民俗誌はおもしろい。ー「ぼぼのげぇ」ー
《大正13年刊"秋田風俗問状答"》
きのう、書物の整理をしていたら、"秋田風俗問状答"という小冊子が出てきた。
この風俗問状答というのは、各地の年中行事や風習について幕府の奥御祐筆を勤める博識の国学者であった屋代弘賢が文化年間に「諸国風俗問状」と題する質問状を木版で刷り、日本各地の藩儒や知人に宛てて送り回答を求めた「風俗問状」と、それに対する「答書」という意味で、「答書」のほうは、20編が写本などのかたちで伝わり現存していると云われていて、わたしが持っているこの「秋田風俗問状答」という小冊子の原典は『出羽国秋田領風俗問状答(内務省旧蔵・全5冊)』として国立公文書館に収蔵されていますが、図版などをそれと比較してみますと、どうやらこの小冊子は、その写本を底本にして大正13年に発刊されたもののようです。
《大正13年刊"秋田風俗問状答"に収録の鎌倉の図》
この小冊子は、大正時代のものなので残念ながら図版写真はカラーではなく図版から読み取れる情報は限られているのですが、幸いに国立公文書館さまのサイトで、彩色図のいくつかが公開されていて、それと照らし合わせて観ると、とても面白い。
収録されている、この「鎌倉の図」について、「この事は十五日を用う、是を俗に歳の神と申す也。この日には左義長をし侍る是を鎌倉と申す也。」と記し、さらに、「鎌倉の祝の體は二日三日ばかり前より門前に雪にて四壁を造り厚さ一尺二尺にし水そそぎ氷かためてそれへ其日には茅を積み門松飾藁なんど皆積みて四壁には紙の旗さまざまの四手切かけし榊など飾り、わらべ打群れほたたき棒てんでに提てゆきかふ女あらば尻うたんと用意す若き女なんどこの日は恐れて往来せず木のほら吹鳴らしてやや暮れ行く頃・・・(以下省略)」というような説明が加えられている。
比較する為に、国立公文書館蔵の原典の彩色図版のほうも観てみると、・・・
鎌倉に飾られた"つくりもの"の様子が鮮やかに描かれていて、
赤・黄・薄青・紺(黒)の四色の短冊状の紙と白い繭玉がつけられた木が三本。市松文様のもの二本と白いもの一本の紙の旗が計三本。梵天を逆さにしたようなかたちで円形に綺麗に開いた五垂の幣が三本。アイヌのイナウに良く似た削りかけが二本、しかも、その二本ともが赤く染められている。・・・など、
ざっと観ただけでも様々な情報が飛び込んで来る。染織に関係するところでは、"繭玉飾りの様子"や"紙の旗の市松文様が意味するところ"、"削りかけを赤く染めた染料"などについてが気になるところである。
織物などの場合でも、このような実際の様子を写した古い図版や、実際の布や、その拡大写真などの非文字情報(非言語情報)から得られるものは大きく貴重だ。
今回、わたしの眼が釘付けになったのは、
『木のほら吹鳴らして・・・』と記されている「木のほら」の図版だ。
《大正13年刊"秋田風俗問状答"に収録の"木のほらを吹く男"の図》
この図では、四角い箱のような厚みのある下駄を履き、大きくなった筍のようなものを吹いている。『なんだろう。これ。?』
「木のほら」ということだから、木製の法螺貝という意味なんだろうけど、形状は全くそれとは異なる。
まるで、オーストラリア先住民アボリジニの楽器「ディジュリドゥ」みたいな印象がする。
「ディジュリドゥ」も『ヴォー、ヴォー』というような音がするから、この「木のほら」も同じような音色がするのだろうか。
法螺貝の音に似ているから「木のほら」と呼ばれるのだろうが、・・・。
こんなものがあったなんて、全く知らなかった。
あとで調べてみると、名久井 文明氏の労作『樹皮の文化史』に収録されていた。
オニグルミの樹皮を用いてクルクル角状に巻いてつくるらしい。
収録されているものは、実測図によれば46㎝のやや小ぶりのもので、ちょうど角笛のような感じがする。
《「樹皮の文化史」に収録されている樹皮の法螺貝"ぼぼのげぇ"》
東北地方には樹皮利用の文化が比較的に残されていると云われるが、同書には復元品と記されているので、名久井氏が調べた頃にはもう廃絶していたのだろう。『ぼぼのげぇ』という呼称であったそうであるが、これは音色を写して言った呼称のような気がするので、他にも呼び名があったのかもしれない。
でも、こういうものは本来何に使われたのだろうか。
なんだか、狩猟に関係するような気もするが、それは想像の域を出ない。
名久井氏は同書に於いて、「リードは付けず唇と息の加減だけで鳴らすものだが、かなり大きな音が出る。アイヌ民族はこれと同じものを楽器あるいは通信用具として用いたらしい。」と付記しているが、そこではもう"秋田風俗問状答"に記されているような小正月行事との関わりは抜け落ちているので、そういう行事に用いられなくなって久しいのだろう。
屋代弘賢が風俗問状を発し、それに応えて、出羽国秋田領の儒者、那珂通博が主筆となって彩色図を加えた答書を記し、名久井文明氏が樹皮利用の文化について調査しなければ、こういうものがあったことや、その素材、つくり方、どのような時に使われたのかなど、様々なことが忘れ去られていたことだろう。
私事ですが、今わたしは、三重県内の養蚕と製糸に興味を持っていて、そのことを調べているんですが、オフィシャルな市町村史や公的な記録からだけでは全くわからなかったことが、郷土史を調べて書き残す活動をされている桜郷土史研究会さまより御教示いただいたことから、いろいろと養蚕と製糸が盛んであった当時の実情について知る事ができました。
参考の為にと「ふるさとの生活誌」という手づくりの小冊子を、ざわざご送付くださったのですが、その本からは郷土に対しての愛情が溢れ出ています。
誠実で熱心な専門家がまとめた郷土の民俗誌も価値のあるものですが、郷土に対する愛情が動機となって、小さなことまで事細かに記された幼い頃からその土地に住んでいる人たちの記した民俗誌も、専門家によるそれにも増して価値のある記録です。
桜郷土史研究会さまのような自分たちの郷土の生活誌を自分たちの手で丹念に記すというような活動がもっと広まればいいと思います。
・・・・・《この記事に関連して参考となるweb上のサイト》・・・・・
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