2024年12月17日火曜日

忠臣蔵・勘平の原風景

忠臣蔵・勘平の原風景
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 萱野三平重実は延宝三年(一六七五年)に父重利の三男としてこの屋敷で生まれました。三平が十三才の時、父の主家の大嶋出羽守の推挙で、播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩の小姓として側近に仕えました。
 元禄十四年三月十四日(一七〇一年)主君内匠頭が江戸城の松之廊下で吉良義央に対しての刃傷事件を起こした時その事件の第一報を早水藤左衛門と二人で江戸より早駕篭で赤穂まで四日半の短時間で到着し大石内蔵助に事件を報じました。その道中三平の生家の萱野家の門前を通過する時に母親小満の葬式に出あいましたが主家の一大事と、母をうしなった悲しみを打ちはらい、心の中で冥福をいのりながら、そのまま駕篭をとばしました。時に三平、二十七才の事でした。

 浅野家は断絶となり、大石内蔵助を敵討の同志に三平ももちろん加わりました。城が明けわたされた後、三平は生家にかえり、この間長屋の西の部屋にこもっていましたが、同志と合流したいという願いをおさえることができず、父、重利に新しく江戸での仕官をするという理由をつくり、江戸へ行きたいと申しましたが、父は世間のうわさ話から赤穂浪士の行動を察していましたので、もしも、三平が法を破る行動に参加するようなことがあれば、三平を推挙してくれた父の主家大嶋氏に迷惑のかかるのを心配し、三平をいさめ、思いとどまるように申しましたので、三平は主君への恩義と父への義理の板ばさみに苦しみ悩み遂に主君の命日を自分の最期の日と決め、京都の山科の大石内蔵助に遺書を書き、同志と共に約束をはたせぬ罪をわび、かつ同志の奮起を祈る心を述べ、家来に山科に届けさせ、内蔵助の手にとどいたころに切腹し二十八才の若い生命を自ら絶ちました。
 それは吉良邸討入成功の、ちょうど十ヶ月前でした。

忠臣蔵・勘平の原風景

あちこち歩き:

2006年11月 忠臣蔵・勘平の原風景

萱野三平の佇まい

 え~、本当に久しぶりの「あちこち歩き」です。前回が一昨年12月の「信太の森散歩」でしたから、一年と三ヶ月のブランクになりました。その間どこも歩いていなかったということではなくて、書く暇がなかったというのが実情です。言い訳はさておき、満を持しての本作?お題は文楽・歌舞伎でお馴染みの「仮名手本忠臣蔵」です。

 忠臣蔵で活躍する役柄はいろいろありますが、いい男で、その上悲運、「早まった勘平」で非業の死をとげるのが早野勘平。芝居の方では先代の十七世中村勘三郎が当り役、お古いところでは六代目菊五郎の舞台が語り草になっているようです。三段目の刃傷の後の裏門駆け付けで恋人のお軽と逢引きの余韻を残して登場するところから、清元で踊る四段目裏の「道行旅路花聟」、五段目「山崎街道」での狩人姿、そして六段目の「腹切り」まで出ずっぱりの大車輪。勘平のいない忠臣蔵なんて考えられないと言ってよいでしょう。

 早野勘平が芝居の役名ですが、この勘平のモデルになったのがこれから訪ねる萱野三平その人です。萱野三平/早野勘平、まったく芝居の作者はいい名前を考えるものです。早野と替えた苗字の中に「早まった…」が入っているというのはじつにどうもスゴイくらいのものです。

 いかなればこそ勘平は、三左衛門が嫡子と生まれ、十五の年より御近習勤め、百五十石頂戴致し、代々塩谷の御扶持を受け、束の間御恩は忘れぬ身が、色に耽ったばっかりに、大事の場所にも居り合わさず……

 と、六段目で舅(しゅうと)殺しの疑いを掛けられ、思わず腹に刃を突きたててからの述懐は見物の涙を誘います。勘平の出番はこの六段目で終るのですが、続く七段目「祇園一力茶屋」の場で、兄の平右衛門から父親と夫勘平の相つぐ死を知らされた遊女お軽の口説きに

 勿体ないが父さんは、非業な死でもお年の上、勘平さんは三十に、なるやならずに死ぬるとは

 と身も世も無いほどに嘆かせるのは改めて大変つらい場面です。

 さて、その勘平に会いにいこうと思い立ったのはほぼ十年越しのことなのです。大阪の北にある箕面市は紅葉の名所です。そこでほぼ毎年、秋に行なわれる取引先の会合に出席するために阪急の箕面駅から会場のホテルに向って歩き始める最初の路地に左の写真の小さな標識が立っていて

