源流を中国に探る
少彦名神と羌族
わが国の塩神とみた少彦名神一族の源流はどこに行きつくのだろうか。
少彦名神の祖スサノヲ神は、わが国では牛頭天王(ごずてんのう)とか都怒我阿羅斯等(角が有る人)としてあらわれ、朝鮮半島でも同様のイメージであらわれるので、この「牛頭(ソシモリ)」とそれに関連する地名を追うことで、この一族の足跡を朝鮮半島の南部から北部に遡ることになる。その北は中国の東北地方(とくにその南東部の遼西)であり、その地を経て中華文明の発祥の地たる黄河中流域、いわゆる中原の地に行きつく可能性もでてくる。
少彦名神は塩の神ばかりでなく、酒・薬などの神であり、近親神ないし別名の天目一箇神としては鍛冶金属(とくに鉄)の神でもあった。いわば当時の先進技術・知識のわが国における体現者であったことから、往時、中原にいた部族にその源流を尋ねても不思議ではない。また、鳥取部(鳥養部)の祖として、中国古代の東夷のもつ鳥トーテミズムにも関連しそうである。
ここ数年(1990年代前半)、古代中国の春秋戦国時代の英雄たち、すなわち晋の文公重耳や斉の晏嬰・孟嘗君等の人物を描いた小説を発表して評判をとっている作家に宮城谷昌光氏がいる。宮城谷氏は1996年の初めから殷周革命の大立者、太公望(呂尚)をテーマとした小説「太公望」を産経新聞に連載しはじめた。その第十回目には極めて興味深い叙述がある。太公望は殷(商)帝国に人狩りの対象とされた温和な牧民種族・羌族の出であるが、その羌族についての記述であり、その一部を引用させていただく。
「羌族の信仰の対象は岳であり、岳のなかで、太岳(たいがく)、とよばれるもっとも尊貴な山は、中国の中央にある嵩山(すうざん)である。だが、羌族にとって哀しいことに、その聖なる山は商民族に奪われた。…………(中略)…………呂(註;呂望の出身地とみられる邑の名)からまっすぐに北上してゆくと嵩山がある。嵩山からさらに北上すれば黄河がある、ということを考えれぱ、商民族が西方に伸長してくるまえは、黄河の中流域から淮水(わいすい)の上流域にかけて、羌族が多数遊牧をおこなっていたのであろう。ちなみに、嵩山の近くに、夏王朝の始祖というべき禹(う)王が築いたと伝えられる陽城があり、羌族と夏王朝の影が歴史のうえでかさなるのである。」
この羌族・夏王朝と嵩山についての記述から、私は少なからず衝撃をうけた。というのは、少彦名神族裔氏族の出雲からの移動経路上の重要な地点には、わが国でも全く同名の嵩山があらわれるからである。中国の嵩山は、河南省洛陽の東南近隣、黄河の南岸にある標高一四四〇Mの山であって、中国の聖山五嶽の中嶽とされる。いま日本列島上には嵩山という名の山が二個所あり(ともに「だけさん」と訓む。ほかに、「たけやま」と訓む群馬県吾妻郡中之条町にある霊山〔嶽山〕や愛知県豊橋市に「すせ」と呼ぶ地名もある)、島根県松江市の北東部と山口県の大島(大島には屋代郷もあった)にみられる。この二個所とも、天孫族系の出雲国造、大島国造の領域にある。嵩山に通じる嶽山、岳山、御岳山という地名まで考えれば、日本ではその意味がもっと大きくなる。これは決して偶然の一致とは考えられない。こうした共通性を重視すれば、上古代の中国の中原を舞台に活動する諸種族や初期王朝についての検討が必要になってくる。
古代中国の塩
生活必需物資の塩は、古代中国でも、中原の民族・王朝の盛衰に大きな影響を与えてきたといわれる。
夏王朝の本拠が安邑付近であるならば、これには相当な事情があるものと考えられる。安邑の東北方近隣にいま夏県という地があることに加え、安邑から西南の解州(解県)にかけて「解池」という有名な大塩池(東西40キロ、幅6キロという規模の湖)があり、そこで産した塩が古来中原一帯で消費されていたので、商業経済の中心でもあったという推測がなされうるからである。『三国志演義』で有名な蜀の武将関羽の出身地は河東郡解県(山西省運城市解州鎮)であって、その出身地から塩の密売に関っていたといわれる。関羽の先祖は夏王朝の桀王の臣下であった関竜逢だと伝える。
宮崎市定氏は、「私の大胆な見当を言えば、山西省の南部、有名な塩池のある解県の付近は伝説上、最も古く著れた土地であり、夏王朝の都も、その前の堯・舜の都もこの付近にあったと伝えられる。塩と文化とは密接な関係をもち、塩は古代各地で貨幣の用を勤めていた。中国の最古の貨幣的物質も塩であったと思われる。この付近を中心として中国最古の文化が発祥してよい筈だと思うが、考古学的実証の裏付けがないから、確言はしかねる」と記している(『中国古代史論』)。
夏王朝と塩の結びつきが密接であれば、五帝につづく伝説的な帝禹にはじまる夏王朝の時代に、はやくも塩専売制がはじまったといわれることも、ありえよう。帝禹は塩の豊富な山東省地方に塩を供給するよう布告を出したともいい、年貢として塩を集める制度が夏王朝のころからできあがっていたとされる(*22)。
解州塩池が政治に最も影響を与えたとみられるのは、秦の始皇帝による天下統一である。秦に対峙する東方の六国は、魏が所有した解州塩の販運圏内にあり、この塩池を中心に一つの経済ブロックが形成され、それが政治的紐帯にもつながっていた。魏の首邑・安邑は当初この塩池の付近におかれていた。ところが紀元前三世紀の前半(秦の昭襄王21年、前287年)に、塩池を含む解州一帯を秦が奪取して魏が東遷(首邑が大梁〔河南省開封市〕へ)を余儀なくされるとともに、六国の政治的結合も次第に弱まり、これに乗じて秦は六国を順次滅ぼした。秦は戦費等調達のため、塩及び鉄に高い税金を課したとされる。
殷・周の政治的統一や古代文明の発展にも、解州塩池の塩が大きな役割を果たしたといわれる。殷はもと「商」といわれ、その領域は中原でも夏にくらべてやや東方に位置して、もともと東夷の一ではなかったかとみられるが、やはり解州塩池を占有して塩を四方の民族に販売して隆盛のもとを築いたという。商取引行為は商部族の得意とするところであり、その対象は塩の販売にほかならなかった。
殷にかわった周は、西戎の流れを引くようで、中原の西方に位置する陜西省の渭水(黄河の支流)の流域に興起した。西周時代の首邑豊鎬は解州塩池から離れており、西方の牧畜にすぐれた周部族は逆に商売は得手ではなかったようで、周朝治世下においても殷人が周朝のために塩の販売を行った。周が中興後、東遷してからの首邑は洛陽となり、こんどはかなり大塩池に近づいた。塩の代価としての諸物資は、四周の地方から洛陽にもたらされ、洛陽や周の発展につながったといわれる。
