1. K. T. Khang (C. H. Kang), Genesis and the Chinese (Hong Kong: Independent Printing, 1950).
●"The Discovery of Genesis" C.H.Kang and Ethel R. Nelson, Concordia Publishing House, U.S.A.
http://www.bibleetnombres.online.fr/genesis.pdf
●"The Discovery of Genesis" C.H.Kang and Ethel R. Nelson, Concordia Publishing House, U.S.A.
●レムナント三六号「漢字で聖書を語る」(福原秀憲)
漢字に秘められた聖書ストーリー
漢字に秘められた聖書物語 単行本 – 1994/2/1
福原秀憲著、伝道出版社 フクイン社、2007.6
158p 19cm
978-4-901415-23-1
https://file003.shop-pro.jp/PA01465/151/trial-reading/158012521.
羊や牛の生け贄では満足せず羌族(きょうぞく)の人間が犠牲になった。
おそらく信仰復興であろう周王朝時代、帝(天地万物の創造者)を賛美
礼拝するための青銅器(黄金色)の器に漢字の元になる金文が鋳込まれた。
不思議な事に文字を統一するためにつくられた篆文には沢山の十字架が含
まれている、まさに導かれた人達が存在し成し遂げた神業といえる。
『船』:「この字を分析しますと、何となく『ノアの箱舟』の話と関係があるように見えます。というのは、象形文字である『舟』には、ハ(八)口(人)が乗っていると解釈ができます。歴史における最初の大きな船であったノアの箱舟にはちょうど八人の人間が乗っていました。」
「総括」で著者はこう述べます。
「しかし、どう考えても、こんなに多くの字の組み合わせられた意味が、聖書のメッセージとぴったり合うということは実に不思議なことです。中国の学者が創世記の物語に近い話に基づいて、多くの漢字を形成したかどうかは証明できることではありませんが、たとえば、そうではなくても、聖書に示されている真理をこんなに美しく描写する数多くの字の形成は、不思議に神によって導かれたといわざるをえません。」
漢字の字源の解説は種々あり絶対的なものはありません。であれば確からしい仮説に対して寛容でありたいものだと思います。著者の記すように漢字が「神によって導かれた」ものかどうかまでは断定できないにせよ、聖書に基づくたいへんユニークな漢字字源の解(仮)説として一考に値するものではあると思います。
漢字は聖書の真理を表す
漢字は聖書の真理を表す
聖書の真理を表した漢字が、なぜこうも多いのか。
アダムとエバ
私たちの普段使っている漢字の多くは、不思議なことに、聖書的な真理を表しています。
たとえば、どんなものがあるでしょうか。
義
その一つに、「義」という漢字があります。
私たちは決して、自分の行ないによって義とされて救われるのではありません。行ないにおいて完全な人はいないからです。
もし善行や、完全に正しい生活を条件にするなら、誰一人救われる人はいません。
私たちは、キリストの十字架の贖いによって、救われるのです。キリストは、私たちの罪を全部背負って、身代わりに(あるいは私たちの存在を引き込んで)死んでくださいました。
この死により、信じるすべての人に罪の赦しが与えられます。自分のすべての罪が赦され、神の前に「義」(正しい)と認められます。「義」という字は、
義=羊+我
となっています。聖書でキリストは、象徴的に「犠牲の小羊(羔)」と呼ばれていますから、「義」とは、
"小羊なるキリストが我の上にあること"
です。「義」とは、自分(我)の上にキリストを置き、自分の救い主として王座にお迎えすることなのです。
この「義」の字は、中国で伝道したイギリス人宣教師ハドソン・テーラーが、よく用いたことでも有名です。
船
ノアとその家族は、彼の時代に起きた大洪水のとき、「箱船」に乗って救われました。
このときノアとその妻、また彼らの息子セム、ハム、ヤペテとその妻たち、計八人が箱船によって救われたのです(Iペテ三・二〇)。
「船」という字は、中国人テモテ・ザオ宣教師や、C・H・カング宣教師によると、もともと"ノアの箱船"のことだそうです。「船」は、
船=舟+八+口
となっています。このうち「口」は、「人口」という言葉にも見られるように、人のことです。中国では人を数えるのに「口」を用いました。つまり「船」は、