     義士萱野三平之旧跡

と読めます。私も芝居を観てきた人間ですから萱野三平があの「勘平さん」であることは承知しておりましたが、どうしてこんなところに所縁の場所があるのかと思いながら通り過ぎておりました。

 ところが、五年前の平成十四年に赤穂義士討入三百年で、このホームページに小文を書いた時、江戸からの早駕篭で急を知らせる使者となった萱野三平が箕面の実家を通り過ぎる時に母親の葬儀に出会い、お役大事とそのまま赤穂への道を急がざるを得なかったということを知り、大変に衝撃を受けました。それがあの標識の示す場所なのかと心付き、次回の箕面行きには是非訪ねてみたいと思いました。

 しかし、そう思いついた翌年から、毎年同じ所ではという主催者の配慮で別の場所で会合が行なわれるようになり、三年ぶりに昨年秋、箕面での開催が通知された時は「これで念願が叶う」と密かに喜びました。

 箕面の駅から千里中央駅行のバスに乗って、「萱野二丁目」で降りると交差点には下の写真のような案内が出ています。

 こう言ってしまえば簡単ですが、実は同じ千里中央駅行でも経路の違うバスがあって、そちらへ乗ってしまったので、途中で気付いて乗換えたため40分ほど掛かりました。矢印の道を進むとすぐに三平旧宅跡が見えてきます。

 この道の奥、白壁の塀がとぎれたところが目指す三平旧宅「涓泉(けんせん)亭」です。

 この角の案内板があるところが三平旧宅ですが、左に曲がると表を通る旧西国街道に面した萱野家の長屋門がみられます。

 旧西国街道は京都から大阪の茨木を経てこのあたり箕面の南から西宮、さらに遠く山陽道を経て下関に向う江戸時代の幹線道路でした。それなればこそ、主君の急を知らせる江戸からの早駕篭は当然この道を走りぬけ、使者の三平が実家の前を通りすぎることになったのでしょう。
 この道の京都方面は別名「山崎街道」とも呼ばれています。そうです。「仮名手本忠臣蔵五段目」の山崎街道です。

 萱野三平旧宅跡「涓泉亭」の入り口は長屋門とは反対の右側になっています。

 入り口から中に入ると左手に旧萱野三平邸の建物がありました。中央の人が立っているところが長屋門の裏側です。

 上の写真で門の左側に障子を開け放された部屋がありますが、ここで萱野三平が自刃をしたと伝えられています。

 部屋の中には小さな木像が安置してあり、「萱野三平切腹の間」という木の札がありました。
 
切腹の間の左手に萱野三平の辞世の句

  晴ゆくや 日ごろ心の 花曇り    涓泉

を刻み込んだ句碑があります。碑の前にはちょうど黄色いつわぶきの花が咲いていました。

 「涓泉」は萱野三平の俳名で、同じ赤穂藩の大高源五(俳名:子葉(しよう))等とともに俳句を学び、日ごろ嗜んだ三平の面影がうかがわれます。

 ここ涓泉亭の敷地内には萱野三平記念展示室が設けられていて、萱野家と萱野三平の事績、三平の遺筆が展示されています。

 それらによって萱野三平の人となり、赤穂藩に仕官したいきさつ、そして切腹に至った事情を知ることが出来ました。そのあらまし前掲の写真、長屋門内側に掲示された案内板の「萱野家と三平」と題した説明から書き写してみます。

萱野家と三平
 萱野家は源氏の子孫で鎌倉時代より室町時代を経て戦国時代にいたるまで豪族として当地方に領地をもち萱野村の地名を姓として「萱野氏」を名乗っていました。当地は、西国より江戸に通じる唯一の幹線道路(西国街道)で、萱野氏の屋敷は、この西国街道に面した広大な敷地に堂々たる武家長屋門を構えていました。
 織田信長が当時の伊丹城主の荒木摂津守村重をほろぼした頃、当萱野家は荒木氏に属していましたので荒木氏の滅亡と同時に領地をうしない、長く世をのがれて時節の訪れをまちうけていました。
 時代は移り変わり江戸時代になり、天下は太平の世となりました。この頃縁あって萱野家は美濃国出身の旗本の大嶋氏に使えることになり、その所領である椋橋荘(現豊中市庄内)の代官を勤めておりました。