このように、解州塩池が古代中国の歴史に大きな役割を果たしたが、東北地方に起こった契丹民族の勃興・発展でも、太祖(耶律阿保機)が塩池を支配したことが大きな力となったものとみられている(*23)。
中国では、周やその後に秦が起こった陜西省の北部や、内陸部の甘粛・青海・新疆・蒙古、東北三省等にも塩池があり、四川の嘉陵江流域や雲南・貴州では塩井、湖北・湖南には僅かだが岩塩もある。しかし、主要な塩はやはり海塩で、その産地は東海(東シナ海)の海岸部にあり、北から遼東・長蘆(河北省)・山東・准南・両浙・福建・広南などがあげられる。
春秋時代の斉の宰相管仲(前七世紀の中頃死去)がその主君桓公に「陰王の国、三つ有り」と説くくだりが『菅子』にある。「陰王」とは、周王の下での諸侯で実力的に王者にひとしい者をさし、管仲は春秋の国々のなかで、斉・燕・楚の三国の侯がそれにあたるとしている。このうち、斉には渠展(地名)の塩があり、燕には遼東の煮(これも塩のこと)があって、陰王となるための基礎となった。斉の桓公は春秋五覇の第一にあげられるが、管仲が塩の専売制度を設立したといわれる(*24)。
中国では広大な面積に比して海岸線が短く、かつ東に偏していて、内陸部の少数の塩池・塩井をあわせても塩産地が限定されたという事情があるため、国家による塩の専売に便宜を与え、二千年の長きにわたりそれが施行される基礎となった。塩の財政収入は唐・宋代には歳入の半ばを占めたようであり、清代や中華民国の時期にも三割前後の割合を占める重要財源であった。初めて塩専売が行われたのは漢の武帝の元狩年間(前122~前117年)であり、外征等で国家財政が窮迫したための導入であった。
その後、塩専売は設置されたり廃止されたりしたが、八世紀中葉、唐の粛宗(7代皇帝で、玄宗の子)の至徳年間に復活して塩鉄使がおかれ、それ以来約千三百年にわたり、国家の厳しい管理のもとで継続実施された。一方、塩の専売により塩価は高騰し、塩商は密売者も含めて政治的経済的に大きな力をもち、その財力が文化に貢献した例もある。唐や元の有名な反乱者の多くは塩密売の頭領であり、塩の価格・品質が一般大衆の不満を助長したなどという様々な弊害も指摘される。このように、塩は古代から大きな役割を果たしてきたが、古代では塩や鉄の専売をどう扱うかは国の政治経済の一大問題であり、漢の昭帝(武帝の次代)のとき、これを巡る大議論が五年ほども宮廷内で続けられ、桓寛の『塩鉄論』12巻としてまとめられている。
中国の塩起源についての伝承
中国では塩の起源が種々あったものと考えられるが、伝説では三皇五帝という神話時代の黄帝あるいは炎帝のときに、宿沙(しゅくさ)氏が初めて海水を煮て塩を作ったといわれる。
中国では実際にそのものずばり塩氏を名乗るものがあり、『姓氏詞典』は塩氏について次の二つの起源をあげる。
(1)毋塩(むえん)氏を源とし、斉の毋塩大夫の後(『姓氏考略』)。毋塩はすなわち無塩と同じで、戦国の斉邑であり、故城はいまの山東省東平県の東20里にある。
(2)世襲の職掌をもって姓氏としたもの。塩池を掌るもの子孫が以って姓氏とした(『姓氏考略』)。
こうした記述を整理すると、初めて塩を作った宿沙氏は、三皇の一人とされる伏羲の後裔で風姓であり、子孫は山東省東平県の東にあって、宿氏・無塩氏・塩氏を名乗ったことになる。伏羲の性格は後述するが、洪水神・竜蛇神の色彩があり、わが国の海神族にも通じるものか。
なお、氏と姓については、日本では例えば藤原朝臣というとき、藤原が氏で朝臣を姓といい、合わせて姓氏というが(これから派生する近衛とか九条は苗字・名字という)、中国では、例えば劉という氏が祁(き)姓陶唐氏(帝堯のこと)に由来するというように、氏のおおもと(大宗)が姓であり、姓は、動物などのトーテムに由来して、部族集団をあらわす名であった。ただ、戦国時代になると、姓と氏とは混同され、秦・漢の天下統一後は姓と氏とは合一してしまったという事情にある。
こうして見ていくと、中国の塩神の源流をさぐるには、「三皇五帝」といった古い神話伝承の検討が欠かせないものとなってくる。
三皇五帝と中国上古の王朝
中国神話上の帝王や上古の王朝をとりあげ、塩・鉄などを含め様々な観点から検討を加えて記述してみたところ、大部なものとなったので、ここでは本稿の主題に関係のある部分を中心に要約的に記しておきたい。
これら三皇五帝を日本との関連で考えると、炎帝・少昊の系統には東夷・ツングースとの関係の深さが見られる。とくに塩神少彦名神系統との関係でみると、炎帝が注目される。炎帝神農氏は姜姓で、その母が神竜に感精して生まれた子であり、人身牛首で火徳の王、農業・医薬の神であった(*27)。姜姓とは太公望の姓でもあり、中国西方に起源をもつ牧羊種族の羌族に出自する。炎帝は、わが国では三皇のうちでも最も親しまれ、大阪の薬の街、道修町では毎年冬至に神農祭が行われていて、わが国の医薬神たる大己貴神・少彦名神に通じる。また、火徳の竈神や牛頭人身は、スサノヲ神(牛頭天王)の特徴であった。姜姓は岳神四嶽の子孫と称するが、スサノヲ神など天孫族の系統には高山に天降りする伝承が多い。
三皇の一の伏羲やそれに関連する蚩尤(しゆう)という神は、風神の性格が濃いが、わが国でも竜田風神などの風神奉斎が見られる。竜田風神は信濃諏訪神に縁があり、古くから五穀豊穣、航海安全に霊験があるといわれる。蚩尤は風伯・雨師を率い、「亀足、蛇首」だったという一伝もあるが、その一方、炎帝神農氏の子孫で牛頭で鉄の額をもつともいう(ともに『述異記』。複合性格の神か)。先に述べた塩製造の始祖宿沙氏は、伏羲風姓の後といい、山西省解州の大塩湖は、その色赤く、その俗にこれを蚩尤血と呼ぶといわれる(*28)。伏羲は中国江南地域にいた苗族系統の神のようでもあり(苗族には蚩尤崇拝もあったという)、洪水神、魚神で人頭竜蛇身であったとされるが、これは越種族やわが国の海神族にもつながる。蚩尤はツングース種かと白川静氏は述べる。
次に、五帝の一の少昊金天氏は、一説には黄帝の子にも位置づけられるが、華夏族(のちの漢族で、夏王朝を建てた種族も先祖のなかにもつ)の祖で熊トーテムの黄帝に対し、鳥トーテムをもつ東夷の祖としてとらえられ、白帝ともされる。新羅王家の金氏は優れた製鉄鍛冶技術をもち、鳥トーテミズムがみられ、少昊金天氏の後裔と称していたが、この金王家と同族であったのが少彦名神であり、わが国の鳥取部・弓削部の祖であった。少昊の子の揮は初めて弓矢を作り、張姓を賜ったと伝える(*29)。
