「剣山の失われたアーク」と「邪馬台国・古事記 徳島説」の流れ
卑弥呼さん。「卑弥呼」で画像検索したら出てきたんですけど・・・。 |
れんだいこ氏の「邪馬台国考」の中の邪馬台国四国説考を参考にしました。
① 1975年(昭和50年)郡昇氏(郷土史家) 「阿波高天原考」(自費出版)
② 1976年 古代阿波研究会 「邪馬壱国は阿波だった-魏志倭人伝と古事記との一致」(新人物往来社)
③ 「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」(日本テレビ)
フランキー堺が「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、プロデューサー山中康男と共同で番組制作。
1977年、山中氏がその時の取材調査成果をもとに 「高天原は阿波だった」(講談社)を執筆。
④ 1985年 阿波国史研究会 「道は阿波より始まる」その1
86年 その2
89年 その3
※ 著者の岩利大閑氏は、阿波国が「倭」であり、その遷都先が「大倭」=「大和」国であるという
阿波倭説をとっているが、上記「邪馬台国四国説考」で、れんだいこ氏は、
~岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、
記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし・・・~ と書き、誤解があります。
この違いは大きいので、一応指摘しておきます。
※ その他「邪馬台国四国北岸説」「邪馬台国北四国説」「邪馬台国土佐説」等が発表されるが、詳細は省略。
⑤ 1977年 大杉博氏 「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」(自費出版)
1979年 「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。
1992年 「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)
大杉氏は、徳島に転居された後、どなたかの著作に触れてこのことに興味を持ち、その後ご自分で調査・研究を続けた結果、現在の持論を持つに至りました。
そのことを著作の中で説明されていたので、該当箇所を見つけたら、後で正確に書き直します。
※追記
大杉氏の著作から該当部分を引用します。
邪馬台国阿波説を最初に発表したのは上板町の故・保田兵治郎氏で、昭和36年地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し、邪馬台国研究に入った。
そして阿波歴史研究会で「邪馬台国阿波在国説」を発表したのが昭和39年。
保田氏は昭和41年には「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。
この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」という小説を書いたのが堤高数氏。
(中略)
これらの足跡を受けて昭和51年に、古代阿波研究会というグループが「邪馬壱国は阿波だった」を出版したのである。
私は、この本によって邪馬台国研究に入ったのである。
(引用終わり)
上に書いた郡昇氏の「阿波高天原考」に約10年先行する研究の歴史があったようです。
私の場合、阿波古事記研究会というグループの方々が、地元のテレビ番組に出演し「古事記の舞台は徳島だった?」というテーマで話された内容をネットで見て興味を持ち直したことが、大杉氏の本なども読み返すきっかけになりました。
大杉氏は宇野正美氏と知り合うことによって、朝廷の出自隠しの理由を「契約の箱(失われたアーク)を隠匿するため」ということに変更しました。
それまでは、日ユ同祖論的な話には興味がなかったようです。
剣山と、神輿の原型といわれる契約の箱(の模型) |
その「失われたアーク」と「剣山」を結びつけて、発掘や調査をした人は、これまで大勢いるのですが、
そもそも、一番最初にアークが剣山に隠されていると言い出したのは、神奈川県出身で元小学校校長の高根正教という人物です。
私もこの手の話(日ユ同祖論)には興味を持っていましたので、名前に聞き覚えがありました。
この高根氏が、何を根拠に二つを結び付けたのか?というと、何とこれが「新約聖書」「黙示録」と「古事記」の比較研究の結果だといいます。
1952年 に「四国剣山千古の謎-世界平和の鍵ここにあり」を発表。
その後、御子息の高根三教氏が、「ソロモンの秘宝」(大陸書房、1979年)、「アレキサンダー大王は日本に来た」(システムレイアウト、1990年)を発表しています。
「黙示録」第四章にある神の栄光を示す四つの生き物の記述(獅子、牛、人、鷲)と、「古事記の国産み神話」の「四国は、面四つあり」とする記述を対応するものと考え、神の栄光の象徴たる「契約の櫃」が四国の剣山に隠されているという結果を導き出したといいます。
大杉氏も好んで使う、「四国」とは「死国」であるというフレーズのオリジナルは、高根氏の本のようです。
「アレキサンダー大王は日本に来た」の内容は、早逝したとされるアレキサンダー大王(前326年没)が、実は自らの死を偽装して日本に渡来して、第10代崇神天皇となり、その後、田島守をエルサレムに派遣して「契約の櫃」をこっそり日本へと運ばせ、四国剣山に隠した、というストーリーです。
田島守(田道間守)に関して、万葉集に大伴家持の「橘の歌一首」があり、田道間守が、常世国から「トキジクカグノコノミ」を持ち帰ったと歌われており、それを「アーク」だと考えたようです。
私は最近、古代や古事記のことを考えていて、ふと「常世国」とは「西アジアの方」ではないか?と思ったことがあるので、その点やや親近感を感じます。
とはいえ(これらの本を読んだことがない私には何とも言えませんが)、出発点がこのようなものでいいんだろうか?とは思います。
しかし、その後多くの人々がこの説を信じ、また剣山を訪れているのですから、それなりに説得力があるのでしょう。
ただ、たとえアークの話がなくても、それ以外にも徳島の山上がミステリアスな場所であり、また様々な歴史の痕跡があることには違いありません。
それらの「状況証拠」の重なりが、多くの人を惹きつけるのだと思います。
大杉氏は、契約の箱が剣山にあるという自説は、高根氏に始まる一連の主張とは関係なく、自身の研究・調査の結果であると言っています。
高根氏の本のなかに、剣山の西隣、祖谷地方に伝わる民謡が紹介されています。
高根氏は、それを「契約の櫃」の所在を示すものだとしているのですが、その説の真偽はともかくなかなか興味深い唄です。
九里きて、九里行って、九里戻る。
朝日輝き、夕日が照らす。
ない椿の根に照らす。
祖谷の谷から何がきた。
恵比寿大黒、積みや降ろした。
伊勢の御宝、積みや降ろした。
三つの宝は、庭にある。
祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
先なる車に、何積んだ。
恵比寿大黒、積みや降ろした、積みや降ろした。
祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
中なる車に、何積んだ。
伊勢の宝も、積みや降ろした、積みや降ろした。
祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
後なる車に、何積んだ。
諸国の宝を、積みや降ろした、積みや降ろした。
三つの宝をおし合わせ、こなたの庭へ積みや降ろした、積みや降ろした。
実は、もし「アーク」があるとしたら、みんながいう「剣山」の中ではなく、他のある場所ではないか?
と思える候補地が私には一箇所あります。
気が向いたら、また書きます。
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