 萱野三平重実は延宝三年(一六七五年)に父重利の三男としてこの屋敷で生まれました。三平が十三才の時、父の主家の大嶋出羽守の推挙で、播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩の小姓として側近に仕えました。
 元禄十四年三月十四日(一七〇一年)主君内匠頭が江戸城の松之廊下で吉良義央に対しての刃傷事件を起こした時その事件の第一報を早水藤左衛門と二人で江戸より早駕篭で赤穂まで四日半の短時間で到着し大石内蔵助に事件を報じました。その道中三平の生家の萱野家の門前を通過する時に母親小満の葬式に出あいましたが主家の一大事と、母をうしなった悲しみを打ちはらい、心の中で冥福をいのりながら、そのまま駕篭をとばしました。時に三平、二十七才の事でした。

 浅野家は断絶となり、大石内蔵助を敵討の同志に三平ももちろん加わりました。城が明けわたされた後、三平は生家にかえり、この間長屋の西の部屋にこもっていましたが、同志と合流したいという願いをおさえることができず、父、重利に新しく江戸での仕官をするという理由をつくり、江戸へ行きたいと申しましたが、父は世間のうわさ話から赤穂浪士の行動を察していましたので、もしも、三平が法を破る行動に参加するようなことがあれば、三平を推挙してくれた父の主家大嶋氏に迷惑のかかるのを心配し、三平をいさめ、思いとどまるように申しましたので、三平は主君への恩義と父への義理の板ばさみに苦しみ悩み遂に主君の命日を自分の最期の日と決め、京都の山科の大石内蔵助に遺書を書き、同志と共に約束をはたせぬ罪をわび、かつ同志の奮起を祈る心を述べ、家来に山科に届けさせ、内蔵助の手にとどいたころに切腹し二十八才の若い生命を自ら絶ちました。
 それは吉良邸討入成功の、ちょうど十ヶ月前でした。

 太平元禄の夢を破った、赤穂浪士の敵討は今日に至るまで、「忠臣蔵」として語りつがれていますが、三平切腹当時。赤穂の同志は各地に散在しており、連絡もできず、幕府の取り締まりは強化され、吉良家の警戒も厳重で、同志の間でも敵討の見通しも立てられず不安とあせりのため同志より脱落するものも現われました。
 一方血気さかんな江戸在住の若手の同志は、大石内蔵助の命をまたず小人数で、敵討の決行の動きも見られ、大石内蔵助は心を痛めておりました。三平の切腹の悲しみの知らせはちょうどその頃伝えられ、同志たちの動揺はおさまり、内蔵助を中心にかたく結ばれました。
 討ち入りはその年も押しつまった元禄十五年十二月十四日の主君の月命日に整然と劇的に展開され、武士の本懐をはたしました。三平の死は、ゆれうごく同志の心の結束への捨石となり実に後世に「忠臣蔵」としてその実を結ぶための悲しい先花でありました。

 三平の辞世の句碑が切腹した部屋の西側にあります。
    晴れゆくや日頃心の花曇り   涓泉

 三平の心情のあふれた句です。「涓泉」は三平の俳号です。

 三平の墓は、五百メートルほど南の萱野家の墓地内にあります。

 萱野家と三平についての史実のあらましはこれで言い尽くされているようですが、記念館の系図資料から三平には早世した兄(三男)がいたこと。長兄が旗本大嶋家の分家で家老職の伯父大嶋三郎右衛門の養子となり家督を相続し、次兄が父の家督を継いでいることなどがわかります。また一族の俳人水仙堂蘭風(三平の従兄弟)撰による句集「萱野草」の一部が展示されており、その中、右端に涓泉(三平)、左端に子葉(大高源五)の名が見えます。

記念館に展示されている「萱野草」の一部

 同じく記念館に展示されている年表から元禄十四年三月十四日の刃傷事件以後の記事を拾ってみると、同年四月下旬に故郷の萱野へ帰り、六月二十八日に梅田大融寺で営まれた母の百ケ日法要に参列しています。七月下旬にいっとき美濃の実兄、大嶋三郎右衛門宅に逗留していますが、八月十四日には亡君の追善供養(場所は不明)に参列し、茅野に戻ったあと九月中旬に訪ねてきた俳句仲間の子葉(大高源五)と箕面の勝尾寺・瀧安寺に遊びました。その後、決意が固まったのでしょうか。十二月二十一日に妹おつやに書簡を送り、年明け一月十三日に姉の小きんを嫁ぎ先の新稲村吉田家に訪ねて暇乞いをした翌日十四日(主君の月命日)未明に自宅居間にて自刃しました。享年27歳、まさに「三十になるやならずに……」という早すぎる死でありました。