夏の存在については、春秋時代の金文や『書経』の「周書」諸篇の文献としての信憑性からいえば実在性が推定されるという見解(*30)があり、これが妥当なところであろう。近年の中国考古学では、炭素14年代測定法などにより、河南省偃師市の二里頭遺跡(数カ所の宮殿跡も見つかったとされる)や河南省登封市の王城崗遺跡(嵩山の近隣)、新密市の新砦遺跡が夏王朝の時代に相当する年代のものとして確定する動きもある(この測定法には年代が遡上傾向であらわれるなど問題がないでもないが、概ね夏の遺跡としてみてよいか)。二里頭遺跡からは青銅器や土器、それに青銅器鋳造工房跡も発見されている。
現在の中国の歴史学会と考古学界では、古文献にみえる夏時代に関する記録は基本的に信用でき、夏王朝が歴史上実在した王朝であることを認めている、と王巍氏(当時、中国社会科学院考古研究所助教授)が記している(*31)。とはいえ、夏王朝17人の王の実在性はともかくとして、約四百数十年の治世と紀元前十七、八世紀に滅んだという年代設定は、王一人当たりの年代が長く古すぎて、極めて問題が大きい。日本ばかりでなく、中国・朝鮮半島においても、実際の物理的生物的存在である人間が活動したことを念頭に置いて、この観点から科学的な年代設定の再検討をもとめる必要性が強いと思われる(中国の国家的事業としてなされた年代確定プロジェクトの結果の数値については、遡上しすぎの疑問もある)。
北方の匈奴は夏后氏の後裔と伝え、江南に興った越も夏后帝少康の庶子無余が会稽に封じられたのが起源といわれる。越については、有名な越王勾践の父の允常まで歴代を明らかにせず、越が鳥トーテミズムをもった模様であることから、祖の少康は帝少昊の訛伝とも考えられるが、中世ヴェトナムの安南王朝に関する史書『大越史記』等の記述からいって、越を匈奴に通じる北狄系で、タイ民族系部族とみるのが一応、妥当ではなかろうかと考えられる。白川静氏も、夏は狄種、殷は夷系、周は戎系とみている(『中国の神話』)。
春秋時代に越と激しく戦い、遂には前473年に越に滅ぼされた呉は、周王朝の武王の大伯父・太伯から出たという系譜を伝える。呉は第20代の王・闔廬及びその子の夫差のときに全盛期を迎えるが、その盛時は短かった。呉にも鳥トーテミズムらしきものがみられるので、楚と同系統の種族との混血があっても、周と同系で東南夷に属した(戎夷は相い通じるか)とみてよさそうである。
日本列島への諸種族の到来
前章でも日本人の形成について触れたが、ここではもう少し記しておく。
タイ系(夏部族と同系)の人々は、越の滅亡などの事情で紀元前四世紀前後に九州北部に到来したものとみられ、博多平野一帯に奴国を建てて、稲作と青銅器などの弥生文化を普及させた。海神族として竜蛇信仰をもった種族であり、中国古代の三皇の一、伏羲の竜蛇身体という神話が想起される。なお、日本列島の倭人は呉太伯の末裔であるという所伝を昔からもっていること(『魏略』)、日本列島に東海姫氏国があったという伝承や、もと筑前南部に居住した松野連氏(*32)がその系譜伝承として呉王夫差の後と称したなどの事情からいって、あるいは奴国王家は呉公室(姫姓の周と同族という)と同様な種族の流れもひくものではないかという考えにもつながるが、呉・越の関係は明確ではない。呉や越には文身(入れ墨)の風習があったが、邪馬台国時代の日本の海人にも同じ風習があったとされるから、この辺での共通点もある。
金関恕(かなぜきひろし)氏は、『三国志』の「魏書」東夷伝の記事等から、わが国の弥生時代でも韓地と同様に、鳥霊信仰と複合した鬼神(祖霊や穀霊)のマツリが農耕儀礼として行われ、鳥杆(ちょうかん。杆頭に木や石の鳥形をつけて立てたもの)と大木を立てて銅鐸を打ち鳴らし、その音色にのって舞い踊るシャーマンの姿を復元している(*33)。
次に、紀元元年前後頃に日本列島に渡来してきたとみられるのが、殷部族や羌族と同種同系とみられる人々で、東夷(ツングース)主体で北狄(蒙古系)と混血したできた種族ではないかとみられる。「天孫」と称した種族で日神信仰が強く、初期(神武天皇以降、仲哀まで)の大和朝廷を築いた。この一統は扶余・高句麗・百済を建てた種族と同系統ではないかともみられる。また、新羅王家の朴氏・金氏と同族であり、朴氏初祖で新羅初代の王と伝える朴赫居世にも卵生神話が伝えられる。天からの降臨伝承は、中国西域の天山山脈(そのなかのハン・テングリ山)、モンゴル共和国のオトホン・テングリ山(天の山)、中国遼寧省北部の天山につながって、日本列島でも佐賀県や愛媛県に天山がみえ、これが奈良県の天香山へという地名の流れもみられる。
神武天皇の王統は新羅の朴王家と同系とみられるが、この一族と扶余・百済の王家との関係ははっきりしない。そのため、百済王家の初期分流が日本列島に来たという見方のほか、もう一つの可能性も考えられる。それは、殷の一族箕子の後裔が朝鮮半島南部に逃れて韓国を建て、その一族が日本列島に到来したものとみる見方である。殷周革命の際(通説では前十一世紀ごろとするが、実際には九世紀代か)、紂王の叔父といわれる箕子は中国東北辺に行き、周の武王から朝鮮王に封じられたという。これが「箕子朝鮮」と一般に呼ばれ、伝説上の古朝鮮とされる。その四十数世の後裔という朝鮮王準が前二世紀のはじめ、燕からの亡命者衛満に国を奪われたので、臣下等数千人を率いて海上に逃れ、馬韓の地を攻撃して降伏させ自立して韓王となったが、この準の子孫が滅びると、馬韓の人が自立して辰王となったという(『後漢書』韓伝)。
箕子朝鮮の建国伝承については、わが国では総じて否定説が多いようである。しかし、周の易姓革命の時期と同様、時期を引き下げて前九世紀の前半ごろの建国に置きかえる必要があるのではないかと考えるものの、その四十数世の王も含めて王統や建国についての所伝は基本的に信頼できるのではないか、と私は考えている。この古朝鮮と伝えられる国は、河北省にあった燕の北につづく遼寧省西部の朝陽県(朝鮮や阿斯達〔アサダル〕に通じる地名。遼寧省の天山の約250キロ南方)の一帯を中心とした国で、韓ともいった。韓侯が周王朝に冊封され服属したことは、『竹書紀年』周成王12年の記事や『詩経』大雅篇の「韓奕(かんえき)」に見え、韓と箕子朝鮮とが同じであったことは、後漢の王符の著『潜夫論』巻九(志氏姓)の記事からしられる。
