四天王寺の祭祀に関わり特に、聖霊会に関わる人たちを公人(くにん)と呼ばれる人たちが行っていて、その人たちは物部の末裔であるとは、『四天王寺の鷹』を書いた民俗学者谷川健一氏も指摘する処ですが、私の見立てでは、聖徳太子は仏教を大陸から取り入れながらも、物部神道の奥義を、四天王寺に残した、そしてそれは、天皇が即位する践祚大嘗祭の奥義に封じ込められたと推察しています。海部神道も物部神道も結局表舞台からは消えてしまいますが、天皇の秘儀の中に、聖徳太子が封じ込め、形を変えながらもその奥義は今も継承されています。
物部の祭祀は、もともとは動物犠牲による祭祀であって、仏教の隆盛によってそういった祭祀は忌み嫌われ廃止されたと思われます。『続日本紀』にはそうした禁止令が何度も発布されていることが記されています。
それが、牛頭天王信仰です。
四天王寺の天王は、牛頭天王の天王でもあります。
牛頭天王を祀るお堂は、四天王寺にちゃんとあります。小さいですが、実は四天王寺の創建に関わる神。それが、牛、だとあります。石となった牛が祀られているので、石神堂とも言います。
また、京都太秦には木嶋神社という社があります。あの三柱鳥居がある神社です。
この神社の正式名称は、木嶋坐天照御魂神社といい、天照が出てきます。
今、この神社の祭神は別の神様に変えられてしまっていますが、本来ここの祭神も、天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命だったのです。海部氏の神様です。
木嶋坐天照御魂神社の由緒書き。祭神は明治になって代えられているが、江戸時代以前の文献には天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命、となっています。
そして、景教(キリスト教ネストリウス派)の痕跡かも、とも書いてあります!!
ここではなんと、20年ほど前までは奇祭・牛祭が行われていました。
木嶋神社から摩多羅神と言う謎の神様が牛に乗って、太秦の町を練り歩き、西に位置する広隆寺の夜の境内に入り、赤々と燃える篝火の前で四天王とともに摩多羅神を勧請する祭文を読む、というもの。
ところが主役の牛が途中でいなくなる……。
牛に乗った摩多羅神。正体不明の神様とされます。
謎が多いとされる祭でしたが、おそらく牛は、古代においては火にほおりこまれて燔祭としたのではないかと、これは私だけでなく民俗学者の喜田貞吉なども指摘していることです。
聖徳太子は、法隆寺など七寺を造ったとされますが『日本書紀』を読むと、生前の太子との関係を示す寺は、四天王寺と広隆寺の二寺のみで、どちらにも牛の信仰の痕跡があるわけです。
予言獣・クダン、件とは何か?
中山市朗です。『オカルトエンタメ大学』、今夜は「驚きの件、怪事件と歴史的真相」をお送りしております。
後半、真名井御前だの、元伊勢籠神社だの、真名井神社だの、海部(あまべ)氏だの、木嶋神社だの、牛祭だの、殺牛祭だの、いろいろ出てきて、よおわからんわ、という声が聞こえてます。
整理しますよ。
『新耳袋・第一夜』に掲載した「クダン」に関する一連の話は、
◎兵庫県西宮市、あるいは六甲山系の甲山(かぶとやま)という地域に登場するということ。また、小説『くだんの母』の舞台も西宮市の西隣に位置する芦屋市であること。
そして後日談となる阪神大震災における警備員が報告した「牛」の目撃談も、六甲山近辺であったこと。
また、動画では触れませんでしたが、西宮市の若者たちの間で「うしおんな」という幽霊が、六甲山系の某神社に出ると噂が立っていたこと。
あるいは、1980年代には六甲山のドライブウェイを走るローリング族を追いかける牛女(顔が般若、体が牛)の噂があり、週刊朝日に掲載されたこともありました。
そして、小松左京の『くだんの母』には、モチーフとなった牛女の話があったという……。
これらのことから、この六甲山系、あるいは西宮市、芦屋市近辺に半牛半人の予言獣を生み出す何かがある、と思い、私のもう一つのライフワークである古代史(オカルトから解く古代史)の面から紐解いてみた、というのが、今回の「クダン」の謎解きであります。
で、クダンの噂は当地には他にもあって、夫婦岩にクダンがいた、という話も当時あったわけです。何の信ぴょう性も無い話なのですが、この夫婦岩も西宮市にあるわけです。どうして、西宮市なのだろうか、ということですね。10000話以上の怪異談を蒐集していますが、他ではこんな話、聞きません。
この夫婦岩ですが、動かせば呪いが生じて、工事関係者が死ぬ、とか大けがをするとされる霊石でして、為に道路の真ん中にあるわけです。
で、この岩は鷲林寺と神呪寺の中間地点にあり、もともとは磐坐信仰の対象の一つだったと思われます。そして神呪寺は甲山を背にして建っております。
甲山。
この神呪寺、および鷲林寺は空海所縁の寺ですが、私はこの両寺でかつて、牛に関する祭祀が行われていたのではないか、と推察しているのです。
その神呪寺には、秘仏として、真名井御前の像が安置されています。如意輪観音像です。重要文化財に指定されています。