"八人の乗った舟"
ということです。つまりノアの箱船のことなのです。
「船」に限らず、漢字の中には、創世記の内容を表した漢字が多くあります。次のものもそうです。
ノアの箱舟には8人乗っていた。
造
聖書・創世記二・七に、
「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった」
と書かれています。土から形造られた肉体に、いのちの息=霊が吹き込まれて、人が「創造」されたのです。
創造の「造」の字は、
造=土+ノ+口+
となっています。このうち、「土」は、アダムの肉体を形成した「土」を思い起こさせます。
また「ノ」 (のかんむり)は、生命を表すものだそうです。たとえば「鳥」「牛」「血」「生」の字に見られるように、「ノ」は生命に関係しています。
「口」は、いのちの息をアダムに吹き入れる神の口を想起させます。
また「」(しんにゅう)は、歩行を表します。たとえば「送」「退」「迎」「追」「逃」「迷」「進」「道」などの字に見られるように、「」は歩行を表すのです。
ですから「造」の字は、
"土に、神の口からいのちの息(ノ)が吹き込まれ、歩く()ようになったこと"
を表すもので、まさにアダム創造の出来事を想起させる字であるわけです。
先
アダムは、人類最初の人でした。彼が、人類で一番「先」の人だったのです。
この「先」という字は、
先=土+ノ+ となっています。「」は、「」(にんべん)と同じように、「人」を表します。
つまり「先」は、
"土で形造られ、生きる(ノ)ようになった人()" のことで、まさにアダムのことです。アダムが、「先」なのです。
元
さて、神はアダムを造られたのち、女エバを造られました。アダムのわきから取って、エバを造られたのです。
彼らアダムとエバが、私たち全人類の両親です。彼らが全人類の「元」となりました。
この「元」という字は、
元=二+ です。先に見たように「」は人を意味しますから、これは、 "二人"
ということで、私たちにアダムとエバの二人を思い起こさせます。彼ら二人が、全人類の「元」となったのです。
完
アダムはエバを妻とし、一つの住まいをかまえました。こうして家庭が「完全」になりました。
この「完」という字は、先の"二人"を意味する「元」に、「」(うかんむり)をかぶせたものです。「」は、屋根を意味します。つまり「完」は、 "一つ屋根()のもとにアダムとエバの二人(元)が暮らすようになった"
ことを表し、こうして家庭が「完全」になったのです。
田
アダムとエバは、「エデンの園」に暮らしていました。聖書によるとエデンの園からは、地下水がわき出ていて、四つの川となっていました。
「一つの川が、エデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」(創世二・一〇)
と書かれています。
ところで「田」という漢字を見ると、
田=口+十
で、境界線を表す「口」の中に、中心から四方向に線「十」が出ています(古代漢字の「田」は、もっと丸い形をしていました――)。
日本語で「田」というと「田んぼ」のイメージしかありませんが、じつは中国で「田」は「田んぼ」だけでなく、「園」や「畑」のようなところも意味しました。
つまり「田」の字は、まさに四つの川が流れ出ていたエデンの園を、思わせる字であるわけです。
果
エデンの園の中央には、「いのちの木」と「善悪を知る木」が生えていました。それらの木は、それぞれ「果実」をならせていました。
果実の「果」は、
果=田+木
となっています。「果」とは、もともとエデンの園の木の果実を表したようです。
エデンの園の中央には、「いのちの木」と
「善悪を知る木」とがあった。
裸
アダムとエバは、罪を犯す前は、裸でした。また、裸を恥ずかしいとは思いませんでした。「そのとき人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(創世二・二五) 。
しかし彼らが神の命令に背き、「善悪を知る木」の果実を取って食べたとき、不思議にも彼らは自分たちが「裸である」と思うようになりました。そして以後「衣」を着るようになりました。
「裸」という字は、
裸=衣(ころもへん)+果
です。つまり「裸」とは、
"果実を食べ、衣を着るようになった以前の状態"
を意味する言葉に思えます。
福
アダムは、エデンの園で創造されてのち、神の「祝福」のもとにありました。
この「福」()という字は、 福=ネ(示)+一+口+田
となっています。