韓の領域にあった遼東半島南端の大連市郊外の崗上墓・楼上墓では、高度な青銅器文化のほか大量の殉葬がみられ、殷の同様な風習が想起される。わが国でも、垂仁朝の野見宿禰の献言で埴輪に替えられるまでは、生きている人々を殉葬した風習があったことは『日本書紀』に記される。殷の王権儀礼には真床追衾(まとこおふすま)という儀礼が見られ(白川静氏)、わが国の天孫降臨の際にも同様な儀礼があったと伝える。韓侯が支配したと「韓奕」に見える貊とは、扶余・高句麗を含む種族であり、具体的には、韓侯の国の北方、西遼河の上流域のシラムノン河・ラオハ河の流域にいた東胡(鮮卑・烏丸の先祖)であった。韓侯の一族は、東胡への支配を通じて通婚などの交流を行い、その伝承や風習・信仰等も吸収した可能性がある。
韓はその勢力の拡大もあるが、むしろその南方に位置する燕の強大化に圧迫された事情もあってか、次第に東方へ遷ったようで、最後の王の準のときには王倹城(平壌説や遼寧省の遼河下流域〔営口市〕説があり、後者が妥当か)に居していた。この滅亡のとき、一族はさらに南遷して朝鮮半島南部へ行き韓王といったが、その後また滅びて、子孫は四散した模様である(その後裔の韓氏がわが国に渡来して、『姓氏録』右京諸蕃に見える麻田連・広海連などを出した)。『三国史記』の新羅本紀では、朴赫居世の建国について朝鮮の遺民が山の谷間(慶州盆地)に分居して六村を形成していて、そのうち閼川の楊山村の林におかれた卵から出生したのが赫居世だと記される。ただ、新羅の建国の時期として「新羅本紀」に記される前57年は、新羅王統を世代的にみていくととても信頼できず、実際には紀元二世紀後半のことと推定される。
話を日本に戻して、天孫族などを含め、前四世紀から後一世紀頃までに大陸から渡来した諸種族が、日本列島先住の縄文人(苗・カンボジア系で犬卜一テミズムがある)と混血して、次第に現代日本人の原型が形成されていったとみられる。
各々の種族の渡来時期について、もう少し詳しく検討してみると、海神族が青銅器文明をもっていたことから考えて、鉄器が広く普及する前の時期とみられる。鉄は中国では春秋時代から登場するが、越王勾践(在位:前496~前465年)の剣も、次いで1976年に湖北省襄陽で発掘された呉王夫差の剣も、ともに青銅製であった。わが国への稲作の到来も、前五世紀ないし前四世紀とみられており、これと符合しよう。
次に、天孫族の到来時期については、その出自が高句麗の建国者とともに半島を南下した同族ではなかったかと考える場合には、高句麗の建国の前一世紀後半に若干遅れる頃だったのではないかとみられる。ただ、箕子朝鮮の支配階層の流れと考えれば、もう少し早くてもよいことになる。わが国での天孫族の始祖スサノヲ神(五十猛神)について、その系図を基礎に遡れば、活動時期の始まりが紀元一世紀の前半ではないかとみられる。そして、この列島到来までに、鉄をはじめ各種の先進技術を取得していたものであろう。北部九州では、弥生中期中頃以後になると鉄器が急速に後半に普及するようになるが、これに大きく貢献したのが天孫族の到来ではなかろうか。
中国の鉄と日本の鉄
中国の鉄について、もう少し検討しよう。
中国での鉄器の使用については、章鴻釗氏(*34)が、①始用鉄器時代は春秋戦国の間、すなわち前五世紀とし、②鉄器漸盛時代は戦国より漢初に至る期問(前四世紀~紀元の始め)であり、このころ農具・日用諸器は鉄製で、兵器はなお銅を兼用しており、③東漢以降(紀元一世紀以降)が鉄器全盛時代とする、という説を紹介しつつも、疑問の余地があるとも記している。南方の呉や楚の諸国では、鉄の冶錬がようやくなされるようになり鉄の兵器もできてきたが、鋭利性の観点から、まだ銅製が多かったとみられているようである。
中国古代考古学の関野雄氏は、秦の興隆の要因として鉄製兵器をを考えている(『中国考古学研究』)。秦の祖の蜚廉には風神・鍛冶神の性格があったとみられている。しかし、『史記』の范雎(はんしょ)伝に、秦の昭襄王(在位:前307~前251年)が、「吾聞く、楚の鉄剣は利にして、倡優(しょうゆう。俳優のこと)は拙し」と言う部分があり、昭王は秦の始皇帝の曾祖父の王であるが、その治世の最後の年は始皇帝の治世第一年の僅か四年前であった。そうした昭襄王のときでも、秦に比べ楚の製鉄技術がすぐれたものと認識していたことは、秦の強兵の主要要因は他にもとめたほうがよさそうである。楚は、その版図の汝水・漢水一帯の砂金をとって生産する過程で、製鉄技術を発展させ、農具に用いる程度で質が粗悪な鉄(悪金)から武器用の良質の鋼鉄を作り出すようになっていた。鉄は「銕」とも書かれて、東方の夷族がはじめたとみられる製鉄の技術は、呉・越との接触・併呑を通じて楚にうけ入れられたもので、鉄が良質、安価かつ大量に生産されるようになってきた。中国では呉・越・楚など南方が鉄の先進地帯であった。
なお、秦がにわかに強大となった原因としては、宮崎市定氏が『中国古代史論』(*35)で次のようにあげている。
(イ) その西北に位置する義渠戎を滅ぼして、西方貿易の途を見出した。
(ロ) 騎馬戦術の導入……(イ)及び(ロ)から、西方及び北方で無限に良馬を購入でき、肥沃な巴蜀地方を手に入れて、その生産力で自国の貧弱な資源を補うことができた。
(ハ) 最も文化の進んだ地域から亡命者を受け容れて、内治外交に利用した(衛鞅や法家)。
吉田光邦氏(*36)は、中国の製鉄技術の起源を資源問題もふまえて考え、中国の鉄器文化は二つの起源をもち、一つは華北、一つは江南にあるとみる。すなわち江南(河南・湖北)では水成の鉄鉱石が中心で、概して低い温度で還元可能であったのに対し、北方の鉄鉱は火山岩系を主とした磁鉄鉱・赤鉄鉱が多く、製錬のため高温を得るために各種の送風技術の考案がなされ、ふいご(鞴)も発明されたとする。
しかし、江南と華北で製錬方法が異なっていたとしても、簡単な方法の江南に起源があって、それを発展させたのが華北ではなかったろうか。中国の鉄には騎馬民族の影はそれほど濃く落されてはいなかったようだ(陳舜臣氏の記述)という事情も考えて、吉田説には賛成し難いと思われる。
