2024年8月13日火曜日

宇佐家伝承① : 古代史探訪

宇佐家伝承① : 古代史探訪

宇佐家伝承①

宇佐公康(きみやす、1915年-?)氏が、著書「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」を1987年に木耳社から出版している。

宇佐公康氏は高魂尊(たかみむすひのみこと)の125代目とされ、宇佐家本系図によると、菟狭津彦命の72世の孫(そん)、宇佐公池守の57代目、宇佐相規の42代目、宇佐公通(きんみち)の36代目にあたり、昭和31年(1956年)に先代から一子相伝の「口伝書」と「備忘録」を引き継いだ。

宇佐族について、先代旧事本紀の天神本紀に「高魂尊の子の天三降命(あめのみくだりのみこと、豊国の宇佐国造の祖)が饒速日東遷に従った」とあり、国造本紀には「宇佐国造は神武朝の御世に、高魂尊の孫の宇佐都彦を国造に定められた」とある。

高魂尊(高皇産霊尊)→天三降命→菟狭津彦(宇佐都彦)

 

菟狭族(宇佐族)は、宇佐家伝承が記紀の記述とは違う事をはばかって、族長の世継ぎが一子相伝の伝承として代々、口述・記憶・暗唱してきたが、中世以降に「口伝書(くでんがき)」と云われる門外不出の極秘文書となった。

宇佐公康氏は先祖伝来の口伝書・備忘録を読み、記紀・風土記・皇統譜令・陵墓要覧・神社名鑑などを研究し、私見も入れた本書を出版することにした。我田引水の批判もあると思うが、宇佐家の古伝をありのままに開陳しているので寛容を願いたいと云っておられる。

高魂尊(西暦140年頃出生)の子の天三降命(あめのみくだりのみこと、宇佐国造の祖)が、市杵島姫(西暦160年頃出生)を妻とし、菟狭津彦(西暦175年頃出生)が生まれた。

天三降命(西暦155年頃出生)は西暦185年頃の饒速日東遷に従い、大和国へ行った。

菟狭族(宇佐族)の天職とする天津暦(あまつこよみ)は、月の動きを見て月日を数える月読(つきよみ)や、日知・聖(ひじり)などにより、満月の月面に見える模様をウサギに見立て、月を「ウサギ神」として崇拝し、「ウサ族」と称した。

宇佐族は島根県の隠岐の島で漁業を中心に生業としていたが、和邇族との取引に失敗して丸裸になってしまった。大国主命(160年頃-220年頃)に「新しい土地に行って再起せよ」と云われ、大国主命からもらった因幡国八上(鳥取県八上郡)の地を開拓して成功した。

この地の巫女は八上比売で大国主命の妻となった。(「因幡の白兎」の神話となる)

宇佐神宮の33年毎の式年遷宮では、中央の二之御殿の屋根は少しずれているが、位置を動かすことは絶対にまかりならぬと口伝されている。

二之御殿の真下には御量石(みはかりいし)があり、この石を中心に二之御殿が建てられている。この御量石は石棺で、比売大神が埋葬された。

宇佐家伝承によると、大神比義(おおがひぎ)の心眼に童子の姿で「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、神功皇后(西暦321年-389年)と武内宿祢(西暦310年頃-390年頃)の密通によって生まれ、4才で早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊であると云う。

宇佐家古伝によると、本当の応神天皇は神武天皇(西暦181年-248年)の皇孫で、神武天皇が東遷する時(204年出発)、菟狭(宇佐)の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや、足一騰宮)に4年間滞在し、菟狭津彦の妹(実は妻)の菟狭津媛を娶って、宇佐津臣亦の名は宇佐稚家(わかや)が生まれた。

宇佐稚家が越智宿祢の女(むすめ)常世織姫(とこよのおりひめ)を略奪して娶って宇佐押人(おしと)が生まれたが、宇佐稚屋は越智氏に恨まれ、戦闘の中で負傷し、27才で亡くなったと云う。

宇佐稚屋は宇佐の小椋山(おぐらやま、亀山)に葬られた。宇佐押人は西日本を統一して中央(大和国)に進出し、応神天皇となって国家が成立したと云う。

私見ですが、宇佐押人(西暦220年頃出生)が15代応神天皇(西暦363年-403年)では時代が全く合わない。宇佐押人に該当する年代は5代孝昭天皇の頃になる。

一柱騰宮の伝承地は宇佐氏古伝によると、宇佐神宮の寄藻川(よりもがわ)にかかる朱塗りの「呉橋」の南にある。一柱騰宮跡の石碑があり、その東には弥勒寺跡がある。

弥勒寺は西暦738年(45代聖武天皇の天平時代)に宇佐神宮境内に建立された神仏習合文化発祥の寺院。明治の神仏分離令により廃寺となった。

また、宇佐市上拝田(かみはいた)に一柱騰宮跡地とする石碑がある。宇佐市安心院(あじむ)の妻垣神社(宇佐神宮摂社)にも伝承地がある。安心院は宇佐氏の発祥の地と云う。

神武天皇の東遷に菟狭津媛が随伴し、筑紫国岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋町)に1年留まったが、宇佐族の岡氏が岡県主(おかのあがたぬし)となり、大陸との交易で栄えたと云う。

次に神武天皇は安芸国の多祁理宮(たけりのみや)に6年留まり、菟狭津媛は巫女として奉仕、神武天皇(181年-248年)との間に第2子の御諸別命(みもろわけ、宇佐稚家の弟)が生まれた。御諸別命の子か孫が卑弥呼(179年-247年)で、安芸国が「邪馬台国」だと云う。

私見ですが、これは年代が合わないし、邪馬台国は安芸ではなく、九州の筑後川周辺だと考えられる。筑後川の北に「秋月」と云う地名はあるが・・・

神武天皇が亡くなった後、兄の景行天皇が熊襲退治に出かけたが、病気になり阿蘇で亡くなったので、「智保の高千穂嶺」に葬った。当地には熊本県阿蘇郡蘇陽町大野の幣立神社(へいたてじんじゃ、日の宮)が鎮座しており、景行天皇の御陵になっていると云う。

初代神武天皇が12代景行天皇の弟と云うのは時代が合わない。景行天皇は近江国の志賀高穴穂宮で崩御、大和国の山辺道上陵(渋谷向山古墳、300mの前方後円墳)に埋葬された。

菟狭津媛は多祁理宮の南西20kmにある伊都岐島(広島県佐伯郡宮島町厳島)に宇佐族の母系祖神・市杵島姫命を祀っていた。推古天皇の時代に社殿が造営され、平清盛が安芸国守護職となってからは社殿が大きく拡充整備された。

菟狭津媛は間もなく亡くなり、神武天皇も1年後に亡くなったと云う。二人は伊都岐島(厳島)の御山(弥山、みせん、530m)山上の岩屋に葬られたと云う。

多祁理宮の別名は埃宮(えのみや)で、現在は多家神社(たけじんじゃ、安芸郡府中町)となっている。祭神は神武天皇、安芸津彦命(安芸国の開祖)。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  

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