このうち、「ネ」(しめすへん)は、じつは単に「示す」ということでなく、「神」を意味するものです。たとえば「禊(みそぎ)」(清め)、「祠官(しかん)」(神官)、「祠祀(しし)」(やしろを建てて祭ること)というように、「示」(しめすへん)は、それだけで神を表すのです。
また「一」は、数字の「一」です。
「口」は、「くち」の意味もありますが、中国では「人」の意味もあります。日本でも、「人口」という言葉があるように、昔の人々は口の数をもって人を数えたのです。
また「田」をエデンの園と解すれば、結局「福」の意味は、
"一人の人(口)がエデンの園(田)で、神(示)と共にいる"
ことです。神はエデンでアダムと共にいて、彼を祝福されたのです。
禁
神はエデンの園の中央に、二本の木「いのちの木」と「善悪を知る木」を生えさせられました。そしてそれら二本の木を示して、人に命じられました。
「善悪を知る木からは、取って食べてはならない」(創世二・一七) 。
神は、一つの禁止事項を示されたわけです。この「禁」という字は、
禁=木+木+示
で、"二本の木を示す"ということです。神は二本の木を示し、そこで禁止事項を語られたのです。
魔
そののち、アダムとエバのもとにサタン=悪魔が、「へび」の姿をして近づいてきました。そしてふたりを誘惑しました。
悪魔の「魔」という字は、
魔=+木+木+鬼 というふうになっています。このうち「」 (まだれ) は、"おおい"を表します。
また二本の「木」は、エデンの二本の木を思い起こさせます。つまり悪魔は、
"二本の木の陰に隠れていた()鬼"
であったわけです。
この「鬼」ですが、
鬼=田+ノ+ム+ となっています。「田」はエデンの園、「ノ」は生きていること、また「ム」は、漢字辞典によると「ぼう」と読み、「某」の意味だとのことです。「」は人です。 つまり「鬼」とは、
"エデンの園にいたある霊的存在"
を意味するものでしょう。
世
ノアの大洪水以前の地球の上空には、「大空の上の水」 (創世一・七)と呼ばれる水蒸気層があったので、それが宇宙から飛んでくる有害な宇宙線や紫外線を遮断し、地上の人々の寿命を長く保っていました。
しかし大洪水後、その水蒸気層がなくなると、地上の人々の寿命は激減し、長くても「一二〇歳」 (創世六・三)程度となりました。
また人が親になる年齢も早くなり、「一世代」は約三〇年程度になりました。創世記一一章を見ると、大洪水後の人々は、だいたい三〇歳前後で第一子を生んでいます。
昔は「三十」を「卅」と書きました。この「卅」から「世」の字が生まれたようです。実際漢字辞典を見ると、「世」には"三十年"の意味もある、と書いてあります。
このようにノアの大洪水以後、一世代は約三〇年になったのです。
乱
大洪水後、人々は再び地上に増えていきました。数百年たって、地上に最初の帝国主義があらわれました。
人々は、その帝国主義の象徴として、「バベルの塔」と呼ばれる巨大な塔を建設しようとしました。しかし神は、その試みをお喜びにはなりませんでした。
神は人々の言葉を「乱す」ことによって、塔の建設を中断させ、人々を全地に散らされました。
「それゆえ、その町の名はバベル(混乱の意)と呼ばれた。主(神)が、全地の言葉をそこで混乱させたから、すなわち主が人々をそこから地の全面に散らしたからである」(創世一一・九) 。
「乱」という字は、
乱=舌+ となっています。「舌」は言葉を話す舌、「」は人を意味する「兀」の右足部分です。 つまり「乱」は、
"人々が舌をみだされ、全地に散って歩いて () いった"
という、バベルの塔の出来事を象徴している字に見えます。
架
バベルの塔から二千数百年の歳月が過ぎ、ついに紀元前四年、ユダヤのベツレヘム村にイエス・キリストが降誕されました。
このかたは、旧約聖書によって何百年も前から予言されていた通り、私たちを罪と滅びから贖ない出すために、十字架にかけられました。
十字架の「架」の字は、
架=力+口+木
となっています。「口」は、先に見たように人の意味ですから、これは、
"力あるかた(口)が木の上におられる"
という意味です。私たちはこの"木にかけられた力あるかた"を信じることによって、罪と滅びと呪いから救われるのです。
「架」とは、力ある方が木の上におられたこと。
救
キリストのことや、キリストがお与えになる「救い」については、すべて『聖書』の中に記されています。
「救」の字は、
救=求+文
で、"聖書という文を求めること"です。私たちは神の御言葉=聖書を求めることによって、「救い」を見いだすことができるのです。
忙
一方、神の言葉=聖書を求めず、日常の事ばかりに「忙しく」していると、救いを見いだすことはできません。「忙」の字は、
忙=心+亡
