司馬遼太郎「兜率天の巡礼」
2007・5・15
この物語は司馬氏のまぼろしのデビュー作として文春文庫が数年前に出した「ペルシャの幻術師」という文庫本に収められていた。これは、5世紀の東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルでキリスト教における宗教権力闘争に敗れたネストリウス一族が中国(景教)を経て(ここまでは史実で証明されている)、日本にたどりついたという想定で書かれた小説である。この事柄に興味を持っている友人がいて、太秦の広隆寺や兵庫県赤穂の比奈にある大避神社を調べたりしているのと、最近高野山に「景教碑」があるのを知って、読みたくなった本だ。
1625年、中国の農夫によって大きな碑が発見された。そこには中国王朝にキリスト教を信じる人々が手厚い庇護を受けて栄えていた時代の事柄が書かれていたが、これは、偽作という判断がされ、闇にほうむられた。1894年、日本の高楠順次郎博士らの調査で、偽作でないことが証明された。司馬氏はそのことをサンケイ新聞記者時代に記事にされたようで、この小説はそのおり、取材された事柄をもとにして書かれたものらしい。
物語は社会科学の研究をしてきた学者が主人公で、少女のように従順でおとなしかった妻が病床で突然発狂し、主人公に向かって反逆の言葉を吐いて死ぬ。彼は妻の死とそのことがショックで「国家の存在などは、個人の人生にとって、妻の存在に比すればはるかに卑小なものではないか」という感情に捉われ、大学を去り、妻の発狂の因を遺伝と考え、その係累の調査を始める。その過程で、ユダヤの血をひく人々が遠い昔、故郷を追われてはるか東方の日本に流れ着いた場所とその証拠に出会っていく。
ネストリウスが追われ、その支持者だった人々が長安の都にたどりついて暮らす前半は、「空海の風景」に書かれていたこととかなり重複していた。後半の日本における調査の部分は、私の高校のすぐ近くにあった太秦広隆寺が出てきて、聖徳太子と帰化人秦川勝の関係、なぜ、広隆寺が弥勒菩薩なのかということも書かれていて興味深かった。
主人公が「兜率天の曼陀羅」の天女の壁画を求めて最後にたどり着いたのは、嵯峨野にあった上品蓮台院弥勒菩薩堂・・・このはげおちてしみだらけの壁画を照らす一本のろうそくの光の中で、主人公は川や海や、山や樹、そして何処から来て何処へ行くのかもわからないのに動いていく人、個を絶した人の姿を見る。彼はその中に妻の顔を見てうめくようにその名前を呼ぶ。この弥勒堂は昭和22年8月31日に炎上し、中に一体の焼死体が発見されたとか。
いつもながら史実と想像を実にたくみに組み合わせ、構成されていて、さすが・・・という感じがした。主人公が大避神社の禰宜と会話しているときの描写や、最後に壁画を眺めている場面など、実に迫力があった。
また表題の「ペルシャの幻術師」も時間と空間を超えて13世紀のまぼろしをみているようで、妖しい魅力にあふれている。
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