2024年8月13日火曜日

宇佐家伝承② : 古代史探訪

宇佐家伝承② : 古代史探訪

宇佐家伝承②

宇佐家伝承①からの続き。

宇佐家古伝によると、「14代仲哀天皇(320年頃-362年)は武内宿祢(310年頃-390年頃)に殺された。誉田天皇は応神天皇ではなく、神功皇后(321年-389年)と武内宿祢の子である。仲哀天皇陵は香椎宮にある」と伝わる。

香椎宮(福岡市東区香椎)の170m東の森に、古宮(仲哀天皇橿日宮跡)と仲哀天皇大本営御旧蹟碑(仲哀天皇崩御の地)がある。ここに仲哀天皇の宮があり、天皇は西暦362年にこの宮で崩御した。神功皇后が仲哀天皇廟として祀った。

その後、44代元正天皇の養老7年(723年)に神功皇后の神託が下り、香椎宮(かしいぐう)の社殿が建てられ、祭神は仲哀天皇と神功皇后になっている。

宇佐家の古伝では、「宇佐稚屋(うさのわかや)の弟である御諸別命(みもろわけ)が神功皇后、誉田天皇、武内宿祢を打ち破り、武内宿祢は行方知らずになり、神功皇后と誉田天皇は香原岳の南の勾金(まがりかね)に幽閉されてこの地で亡くなったと云う。誉田天皇は4才であった。八幡大神の天罰を受け、御諸別命の天誅によって追放された」と云う。

私見ですが、宇佐公康氏は津田左右吉(1873年-1961年)の意見を重視しているので、戦後史学の古代史歪曲に影響されていると強く感じる箇所があります。

宇佐神宮由緒記によると、「宇佐神宮上宮(じょうぐう)は45代聖武天皇(701年-756年)の神亀2年(725年)に造営され、これが現在の一之御殿の創建である」とある。

祭神は応神天皇になっているが、宇佐家は宇佐押人(おしと)を祀ったと云う。だから宇佐押人を応神天皇に仮託したのかも知れない。

聖武天皇の天平3年(731年)に神託により現在の二之御殿を造営、比売大神を御許山(おもとやま、647m)の頂上(宇佐神宮奥宮)から勧請し、宇佐家の母系祖神の菟狭津媛を祀った。現在は三女神とされている。御許山は比売大神の降臨した神山。

天平勝宝4年(752年)、宇佐神宮は45代聖武天皇(701年-756年)の東大寺盧舎那仏の造立事業に協力し、宇佐神宮の神輿に八幡大神を鎮座して都に向かった。大仏殿近くの鏡池(八幡池)の東に、手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を建立し鎮座した。

そして大仏開眼会に八幡大神の神輿が大仏に礼拝したので、神仏習合を目指す聖武天皇に喜ばれた。

東大寺大仏殿建立に際し、宇佐神宮は香原岳の銅を供出、鍍金のために金を輸入する必要があったので、金の調達について八幡大菩薩に御加護をお願いした。尼僧の禰宜(巫女)が託宣を下し、「黄金は陸奥国金華山にあり」と云った。実際に現地で調べてみると金鉱石が見つかった。

これで無事に盧舎那仏が完成することになる。以降、宇佐神宮は朝廷との繋がりが深くなり、勅使が神託を得るために、西参道に架かる屋根付きの朱塗りの「呉橋」を渡ってやってくることになった。

八幡大神は奈良の都から帰還すると、神託により765年に亀山の東向いの大尾山(おおやま、57m)に鎮座したが、782年に亀山(小椋山、38m)の古墳の上に遷座したと云う。大尾山の跡地は大尾神社(おおじんじゃ)となり、宇佐神宮の摂社となった。かなり山深い。

従って、和気清麻呂(733年-799年)が769年に弓削道鏡(700年-772年)の事件に関し、勅使として神託を受けたのは、大尾山に鎮座の宇佐神宮であった。

52代嵯峨天皇(786年-842年)の824年に神託により現在の三之御殿を建て、大帯姫を祀った。大帯姫は神功皇后と云われるが、宇佐家は宇佐押人(応神天皇)の母・常世織姫を祀ったと云う。

常世織姫の墳墓は宇佐市橋津の貴船神社だと云う。

貴船神社はかなり荒廃しているが、近くに和気清麻呂の「船つなぎ石」がある。

宇佐家の古伝によると、宇佐神宮の一之御殿祭神の応神天皇は宇佐押人、二之御殿祭神の比売大神は菟狭津媛、三之御殿祭神の神功皇后は常世織姫命となる。

藤原氏と宇佐氏の姻戚関係により八幡信仰が全国に広まっていった。そして石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の建立により武家にも浸透していった。

宇佐家は平家との外戚関係もあり、源平合戦では平家の味方になった。宇佐家当主の宇佐公通(きんみち、1144年に大宮司)は、1183年に都落ちした安徳天皇(1178年-1185年)を自邸に迎えた。

宇佐公通が七日七夜祈ったところ、「嫡男の宇佐公仲を安徳天皇の身代わりとして守れ」と神託を得た。公仲の母は清盛(1118年-1181年)の娘浄子で、建礼門院徳子(1155年-1213年)の妹であるから安徳天皇と宇佐公仲は同年の従兄弟であった。

公仲は安徳天皇として壇ノ浦の戦いで入水した。その後、宇佐神宮では、宇佐公仲と称した安徳天皇が1214年に大宮司となり、以降は子孫が大宮司を務めたと云う。

宇佐公康氏によると、大分県の国東(くにさき)は「木の国」で、魏志倭人伝記載の「鬼国」、玖珠郡の玖珠川周辺が「躬臣(くす)国」、宇佐が「為吾(いご)国」、山国川周辺が「耶馬国」、山口県防府市大崎の玉祖(たまのおや)神社付近が「投馬国」と云う。

また、奈良県橿原市の神武天皇陵の被葬者は饒速日命だと云う。宇佐家の伝承によると、物部氏の原郷は筑後平野で、氏神は高良大社である。

宇佐神宮の大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義(おおがひぎ)の子孫の大神氏が務めたが、平安時代中頃から菟沙津彦 (うさつひこ) らの子孫である宇佐氏に譲り、宇佐氏一族の宮成氏、到津(いとうづ)氏、岩根氏、安心院(あじむ)氏が大宮司を世襲した。その後、一族で大宮司を争うことになる。

鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。両家が交互に大宮司を継いだ。一時、宇佐氏一族の出光氏も大宮司となったことがある。

戦後は、到津氏が継承し祭祀を行っていた。平成16年(2004年)頃より到津氏に代わって代務者が置かれるようになったので、神社庁、到津家、氏子総代が争いを続けている。

到津家の末裔到津克子(よしこ)氏は、神社庁から権宮司を解任され訴訟を起こしたが女性宮司は認められず、訴訟を取り下げた。境内の立派な住宅兼祭祀の場を維持するためであった。

私見ですが、神社庁を改革する必要があるのではないか。神社は神社庁のものではなく、氏子や社家のものだと思いますがねぇ・・・

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私事ですが、私たち夫婦は196911月に結婚し、今年は2019年ですから50年が過ぎました。娘夫婦、息子夫婦、孫たちが「金婚式」を祝ってくれました。孫の成長ぶりを楽しんでいます。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


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