阿波國続(後)風土記について(2)
3月9日(土)阿波古事記研究会より、その2。前回は「阿波國続(後)風土記について(1)」読んでない方は見てから戻ってきてね。
では、恥さらしの2回目を(笑)
4.後藤家文書について
この「阿波国風土記編輯御用掛」のメンバーのうち、後藤尚豊氏はは国府、早渕の庄屋であり、重要な責務を負っておりました。
(写真左が後藤氏。明治十年)
その一部は鳴門教育大学に残る「後藤家文書」に一部かいま見ることができます。この、後藤家文書のうち「阿波國続風土記」に関係する文書23通、そのうち筆者名の記載されているものは、わずかに一通でありますが筆跡を見るに後藤氏のものであることは間違いないように見受けられます。
下に文書の一部を出しますが、これも鳴門教育大学の許可を得ておりませんので、部分といたします。
これは文書が保存されていた包み。
調査項目や範囲を規定した文書や「阿波国風土記編輯御用掛」就業規則(笑)についての文書も残されていますが、今回はその部分は割愛いたします。
後藤尚豊氏は「阿波国風土記編輯御用掛」に選任された後(多分明治2年頃)、直ちに「阿波國史逸文」の編纂に着手します。
これは古今の文書より、阿波の来歴を探ろうと云う試みです。
この文書の本文は現存していないませんが、目録と引用書目だけがかろうじて記録されていたので、下記に資料として掲示いたしますが、その前に「阿波國史逸文」の序文を転記いたします。
阿波國史逸文
序
こたび、みけむかふ阿波の國の、風土記を編輯せよと、玉だすきかけまくもかしこき、大御ことをかかぶるからに、まづこの國のことを、ふるくもあたらしくも、ふみちふふみの、あるがままに、あさりもとめて、そをしも、ものにしるしつけてなん、そのよさあしさを、かふがへみばやと思ひなりぬ。かくてまづはじめに、おのがいへにもたるかぎりを、ともをわかちしるしいでて、こたびこのふみゑらむことをすべしり居つる人、松浦ぬしに見せてなん、このひとのひめもたるところのふみども、おのが見しらぬふみどもをもかり、またこの國に住と住諸人のもたるかぎり、あさりもとめてさきのことどもをわかち、この國のことゝしいへば、あさぢはらつばら〵に、のこるくまなくかきしるし、さておのがちからのかぎり、よさあしさをあげつらひさだめて、さてこのことうけたまわれるもろびとにみせてなん、よさあしさのゑらみをこひもとめ、さだかならぬ名どころをばゆきもし、またはさとびとのおいびとなどのいひつたえをきゝもし、またはところのさまを見あきらめ、そがありさまをかきととのへて、松浦ぬしにみせてなんかのひとにあげつらひ、さだむることをもとめなばよかましとなん、けふのあかときごろよりしるしそめて、巻の名を阿波國史逸文となん名付ぬ。
かくゆふは延長の頃、勤子内親王のおほんおほせをうけて、源順朝臣の和名類聚抄かゝれしころは、ところの名を名方のゑくりのさとといひしを、今は名東郡早淵村といふところの民、後藤麻之丈、明治四年文月廿九日の日の、朝日の豐さかのおるとき、かくなんこのふみのはしにみづからしるす。
御國内の物ら事らをあさり見て紀撰め言御言かしこし
おふけなき御言にし有らば朝霄のいぬるをかきて労む我は
自分の家に持っている限りの文書を別けて印をつけ、松浦主に見せ、この人の秘蔵する文書、自分が見も知らなかった文書を借り....(意訳)
調査を始めます。
前回書いたように「阿波国風土記編輯御用掛」のメンバーに選ばれたのは神職をも含む、いわゆるえり抜きのメンバーでしょう。
そして相当な知識階級であったと思われる庄屋の後藤氏が「見も知らぬ」文書を松浦主が秘蔵していたと.....。
目録と引用書目は転記する手間がなかったので、参考とした「後藤尚豊雑稿」を掲示します(まぁ、手抜きですな)
クリックして拡大↓書名については、知ってるのも知らないのもあります。2、3調べてみた限りでは
●「正卜考」は1844(弘化1) 伴 信友(ばん のぶとも)著
対馬國の卜部亀卜に関する文書
●神代正語(かみよまさごと) 本居宣長著
「古事記」上の巻つまり「神代の部」を仮名書表記したものです。
「古事記伝」の出版を前に出されたもので、弟子で尾張徳川家家臣の横井千秋の要請によって著したと序文にはあります。本来「漢字のみで表記されている『古事記』本文」を仮名交じりで表記することにより、「古への意(こころ)」を失うことなく、読みとることができるのではないかと考えられて、主に古学(国学)初心者対象に書き著したとのことです。
●「神字八文伝」は「神字日文伝」の誤記か?
という感じで、その他の書名に関してもGoogleで検索した程度では全く引っかからないほどです。
が、結局「阿波國史逸文」が完成した形跡はなく「ともをわかちしるしいでて」終わってしまったのかも知れず、あるいは書物として完成させる予定がなかったのかもしれません。最終的には「続風土記」の形になればいいんですから。
続いて「阿波国後風土記起稿」の方針に基づき、あるいは松浦氏の指令により「阿波風土記逸文」の調査に取りかかります。
前回(1)の「風土記逸文」で見ていただいた「萬葉集註釋」いわゆる「仙覚抄」に記載されている「阿波國(古)風土記」逸文の中で、実際に調査し得る項目はいくつもありません。
もう一度記載すると
(1) 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
(2) 中湖 (萬葉集註釋 卷第二)
中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。
阿波國風土記ニ見エタリ。
(3) 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。
奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。
(4) アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。
(5) 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)
阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。
このうち実際に調査できるとすれば「(5)勝間井(萬葉集註釋 卷第七)」しか無さそうなのは理解いただけると思います。
なにしろ「勝間井の冷水。此より出づ」ですから。
そうです。
後藤氏は、この「勝間井」の調査に取りかかるのです。
引きを作って(笑)次回「阿波國続(後)風土記について(3)」に続くってか。
ちょっと前回より短い?
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