で"心を亡ぼす"と書きます。日常の事ばかりに忙しくしていないで、聖書を求め、永遠を思い、神を思うことが大切なのです。
信
私たちは創造主なる神を信じ、救い主なるキリストを信じることが大切です。私たちは、そのことによって救われるのです。
「救い」とは、結婚のようなものなのです。男性が女性に求婚しても、女性が「ウン」と言わなければ結婚はできないでしょう。また女性が男性に求婚しても、男性がそれを受け入れなければ結婚はできないでしょう。
同様に、「救い」は人が神との"愛と生命の交わり"の中に入ることですから、人の側で、
「はい、神様とイエス様を信じます」
と言って、神様とイエス様を心に受け入れなければ、神との交わりには入れず、救われません。
私たちは、素直に神とキリストを信じる「信仰」によって救われるのです。
「信」の字は、
信=+言 で、「」と「言」が夫婦のように互いに寄り添っています。 「」(にんべん)は人です。一方、キリストは聖書の中で、「神の言」とも呼ばれています。
「はじめに言 (ロゴス) があった。・・・・このかたは初めに神と共におられた。・・・・言は人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ一・一~一四) 。
つまり「信」とは、
"人が神の言なるキリストと共に歩むこと"
です。キリストが「花婿」、私たち人間が「花嫁」なのです。夫婦のように共に歩んでいくこと――それが「信仰」なのです。
木
「木」の字をよく見ると、"十"(十字架を表す)と"人"から成っています。
木=十+人
"人"が"十字架"につけられているのです。"木"はまさに、キリストの十字架を思わせるものです。
木は、十+人である。それはキリストの十字架を思わせる。
休
「休」は、"人"と"木"から成っています。
休=人+木
「休」の字の中で"人"が"木"に寄りかかっているのです。"木"は先に見たように、キリストの十字架です。
すなわち、私たちが真に「休む」ためには、十字架にかかるほどに私たちを愛されたイエス・キリストのもとへ行くことです。イエスは言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ一一・二八)。
本当の「休み」――安息は、"人"が十字架のキリストのもとへ行くことにあるのです。
来
イエス・キリストは、
「わたしは、世をさばくために来たのではなく、世を救うために来た」(ヨハ一二・四七)
と言われました。この「来」という字は、まさに、キリストの十字架を表しているように思えます。
『中国字福音教材』も同じ視点からとらえているのですが、「来」は古くは「來」と書き、「來」の字を見ると、"十" (十字架) と、ふたりの小さな"人"、およびひとりの大きな"人"(キリスト)から構成されています。
來=十+人+人+人
これは、聖書の次の記述を思わせるものです。
「ほかにも、ふたりの犯罪人が、イエスと共に死刑にされるために、引かれていった。・・・・人々は、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に」(ルカ二三・三二~三三)
イエスは、ふたりの犯罪人らと共に、十字架にかかられました。それは私たち罪人のために、あがない(救い)の死を全うされるためでした。
十字架の死こそ、イエスがこの世に「来られた」目的だったわけです。イエスは、十字架の贖ない(救い)のために世に「来られ」ました。
キリスト来臨の目的である十字架の光景が、このように「來」の一字の中に、示されているのです。
こうしたことを見ると、なんと聖書の記事と深いかかわりがあるだろうかと、思わざるを得ません。
計
キリストが世に来られ、人々の贖いのために十字架にかかられることは、神のご計画によるものでした。聖書に、
「イエスが(十字架に)渡されたのは、神の定めた計画と予知とによる」(使徒二・二三)
と記されています。
この「計画」の「計」の字ですが、"言"と"十"(十字架)から成っています。
計=言+十
"言"から思い起こされることは、聖書でキリストは「神の言」と呼ばれていることです。
「言は人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ一・一四)
つまり「計」の字は、神の"言"なるキリストが"十字架"にかかられることを、示しています。神の"言"が"十字架"にかかることが、神の「ご計画」だったのです。
「キリストは、すべての人の贖ないの代価として、ご自身をお与えになりました」(Iテモ二・六)