古代出雲には鉄資源が豊富にあり、この地に朝鮮南部の鉄産地から来た鍛冶技術をもつ部族(天孫族の支族)が定住して、鉄生産をしなかったと考えるのはむしろ不自然である。天孫族が先ず上陸した北九州の海岸部には、利用しやすい砂鉄資源があり、福岡市の野方古墳群及び大牟田古墳群の墳丘の下に製鉄遺構が遺存していて、森浩一氏によれば、これらはわが国最古のたたら跡という可能性があるとのことである。橋口進氏(*38)も、北部九州の鉄器の普及度合からいって、弥生中期後半頃には、わが国で鉄生産が行われていた可能性が強い、と記している(「北部九州の弥生文化と鉄」、『鉄の文化史』所収)。
天孫族の移動経路
わが国の塩神少彦名命の一族、すなわち天孫族は、その源流を西北アジアの地までもとめることができよう。この根源から、西戎の一派は黄河の支流たる渭水流域に出て、そこから下流の東方にむかって移動していき、三門峡を抜けた嵩山の一帯にまず落ち着き、さらに中原や東の海岸のあたりまで出た。
朝鮮北部にあらわれたとき、この部族は檀君に率いられており、前2333年(帝堯の即位50年という)に平壌に都を建設して朝鮮といったと伝える。しかし、檀君の建国があったとしたら、そんなに古い時期のはずがなく、実際には、戦国時代の前四世紀前後ではなかろうか。このころに大同江流域(平壌一帯)には文化地域の徴証があらわれる。
檀君王倹は、天帝桓因の庶子で風・雨・雲の諸神を率いて降臨した桓雄と熊女(熊をトーテムとした部族の女性)との問に生まれたと伝えられるが(『三国遣事』)、中国では壇氏も桓氏も姜姓で山東の斉の公族に見られる。すなわち、壇氏は斉の公族が壇城(山東の滋陽県城北)に封じられたので、壇を氏としたものといわれ、桓氏は春秋五覇の一人、斉の桓公小白(在位は前685~前643)の後裔が称したとされる。従って、この両氏(同一か近親の氏とみられる)の流れが朝鮮半島の西北部に遷住して壇君(壇の国の君長の意か)とか桓因と称したことも考えうる。その場合の時期は、箕子の北遷より遥かに後とみられ、順序が逆転したのは朝鮮半島の民族意識の高揚によるものであろうか。
塩の製法も天孫族の移動経路に関係してくる。村上正祥氏(*39)によると、中国では海水を原料として煮つめる煎塩(せんえん)法が古くから行われていたが、①土釜(中国北部から朝鮮半島にかけて分布)、②鉄製塩釜(山東半島から揚子江にかけて分布)、③網代釜(割竹を編んだものを芯材として、その表裏に漆喰を塗って釜を作るもの。揚子江以南に分布)、の三種があったとされる。わが国では古代・中世において、九州北部から瀬戸内沿岸にかけての地域などで、塩釜として土釜が広く一般的に分布し、九州南西部では網代釜が見られたという。また、鉄製の釜もあり、房総・富津市の金谷神社(俗に釜神という)で古くから「鉄尊様」として祀られてきた巨大な鉄製円盤(文明年間、海底から得たという)が塩盤であることがわかった。宮城県の塩竈神社には四基の鋳鉄製塩釜が祀られている。
塩竈神社の奉斎氏族は、前章に述べたように少彦名神族裔の石城国造の支族であり、上古に金谷神社を含む富津市域を領域としたのは、天目一箇神(すなわち少彦名神近親)の後裔の須恵国造であった。こうしたわが国の製塩法にも、中国の山東半島以北の製法が伝えられたことがしられる。鉄についてみると、わが国に入った天孫族の先祖の八幡神(五十猛命)は、鍛冶の翁としてあらわれ、金色の鷹や鳩に変身したと伝え、また、鍛冶神たる金屋子神(天目一箇命か)は白鷺になって来たといわれ、伝承には鍛冶と鳥との結びつきが強くあらわれる。これは鳥トーテミズムをもつ東夷において製鉄・鍛冶が行われたという事情と関係しよう。
弥生時代の鏡に多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)というものがある。鏡に鈕が二個あり、細文による鋸歯文状の文様が配されているもので、漢式鏡よりも北方文化に関係があり、北朝鮮で特異な発達をしたものといわれる。この鏡のわが国の出土例は断片を含めてわずか六例といわれ、筑前(福岡市吉武高木遺跡)、大和の葛城地方(御所市名柄遺跡)、信濃の諏訪地方(断片)などともに、長門西部の梶栗浜遺跡(下関市富任)からの出土がしられる。
梶栗浜遺跡からはやはり北方系の細形銅剣も出土している。この細形銅剣は遼寧省西南部の朝陽県(既述)の土壙墓から発見されたものが祖型と考えられており、これが遼東から大同江下流域に広まり、前三世紀ごろには朝鮮式銅剣となって、朝鮮半島に分布するとともに日本西部にも伝わった。朝鮮南部から西日本で見られる細形銅剣は、西暦紀元前後にはじまるとみられると井上秀雄氏は記述する(*40)。島根県の荒神谷遺跡からは358本という大量の中細形銅剣が出土したが、これも細形銅剣の系統ではないかと考えられる。なお、朝鮮半島では紀元一世紀末には細形銅剣がなくなるという。梶栗浜遺跡の南東近隣の綾羅木郷台地遺跡からは、中国や朝鮮直系の土器も出土している。
梶栗浜遺跡の北方三十数キロには、弥生遺跡として著名な土井ヶ浜遺跡がある。この遺跡は、山口県豊浦郡豊北町の響灘に突き出した神田岬の北側根元に位置しており、その東南方近隣には、伊勢と同じく二見という地名があり、ここにも二見夫婦岩がある。昭和六年以来の十数次にわたる調査で、この土井ヶ浜遺跡から合わせて二百体超の弥生人骨が出土したことで著名である。この地で人類学ミュージアム館長をされている松下孝幸氏は、その著『日本人と弥生人』(*41)で興味深い指摘をする。本稿に関係ある点についてとりあげて、私の見解も併せて示させていただく。
(1) この遺跡出土の人骨のなかで特に印象的なのは、「鵜を抱く女」と呼ばれる人骨である。現在でも北方近隣の海上に浮かぶ壁島(かべしま)は鵜の渡来地であるが、彼女と鵜との関係によほど緊密な関係があり、鵜は神と地上を結び霊魂を運ぶ使者と考えられ、しかも鉄製副葬品を唯一伴っていることも併せ考えると、ムラのシャーマン(呪術師)であったのだろう。
<私見> 中国東夷や少彦名神一族等の鳥トーテミズムに関係するものと考えられ、シャーマン説等の見解には賛意。少彦名神の族裔に位置づけられる櫛八玉神(出雲国造の祖)や吉備津彦命(吉備国造の祖。母系を通じる天孫族の血筋か)が鵜に変身したという伝承もある。
(2) 耕地面積の狭いこの地は、日本海に至る海上交通・貿易の要衝であり、これが渡来人たちを土井ヶ浜に引き留めた理由である。
