家政
に、ご奉公のためご参覲ならせられ候とゆえ、御国御乗船の節 (出発の際)、一生のおいとまど
いなされ候とおぼしめし上は、ご対顔あそばされ候に及ばざる御事なり、かたときも早く帰
府(江戸へ帰ること)ならせられ、ご機嫌お伺いしかるべきおぼしめしのよし仰せ進ぜられ、お逢
いならせられざるおもむき申し伝える事。
一説には、御船よりお上がりあそばされず、直ちにまた御出船あそばされとも申し伝うる
也。」
ほうふつ
これは、家政の言動を彼の家臣が記録した「尊語集」からの抜き書きである。藩祖美化の意図
があるとしても、なおかつ、隠居後の家政の暮らしぶりを彷彿とさせる。
徳島城
徳島城の完成は天正十五年(一五八七。 天正十四年説もある)とされているが、蜂須賀家政の一宮
城からの移城は、おそくとも天正十三年十二月迄に行なわれたようで、「渭水聞見録」 「寛永系
「譜」などに、家政の嫡男至鎮は「天正十四年正月二日、徳島城に生まる」とあるほか、天正十三
年中の移城を示す史料がいくつかある。たぶん家政は元の渭山城を改修築して、 とり急ぎ移城し、
その後、逐次増築して、徳島城を完成したのであろう。
いのやま
天正十五年の徳島城落成説と阿波踊の起源を結びつけて、城の落成を祝う庶民たちが、 祝い酒
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尊語集
https://dl.ndl.go.jp/pid/1207402/1/55
https://ailand.or.jp/wp-content/uploads/2023/03/0140fc1c9dbb1fe9451d367000576822.pdf
『五機内最後の宣教師』 結城了悟著
五畿内の最後の宣教師 ディオゴ結城了雪
ジョアン・ロドリゲス・ジランの書簡 (イエズス会年報)
長崎1609年3月14日
1585年から蜂須賀家政は阿波の大名であった。 家政は1596年大坂で
洗礼を受けたが------家政は実際に信仰生活を止めていたが、家来の中
には120名ほどの信者がいた。 ・都の地方について。 この家から阿波国
へ宣教の旅が行われました。 そこの信者は大きなる喜びで神父を迎え、み
んな告白し、 ある落伍者も神様に戻りました。 ------ よく教えを受けたあと大
人28名が洗礼を受けましたのであのキリシタンたちの小さな共同体は大き
くなり力が強められ------ 神父とイルマン (阿波出身) が二人の領主親子そし
て主だった家臣から歓迎され、二人にも挨拶に行きました。 父の方は昔洗
礼を受けていましたので今いろいろと持て成し4度ほど自分の屋敷に招待
しました。 - 説教を聞いた人の中には、 そこに長年追放されている日
本の以前の公方もいました。 彼がイルマンと親戚関係にあるのでイルマン
がその家に挨拶に行ったとき自分も説教を聞きたいと言い--------。
21:36 6月6日 (金)
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出会い・発展・取締まり
1563年(永禄6年)
ルイス・フロイス来日,
キリシタン禁制史関係年表
no1
1549年(天文18年) フランシスコ・ザビエル、 鹿児島に上陸・布教開始
三好長慶の家臣にキリシタン多数、 三木判太夫など
1565年(永禄8年)
長慶の家臣、 武田市太夫キリシタンに改宗
1574年(天正2年)
ディオゴ結城生まれる
1582年(天正10年)
天正遣欧使節(~90年に帰国)
1587年(天正15年)
秀吉、 バテレン追放令発布
1596年(慶長 1年)
サン・フェリペ号事件
*この頃、家政大坂で洗礼をうける!
1597年(
2年)
長崎にて二十六聖人殉教・パウロ三木殉教
1600年 (
5年)
リーフデ号、豊後に漂着
1604年(
9年)
糸割符制度開始
1609年(
14年) オランダに通商許可(平戸 )
1610年(
15年)
家康, 田中勝介をメキシコに派遣
ルイス・フロイス 『日本史』 3 第14章170p~184p
-永禄6年(1560) ・ロレンソ修道士の飯盛山への派遣、
司祭ビレラによる洗礼-
・三好殿幕下の73名の貴人たちはまったく納得して、すぐ
にもキリシタンになることを決心するに至った。 その中には3
62%
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