2024年12月14日土曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波國続(後)風土記について(4)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波國続(後)風土記について(4)

阿波國続(後)風土記について(4)

3月9日(土)阿波古事記研究会より、その4。
前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
読んでない方は見てから戻ってきてね。
では、恥さらしの4回目を、なんですが、ちょっと「阿波國続(後)風土記について(3)」の追記という形です。

後藤尚豊氏は、七條淸香(七條文堂)あるいは藤原淸香が「舌洗いの池」を古風土記逸文にある「勝間の井」であるとしたことに対して、反論の一文をしたためる訳なんですが、その全文を出しておきます。
前回でも「きっついなぁ」と思ってたんですが全文を見るとキツいなんてモノじゃない(笑)まずは見て下さいませ。


文のはじめに曰く、風土記は元明天皇の和銅六年云々。
続日本紀巻の六に出たる文を取れしと見ゆれど、永代無盡蔵には和銅五年諸国の風土記を作る云々とも有、尚尋ぬべし。また朝野群載廿一の巻に、諸国に風土記を召す官符は、延長三年と見えたり、されば此の一條も此時のかもしられざれば、かく一むきには言いがたかり。また出雲風土記なる天年五年は、群書一覧に元明天皇の諸国の風土記を撰せられし、和銅六年よりは廿一年後にして、醍醐天皇の官符を以て諸国の風土記を召されし延長三年よりは、百九拾二年前なり、されば和銅より延長まで、二百年ばかりの間に、早く亡失するもの多かりしにやと書り、かゝれば仙覚大人がとりしは、いつのよなりしや、しられず。

何處のもうせて全く世に傅はれるは、たゞ二三ヶ国に過ぎざりけり。

これも群書一覧を見れば、今たま〵全部するものは出雲一国のみ云々、伊勢・豊後これに次ぐ云々とありて、伊勢国は桑名郡・員辨郡・度會郡の殘缺一巻、豊後のは球珠郡・大野郡・海部郡・大分郡・速見郡・國埼郡一巻とあれば、日田・直入・速水の郡々はなし、さればともに殘缺なり、かかればこゝに二三ヶ国に云々と書ては、書ざま如何におもほゆ、出雲をきわやかにしるし、餘は殘缺なるゆへよしを、記すべくなん。

名東郡観音寺村に、したらひの水といへる有て。

したらひとはあれど、したらひの水と書しは、御検地帳等にはなし、さればしたらひと書來れる有てと、書てよかるべし。

古老いへらく、元暦の昔、源廷尉、屋島の討人に云々。

古老いへらくとはしるされたれど、正等庵のかの縁起に、元暦の亂に廷尉源義経、讃州八島へ發向の時云々と、あるによくにたれば、全これをとれるならん。
里人、勝間の井と答へき。勝間とはよき祥なりとて、軍人皆手洗ひ、口そゝぎ、下つながれに馬ひきいれて、足あらはせしより、しかよび來れりといへる云々。
是もかの縁起に、士卒の喉を潤し、乗馬に水飼給ひしより、里人又此井を舌洗ひと名付けたり云々、水の名も元勝間の井といへるにより、才智の大将、吉例を祝し給ひ云々、と書るをとれりと見へたり。
此水に古へ髪を束ぬる時、狭根葛をひたして櫛けづりし由、記したる書ありしが、今はうしなへりと語り傅へたるは、かの大御櫛笥の忌てふことの餘波成云々。
是もかの縁起に、大師のいへる言の中に、時の后女の御くし笥の水に、とり用ひ給ひしにより云々の言に似たり。
そもそも、この淸香といひし人は、いにしへしぬぶ人とは見ながら、其人となりはしらず、世にはあしわざする人もあれば、勝間の井のふるごとを、仙覚大人が万葉集の抄に引用せるにて、めずらしく見いでて、その處をたづねわびしころ、したら井の清けき水と、かの縁起とを見て、おのがたづねわびしころなれば、めづらかには有ながら、かの佛ざまの、例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく、さながらすつるもおしく思へられて、かくしらずがほに、少し巻文をかへ、古老にたくして書きしものと、おのれはおもほゆ、いかにあらん、後の人かふがえさだめてよかし。
もし淸香ぬし、仙覚大人が抄をめづる人なれば、かならず別の紀より見いでしなれば、其書名をものすべく、はた今は此書書きしころより、三十四年をへてはあれど、里人に勝間の井となへしことは、淸香ぬしの言より前かたには、傅へもなかりしやうに言ればなり。もともかの縁起はあれど、これも天正の兵火、また追加には元禄庚午ともあり、庚午は元禄三年にあたれり、さればふるくもあらざるうへに、年號も名もなかゝるものを、うつしつたふるには、いできし年月をしるせし名ばかりは、近きよになりてはもらすべきにあらず、されば近きころ、ふるめかさむとての、しわざなるべし。もしくは淸香ぬし、あしわざする儈とはかりてものせしか、または淸香ぬしの、古老にたくして書おきしをきゝて、奸儈の淸香ぬしの言によりて、ものせしにもありもやせん。かた〵にうたがわしきことなりかし、今より後うごくまじにあかしを得て、さだめ給へかし。