<私見> 少彦名神一族の北九州から出雲への移遷のルート上にある要衝の地であり、土井ヶ浜人はその同族と考えられる。基本的には松下説に賛意。
(3) 土井ヶ浜人は、山東半島及びその北側の吉林省や黒竜江省、朝鮮半島から、またロシアの沿海州あたりから渡来した可能性がある。
<私見> 朝鮮半島及びその北方の中国東北地方からの渡来が考えられ、基本的に賛意。
1996年になって、松下孝幸氏の研究がさらに進展していることを報告する新聞記事が『朝日新聞』(平成8年2月7日夕刊、骨が語る古代史・下)に出た。宮代栄一氏が、弥生人のルーツの一端、「中国・山東省にあった」という見出しをつけ、松下氏が韓康信・中国社会科学院考古学研究所教授らと共同調査した結果を記している。それによると、弥生時代初めころにあたる時期に対応する、山東省の東周時代から前漢時代の遺跡から出土した古人骨のうち保存状態のよい百十体を調査したところ、日本列島の北部九州・山口型の弥生人に極めて近いことがわかったという。このことは、頭がい骨に関する11項目、大腿骨から推定される平均身長、眼窩上孔(がんかじょうこう。目の上にあく小さな穴)の出現率などといった点を統計的に分析する方法により導かれた結論とされる。
以上、延々と塩や鉄について検討を重ねてきて、人々の日常生活に密接な関係をもつ両物資の流れをふまえると、わが日本人や文化・技術の源流や形成過程について示唆する点が多いという印象を強くする。また、太陽信仰や鳥トーテミズムを追いかけても朝鮮半島や中国に及ぶから、現在のわが国で発言力の強い考古学者は、孤立した形で上古の日本を考えるべきではない。こうした幅広い国際的な視野から考えると、様々な問題点があるが、このあたりで、とりあえず本稿を終えることとしたい。
(当初稿は平成8年3月末了、後に平成20年6月見直し)
〔脚注〕
(*21)岳南著『夏王朝は幻ではなかった』朱建栄・加藤優子訳、柏書房、2005年刊。
(*22) 『塩の世界史』R・P・マルソーフ著、市場泰男訳、平凡社、1989年刊。
(*23) 『アジア歴史辞典』塩の項(佐伯富)
(*24) W・ビアス『中国における塩専売の初期の歴史に関する覚書』1887年
(*25) 陳舜臣『中国の歴史2』
(*26) 王万邦『姓氏詞典』河南人民出版社、1991年。
(*27) 唐の司馬貞が『史記』に補った「三皇本紀」
(*28) 白川静『中国の神話』中央公論社、1975年。中国の神話・伝承については、この名著に様々の示唆をうけており、学恩に感謝する。
(*29) 前掲の『姓氏詞典』
(*30) 白川静『中国の神話』
(*31) 王巍『中国からみた邪馬台国と倭政権』10頁、雄山閣出版、1993年刊。
(*32) 鈴木真年の『古代来朝人考』(1849年)及び『百家系図稿』巻2など関係資料。
(*33) 金関恕「呪術と祭」、『日本考古学』第4巻、1986年。
(*34) 関野雄氏が『中国考古学研究』のなかで紹介しているのを引用。
(*35) 宮崎市定『中国古代史論』28~30頁。
(*36) 吉田光邦『中国科学技術史論集』
(*37) 李丙燾『韓国古代史』上、85頁。
(*38) 橋口進也「北部九州の弥生文化と鉄」、『鉄の文化史』東洋経済新報社、昭和59年。
(*39) 村上正祥「塩釜と鉄」、『鉄の文化史』。
(*40) 井上秀雄『古代朝鮮』NHKブックス、昭和47年。
(*41) 松下孝幸『日本人と弥生人』祥伝社、平成6年。
塩神関係の応答 関連して 匈奴の出自と龍トーテム
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映画「ひとにぎりの塩」のご案内
いま、塩自由化をうけて、石川県の能登半島で行われている伝統的な塩生産を紹介する映画ができ、公開中です。上映館は多くありませんが、塩がどれほど重要で、どのような過程を経て生産されるのかを、能登の自然と併せて紹介する良い映画だと思われます。
塩に多少とも関心のある方は、是非、ご覧いただければ、と思います。
映画「ひとにぎりの塩」の案内アドレスは http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id341023/
この映画の公式サイトには、塩の話が詳しく紹介されています。
http://hitonigiri-movie.com/
(2011.11.18 掲上)
<呑舟様からの来信> 08.7.29受け
塩についてにお話がUPされてましたので、興味深く読まさせていただきました。
私の郷里に塩釜神社も広大な塩田もかってはありまして、今は塩釜神社のみ残っています。昔は専売公社の事務所もあったのですが。
製塩は特定の氏族が製塩技術を独占した形跡はないのですが。
製塩そのものはそんなに難しいものではなく、暇があれば素人でもできます。古代の人は見よう見真似で塩を得ていたのではないでしょうか。海水を煮詰めますと塩が出来ます。但し、薪と時間がかかるから効率が相当悪い。
平安時代以前はこれを改良し、海藻を採ってきて、釜の水で塩分を洗い落とし、濃度の高い海水にしこれを煮詰めて塩を採ります。これを「藻焼き」といったそうです。平安京の出土木簡に私の郷里から塩が納められたと記録されていますが、これらはほとんど「藻焼き塩」です。
門司の「藻刈り神事」はこの製塩法の象徴として現代に伝えられているのでしょう。
これでも効率が悪いため、次に入浜式と呼ばれる製塩法に変わります。
入浜式は遠浅の浜を利用して、上げ潮に海水を塩田に流入させ、下げ潮に門を閉じて海水を留め置き、天日による自然蒸発ののち塩の付着した砂を一定の間隔で作ってある井戸に放り込み、その上澄みの塩分濃度の高い塩水を各井戸から集め、大釜で煮詰めて最終塩にしていました。
となると、瀬戸内海が遠浅海岸と日照日数で全国的に優位にたち、瀬戸内海沿岸諸藩は専売として藩財政の主要歳入としていました。こうなると技術と資金は必要になりますので個人では出来ません。藩の事業となってきます。
忠臣蔵の筋書きに浅野と吉良の反目の一つに吉良塩と赤穂塩の品質が赤穂が上回っていたので製法は聞いても浅野が教えてくれなかったから吉良が仕返しにイジワルしたとかまことしやかに俗本では言われてますが、まったくのでたらめで、当時の製塩法は製塩職人を連れてきて作らせばよいので、門外不出のものではあいませんでした。また吉良には塩田はなかったといわれています。