キリストは、神のご計画にしたがって世に来られ、さらには十字架上で尊い血潮を流して、「すべての人の贖いの代価」となられたのです。
聖
「聖」は、聖書の中にはよく出てきます。
「聖」は一般には、「清くて罪のない」の意味に思われています。しかし聖書において「聖」は、そうした意味よりむしろ、"神に属するもの"の意味に使われます。
「聖」は神に属することを表し、「俗」はこの世に属することです。聖書はクリスチャンたちのことを「聖徒」と呼んでいますが、これはクリスチャンが全く罪のない人間という意味ではなく、神に属する者たちである、という意味であるわけです。
さて「聖」の字は、"耳"と"口"と"王"から成っています。
聖=耳+口+王
これは、聖書の次の言葉を思い浮かべさせるものです。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです」(ロマ一〇・一七)
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(同一〇・九)
結論はこうです。キリストは、われらの"王"です。そのかたについての御言葉を"耳"で聞き、そのかたを心に受け入れて、キリストこそ人生の「主」また"王"であると"口"で告白するなら、あなたは救われます。
罪と滅びから救われ、「聖」とされるのです。つまり神に属するもの、神のものとされるのです。
「聖」は、キリストを"耳"で聞き、彼こそ"王"であると"口"で告白した者のことを示しているように思えます。
滅
「滅」という字は、恐ろしいものです。「滅」は、"水"(さんずい)、また"火""成"からできています。
滅=水+火+成
聖書にはこう書かれています。
「当時の世界(ノアの大洪水の時の世界)は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし今の天と地は・・・・火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(Ⅱペテ三・七)
聖書によれば、かつて地の人々は、"大洪水"によって滅ぼされました。いわゆるノアの大洪水です。
また来たるべき日には、今度は"火"によって滅ぼされることが、はっきりと警告されています。天地は、世の終わりに、火のうちに過ぎ去るのです。
すなわち神による滅びは、「滅」の字自体に示されるとおり、水と火によって成就するわけです。世界の「滅」は"水と火によって成る"のです。
なんと驚くべき、漢字の意味する聖書の真理でしょうか。
「滅」の字は、「水」と「火」と「成」からできている。
神
「神」という字は、"示"(しめすへん)と、"申"から成っています。
神=示+申
「神」の字が私たちに教えてくれることは、真の神は「示し」「申す」かたである、ということです。
これは、偶像の神と対照的です。偶像の神は、
「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない」(詩篇一一五・五~七)
者です。しかし聖書の神は、そうではありません。真の神は、つねに私たちに働きかけ、アクションを起こしておられます。自らを「示し」、語りかけておられるのです。
神はおもに三つのものを通して、私たちにご自身を「示し」、語りかけておられます。
一つは大自然です。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせ」(詩篇一九・一)ています。すべての被造物は、神の永遠の力と神性を表しています。
二つ目は、聖書です。「聖書はすべて神の霊感によるもの」(Ⅱテモ三・一六)で、神によって書かれた、神からの手紙なのです。神は聖書を通して、私たちに語りかけておられます。
そして三つ目が、神の御子イエス・キリストです。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(ヘブ一・三)です。神はご自身を、御子キリストを通し、完全なかたちで私たちに啓示されました。
初
「初」という字は、"衣" (ころもへん) と、"刀"から成っています。
初=衣+刀
聖書を読んでみましょう。こう記されています。
「神である主は、アダムとその妻のために皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世三・二一)
アダムとエバは、神の御言葉に従っていた時は、裸だったのですが恥ずかしいとは思いませんでした。しかし御言葉に反して罪を犯してからは、自分たちが裸であることを、恥ずかしく思うようになりました。