この像は弘法大師(空海)が彫ったとされますが、真名井御前という女性の生前の姿を彫ったとされます。
真名井御前は、丹後半島の籠神社の祝部(はふりべ)である海部(あまべ)氏出身の巫女でした。
丹後半島は京都府北部に位置する日本海に突き出た半島。対馬海流が流れ込み、その潮流にのって古代には渡来人がやって来たルートとなっていました。
丹後半島には、日本三景で知られる天橋立がありますが、これを参道とした古社があります。
丹後一宮、籠(この)神社です。与謝野宮(よさのみや)とも呼ばれます。
籠神社は元伊勢ということになっていますが、伊勢神宮の外宮の祭神・豊受大神はもともとこの地に降り立った神であり、雄略天皇の夢枕に天照大神が立って「私一人で食事をするのは安らかではないので、丹波国の比治の真名井にいる等由気大神(とゆけおおかみ)を呼び寄せなさい」と言ったことから、今の外宮に豊受大神が祭祀された、とされています。
この比治の真名井の地が、籠神社の奥社、真名井神社であるといい、真名井御前の名は、この真名井から取られたということになるわけです。
真名井神社の碑。なぜか社紋として六芒星が彫られていた。籠神社の籠は、籠目の籠、という説明を受けた覚えがあります。
真名井御前は、容姿端麗であったらしく、淳和天皇の第四妃として迎えられますが、いろいろと嫉妬され虐めにあったのでしょうか、世に無常を感じて26歳にして宮中を出て、西宮の甲山に寺を建て、空海を迎えて如意輪の秘法を修したとされ、これが神呪寺の創建に関わってくるわけです。
つまり、神呪寺は、海部神道の奥義を知る真名井御前の修行の場でもあったわけです。
弘法大師も、彼の唱えた真言密教は、大陸から持って帰った密教の奥義と真言、つまり神道の言霊信仰との融合であり、秘密の教儀となりました。
更に言うと、飛鳥時代、海部氏出身の巫女が蘇我稲目のもとに養女にもらわれ、この巫女が生んだのが聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)であり、間人と言う地名も丹後半島にあります。読みはタイザですが、間人皇女がこの地から退座され、飛鳥の都に行かれたので間人と書いて、タイザと読む、とは地元間人に残る伝説です。聖徳太子の母の血筋は、丹後半島から出たのです。
古代において、皇子は母親の宗教観を引き継ぎます。つまり聖徳太子の母方は、海部氏であり、海部氏の信仰形態を持っていたはずです。父親は用明天皇で仏教に帰依した天皇ですが、その期間はわずかですし、聖徳太子こと厩戸皇子が生まれた頃は、仏教に帰依していませんでした。
では、真名井御前や聖徳太子の祖母を生んだ海部氏とは誰か、です。
字のごとく、海の人です。海人(あまびと)です。
海、あま、と呼んだわけですが、あま、は天でもあり、海人は天であり海である水平線の彼方からやって来た海洋民族である、と、これは籠神社の海部宮司から直接聞いた言葉です。
その海洋民族のトーテムは、牛だったようです。
海部氏というのは、その海族を率いる首長であり、祭祀を務める役職にあった一族です。そして代々祝部(はふりべ)という役職にありました。これは神官としての役職ですが、はふり、という語源は、屠る(ほふる)であり、動物の生贄を捧げるという役職であったと想像されます。
巫女装束というのがありますね。
白い小袖に緋袴。この緋袴は、生贄を捧げる時血を被るので、最初から赤系統の袴を穿いたのだと、私は推測しております。
で、牛がトーテム、ということは牛の生贄がなされていたと考えて間違いないでしょう。
ですから、私の見たところ、聖徳太子が建立したという四天王寺は、牛だらけなのです。
太秦・牛祭の謎に迫る! 第七章 : 中山市朗ブログ - livedoor
海部氏には、日本最古の系図というのが残っておりまして、国宝認定されております。
平安時代初期に書き移されたもので、この系図によると海部氏の始祖は、彦火明命(ひこほあかりのみこと)となっております。火の神様です。この火は太陽のことをさします。
彦火明命は、籠神社の伝承や『先代旧事本紀』などによりますと、天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命「まてるくにてるひこほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)ともいい、天照、とか、饒速日命という名があります。
天照(あまてる)とは、天の太陽が海にその明かりを照らす状態を言います。
太陽信仰を持っていた渡来人たちが、海を渡るとき目にした光景でしょう。
そしてそれは、饒速日命である。饒速日命とは物部氏の祖神です。
海部氏の系図によると、彦火明命の系譜から饒速日命が出ていて、つまり海部氏の祭祀は物部氏によって朝廷に持ち込まれた、それは物部神道である、ということなんですね。
海部氏を本家とすると、物部氏と尾張氏が分家となると系図は示しています。
この系図は国宝の「本系図」とは違って、『海部氏勘注系図』。「本系図」は検閲が入っていたため、書けなかった名前や公になっていない名前も記される。
聖徳太子の母の血筋は、ここから出ます。