実際、赤穂の塩田は隣の他藩、姫路の塩職人を呼んで作らせたので、笠間から浅野が入ってからの本格工事です。これも入浜式です。人手ではなく自動的に濃塩水を集める工夫はすばらしいものです。
さておき、製塩に話をもどしますと、昭和に入り入浜式も効率が悪く、「流下式」に変わります。
流下式は15Mぐらいの高さのやぐらを組み竹の枝を万遍なく何段にもわたり下向きにくくりつけ、一番上に海水をポンプでくみ上げ、上からせせらぎのように流下させ、一番したのしづくが天日で塩分濃度が高くなったところを集め、薪の代わりに石炭で煮詰めて製塩していました。旧専売公社の国内塩はそうして作られていまいた。
戦後は塩の需要は食卓塩よりも工業塩の需要が多かったので、NaClであればなんでもよかったので安い海外の岩塩の輸入とともに全国の塩田は閉鎖されていきました。
よって入浜式がはじまる前は、海に面する人なら塩は自給自足はできていました。ただ効率がわるいので専門の職人はいたでしょうが。
信濃のように海のない国は塩の確保は大変だったでしょう「敵に塩を送って」貰わないと戦争はできなかったでしょうが。
以上は、つれづれなるままに書き込んでみたものです。
<樹童等の追記・感触>
ご教示等、ありがとうございます。貴信にご示唆を受け、もう少し追補的に以下に記述します。
1 塩もいまでは工業用塩の用途が大きくなっていますが、食用としてかつては大きな位置を占めていました。ほとんどが海に面した日本列島では、塩分は何らかの形で取り得たのではないかと思われ、塩を専管する部曲(部民)も管見に入りません。ということは、塩生産はあまり特殊な技術ではなく、塩を専門的に管掌する古代氏族もいなかったことに通じそうですが、「塩屋連」はその名からして何らかの形で製塩に関与したことがうかがわれるという程度です。
とはいえ、塩が特定の地域から都に庸・調として納めされた事情があり、専業に近い形の従事者もいたと思われます。『延喜式』主計に見られる十八の諸国がそれで、主として若狭を除くと、三河以西の西日本に偏在しています。これに先立つ藤原京や平城京・長岡京の都城跡で出土した塩付札木簡も、その辺の事情を示しており、若狭や周防大島(屋代島)の関係がかなり多く見られます。
武烈即位前紀には、権勢をもった大臣平群真鳥が滅ぼされるのに際して、あらゆる塩に呪いをかけて天皇に供出されないようにしたが、角鹿の塩だけ呪いをかけ忘れたという逸話が見えます。平群氏の故地は筑前とみられるから、同地から瀬戸内海沿岸を通じる地域の塩を所管していたことが、この話から示唆されます。上記『延喜式』でも、筑前・周防・安芸・備後・備中・備前・播磨と伊予・讃岐、淡路・紀伊という瀬戸内海沿岸の十一国が貢納国としてあげられます。一方、「角鹿の塩」といっても、敦賀辺りを集散地とされた越前・若狭一帯の海域の塩を意味していたものでしょう。
古墳時代にさかのぼる若狭湾沿岸の製塩遺跡は実に約七〇か所にものぼり、土器製塩の先進地区の一つに数えられること、敦賀湾から越前海岸にかけても若干の製塩遺跡があるので、越前から近江にかけて勢威をもったオホト(継体天皇)の実力は、こうした塩の生産圏ならびに輸送ルートに影響を及ぼしえたに違いない。という指摘が『福井県の歴史』の記事にありますが、塩関係の木簡を見ても塩専門をうかがわせる部民はいない事情にあります。若狭では、四世紀末頃の浜祢式製塩土器を最古として、八世紀代には大容量の船岡式が現れます。
瀬戸内海沿岸では、なかでも吉備の製塩がよく知られ、当地の製塩用土器は、出土地の岡山県瀬戸内市(旧邑久郡)牛窓町牛窓の師楽(しらく)遺跡の名をとって師楽式土器と呼ばれます。同遺跡は古墳時代後期とみられていますが、この頃の土器製塩は瀬戸内内海沿岸に広がるとともに特定の場所に集中するようになるので、専業集団による塩作りが行われたとみられます。吉備では、岡山県の牛窓・児島・倉敷、広島県福山の松永などの地で製塩遺跡が発見されていますが、かように塩の一大生産地だった吉備でも、製塩に関わったとみられる部民が名前からは不明です。邑久郡にみられる部民の「海部、土師、須恵」あたりが関与したものかということでしょうか。
このほか、九州の塩は太宰府へ、また陸奥松島湾の塩竃(鉄釜)による塩は陸奥の鎮守府(多賀城)へ、佐渡・越後からは出羽の雄勝城へと納められたとみられますが、その実態はあまり明らかではありません。
2 塩屋連の起源の地については、太田亮・佐伯有清両博士とも、伊勢国奄芸郡の塩屋郷(鈴鹿市白子・稲生一帯)に基づくものか、と疑問を留保しつつ提示するが、私には疑問に思われます。
塩屋・塩谷の地名は全国に見られるものの、関係深そうなのは紀伊・播磨・筑前とみられ、そのなかでも紀伊起源が考えられます。『姓氏録』には、河内皇別のみに塩屋連をあげ、的臣・塩屋連・小家連の順で記して小家連が塩屋連の同祖とするが、山城皇別にも的臣の次ぎに与等連をあげて、与等連が塩屋連の同祖とされる事情があります。これら四氏はみな同族関係にあったとみられ、的臣の本拠が紀伊国名草郡の名神大社・志磨神社(和歌山市中之島)で、筑前国志摩郡あたりを故地とする平群臣一族とみられるからです。同社は紀ノ川下流の中之島に位置し、伊達神社・静火神社とともに紀三所の神と呼ばれて、武内宿祢に祀らせたという伝承があり、天孫族の祖・生国魂神を配祀する事情にもあります。
塩屋は志磨神社の南方約五キロの旧紀ノ川河口部にあり、和歌浦に面しています。紀伊南部の日高郡、日高川の下流部にも御坊市域に塩屋浦の地名が残り(北塩屋に塩屋王子社があって、この地を塩屋連の起源地とみる説もある)、塩屋連一族には塩屋牟婁連(中臣鎌足の母系祖先すじ)という紀伊関係の地名を負う者も見えます。小家連は名草郡大宅郷に関係があるとみられます。
和歌山市では、北西部海岸の西庄・本脇地区にある西庄遺跡から製塩炉・製塩土器が見つかり、五世紀を中心とした大規模な土器製塩が行われていたことが明らかとなっています。紀伊の海岸部で広く製塩が行われ、白浜町瀬戸遺跡なども含めて製塩遺跡があり、塩の産地別木簡では若狭・周防に次ぐ位置にあって、古代紀伊の主要産業の一つに製塩があげられます。
