2024年12月14日土曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波国風土記について

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波国風土記について

阿波国風土記について

阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水(しみづ)。此より出づ。勝間井と名づくる所以(ゆゑ)は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。已上。
萬葉集註釋 卷第七
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上の画像右ページが「萬葉集註釋 卷第三」の「阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。」の部分です。

そしてもう一つ

『拾遺采葉抄』第三,二五四番歌條に

大門ナタセト,阿波國風土記曰,波高云云.明石浦セトナシ.ナタナルヘキヲヤ

と、あるそうですがこちらの方は原典が確認できてません。

つまりは「阿波国風土記」について過去に存在していた事は間違いなさそうです。

無論内容については、上記逸文だけでも「一般の」古事記解釈をひっくり返す内容満載ですね。

なんで、こんな事を書いたかと言いますと

「阿波郷土会報」なる文書を集めた「ふるさと阿波」っていう書籍を見つけてしまいました。

その中に「阿波国書誌解説」なる一文がありまして

昭和8年12月の後藤尚豊翁手記の記録が後藤捷一氏の書簡として残っているという記載です。

その内容は「風土記編纂掛名面」。

明治初年の頃、藩庁(阿波藩ですね)にて「阿波国風土記」が編纂されていた時のメンバーの一覧です。

一部転載します。

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風土記編輯御用掛  長久館出仕  松浦宗作

末九月松浦氏へ同勤  士族五人御扶持

常三島   渡辺 圓

同     八木 正典

御弓町   郡 一郎平

佐古 椎宮下神職 生島瑞穂

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等々とあります。

なお、松浦宗作氏については補注として

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松浦宗作

仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八

著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」

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と、あります。

なーんでしょうね、これは。

明治初年の頃「阿波国風土記」が数人の手によって編纂されていた?(再編纂?)

それを後藤尚豊翁の手記を基に誰かに手紙を書いた?

後藤捷一氏の書簡?後藤尚豊翁のご子息?

なんで昭和8年?

岩利大閑説では明治5年まで「阿波国風土記」が現存していた?

風土記編輯御用掛(!!!)の松浦宗作氏にしても著書が「阿波国御風土記」(!!!!!)

で、松浦宗作氏は明治十年歿

これってすっごくヤバクないっすか?

なんかとんでもない所に足を突っ込んでしまいそうな.....。

でも「佐古 椎宮下神職 生島瑞穂」なんて方のお名前がある所を見ると

これは絶対「近くに」残ってますよね。全文でなくても。

ま、それにしてもこの「阿波郷土会報」の面白い事。

"あの"応神天皇の陵(みささぎ)ではないかと言われている徳島市八万町の恵解山古墳を

昭和30年に発掘したときの記録なんてもう、しっちゃかめっちゃか(死語)

古墳の発掘に発破は使うは、発掘物はドラム缶に放り込んだままにするは、極めつけは

発掘物を作業員が持ち逃げして、後でそれを見つけて買い戻すなんて、目が点になるよう

な話が満載です。

いくら戦後間もない昭和30年だからといっても、これはないでしょうという有様です。

でも、最近にしても南環状線工事の時、似たような事をやってるんで笑いもできませんよね。

また、石井町中王子神社の事とかが書けなかったよお。

でも、今月はちょっと書き過ぎですね。ぐーたらになってないじゃん。

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slowslow2772さんによるXでのポスト 白馬寺

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