大戦前の日本古代へブル詩歌研究
日本の地名や苗字に古ヘブライ語が多いことは、これまで解説してきた海洋民族の動勢を見てきて納得いただけるかと思うが、日本語に根深く古ヘブライ語が定着していることを明治時代に気づかれいち早く研究し、当時日本では古い聖書の研究資料がないためにアメリカに赴き、長老教会牧師として聖職に就きながらバイブル研究に努力を注がれ、それを『日本へブル詩歌の研究上下巻』と、『日本エホバ古典』にまとめ出版され、「辞典原稿」をまとめ刊行を目前に亡くなられた川守田英二博士がいる。その辞典原稿と日本古代へブル詩歌研究の内容を抜粋して紹介しよう。
また、へブライ語辞典は末尾に付録として掲載する。なお、『日本へブル詩歌の研究上下巻』は、熊本市の神水教会の書庫より、私の父の同郷であった今は亡き高倉神父様にお借りした文献である。
川守田英二博士は、日本の盆踊りや草刈唄、寺社仏閣の建立にどうどうと唄われてきた木遣り節など、古代日本へブル詩歌にして今に伝わる約400に及ぶ詩歌の囃子詞を紹介しているが本篇ではその中で全国的に行われてきたものを抜粋して引例することにする。
木遣音頭
(甲) エニア・アハレラ・サーノ 我推載し奉らん 狭野之尊を
ヨフイ・ハサー おお主権者の美しさよ
ヨオフイア・ハサー 輝き出でたり 主権者は
エアニ・アハレラー・イハアレ 我推載し奉らん 磐余日子を
ユハレル・コ・シイエ 彼推載せしめられよ 首領者として ハー・モシヘ 見よ
メシアを エアニ・アハレラー・ハサー 我は推載し奉らん 主権者を
(乙) エーンヤーラ・サノサー 我推載し奉らん 主権者狭野之尊を
ユフイサー ああ主権者の麗しさよ
ヨオフイハサ 主権者は輝き出でたり
エンヤーラ・ヤレコノセー 我推載せん。伊波礼日子を首領者として
サー・ノシイエ 崇め奉れ 首領者を
ハレル・ハモシヘ 推載し奉れ 受管者を
エアニ・アハレラー・ハサー 我推載し奉らん 主権者を
(丙) ヨフイヤー・ヨオフイアハサー エホバの栄光は輝かしめぬ 主権者を
エエ・ヨフイヤー・ヨフイハサー ああエホバの栄光は主権者の栄光なり
エアニ・アハレラー・イハレ・コノシイエ 我推載せん伊波礼日子を首領として
ハモシ これぞ受管者なり
コンオ・モシへ 汝宣伝せよ 彼を受管者として
エアニ・アハレラーヤー われ賛美し奉る エホバを
(丁) エアニ・イハラー・ネイン われ賛美し奉る 御子を
サーノヨ・オフイア・ハサー 狭野之尊は主権として輝きいでたり
サーノ・ヨフイ 狭野之尊は美はし
ヨフイ・アレハサー 栄光あれや 主権者に
(戊) サー・ノシイエ 崇め奉れ 主権者を
アレイ・ハサー 我に臨めり 主権者は
ハー・モシヘ 見よ メシアを
アレ・ハサー 登極したり 主権者は
これは、即ち神武天皇の皇子時代は狭野之尊、即位されて伊波礼日子尊と改名されている。このことを奉祝の唄として世に知らしめたものである。また、各地で行われてきた建築前の基礎を固める胴突唄や地固唄などにはその後に続く一連の囃子詞がある。
エーンンヤ エンヤ 我はエホバなり我はエホバなり
エアニアトナー 我これを与う
エーンンヤ アトナーア 我これを与う
エーンヤ アトナーア 我はエホバなり
この唄こそ世界最古の歌である。
そして、シュメールを追われたヘブライ人と流浪を共にしたフェニキア人エブス人は彼らの交易の性質上、文字化を図り音をアモル文字にて文字にしていった。それがアルファベットの基本となりギリシャを通じてラテン文字となる。日本に達したヘブライ人もフェニキア人と同時に文字を持ち込んだ。阿比留文字はへブル文字だが基本的にはフェニキアとへブル文字は同じであった。
https://x.com/slowslow2772/status/1842832818885259588?s=61
その時の日本の事情は?
それでは、4000年前の日本に戻ってみよう。出雲の時代である。
1万年来、日本古来の神アラハバキを頂く日本縄文人、蝦夷。東北で石神様とも呼ばれるアラハバキ神(安日神)は関東付近で大山祇神へと名が変わっていく。大山祇神も同じ石神様と呼ばれ、三輪山の大神神社の蛇神様でもある。そしてやはり温暖化のリバウンド寒冷化で海洋民族は東北より南下していた。
4000年から3000年にかけて、九州、山陰へと流入し始めていたシュメール系海洋民族マカン族・クメール人・安曇族や海洋系ケルトのハイアットの一団と融合しながら、巨石と星々を祀る祭祀を中心に冶金文化を導入し、着々とシュメール系出雲王朝が芽生え始めた。そして天神アンを祀る、巨大な空中神殿の建設も行われた。
それは、すでに九州の真ん中の人吉で、雨宮神社アンの宮として川辺の川原に出雲と同じ高さ48メートルのジッグラドを築いていた。その下流域の球磨川との合流地点には宝物殿となる京ヶ峰横穴遺跡があり、熊襲ケルトの警護の印、〇に十の字のスワツシカの紋と神殿の入り口に菊の御紋も打たれていた。それはペルシャのダリウス朝が球磨人吉に関与したという証でもある。
このことは、クメール・ハイアットの一隊も九州へと流入し、同じクマソとなり、やはり巨石に守護神のトーテムを刻み、鉄器をもって縣・邑を束ね、ソロモン直系の10支族サマリア王朝が一大王国を作り始めた。そこに次の2支族ユダ王朝がダリウス王の支援を受けながらここ球磨に錦を置いたということでもある。この京ヶ峰横穴遺跡は錦町に位置する。
まず最初に、ヘブライとフェニキア(ウガヤフキアエズ)の混血の王、神武を擁立する動きが始まる。ケルトの伝説の王グレートザコナンの子ヨノンのごとく、霧島甲南地方のヨノン村で生まれた神の子にイワレ彦(エホバの子)と名付けた。そして霧島、椎葉、五木、大阿蘇の高千穂野まで上がり、矢部(ヤーベ)町の男成神社の杜で成人の詔を発した。
〈ヘブライ語の詔〉
「ヤーレコラサノコレワイサノサ」狭野命が神に信奉召されるので磐余彦命と改名された。
「アナカシイドコ」汝らに恩寵あらんことを。
「サーイルナラ」皆の故郷へ帰りなさい。
「サマラー」神のご加護を。
古ヘブライ語は日本語だったといわれた川守田英二先生の指摘通りである。
0 件のコメント:
コメントを投稿