読めました?
まずは風土記編纂の勅の和銅より延長まで二百年もあったんで、仙覚和尚がいつのことを思って書いたのか、わからんじゃないかと言い出してますね。
次に、御検地帳には「したらひの水」なんてどこにも書いてないと言い。
「古老いへらく...」と言うのも、見つけてきた正等庵の縁起の写しじゃないのか?といちゃもんを付け(笑)
仙覚抄もちゃんとした引用なら、他の書にも記載がどこか残ってるだろと、これも、いいがかりレベルの書き様ですな(笑)他の國の風土記逸文も複数の史書に残ってるものなんて無いのにねぇ。
また、追加の記載も元禄三年のものなんで、全然古くないじゃないと仰っております。
後年、新事実が発見されて、その時に記載されたのなら古くなくてもおかしくないと思うんですがねぇ。
そして「または淸香ぬしの、古老にたくして書おきしをきゝて、奸儈の淸香ぬしの言によりて、ものせしにもありもやせん」ってねぇ.....
淸香が古老が言ったと騙ってるんじゃないかって、言ってるんですぜ.......
最後には
「かた〵にうたがわしきことなりかし、今より後うごくまじにあかしを得て、さだめ給へかし」
と、「ひじょーに疑わしいので」「今後確たる証拠を調べ出して」証明してやるぜ、って

仰っております。

そこまで言わずともって、ため息が出てきますねぇ。

個人的にはあの近辺、観音寺木簡も出土してる程、古くからの要衝ですし、なにしろ「国造本紀」にあるところの、阿波國造の祖として、倭建命の皇子である「長田別命」が国府町の尼木にいたほどですので、全くない話じゃないと思うんですがね。

写真は出土した観音寺木簡

すんません、寄り道してしまいました。

勝命村へ行きましょう。

後藤尚豊氏の「勝間の井を探る記」よりです。

観音寺村にしたらひの池あとてあるを、勝間の池なりと、この里の人、言傅へたるよしなるに、勝間の井の清水は、阿波郡勝命村にあり、とも聞しかば、いかなる事にや、と思ひしからに、勝命村にものして、行かふ里人に、さる名の付池ありや、と、たずねもとめしかど、しらずといへるは、またいぶかしくて、このむら長、がり人をやりてたづぬるに、しらずといへり。かくてかゑらんもあたらしくて、また行先々にてたづねしかば、家あるじと見し人は.........

あ、ここまでしか入力できてないや(笑)続きは

「阿波國続(後)風土記について(5)」で。

(あぁぁぁぁぁ、石を投げないで下さい〜)

ところで、このまま続けてもいいのでしょうか?ちょっとは面白いんでしょうか?

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slowslow2772さんによるXでのポスト 白馬寺

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