 三平の俳句は赤穂藩の仲間とともに江戸の水間沾徳(てんとく)に師事し、その技量は当時の俳諧人にも広く認められていたとのこと。三平の句作として知られているものに前述の亡母の百ケ日に際しての
           みじかよや百の夢路をかちはだし  涓泉
子葉と箕面に遊んだ時の
           秋風や隠元豆の杖のあと       涓泉
があります。

 俳諧の雰囲気を持った文章としての俳文もよくし、そのひとつである「蟾蜍賦(せんじょのふ)」も展示されています。蟾蜍(せんじょ)は「ひきがえる」のことです。これら三平の遺作をもう少し踏み込んで味わいたいのですが、今回はその一端にふれるだけでした。

 さらに三平が母親に宛てた手紙の一部が展示されていました。これには読み下しが添えられていましたので下に書き写してみました。

(前略)
わたくし儀ほどほどぶじにて つとめ申候 御こころやすく
おぼしめし可被下候 松山御在番もやがて御引渡しなされ
候はんまま 此秋には江戸へ御ともいたし久々にて御目に
かかり可申間相まち申御事にて候 しかれば其元にて
御つませなされ候せんじちゃ弐袋御こしかたじけなくぞんじ
せうはんいたしまいらせそろ いつもいつもよき御茶とぞんじ
申候 かはる御事もなくあらあら申上候 尚又かさねて可申上候
                            めでたくかしこ
                       六月二日
                      しんしゃう 母者人様
                        御人々御中様へ
                             かやの さん平

 手紙の文面からも萱野三平という若者の実直な人となりが伺われます。総じて今回の訪問で得た三平の印象は父母を敬い兄弟を思い自分を律することに謹直なつつましい若者の姿でした。その上に俳諧を通しての風雅と、幼時から育まれたであろう教養に裏打ちされた人の世への対し方に江戸という時代に生きた武士階級の典型としての好ましい佇まいを感じます。

 仮名手本忠臣蔵の作者は竹田出雲といわれています。これまで見てきたように萱野三平という実在の人物が芝居の中の早野勘平を創造する大きなヒントとなっていたことは間違いないでしょう。実は吉良邸討入を果した四十七士の中に横川勘平宗利という人がいて、これも「勘平さん」ではありますが、こちらは三十七歳であったといいますし、本懐を遂げておりますので、作者がお名前を拝借したという程度と考えてよいでしょう。

 芝居の「勘平」さんは、いい男の代表のようです。恋人お軽との逢引きがもとで、主君刃傷のときに、持ち場を離れていて「大事の場所にもあり合わさ」なかったり、山崎街道の暗がりの中でイノシシと間違えて親の仇の斧定九郎をズドンと撃ったのが、身のアダとなり六段目で「言い訳なさに」切腹して果ててしまうなど、芝居を盛り上げてくれますが、この役の性根にある謹厳実直、忠心・孝心、優しさの本質はモデルとみられる萱野三平の中に十分感じ取ることが出来ます。

 ただひとつ勘平にあって三平に無いもの、それが「色気」です。少なくとも今回の調査?から、それらしい物証は得られませんでした。三平がいい男であったかどうかはわかりませんが、十三歳で主君浅野内匠頭の小姓になったということから推測して、姿の良い少年であったはずです。その代りといってはなんですが、年表から紹介した姉小きん、妹おつやとの交流は三平の心優しさをうかがわせます。切腹の前日、それとなく別れを告げに姉小きんを訪ねて帰るときに「これで、おさらばでございます」と言い残した、と伝えられる言葉は大変痛切です。

 萱野三平旧宅跡「涓泉亭」から徒歩で約十分、小高い丘の上に萱野家の墓地があり、その中に萱野三平墓と刻まれた三平のお墓があります。ここを訪ねた日は平成18年11月10日晩秋の穏やかな日でした。


 あとがき:
 東京の築地、聖路加病院の手前の角にひっそりと建っている史跡標識に「浅野内匠頭邸跡」と記されています。ここはその昔、元禄十四年三月十四日に江戸城松の間刃傷事件が起るまで播州赤穂藩の上屋敷が置かれていた築地鉄砲洲です。事件後本国へ第一報を知らせる使者を命じられた萱野三平が早見籐左衛門とともに早駕篭で出発したのがこの場所です。

 仕事の関係で月に1~2度、ここを通りかかる度に、箕面の三平宅を思い浮かべておりました。江戸から赤穂までの早駕篭は四日半かかったといわれています。疲労こんぱい、その極に達していたであろう三平の目に飛び込んできた母の葬列の光景はいかばかりであったかと、このひとの数奇な運命を思わずにはいられません。

平成19年3月24日 稲林 記

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slowslow2772さんによるXでのポスト 白馬寺

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