3 この文は岸本雅敏氏の論考「古代の塩の意義」などを参考に書いてみましたが、文献史学による塩の歴史の研究者、広山堯道・広山謙介氏が共著で『古代日本の塩』(雄山閣、2003年) を出されており、古代における塩の検討に際して参考になると思われます。
(08.8.5 掲上)
<今野様よりの来信> 08.8.24受け
宝賀会長は『塩の神様とその源流』のなかで、石城国造の勢力圏であった福島県田村郡小野新町の塩竈神社のほうが(塩竈市のそれよりも)塩竈大神の起源に近いのではないかと推測されておりました。福島県内に塩竈神社が17社もあり(宮城県は4社なので)、東北地方で最も多いことが傍証になるかもしれないともされており、なるほどと思わされました。また、わが国の塩生産が縄文末期頃ないし弥生時代初期にはみられた旨が述べられてあり、一方で、土器製塩の土器そのもののテクニカルな部分から、土師連をとおして少彦名神の影を覗き見ておられたようです。
ところで、本家鹽竈神社が鎮座する宮城県塩竈市周辺は、縄文後期には既に土器製塩の形跡がみとめられているようで、常陸とともに土器製塩の発祥のエリアとすら思えるのですが、丈部一族はそれよりも早くにこの地に進出してきたということなのでしょうか。今ひとつ時代区分のリンクが出来ておらず、頭が混乱しております。よろしければお教えください。
(樹童からのお答え)
製塩土器については、当方にはあまり知識がないこともあり、各種の論考・資料を踏まえたうえですが、多少とも推測混じりで以下に感触を申し上げます。
1 塩は人類にとって必須の物資ですから、縄文人もなんらかの形で海水から塩を採取しており、縄文後期ないし晩期ごろから、常陸の霞ヶ浦辺りから太平洋岸の松島湾、青森の陸奥湾にかけての地域に限定して縄文土器(逆円錐の深鉢形)での製塩が行われたとされています。松島湾内の宮戸島にある里浜貝塚(東松島市宮戸)や対岸の二月田貝塚(宮城郡七ヶ浜町)などの貝塚から、縄文晩期頃の製塩土器がみつかるなど、塩竃辺りは縄文期から製塩の地で、製塩遺跡や製塩土器等が多数出土します。ただ、縄文の製塩土器は弥生土器とはまったく別物で様式的に大きく異なっていて、常陸辺りが発祥とされており、土器の質としても大陸の影響をうけた弥生期の土器のほうに優れたものがあったようで、弥生期へ技術が伝播することはなかったようです。
東北では、弥生期には製塩土器がほとんど見られなくなるといい、弥生中期の松島湾の遺跡から製塩土器(に似た土器)が発見されている程度といわれます。他の地域ではまだ発見されていませんから、現段階では縄文期の製塩土器は松島湾においても弥生時代中期で廃絶したと考えられているとのことです。しかし、本当にそうなのでしょうか。
というのは、平底厚手の製塩土器を採用した製塩遺跡が奈良・平安時代のものとして約百五十個所も松島湾周辺にあり、多賀城にも塩が納入されている事実があるからで、この地の製塩が弥生後期や古墳時代の期間だけ中絶していたとは考え難いからです。塩竃神社の創祀は不明であっても、おそらくは大化前代ではないかと思われるからでもあります。
弥生期では、製塩土器が尾讃瀬戸を中心として瀬戸内海地方に多く分布し、古墳時代になって爆発的に多くの地域で使われるようになったとされています。また、現代に伝わる神話や神社祭祀は、基本的には弥生期以降に発生したと一般にみられており、縄文期のことは考古遺物を通じてしか分かりません。
松島湾の古代の製塩土器遺跡に関して、その多くが貝塚を伴うという特徴が指摘されます。このことは、製塩の専業化は未発達であったことを示唆するともいわれますが、縄文期はともかく、古墳時代以降では特殊技術を要するのに管掌部族がなかったとは考え難いように思われます。
宮戸島にある江ノ浜遺跡(東松島市宮戸字江ノ浜)は、「貝塚+製塩跡」という複合遺跡で、土錘・鹿角製離頭銛・製塩土器・土師器・須恵器という出土があり、古墳時代の遺跡とみられています。この製塩遺跡から、製塩土器の支脚として用いられたとみられる「円筒形土製支脚」が出ています。岸本雅敏氏は、「円孔をうがったものが、日本海側(富山県じょうべのま遺跡)と東北の松島湾(宮城県江ノ浜遺跡)に分布するのは、北陸と東北の土器製塩の結びつきを示す」とみています(「西と東の塩生産」、古代史復元9『古代の都と村』所収)。もっとも、この形の土製支脚で最古のものは奈良時代の初めだとも記しますから、あまり古いものではなさそうですが。ともあれ、この江ノ浜遺跡は古墳時代にもあったようで、そうすると、この地域の製塩の中絶はなかったことになると思われます。
また、富山県の「じょうべのま」遺跡(下新川郡入善町田中)は「丈部の間」と解されますが、平安時代前期の遺跡で丈部(はせつかべ)荘の跡ともみられています。この遺跡からは多数の木簡も見つかっており、「丈部吉椎丸上白米五斗」等と書かれたものも出土しています。「丈部」はたんなる符合かもしれませんが、なかなか興味深いものです。
これらの諸事情からみて、弥生後期の辺りで、松島湾あたりの製塩法も変わったのではないかとみられ、製塩土器も変わった可能性があります。九世紀初頭前後のものとみられる多賀城出土の木簡に「塩竃」と見えるものがあり、これが鉄釜という可能性も指摘されますが、平安時代にはまだ土器使用がありますから、何時から鉄製の釜を使った製塩がなされるようになったのか、この辺はよく分かりません。少なくとも七世紀以降は、土器製塩が廃れ、鋳物の塩釜による製塩が主流になったのではないかという指摘もあり、いま塩竈神社の塩釜は奈良時代まで起源が遡れるという鉄の塩釜です。その他でも、上総の金谷神社(千葉県富津市金谷)の鉄尊様という二大鉄片も、俗に釜神というから塩の釜に関係があるとみられます。
東国や陸奥では、こうした製塩法や用具の変化が端的にどのような形で何時、起きたかは不明ですが、天孫族はすぐれた土器技術をもつとともに製鉄・鍛冶部族でもありました。丈部と遠祖を同じくする三上祝系統の須恵国造一族(丈部の姓氏も見える)が富津一帯を領域にしていた事情もあります。須恵は須恵器(陶器)のスエでもあり、この辺でも土器から効率の良い鉄釜に向けて変化が起きたことが窺われます。なんらかの併用もあったのかもしれません。
あまりお答えになっていないのかもしれませんが、現段階では、この辺がお答えできる限度です。
(08.8.27 掲上)
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