彼らは葉をつづり合わせて、腰をおおいました。しかしそれは葉だったので、すぐに枯れてしまいました。そこで神は、ふたりのために「皮の衣をつくり、彼らに着せてくださった」のです。
そのとき「皮の衣」をつくるために、神は動物の命を取り、おそらくその皮を「刀」で切られたでしょう――そうです。神は「初め」に「刀」を用いて、「衣」をつくられたのです。
それは罪にけがれた人を、おおうためでした。これが、神の人間に対するすばらしい愛と赦しの「初め」です。
アダムとエバが神の御言葉を無視して罪を犯したにもかかわらず、神は愛と赦しをもって彼らを受け入れ、皮の衣を着せてくださいました。
神の愛と赦しの「初め」が、「初」の一字の中に示されているのです。なお「皮の衣」の出来事は、キリストの尊い血潮が流されることによって私たちに着せられる「義の衣」(イザ六一・一〇)の予型だとも言われています。
被
「被」という字は、"皮"と"衣"(ころもへん)から成っています。
被=皮+衣
つまり「被」は、もともと「皮の衣」であった被服を表すものです。「皮の衣」が、アダムとエバを「被った」のです。
「被」とは、皮+衣である。また「初」は衣+刀である。
住
「住」という字は、"人"(にんべん)と、"主"から成っています。
住=人+主
つまり"人"が"主イエス"と共にいること、それが「住む」ことです。そのときにこそ、人は安住できるのです。
英語では「生きること」も「住むこと」も、同じくliveと言いますが、「住む」ことは、すなわち生きることでもあります。"人"が"主イエス"と共にあゆむとき、人は真に「生きる」ことができるのです。
命
「命」の字は、"一"と"人"と"叩"から成っています。
命=一+人+叩
つまり、"一人のひとが叩ふりがなたたいている"わけです。聖書の次の言葉が浮かんできますね。
「見よ。わたし(キリスト)は、戸の外に立って叩く。誰でも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」(黙示三・二〇)
キリストは、私たちの心の戸を叩いておられます。そして私たちの心に入って、私たちと共に生きたい、と願っておられます。
私たちは心の扉を開いて、彼を内に迎え入れされすれば、彼の与える「永遠の命」に生きることができるのです。
「見よ。わたしは戸の外に立って叩く」
協
聖書に、
「三つよりの綱は、たやすくは切れない」(伝道四・一二)
とありますが、私たちが力を合わせて「協力する」ことは、強い力を生み出します。
また聖書に、
「私たちは神の協力者である」(Iコリ三・九)とあるように、クリスチャンは互いに神のために力を合わせています。
「協」の字を見てみると、"十"(十字架)と、三つの"力"から成っています。
協=十+力+力+力
まさに、私たちが"十字架のキリスト"と共に、「三つよりの綱」のごとく互いに"力"を合わせていくことこそ、クリスチャンにとっての「協力」と言えるのではないでしょうか。
道
主イエス・キリストは言われました。
「私が道です」(ヨハ一四・六)
この「道」という字は、"首"と""(しんにゅう)から成っています。
道=首+ "首"について、聖書にはこう書かれています。
「キリストは教会の首(かしら)」 (エペ五・二三 文語訳)。
「かしら」は今は「頭」と書きますが、昔は「首」とも書いたわけです。キリストが"首"なのです。
一方""(しんにゅう)は、「行く」とか「歩く」の意味を持っています。それは「迎」「追」「迷」「速」「通」の字に見られるように、歩行を表します。
つまり「道」は、"かしら"(首)なるキリストの"歩まれた"道のことでしょう。キリストは私たちに、模範として足跡を残されたのです。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を示されました」(Iペテ一二・二一)。
私たちは人生の中で、「これが道だ」「あれが道だ」という多くの声を聞きます。しかし真実の道は、一つしかありません。
すなわち、イエス・キリストの示された道です。私たちは迷わず、この道を歩もうではありませんか。
「信」とは、人が神の言なるキリストと歩むこと。
「道」とは、"かしら"なるキリストの歩まれた道。
こうして見てみると、聖書の真理を表した漢字がなんと多いことでしょうか。こうした漢字はユダヤ人やクリスチャンたちが発明したのではないか、と思えてきますね。
〔参考文献〕
●"The Discovery of Genesis" C.H.Kang and Ethel R. Nelson, Concordia Publishing House, U.S.A.