ですから、朝廷においては、それは物部神道であるといえるわけです。
四天王寺の祭祀に関わり特に、聖霊会に関わる人たちを公人(くにん)と呼ばれる人たちが行っていて、その人たちは物部の末裔であるとは、『四天王寺の鷹』を書いた民俗学者谷川健一氏も指摘する処ですが、私の見立てでは、聖徳太子は仏教を大陸から取り入れながらも、物部神道の奥義を、四天王寺に残した、そしてそれは、天皇が即位する践祚大嘗祭の奥義に封じ込められたと推察しています。海部神道も物部神道も結局表舞台からは消えてしまいますが、天皇の秘儀の中に、聖徳太子が封じ込め、形を変えながらもその奥義は今も継承されています。
物部の祭祀は、もともとは動物犠牲による祭祀であって、仏教の隆盛によってそういった祭祀は忌み嫌われ廃止されたと思われます。『続日本紀』にはそうした禁止令が何度も発布されていることが記されています。
それが、牛頭天王信仰です。
四天王寺の天王は、牛頭天王の天王でもあります。
牛頭天王を祀るお堂は、四天王寺にちゃんとあります。小さいですが、実は四天王寺の創建に関わる神。それが、牛、だとあります。石となった牛が祀られているので、石神堂とも言います。
また、京都太秦には木嶋神社という社があります。あの三柱鳥居がある神社です。
この神社の正式名称は、木嶋坐天照御魂神社といい、天照が出てきます。
今、この神社の祭神は別の神様に変えられてしまっていますが、本来ここの祭神も、天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命だったのです。海部氏の神様です。
木嶋坐天照御魂神社の由緒書き。祭神は明治になって代えられているが、江戸時代以前の文献には天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命、となっています。
そして、景教(キリスト教ネストリウス派)の痕跡かも、とも書いてあります!!
平安時代初期に書き移されたもので、この系図によると海部氏の始祖は、彦火明命(ひこほあかりのみこと)となっております。火の神様です。この火は太陽のことをさします。
彦火明命は、籠神社の伝承や『先代旧事本紀』などによりますと、天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命「まてるくにてるひこほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)ともいい、天照、とか、饒速日命という名があります。
天照(あまてる)とは、天の太陽が海にその明かりを照らす状態を言います。
太陽信仰を持っていた渡来人たちが、海を渡るとき目にした光景でしょう。
そしてそれは、饒速日命である。饒速日命とは物部氏の祖神です。
海部氏の系図によると、彦火明命の系譜から饒速日命が出ていて、つまり海部氏の祭祀は物部氏によって朝廷に持ち込まれた、それは物部神道である、ということなんですね。
海部氏を本家とすると、物部氏と尾張氏が分家となると系図は示しています。
この系図は国宝の「本系図」とは違って、『海部氏勘注系図』。「本系図」は検閲が入っていたため、書けなかった名前や公になっていない名前も記される。
聖徳太子の母の血筋は、ここから出ます。
ですから、朝廷においては、それは物部神道であるといえるわけです。
四天王寺の祭祀に関わり特に、聖霊会に関わる人たちを公人(くにん)と呼ばれる人たちが行っていて、その人たちは物部の末裔であるとは、『四天王寺の鷹』を書いた民俗学者谷川健一氏も指摘する処ですが、私の見立てでは、聖徳太子は仏教を大陸から取り入れながらも、物部神道の奥義を、四天王寺に残した、そしてそれは、天皇が即位する践祚大嘗祭の奥義に封じ込められたと推察しています。海部神道も物部神道も結局表舞台からは消えてしまいますが、天皇の秘儀の中に、聖徳太子が封じ込め、形を変えながらもその奥義は今も継承されています。
物部の祭祀は、もともとは動物犠牲による祭祀であって、仏教の隆盛によってそういった祭祀は忌み嫌われ廃止されたと思われます。『続日本紀』にはそうした禁止令が何度も発布されていることが記されています。
それが、牛頭天王信仰です。
四天王寺の天王は、牛頭天王の天王でもあります。
牛頭天王を祀るお堂は、四天王寺にちゃんとあります。小さいですが、実は四天王寺の創建に関わる神。それが、牛、だとあります。石となった牛が祀られているので、石神堂とも言います。
また、京都太秦には木嶋神社という社があります。あの三柱鳥居がある神社です。
この神社の正式名称は、木嶋坐天照御魂神社といい、天照が出てきます。
今、この神社の祭神は別の神様に変えられてしまっていますが、本来ここの祭神も、天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命だったのです。海部氏の神様です。
木嶋坐天照御魂神社の由緒書き。祭神は明治になって代えられているが、江戸時代以前の文献には天照国照彦火明櫛𤭖玉饒速日命、となっています。
そして、景教(キリスト教ネストリウス派)の痕跡かも、とも書いてあります!!