http://www.bibleetnombres.online.fr/genesis.pdf
●レムナント三六号「漢字で聖書を語る」(福原秀憲)
Prolog … Genesis
1. K. T. Khang (C. H. Kang), Genesis and the Chinese (Hong Kong: Independent Printing, 1950).
2. See Chapter 9, note 2. 3. Edward Reese and Frank R. Klassen,
著者
Ethel R. Nelson
C. H. Kang
“But wait, wasn’t the Garden of Eden ‘watered?’” Now I remembered a river, in fact, four rivers being mentioned in the oft-read Genesis description. Why had this not seemed important before? I reached for my heavy briefcase and struggled to release it from under the seat in front. I extracted a Bible from my bulging luggage and turned to Genesis 2:9–14. Yes, the river was four-headed and appeared to originate in the center of the Garden near the tree of life and the tree of the knowledge of good and evil. I thought again of the symbol for garden 田 . “Perfect! A four-headed river originating in the center of the Garden would certainly ‘water’ it. But what would be its source? “The head of most rivers is spring water — a fountain! Even the radicals for water , (older forms , too), are all vertical figures, as though arising from the ground. and might even be interpreted as flowing in four directions. A fountain! That’s it! The Bible is full of verses referring to the ‘fountain of life.’” I leafed through the concordance in the back of my Bible and looked under Fountain. My eyes fell on something interesting in Song of Solomon 4:12, 15:
A garden locked is my sister, my bride, A garden locked, a fountain sealed. … A garden fountain, a well of living water, And flowing streams from Lebanon.
“That’s obviously the Garden of Eden after the Fall, ‘a garden locked,’ and it has a fountain of ‘living water’ with flowing ‘streams!’ The ‘garden’ was also called a ‘bride’!” My excitement mounted. “Now, why is
「でも待てよ、エデンの園には 「水が張られていた 」のではないだろうか?私は今、よく読まれる創世記の記述に川が、実際には4つの川が言及されていることを思い出した。なぜ今までこのことが重要だと思えなかったのだろう?私は重いブリーフケースに手を伸ばし、前の座席の下から必死に取り出した。膨らんだ荷物の中から聖書を取り出し、創世記2:9-14を開いた。そう、川は4つの頭を持ち、園の中央、命の木と善悪を知る木の近くに源を発しているように見えた。私は庭のシンボルである「田」を再び思い浮かべた。「完璧だ!園の中央に源を発する4つの頭を持つ川は、確かに園に「水」を供給するだろう。しかし、その源は何だろう?「ほとんどの川の源は湧き水である!水の部首も(もっと古い部首も)、地面から湧き出るような垂直の形をしている。泉!そうだ!聖書には 「命の泉 」に言及している箇所がたくさんある」。私は聖書の後ろのコンコルダンスに目を通し、「泉」を探した。ソロモンの歌4:12, 15に興味深いことが書いてある:
鍵のかかった庭は、私の妹、私の花嫁、鍵のかかった庭、封印された泉。...庭の泉、生ける水の井戸、レバノンからの流れ。
「それは明らかに堕落後のエデンの園であり、「鍵のかかった園 」であり、流れる 「小川 」を持つ 「生ける水 」の泉がある!"。その『園』は『花嫁』とも呼ばれていた!」。私の興奮
The Discovery of Genesis (English Edition) Kindle版
Epilog … Revelation 1. is square in the present calligraphy, and in the majority of earlier forms usually maintains this configuration . However, occasionally it may be stylized as round or oval, . The “rivers” may be horizontal and vertical as depicted above, diagonal , “meandering” , or even more stylized as or .
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