ここではなんと、20年ほど前までは奇祭・牛祭が行われていました。
木嶋神社から摩多羅神と言う謎の神様が牛に乗って、太秦の町を練り歩き、西に位置する広隆寺の夜の境内に入り、赤々と燃える篝火の前で四天王とともに摩多羅神を勧請する祭文を読む、というもの。
ところが主役の牛が途中でいなくなる……。
牛に乗った摩多羅神。正体不明の神様とされます。
謎が多いとされる祭でしたが、おそらく牛は、古代においては火にほおりこまれて燔祭としたのではないかと、これは私だけでなく民俗学者の喜田貞吉なども指摘していることです。
聖徳太子は、法隆寺など七寺を造ったとされますが『日本書紀』を読むと、生前の太子との関係を示す寺は、四天王寺と広隆寺の二寺のみで、どちらにも牛の信仰の痕跡があるわけです。
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海部氏(あるいは物部氏)の古代における祭祀は殺牛祭であった、なんて指摘しているのは私くらいかもしれませんが、痕跡は確かにあるのです。物部氏の本拠地とされる石上神宮には、牛の犠牲祭の伝承は残っていますし、『石橋家文書』などという牛売買の許可書は聖徳太子と秦河勝よりもらっていて、四天王寺建立時に使役した牛を売買する牛市を、四天王寺の西門にたてた、という証言などがかいてあります。日本国最初の牛市です。こういうことは歴史書には出てきませんが、家畜、畜産に関する文献を読むと、出てきます。
そして、牛市は甲山鷲林寺の近辺でも、天橋立でも行われていたという記録もあるわけです。
近隣諸国から牛を連れ出し、生贄の牛を祭祀場が選んで、あとは売買を、ということです。
つまり、甲山では牛市があり、海部の巫女であった真名井御前による祭祀も行われていた、と。ただ、鷲林寺も神呪寺も相次ぐ山津波や戦国時代の焼き討ちなどがあり、昔のことはわからないと、寺関係者の方からお聞きしています。
その地に、現在、牛女、クダンの噂が流れているわけです。
血の臭いのするクダンという予言をするという妖獣と、牛を犠牲とした牛頭天王信仰との関係を疑う根拠はあるでしょう。
動画でも触れていますが、クダンという妖獣は、江戸時代末期に突如現れました。古代に遡る意味は無い、とする研究家の方もおられましょう。
ただ、天保7年の瓦版には、クダンが出現したのは丹後国の与謝郡倉梯山となっているのが気になるわけです。
与謝郡は与謝野宮(別称・籠神社)が鎮座するところですから。
あくまでこれは、作家としての好奇心であり、追及でもありますこともご理解ください。
それから、甲山は丹後にもあるのです。こちらは兜山と書きますが、同じような形をしています。
この山は久美浜というところにありますが、久美浜は古代の海族が本拠地にしていた場所で海士(あま)という地名も残ります。こちらの兜山の頂上には熊野神社が鎮座していますが、熊野の熊とは隠(こも)るの意であり、籠居(こもりぬ)の意であり、と『熊野郡誌』にあります。つまり、籠神社の元社があったと思われます。
真名井御前は、故郷の兜山を懐かしんで、同じような形をした西宮の甲山に信仰の場所を構えたのではないでしょうか?
クダンを巡っての古代の旅、いかがでしたか?
え、長い?
すみませ~ん。つい、熱くなりました。
明日の夜も『オカルトエンタメ大学』、「質問のコーナー」となっておりまして、クダン、八甲田山の知られざるエピソードも語ります。
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